大坂冬の陣夏の陣
館長挨拶
こんにちは今見ているギャラリーの作成者です。今回僕は歴史の分かれ目となった一大合戦大坂冬の陣夏の陣についてどのような流れで戦いは進んでどのような陰謀が影であったのかを解説していきたいと思います。どうぞごゆっくりご覧ください。
関ヶ原の戦いの論功行賞で徳川方に逆らった大名は大量に領土を減らされた。その代表的な例は毛利家で安芸・周防・長門などの8カ国の約112万石を持っていたところを周防・長門の2カ国に減らされ約29.8万石に減らされた。他にも毛利家の毛利輝元は出家し「幻庵宗瑞」という名前になった。それとは裏腹に小早川秀秋は毛利家出身だが東軍勝利の立役者として備前・美作51万石に加増された。豊臣家も220万石から65万石に減封させられた。そのため豊臣方についた武将らは強く家康を恨んだ。
関ヶ原の戦いで豊臣方の武将の数多くを減らしたがそれでもまだ豊臣家に味方する大名や武将は数多くいたためもう一度叩かなければいけないと家康は思っていたため何か戦いを始められるきっかけを探していた。しかし平穏な時間が長く続いたため家康は老齢だったあ為に焦り豊臣家を弱らせようとしていた。例えば秀吉ゆかりの神社を供養と称し豊臣家に再建させて財力を削ぐということを画策したりしていた。1611年豊臣秀頼が江戸に来るように家康が促し秀頼は江戸に上洛した。もうすでに19歳となって立派な青年になった秀頼を家康は恐れ一刻も早く豊臣家を根絶やしにしようと考えた。そこで起きたのが方広寺鐘銘事件である。方広寺という寺にある鐘に国家安康君臣豊楽と書いてありこれは家康の名前を2つにして呪い豊臣を君にして楽しむという意味だと林羅山という儒学者は家康に伝えこれを聞いた家康は絶好のチャンスだと思い豊臣を自分に屈するように言い渡し屈しなければ完膚なきまでに叩くという案を出した。
大坂冬の陣は徳川側としては締め上げて講和を結び次の戦で勝つための布石を打つのを目的としていたのに対して豊臣側は大阪城の強固な守りを活用して城の周囲を固め籠城で徳川軍を打つのが最善だと考えた。真田幸村、後藤又兵衛らは日の本の中心である京を抑えその守りに宇治と瀬田を攻略し徳川方の進軍に備えて、その間に諸大名に豊臣有利の書状を手配すれば秀頼の呼びかけに応じ、援軍を送ってきてくれると考えていたが、大野治長らは大阪城は容易に落ちないため徳川軍が疲弊したところを打つのが良いと呼びかけ、結局大野治長の案が採用されることになった。真田幸村はこれに反対したものの仕方がないと考え、城の弱点である南に真田丸を作ることにした。戦いが始まると序盤は徳川軍の先制攻撃で徳川が有利になった。野田・福島の戦いでは大野治胤という豊臣側の武将が負け豊臣水軍は壊滅的になり大坂城にこもって戦うしか無くなった。一方真田丸の前にある篠山に真田幸村は立てこもり徳川は砲台を作り攻略するように指示をしたが落石がひどく砲台が作れなかったため夜半を待って攻撃をするように命じたがもぬけの殻でこれに憤慨した武将が真田丸に突っ込みそれを見た他の武将たちも真田丸に向かったので真田丸は徳川方の戦死者が多くなり徳川方はやむをえず和議を申し立て話し合いにより大坂冬の陣は終わりを迎えた。
大阪城は固い守りが武器なので流石の徳川家康も武力で落とすのは不可能だと考えていた。そのため戦前秀吉が言っていたことを思い出し一旦攻めて講和を結びその条約で堀の2の丸と3の丸を埋めてから攻めることにした。徳川は自分に有利な講和を結ぶために淀殿や秀頼のいるところ目掛けて大砲をぶっ放していていた。なぜ秀頼や淀殿の居場所がわかったかというと大坂冬の陣夏の陣のまえに徳川方に豊臣方からついた片桐且元が居場所を家康に伝えていたからである。そのことを受けて淀殿はかなり怯えていてそれを見た秀頼が講和を受け入れ3の丸は壊すという条件を受け入れた。しかし家康はその講和の条件である3の丸だけではなく2の丸まで壊し始めた。焦った豊臣軍は急いで2の丸を作ろうとしたが時すでに遅く丸裸になった大阪城を狙うように大坂夏の陣は始まった。
