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北海道の探検の歴史

はじめに

 皆さんは北海道を知っていますか。ほとんどの人が知っていると思います。

では、北海道の形をイメージすることはできますか?できますね。エイのような形です。

ただ、江戸時代後期になるまで、北海道の形を知ることはできませんでした。

北海道の形が知られるようになるまでには、探検家達のたわいもない努力がありました。

今回は北海道の形を世間に伝えた探検家達を紹介していきたいと思います。

なぜ北海道の測量が必要になったか

 では、なぜ北海道に探検する必要があったのか。

それは、1792年にロシアのラクスマンが日本人の漂流民返還と共に通商を求めて根室に来航したからです。

 この来航によって、当時の老中松平定信は海防(艦隊に対する守り)の欠如に危機感を抱き、各藩(当時の県のようなもの)に海防を命じ、自らも関東近辺を巡りました。

 これが元でラクスマン来航の後、蝦夷地を測量して、地図を完成させて日本の国境を明確にすることが必要になったのです。

 このようにして、海防の一環として測量が探検家達によって行われたのです。

時代年表(静岡県立中央図書館『葵文庫が語る江戸後期・明治初期の歴史』https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/aoi/2_history/2_2_02.htm

https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/aoi/2_history/2_3_01.htm

https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/aoi/2_history/2_3_03.htm

要約)

 まずは、年表で各人物の北海道観測について見てみましょう。

北海道の測量

ラクスマン来航1792年にラクスマンが根室に来航
海防命令ラクスマン来航後に松平定信が各藩に海防命令
蝦夷・千島探検1798年、最上徳内・近藤重蔵らが蝦夷・千島を探検。択捉島に「大日本恵登呂府」の碑を建てる
測量開始1800年、伊能忠敬が蝦夷地の測量を開始
千島完全体1800年に択捉島を統治してた近藤重蔵が住民から話を聞いて「チュプカ諸島図」を書き、千島列島の形が完全なものとして描かれる
レザノフ来航1804年、ロシアの使節のレザノフが漂流民を長崎に届けて通商を要求
レザノフ砲撃1805年、通商要求を拒否されたレザノフが利尻島の幕府船、択捉島・樺太を襲撃
蝦夷直轄1806年にレザノフの襲撃を受け、幕府が全蝦夷を直轄領(直接治める領地)とする
樺太探検命令1808年、レザノフの襲撃により、国境問題を早急に対処する必要がり対処する必要があり、樺太が島か否か確かめるために間宮林蔵らに樺太探検命令
樺太は島だった1808年、幕府の命令を受けて間宮林蔵が樺太を探検。樺太が島であることを突き止める。翌年の調査で海峡(のちの間宮海峡)もあることを発見
伊能忠敬没1818年、伊能忠敬が亡くなる
地図完成1821年に伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」が完成。幕府に献上される
ラクスマン来航
1792年にラクスマンが根室に来航

 蝦夷地や樺太の探検は、大きく分けるとラクスマン来航とレザノフ来航後に測量が活発化していることが分かります。また、北海道測量はラクスマン来航がなければもう少し後の時代に行われていたかもしれません。当時の日本にとっては外国船の侵入は国の安全保障を大きく揺るがす非常事態だったので、。どこに何があるのか把握するためにも地図を作る必要があったのでしょう。

 次は、探検家達1人1人の生涯を見ていきましょう。先程は起こった出来事に注目してみましたが、個人がどういう人生を歩んだのか、なぜ探検家になったのかなど、先程とは違った視点で蝦夷地探検が見えてくると思います。楽しんでご覧ください。

間宮林蔵(北海道マサチューセッツ協会『世界地図に「間宮海峡」の名を残した間宮林蔵の生涯と業績協会』www.homas.sakura.ne.jp/hokkaido/sub18.html)

最上徳内(北方領土問題対策協会『山形県 あなたのまちと北方領土』https://www.hoppou.go.jp/problem-info/your-town/yamagata.html)

