逍遥が描いた父親の肖像 / 早稲田大学文化資源データベース
江戸と西洋の間—少年〜白足袋党時代
「逍遙」をのちに名乗る坪内雄蔵(幼名は勇蔵)は、安政6年(1859)5月22日、美濃国加茂郡太田村(現在の岐阜県美濃加茂市)に生まれました。父は坪内平右衛門、母はミチで、10人きょうだいの末っ子として育ちます。雄蔵は尾張代官所手代だった父の謹厳実直な気質と、芝居や草子絵を愛好する母の芝居趣味を受け継いでいました。
【少年時代の逍遙】
明治2(1869)年、坪内一家は維新と共に名古屋郊外の上笹島村(現在名古屋市中村区)に転居しました。父平右衛門は隠居して帰農、名を平之進と改め、東京で官吏となった長兄信益に家督を譲りました。この年の7月から逍遙は、城下の寺子屋に通うようになり、また貸本屋大惣で出入りしたり、母に連れられて芝居見物に行くようになりました。
明治3(1870)年2月18日付の平之進の日記には若宮八幡(後の末広座)での芝居見物の記述があります。逍遙と母親がよく通った末広座は、江戸時代から若宮境内芝居として知られた老舗でした。
少年時代の逍遙が特に夢中になったのは滝沢馬琴でした。『南総里見八犬伝』ほかに熱中した逍遙は、それらを真似た小説らしきものをかいてみたこともあったといいます。
逍遙旧蔵の馬琴所縁の品の一つ。曲亭馬琴の和歌と鈴木牧之の俳句を貼り交ぜた物で、八双の裏に逍遙のペン書きがあります。
大正9(1920)年12月 日本演芸合資会社出版部
【逍遙がその舞台に感激した九世團十郎】
明治9年(1876)年、名古屋から東京開成学校(東京大学)へと進学した逍遙は、江戸っ子で歌舞伎や戯作に詳しかった高田早苗に連れられて、新富座で初めて團十郎を見て感激したり、寄席通いをしたり、神保町の天麩羅屋「松月」に集まって気焔をあげたりし、名古屋で培った文学趣味を広げていきました。当時を回想して逍遙は「極楽とんぼ」と呼んでいます。
1878年(明治11)6月。新富座開場式にて。1876年(明治9)、東京開成学校(東京大学)へと進学した逍遥は、高田早苗に連れられて新富座で初めて団十郎を見て感激したり、寄席通いをしたり、神保町の天麩羅屋「松月」に集まって気焔をあげたりし、名古屋で培った文学趣味を広げていきました。
【『小説神髄』と『当世書生気質』】
明治15年(1882)、大隈重信が中心となり東京専門学校が創立されました。逍遙や高田早苗らはその教壇に立つ一方、文学研究に没頭していきます。逍遙は、明治18年(1885)年には、文学論をまとめた『小説神髄』を発表。その実践として『当世書生気質』が書きました。この頃、逍遙の和服姿は「白足袋党」とあだ名され、甥の坪内士行に「気取り」と評されています。