大坂夏の陣は和議により堀が完全に無くなった大坂城に篭っても負けるだけということになり城の外で戦うという方針になった。徳川方は今回の戦いは3日で終わると踏んでいた。しかし豊臣方の抵抗が強く手を焼いていた。しかし後藤又兵衛が討ち死にしてからは塙団右衛門、真田幸村、毛利勝永、木村重成、薄田兼相とどんどん味方の武将が討ち死にし場内は混乱に陥ってしまった。敗戦が確実になり千姫が秀頼の助命を請うために場外に出たが受け入れられず秀頼、淀殿、大野治長などは自害した。しかし長宗我部盛親、明石全登は難を逃れていた。しかし盛親は捕まってしまい六条河原で斬首された。しかし明石は見つからず静かに生涯を過ごした。
大坂夏の陣冬の陣
- (覚)(桜田、青山家の大坂冬の陣における由来)
館長からの一言 大坂冬の陣を象徴する重要な資料
- 上田城跡
上田城跡本丸東虎口〔こぐち〕の石垣上に立つ2棟の櫓〔やぐら〕と復原された櫓門<br>金箔鬼瓦片(二の丸の濠跡出土)<br>上田城は真田昌幸〔さなだまさゆき〕により16世紀の末、安土桃山時代に築かれました。そして、その築城後まもない時期に昌幸は二度も徳川氏の大軍に攻められながら、この城に立てこもって、これを撃退したことで知られています。<br>この上田城は上田盆地のほぼ中央の地に位置する平城〔ひらじろ〕で、千曲川(その分流尼ヶ淵〔あまがふち〕)に望む段丘の崖〔がけ〕を利用して築城されています。現在、公園化されているのは、本丸・二の丸と周囲の濠〔ほり〕跡の範囲です。<br>本丸の土居〔どい〕鬼門除〔きもんよ〕けの隅欠 〔すみおどし〕部分、二の丸もやはり鬼門の方角 (北東)の隅が欠かれている。<br>濠・土居〔どい〕(土塁)・石垣については、本丸では西側の入口(虎口〔こぐち〕)の片側の石垣が取り払われているほかは、ほぼ昔のままに残っています。二の丸については、「三十間堀〔さんじっけんぼり〕」が埋め立てられたり、北西側の「百間堀〔ひゃっけんぼり〕」と呼ばれた大規模な濠跡が土居の法〔のり〕面(土手)を観覧席に利用した陸上競技場や野球場に改修されたりしています。けれども、全体的にはもとの姿が分かる程度には形を残しています。なお、この二の丸北側の大水濠〔すいごう〕は矢出沢川〔やでさわがわ〕の流れていた跡を改修したものと考えられています。矢出沢川のもとの川筋はこの大濠となり、付け替えられた新流路は、城の北と西を囲む実質的な外堀とされたのでした。<br>本丸の濠〔ほり〕<br>建物については、本丸の周囲に7棟〔むね〕あった隅櫓〔すみやぐら〕のうち3棟が残っていて、長野県宝に指定されています(「上田城櫓」参照)。<br>真田昌幸が天正〔てんしょう〕十一年(1583)に築城を開始した上田城は、はじめは徳川勢力の、ついで上杉勢力の、それぞれの最前線基地として、周辺の諸領主の助けもうけて大規模な工事が行われたもようです。そして、徳川軍との最初の戦いがあった同十三年には、一応の形ができていたようです。ただし、この時点での上田城は実戦の役に立つことだけを考えた、簡素なものだったと考えられます。<br>上田城跡遠望 昭和戦前。 隅櫓(西櫓)が一つだけ残る。<br>天正十八年、信濃の各地に秀吉の部下の大名が配置されました。そして、これ以後、その大名たちにより安土城や大坂城にならった大規模な城郭築造工事が行われ、石垣が築かれ瓦葺〔かわらぶ〕きの櫓が建てられ、松本城のような天守閣も建設されました。このような周囲の情勢を見て、真田昌幸も居城の大改修に乗り出したと考えられます。