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豊臣秀吉 天下統一の軌跡

豊臣秀吉は天下統一までどのような足跡をたどったのだろうか!?

館長挨拶

 皆さんも知っているであろう豊臣秀吉の天下統一。その過程について詳しく知っていますか?今、日本という国は当然のように1つに統一されています。私たちが今このような生活を送れているのは、秀吉が天下統一事業を成し遂げたことと深くかかわっていると言えるでしょう。皆さんにこの統一事業がどのようになされていったのか知っていただければ幸いです。

この展示について

 秀吉の父は「いかに貧しいとはいえ、下人ではなかったことになり、フロイスが言う「貧しい百姓」といったところが最大公約数的なところということになろう,豊臣秀吉辞典 コンパクト版,」とされており、当時、あまりいい立場には生まれてこなかったことがわかります。この秀吉がのちに天下統一を成し遂げるわけですが、この統一事業は主に本能寺の変、山崎の戦い、清洲会議、賤ケ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、紀伊平定、四国平定、九州平定、小田原攻め、奥州平定の順で進んでいきます。今回は本能寺の変、清洲会議、賤ケ岳の戦い、紀伊平定・四国平定、小田原攻めについて秀吉が天下統一を果たすためにどのような行動をとったのかについてみていこうと思います。

15821590
本能寺の変
山崎の戦い
清洲会議
賤ケ岳の戦い
紀伊平定・四国平定
小田原攻め
本能寺の変
  • 豊臣秀吉筆書状

    豊臣秀吉

    豊臣秀吉〈とよとみひでよし・1537-98〉は、桃山時代の武将。尾張国中村の出自で、はじめ木下藤吉郎を名乗る。織田信長〈おだのぶなが・1534-82〉に仕え、戦功を重ねるにつれて次第に重用され、羽柴姓を称した。天正元年〈1573〉、浅野氏滅亡後、その旧領を与えられ、翌年には近江長浜城主となり筑後守に任ぜられた。備中高松城包囲中に本能寺の変が起こる。急遽、毛利氏と和議を結び、引き返して山崎の合戦で宿敵明智光秀を破る。信長の後継をめぐって対立した織田信孝・柴田勝家を滅ぼし、大坂城を築城。その後、小牧長久手の戦、九州征伐、四国征伐、さらには、天正18年の小田原北条氏制圧、奥羽を平定するに至って、ついに天下統一を成し遂げた。この間、関白(天正13年〈1585〉)、太政大臣(天正14年〈1586〉)に任ぜられ、位人臣を極めた。その後、天正19年〈1591〉関白を秀次〈ひでつぐ・1568-95〉に譲り、自らは太閤を号した。文禄元年〈1592〉・慶長元年〈1596〉の2度にわたる朝鮮出兵、明国侵攻の企ても失敗に終わり、慶長3年8月18日伏見城にて死去。まさに破天荒の生涯であった。ところで、天正11年〈1583〉4月21日、豊臣秀吉は柴田勝家の将・佐久間盛政を近江国賤ケ嶽(しずがたけ)に撃ち破った。勝家はこれに抗すべくもなく、逃れて越前国北荘(きたのしょう)の自城に走った。同23日、秀吉は追って進攻、勝家の北荘の城を包囲、翌24日、勝家は城に火を放って、室・お市(織田信長妹)ともども自刃して果てた。この手紙は、その後のもの。日付に「十一日」とあるので、5月11日のものと判明。文面よると、秀吉は、打ち続く転戦により疲労困憊、日焼けで色は濃く、痩せ衰え、眼精疲労をもおこしていた様子である。正室於祢(おね)より、たびたび陣中見舞いの便りをもらったことへの感謝の意を込める。本来は「五文字」(正室=於祢)に直に宛てるべきを、眼の調子悪く、侍女のいわに宛てて送ったものである。翌天正10年6月、主君織田信長没後、仇敵明智光秀を討ち、文字どおり天下人となっている。自負を込めての「天下」の署名であろう。決して能筆とはいいがたいが、堂々とした筆致に、まさしく天下人の風格がうかがえるではないか。「両度の文、見参らせ候。早々、越中隙明き候間、飛騨の国へ人数遣はせ、成敗申し付け候。又、越前の国の置目、申し付け候はん為に、昨日十日に北荘迄【一部欠落】申し付け、やがて此の二十七、八日ころには凱陣致し申すべく存ずる間、御心易く候べく候。かしく。/返すがえす、次いで国々の儀、かたく申し付け候て、後々まで、武士起こりのせざるよう、申し付け候はんと存じ候。骨を折り申すに依て、色黒く、痩せ、眼も少し悪く候。五文字(正室・於祢)へ返事申すべく候へども、眼悪しく候間、御心得候べく候。十一日/北荘より天下/いわ返事」