近藤重蔵(国立国文書図書館『異才の幕臣たち』https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/hatamotogokenin2/jinbutsu/kondo.html)

伊能忠敬(香取市『伊能忠敬とは』https://www.city.katori.lg.jp/sightseeing/museum/tadataka.html)

それぞれの探検家達の人生は、これらのサイトから要約して記載しています。

探検家達の生涯

  • 間宮林蔵

    樺太(からふと)が島であることを確認し、間宮海峡の名の由来ともなった江戸後期の探検家

    1780年、現在の茨城県に生まれる。林蔵は算術や地理学の才能があり、村上島之允の元で測量について学んだ後、1799年

    村上島之允の従者として初めて江戸に行く。伊能忠敬にも測量を学んだ後、1808年に第一回樺太探検を幕府から命じられ、松田伝十郎とともに樺太を探検した後、アムール川流域まで調査して日本とロシアの勢力域を確認した。その後、日本に帰国し「北蝦夷島地図」を作成。晩年は諜報活動を行なった・

  • 最上徳内

    近藤重蔵とともに蝦夷地を探検した江戸時代の探検家

    1755年、現在の山形県に生まれる。数学、医学、地理学など幅広い学問を身につけた後、1785年第一次蝦夷地見調査に参加。当時は測量助手だったが、深い知識のおかげで翌1786年の東蝦夷地の調査の先陣に抜擢。その後はアイヌとの交流を通じてアイヌ語を学び、1786年には近藤重蔵を案内して「大日本恵登呂府」の標柱を建てた。間宮林蔵・近藤重蔵と共に「北方の三傑」と呼ばれた・

  • 近藤重蔵

    幕末に蝦夷地を探検し、択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てた江戸時代の幕臣

    1771年現在の東京都に生まれる。本名は守重。1789年家督を相続。1794年成績優秀だったため、褒賞を受ける。1795年長崎に勤務した後、1797年関東郡代附出役(勘定奉行配下の職)になり、初めて蝦夷地に出張。ここから1807年まで計5回に渡り蝦夷地を探検した。様々な職を経験した後、1726年長男が殺傷事件を起こし、家が改易となり、現在の滋賀県に預かりの身となる。

  • 伊能忠敬

    日本で初めて実測による日本地図を作製した江戸時代の測量家

    1745年千葉県に生まれる。1762年、伊能家の養子となり、名を忠敬とする。1781年から佐原村の名主となり、1794年には息子に家督を譲り、隠居する。翌1795年には天文学者高橋至時の弟子となり、天文学や測量などを学ぶ。1800年から日本全国の測量を開始し(蝦夷地は1800年の測量に含まれる)、1816年まで測量を行う。その後、地図作りに取り掛かるが、忠敬は途中で死去。1821年に大日本沿海輿地全図として地図は完成した。

 探検家達の生涯はどうでしたか?探検家達の共通点として、伊能忠敬以外は早い段階で地理学や天文学、測量について専攻しており、幕府の命令で蝦夷地に向かっていることがわかります。人として見ると、その人が何を目的として蝦夷測量を行ったのかが明確になる気がします。皆さんも測量家達の人生に思いを馳せてみてください。

終わりに

 皆さんは蝦夷地の測量について考えてみて、何か学び取れるものはありましたか?少しでも、自分の人生に活かせるものがあったなら、作っていて非常に嬉しいです。ここまでみてくださった皆さんありがとうございました。

イベントの案内

 イベントというほどではありませんが、千葉県佐原市には「伊能忠敬記念館」というものがあります。自分もそこに行ったのですが、伊能忠敬の人生や測量道具などを深くしれて非常に学びになりました。よければ行ってみてください。また、運が良ければ特別展もやっているそうなので(詳しい日にちは分かりません)、ぜひ!

伊能忠敬記念館https://www.city.katori.lg.jp/sightseeing/museum/guide.html