その証拠として、上田城の本丸や二の丸の濠などから出土している金箔〔きんぱく〕を貼〔は〕った鯱〔しゃち〕瓦や鬼瓦の破片、桐の文様の鬼瓦、菊花文様〔もんよう〕の軒丸〔のきまる〕瓦などの桃山時代に特徴的な瓦が挙げられます。かなり立派な城郭建築が本丸にはもちろん、二の丸にも濠に面して建てられたものとみてよいでしよう。<br>金箔鬼瓦片(二の丸の濠跡出土)<br>しかし、真田氏の築いた上田城は慶長五年(1600)の関ヶ原合戦後に破壊されてしまいます。建物はもちろん壊され、濠も埋〔う〕められてしまいました。これは関ヶ原合戦のおり、真田昌幸・幸村(信繁〔のぶしげ〕)父子が西軍につき、上田城に立てこもって、徳川秀忠軍が西へ向かうのをくい止めたことに対する処分のひとつであったことは、よく知られています。<br>真田氏のあと上田藩主となった仙石忠政〔せんごくただまさ〕は、幕府の許可を得て寛永三年(1626)から上田城復興工事にとりかかっています。この時の縄張〔なわば〕り(郭〔くるわ〕・堀などの配置)については、城普請〔しろぶしん〕について指示した忠政の覚書きや真田氏時代の瓦の出土状況などからみて、埋め堀をふたたび掘りあげるなどして、元の姿に戻すことを基本としていたことは間違いありません。<br>正保四年(一六四七)上田城絵図 (部分 国立公文書館蔵)<br>ただ、真田昌幸の上田城は堀と土塁が防備の中心で、石垣はなかったとみられますが、仙石氏再建の上田城では本丸・二の丸の入口部分に石垣が築かれました。これは大部分が「打ち込みはぎ」という、ある程度加工して積みやすくした石を使う方法がとられています。石材については、近くの太郎山などからとれる緑色凝灰岩〔りょくしょくぎょうかいがん〕が主に使われています。<br>このように上田城は復興工事が始められました。しかし、二年後の寛永五年に仙石忠政が病死し、工事は中断されてしまいます。そのため、本丸については隅櫓が七棟と櫓門が二棟できるなど、一応の体裁〔ていさい〕が整いましたが、本丸・二の丸の中に御殿〔ごてん〕は造られず、二の丸・三の丸については櫓や城門など、城郭らしい建物は全く建てられませんでした。近世(江戸時代)の城としては未完成の姿ですが、このままの状況で明治維新にまで至ったのです。江戸時代は平和な時代が続き、城郭は支配者の権力の象徴としての意味をもっていただけでした。真田信之〔のぶゆき〕は上田城が壊されたあと、三の丸に藩庁も兼ねた藩主居館(今の上田高校の所)を築きましたが、これだけで十分だったのです。<br>上田城主の在城期間は真田氏が二代で天正十一年から元和〔げんな〕八年(1622)まで、そのあと仙石氏が三代の間で宝永三年(1706)まで、それ以降が松平氏で明治の廃藩まで七代にわたりました。<br>上田城は明治7年(1874)に払い下げとなりました。本丸の隅櫓についても一つを残して、あとは取り壊されたのですが、このうち二つについては、市内の別の場所に移されていました。これについては、戦時中の昭和18年(1943)から戦後にかけて、本丸入口の現在の場所へ再移築されました。また、近年本丸東虎口の櫓門が再建されるなど、廃城前の姿への復原をめざして整備事業が進められつつあります。<br>上田城は真田昌幸のときに、二回にわたって徳川軍の攻撃を迎え撃〔う〕ったわけですが、このような二度もの実戦の歴史をもつ近世城郭は全国的にも例はありません。しかも数少ない兵力で大軍を退〔しりぞ〕けた名城として、早くに国の史跡に指定されたものです。また、上田城は天守閣もなく石垣も少なく、見ばえのする城郭ではありません。しかし、土塁が主体で中世的な面影をよく残している城跡として、貴重な存在と言えるのです。<br>空から見た上田城跡
