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紀州分産物繪圖. [2] / 国立国会図書館デジタルコレクション

駆け足でたどる和菓子の歴史

菓子と言えば果物であった時代

元来は「菓子」と言えば果物や木の実を意味しました。今も果物を「水菓子」と呼ぶのはその名残です。

(出典:『紀州分産物繪圖』)

奈良時代には、「唐菓子(からくだもの)」の名で現れる料理が唐(現在の中国)からもたらされました。

(出典:『船橋菓子の雛形. [2]』1885) ※唐菓子は米粉等を主材料に甘味料等で味付け、油で揚げたものが多かったようです。

和菓子の萌芽は平安時代に

平安時代には、『源氏物語』若菜 に「椿餅(つばいもちゐ)」という食べ物が登場します。

『源氏物語』「若菜」の段の蹴鞠の場面。蹴鞠を終えた殿上人達に「椿餅」が供される

唐菓子の椿餅  ※餅の粉に甘葛(あまずら)という甘味料をかけ、椿の葉で包んだ餅菓子。

僧侶が運ぶ最新の海外文化

鎌倉時代以後、宋(現在の中国)へ留学した僧侶は、新たな教義とともに最新の食文化も持ち帰りました。

現存する資料では、14世紀頃成立の「喫茶往来」に、茶と菓子が一緒に供されるようになったと記録があります。

箸が添えられ、椀に入った小振りな饅頭3つ(右上)が汁(左上)・酢菜(手前)とともに供される図が掲載されています。本書は、食事の作法についても細かに記されている室町時代の礼法書。

本願寺第三世覚如(かくにょ)の生涯を描いた『慕帰絵々詞(ぼきええことば)』の一場面。廊下を歩く僧が持つ盆に茶菓子が盛られている

室町時代の饅頭売りの姿の絵(『七十一番職人歌合』からの写と見られる)。本書では、さたうまんぢう(砂糖饅頭)、さいまんぢう(菜饅頭)、いづれもよくむして候」とうたっています。菜饅頭とは野菜餡が入った饅頭、いわば野菜を使った中華饅頭であり、食事としての点心そのものです。対して砂糖饅頭はその名の通り砂糖を使った甘い饅頭と思われ、和菓子の饅頭の原型だとされています。

蜜月であった和菓子とポルトガル

大航海時代には、ポルトガルなどから商人や宣教師が来日し、カステラに代表される西洋の菓子文化も持ち込みました。

(出典:寺島良安編『倭漢三才図会』)

琳派様のファッショナブルなデザインに

江戸時代に入り、和菓子は「百菓」繚乱の時代を迎えます。

元禄年間(1688-1704)の頃には琳派芸術の影響も受け、古典文学や四季折々の風情が菓子の意匠や銘のなかに取り込まれます。

(出典:『御蒸菓子図』)※後世に菓子屋から出された見本帳。

駄菓子も和菓子~飴売りの世界~

江戸時代には、庶民の間で駄菓子文化が花開きました。ここでは、飴について取り上げます。

目黒の飴屋

目黒桐屋の店頭風景。大きな桐の紋があり、店内右手では二人が飴を引き伸ばし、店頭では袋詰めをしています。江戸近郊の目黒不動尊(瀧泉寺)は当時の行楽地で、ここを訪れた参詣者が土産として買い求めました。

飴屋の川口屋。飴を手で引き伸ばしています。

暖簾には桐の紋、そして左方に屋号「きりや」とあります。この桐屋の号と桐の紋は、飴屋のシンボルとしても有名であったようです。

傘の下商人

「傘の下商人」という路傍の商人が三都に見られます。人通りの多い場所に大傘を立て、その下で飴などを商いました。傘を差すのは日光で飴が溶けたり、急な雨で濡れたりしないようにするためです、との記述が本書で見られます。

川口屋の飴売り。大傘を立てており、商品台の前には「川口屋」と書かれています。この川口屋という屋号は、安永年間(1772-1781)には先の桐屋と並んで飴の二大ブランドでした。

両国橋の袂たもとにも川口屋の飴屋が描かれており、飴といえば川口屋、というイメージが普及していたことがうかがえます。

飴売り芸人

江戸時代中葉の18世紀初頭に現れたと見られている「唐人飴売り」の絵。飴売りの右側にみえる箱は客寄せ道具の「覗のぞきからくり」で、異国の風景などを絵画や人形を使って見せるからくり装置です。飴売りの左側にあるのが、飴が入った桶。

江戸時代後期の唐人飴売り。アジア風の装いで、「あんなんこんなん」とよくわからないことを面白可笑しく歌って人気を集めました。後には替歌まで登場し、街中には真似して口ずさむ子ども達もいたそうです

本ページはダイジェスト版です。ぜひ、オリジナルサイト:https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/25/1.html(国立国会図書館HPへ飛びます)もご覧ください。