    〈館長からの一言〉豊臣秀吉が賤ケ岳の戦い以後に書いた手紙です。上にも書かれていますが確かに達筆とはいい難いかもしれないがはっきりとした文字であることは間違いないでしょう。先ほど清洲会議の項で、もしかすると秀吉の作戦なのではないかということを述べました。清洲会議の後、柴田勝家は安心したのかすぐに北ノ庄に帰ってしまいました。なぜこの行動が問題なのかというと立地的に問題のある場所だったからです。北ノ庄城は「冬になると雪に埋もれて身動きができなくなる、ということです。つまり、北ノ庄に入って雪が降ってしまったら、春の雪解けまで焼く三ケ月間もの間、身動きが取れなくなってしまうということです。」(井沢元彦.学校では教えてくれない戦国史の授業 秀吉・家康天下統一の謎.株式会社PHPエディターズ・グループ.2017年.p.46)というこ問題がありました。秀吉はこの隙にまず信長の葬儀を大々的に行って秀吉こそ信長の後継者という空気を一気に広め信孝のいる岐阜城を落として勝家側の切り札だった三法師を奪い、長浜城も取り戻しました。そして、2月になると滝川一益を攻め、勝家は北ノ庄城から出てきました。ここで、「怒り心頭に発した信孝と勝家、そして滝川一益に囲まれた秀吉は、それぞれを個別に撃破しようと思い、まず美濃に進軍します。ところがこのとき、ちょうど大雨が降って揖斐川という長良川に並行して走る川があるのですが、それが氾濫して美濃に入れなくなってしまいます。そこで同じ美濃の国内である大垣城に入りました。」(井沢元彦.学校では教えてくれない戦国史の授業 秀吉・家康天下統一の謎.株式会社PHPエディターズ・グループ.2017年.p.54)それなら秀吉は当分戻ってこられないだろう、と考えた勝家は秀吉側の砦「大岩山砦」、岩崎山に陣取っていた高山右近率いる秀吉軍を破ります。しかし、ここで秀吉軍は本来なら早くても十時間はかかるであろう距離をわずか五時間で移動し、上に記した秀吉側に攻め込んでいた佐久間盛政、そして勝家は敗走しました。山崎の戦いで1週間かからずに戻ってきた経験が生きたのかもしれません。これが通説とされていますが、盛政軍の敗走の原因は秀吉と親友だった前田利家の戦線離脱のよる拮抗していた戦いのバランスが崩れたことであるという説もあります。通説は盛政軍が想定外の出来事に狼狽したことが原因となっていますが、不意をつかれたわりには盛政軍を秀吉軍と激戦を繰り広げているので私は後者の説の方が説得力があるように感じました。どちらにせよ、秀吉の抜け目のなさ、そして、策略にたけていたことがわかります。

  • 小早川隆景筆書状

    小早川隆景

    小早川隆景〈こばやかわたかかげ・1533-97〉は、戦国・桃山時代の武将。毛利元就〈もうりもとなり・1497-1531〉の三男。幼名は徳寿丸。安芸国の竹原小早川家と沼田小早川家を合わせ継いだ。兄の吉川元春〈きっかわもとはる・1530-86〉とともに毛利輝元〈てるもと・1553-1625〉を助け中国を計略、三原を本拠に、本領の水軍をもって瀬戸内海に活躍した。天正10年〈1582〉の本能寺の変の際、豊臣秀吉〈とよとみひでよし・1536-98〉との和議を進めた。その後は、秀吉の四国平定・九州征伐・文禄の役に従軍、数々の戦功を挙げ、秀吉の大老として重用された。が、病のため養子の小早川秀秋〈ひであき・1582-1602〉に家督を譲り、三原に隠退、慶長2年〈1597〉6月、65歳の生涯を閉じた。この書状の冒頭の「蜂須賀殿」は、蜂須賀正勝〈はちすかまさかつ・1526-86〉のことと推量される。正勝と隆景はともに、天正13年の根来・雑賀一揆攻め(紀州征伐)、同年の四国征伐と、秀吉の一連の戦略に深く関わり合っていることから、この書状も、紀州征伐・四国征伐いずれかに関連するものではなかったか。「小舟を瀬戸口へ」などの文言は、隆景の得意とする水軍の背景を思わせる。宛名の「三七郎右(衛門)」は、誰か不明ながら、隆景の家臣の一人であろうか。「蜂須賀殿、此比、下向たるべく候。夫に就きて、此の者差し出し候。爰元にて待たせ候間、夜に小舟を瀬戸口へ差し出され、彼の舟に違い候はぬ様、馳走に預かるべく候。造作ながら頼み入り候。委細、此の者口上に申し候。恐々謹言。六月十二日隆景/三七郎右(衛門)これを進らせ候」