館長の一言 上田城は真田幸村、昌幸が作った徳川秀忠を撃退した城です。
- 高木主水正勇戦図
長秋
来迎寺(融通念佛宗)に伝わる掛幅で、19世紀(江戸時代)の作である。蓋表に「元和之役高木主水正槍而真田丸勇戦之図」とあることから、大坂冬の陣で奮戦する高木正次の姿を描いたものであることがわかる。作者の長秋(ながあき)については詳細不明である。
館長からの一言 これは徳川方家臣の高木正次の奮戦を描いたものである。
- 石川丈山筆「瀟湘八勝」詩書巻
石川丈山
石川丈山〈いしかわじょうざん・1583-1672〉は、江戸時代初期の書家・漢詩人。三河の出身。初名は重之(しげゆき)、名は凹、字は孫助、嘉右衛門と称し、丈山のほか凹凸窠(おうとつか)、大拙、六々山人、東渓など多くの別号がある。祖父・父とともに徳川家康〈とくがわいえやす・1543-1616〉に仕え、大坂夏の陣で軍功をたてた。が、軍令に背いたかどで軍賞をのがした。まもなく京に退隠、出家して禅を学び、藤原惺窩〈ふじわらせいか・1561-1619〉の門に学んだ。のち京都郊外の一乗寺に居を構え、狩野探幽〈かのうたんゆう・1602-74〉の筆による漢~宋代の詩人36人の画像と、自らが揮毫した詩を掲げ、詩仙堂と称して閑居した。書は唐様に徹し、隷書に巧みであった。「瀟湘八景」詩とは、中国湖南省の洞庭湖の南、瀟水と湘水とが合流して洞庭湖に注ぐあたりの8つの景勝地(山市晴嵐・漁村夕照・遠浦帰帆・瀟湘夜雨・煙(遠)寺晩鐘・洞庭秋月・平沙落雁・江天暮雪の八景)を詩文に詠んだもの。北宋末の文人画家・宋迪〈そうてき・生没年未詳〉以来、好んで詩や画の題材に取り上げられるようになった。丈山がもっとも得意とする隷書で書かれており、出色の作品である。
館長の一言 軍令に背いてしまったがために軍賞がもらえなかった人たちです。
- 書状(ちょほ宛)
徳川家康筆,By Tokugawa Ieyasu (1542–1616),東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p> 徳川家康の最晩年の書状です。一番左の宛名は「ちょぼ」、孫娘である千姫の侍女の名ですが、内容は千姫に宛てた手紙です。千姫は、夫・豊臣秀頼を大坂夏の陣で失いましたが、それは祖父である徳川家康に攻め滅ぼされたからでした。千姫の、家康に対する気持ちはどのようなものだったでしょうか。ここで家康は千姫に、どうしているか、くわしく様子を教えてくれ、案じていると繰り返し、夫を失い、悲しみ傷ついた孫娘を気遣っています。<br /> 右から4行目、高い位置で始まる行が手紙の出だしです。1文字目は黒々として、墨がたっぷりと筆にたくわえられています。そこからだんだんと線がかすれていき、この行の後半でまた墨の色が濃くなっているので、ここで墨を筆に再びふくませたことが分かります。書き進めるにつれ、この墨継ぎの回数が減っていくことが分かるでしょうか。墨継ぎの手間も惜しいほど、あふれる気持ちを紙に乗せているのです。ほとんど墨継ぎをせずにたどり着いた本文最後の行は、弱々しくかすれた線が紙の中にとけていくように見えます。うまく書こう、よく見せようなどという気持ちとは無縁の、書き手の心がにじみ出た書状です。<br /> 権力者としては大成功をおさめた家康ですが、ひきかえに、愛する身内に悲しみと喪失を与え、大きな苦しみも味わったことでしょう。筆跡はその時の心理状況も、時を超えて生々しく私たちに伝えます。</p><br /><p>江戸幕府初代将軍徳川家康の書状です。宛所のちょぼは千姫の侍女で、実質は孫である千姫に宛てた書状です。大坂夏の陣後の千姫の傷心を気遣う内容で、行末にむかうほどに行間は狭く詰まりそこに千姫の心身を案じる文言が切々と連なります。その後、千姫の心は癒えたことが別の書状から知られます。</p>
館長からの一言 これは家康が自分の孫である千姫に対して送った書状であり千姫の夫だった秀頼が死んでしまったことに対して悲しんでいるのを案じ千姫の心身を案じる文言が書いてあるものです。
- 石川丈山筆書状
石川丈山
石川丈山〈いしかわじょうざん・1583-1672〉は、江戸時代前期の漢詩人。諱(いみな)は重之、のち凹(おう)。丈山は字(あざな)で、嘉右衛門(かえもん)を通称した。凹凸窠(おうとつか)・四明(しめい)・六々山人(ろくろくさんじん)などと号した。祖父・父ともに徳川家康の臣。丈山もまた家康に近侍した。が、大坂夏の陣において、軍功をたてたものの軍律違反に問われたため、禄を辞して出家。やがて、儒者・藤原惺窩〈ふじわらせいか・1561-1619〉に入門し(35歳)、程朱(ていしゅ)の学を修めた。寛永18年〈1641〉59歳の時、洛北一乗寺村に庵・詩仙堂(しせんどう)を建てて隠棲した。友人の林羅山〈はやしらざん・1583-1657〉とともにわが国の三十六歌仙に倣って中国漢~宋時代の36人を選定。庵の四壁に狩野探幽〈かのうたんゆう・1602-74〉描くところの画像を、壁間には丈山が隷書で揮毫した詩を掲げた。後年は、後水尾院よりのたびたびの招きをも固辞して、文雅の友との交遊の中に悠々自適の生活を楽しんだ。とくにその書は、唐様に徹し、隷書を得意とした。著に『本朝仙注』『詩仙詩』などがある。この書状は、越前守から公方様(徳川家康)に初鱈が贈られ、そのお裾分けとして尚食公(しょうじきこう・尚食は中国においては、天子の御膳を掌る官名。わが国では内膳正に相当するもの)に付与されたことに対する礼手紙。丈山が家康に近く仕えた慶長期〈1596~1615〉と推定される。この頃の越前守を検索すると、何人かいる中でも、特に陸奥守伊達政宗〈だてまさむね・1567-1636〉が注目される。政宗が慶長18年〈1613〉11月16日に家康に鱈を贈った記録もあり(『政宗君治家記録引証記』)、鱈の取れる地域性をも加味すれば、その可能性が高い。とすると、宛名の「石川万ヱ(衛)門」はその家臣の一人であろうか。また、尚食公(内膳正)は板倉重昌〈いたくらしげまさ・1588-1638〉か。丈山20代の筆跡。後年の唐様書風の片鱗も見えない、人なつこい人間的な丈山の人柄を彷彿とさせる。「越前守殿より公方様へ御上げ成され候初鱈の御残りを尚食公へ進ぜられ候由にて、御意に呈せられ誠に以って忝なく存じ奉り候。御礼申し上ぐべき様も御座無く候。然るべき様に召し上がられ候と頼み入り有るべく申し候。已上。/返すがえす、過分に頂き申し候。以上。十二日丈山石川万(右)衛門殿」
館長からの一言 林羅山という方広寺鐘銘事件を起こした人の家康に支えていた証拠です。
- 塙団右衛門墓碑
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の樫井合戦で討死した塙団右衛門の供養碑(五輪塔)。玉垣や説明板がある。寛永年間に紀州藩士の小笠原作右衛門が建立。塙団右衛門(1567-1615)は文禄・慶長の役、関ケ原の戦で数々の功名をあげた武将であり大坂冬の陣では夜襲に成功し名を挙げた。
館長からの一言 塙団右衛門は冬の陣で活躍した武将ですが夏の陣の最初の合戦樫井合戦で討ち死にしてしまいました。
大坂夏の陣冬の陣
展示品を見てあなたはどう感じましたか?もしこの展示品を見て大坂冬の陣夏の陣に興味を持ってもらうことができたならば光栄です。
イベントなど
2月30日13時30分 大坂城公衆トイレ前
大坂夏の陣冬の陣の舞台を歩いて回りどのようなことがあったのか想像を膨らませます。