    〈館長からの一言〉上にも書いてありますがこの書状は紀州征伐、または四国征伐にかかわるものであろうと考えられます。根来・雑賀一揆攻め(紀州征伐)では秀吉は信長が以前に紀伊方面を平定した時の根来寺と雑賀党の残存勢力を征伐の対象とした。この勢力は前守護畠山貞政を通じて四国の長宗我部元親と連携していました。まず秀吉は「根来寺・千石堀・積善寺各方面に兵を進めた。その結果、羽柴秀吉軍が放った火矢で硝煙が大爆発を起こしたため、根来寺は炎上。全山焼失し、積善寺の僧兵も潰走。武装解除される。」(鈴木旭.戦国史.株式会社日本文芸社.2018年.P.152)そして、秀吉は次に雑賀攻めに取り掛かります。「まずは一揆の頭目畠山貞政を攻め滅ぼし、海部、名草両群にわたる一揆残党の拠点を次々に陥れたが、小雑賀衆三千が太田砦に拠って抵抗したので、紀ノ川とつないで水攻めをした。この間、秀吉は織田水軍と毛利水軍に協力を要請。那智の浦から熊野方面の海岸部を制圧し、本宮、新宮一帯の神官らを帰従せしめ、熊野の別当に関連関所の撤廃を命じた。これにて、紀伊一国の平定は終わり、弟秀長の支配に任される。」(鈴木旭.戦国史.株式会社日本文芸社.2018年.P.152)秀吉は次に四国平定に向かいます。中国の毛利氏は次の天下人は秀吉だろうと考え秀吉とは敵対せずに従うことで領地を保全することにしました。しかし、四国をほぼ統一していた長宗我部元親は秀吉に仕えることを嫌い、秀吉と戦うことを決めました。秀吉は天正13年の6月始めには四国平定に着手しました。「秀吉は秀長に全軍を預けると、秀長・秀次は阿波へ、宇喜田秀家・蜂須賀正勝・黒田孝高は讃岐屋島へ、小早川隆景・吉川元春は伊予へ、それぞれ進むべく命令した。これに対し、長宗我部元親はなすすべもなく、土佐一国は安堵。他は返納の命令を受諾した。返納された阿波は蜂須賀家政、讃岐は仙石秀久、伊予は小早川隆景にそれぞれ与えられた。あっという間の出来事だった。」(鈴木旭.戦国史.株式会社日本文芸社.2018年.P.152)このような流れを経て、秀吉は紀州平定、四国平定を成し遂げました。秀吉はこのように着々と統一事業を進めていきます。

  • 豊臣秀吉朱印状

    豊臣秀吉

    豊臣秀吉は天正18年に小田原の北条氏を攻めるため、大軍を率いて京都を出発し、東へ向かった。3月13日には浜松へ入り、先発している筒井定次、浅野幸長、小野木重勝、京極高次の4人に城を包囲するため、柵木や竹、縄などの資材を調達するよう細かな指示を出している。

    〈館長からの一言〉この「北条攻め」は統一事業における最後の戦いで、北条氏は関東のほぼ全域を支配していました。四国平定から九州征伐の間に関白になっていた秀吉は九州を平定すると天正13年に九州地方に出していた大名同士が直接武力で問題解決することを禁ずる「惣無事令」を関東にも発布しました。問題解決にあたり、お上、すなわち、豊臣関白政府に解決を願い出なさいとしたのです。「しかし北条氏は、自分たちは秀吉の家来ではないと、これを無視して私闘を続けました。具体的にいうと、真田昌幸が持っていた北条領に接する名胡桃城(上野国/群馬県利根郡)を北条氏が武力で乗っ取ってしまったのです。もちろん秀吉は、こうなることを読んだ上で関東に惣無事令を出していました。むしろ惣無事令と名胡桃城は北条をはめるための罠だったと言ってもいいのかも知れません。」(井沢元彦.学校では教えてくれない戦国史の授業 秀吉・家康天下統一の謎.株式会社PHPエディターズ・グループ.2017年.p.101~102)秀吉はここでも巧みに策略を巡らせていたのです。名胡桃城はそもそも北条氏の持ち物だった沼田領にあり、昌幸はそれを奪っていました。しかし、秀吉がこれを認めたので北条氏はならば実力で、となったのです。このように北条氏は惣無事令を破ったので秀吉はこれを大義名分に北条攻めを開始しました。「豊臣軍は秀吉本隊と徳川勢を主力とする東海道を進む軍、前田・上杉・真田勢からなる北国の街道を進む軍と大きく二つの軍勢で構成されていました。これに秀吉に恭順した佐竹氏ほか関東勢が加わるという大軍でした。」(井沢元彦.学校では教えてくれない戦国史の授業 秀吉・家康天下統一の謎.株式会社PHPエディターズ・グループ.2017年.p.103)北条氏は関八州の総力を集めた巨城小田原城で籠城しましたが、秀吉軍は兵農分離で農繁期になっても国に帰る必要はなく、莫大な経済力も持っていたので兵糧の心配もありませんでした。その結果、秀吉軍は勝利をおさめました。

展示を見終わった人へのメッセージ

 なかなか難しい内容だったかもしれませんが読んでいただき、ありがとうございます。今回、豊臣秀吉の天下統一事業について時系列順にその背景も含めて詳しく紹介していきました。秀吉の策略の上手さ、そして統一事業の流れについて知ってもらえれば幸いです。

展示関連イベントについて

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