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紀州徳川家伝来雅楽器

国立劇場所蔵の紀州徳川家伝来雅楽器をご紹介します。

 紀州徳川家伝来雅楽器は、国立劇場開場の翌年、昭和42年(1967)に「政府出資資料」としてその管理を国から国立劇場へ移管されたものです。7点の紀州徳川家伝来の雅楽器のほか、九条家伝来とされる琵琶「青山」と十二律管(図竹)の、計9点によって構成されます。このたび、国立歴史民俗博物館教授の日高薫氏に調査監修と解説の執筆を依頼し、国立劇場が所蔵するこれら9点の雅楽器をデジタルアーカイブとして公開します。資料のリンク先の文化遺産オンラインでは、各資料のその他の画像もご覧いただけますので併せてお楽しみいただけましたら幸いです。


独立行政法人日本芸術文化振興会

伝統芸能情報センター調査資料課


 紀州徳川家伝来の雅楽器は、紀州藩の第10代藩主徳川治宝(とくがわはるとみ・1771-1853)がほぼ一代で収集したものである。当初の点数は220点に及んだと推測されるが、昭和期に当家から離れ、現在では国立劇場のほか国立歴史民俗博物館等に分散して所蔵される。国立劇場所蔵分は、昭和38年(1963)に文化庁の前身である文化財保護委員会が民間より買い上げ、昭和42年(1967)に「政府出資資料」として、国立劇場に移管されたものである。篳篥1管・龍笛2管・洞簫(一節切)2管・笙2挺の計7点と点数こそ少ないが、松平定信が編纂した『集古十種』所載の楽器をはじめ錚々たる伝来を有するものが多く、紀州徳川家内でも重視されていた主要な吹きもの類で構成される。

 紀州徳川家の第16代当主徳川頼貞(よりさだ・1892-1954)が、同家に代々伝わる楽器類一括(現在、国立歴史民俗博物館蔵)を松江在住の田部長右衛門へ売却した際に記された昭和28年(1953)11月25日付の譲渡証によれば、これらの雅楽器は藩主治宝によって収集されたもので、特別に勅許を得た上で黄金5万両という大金を投じ、日本国内に限らず広く海外からも入手したという(「紀州徳川家所蔵雅楽器に就いて」『徳川家旧蔵雅楽器目録』島根県博物館建設促進委員会、1956年 所収)。収集は、寛政年間に始まり、文化・文政・天保年間にわたったことが、楽器に附属する文書類によって知られる。

 治宝が楽器収集をおこなった江戸時代後期は、武家式楽としての能楽が定着し、巷間では浄瑠璃や歌舞伎など庶民芸能の興隆が著しい時期であった。その一方で、応仁の乱後著しく衰退した宮廷雅楽が復興をとげ、三方楽所によって安定的に伝承された時期でもあり、復古的思潮のなかで武家の間でも古の音楽が注目されるようになっていた。紀州徳川家伝来の楽器や、同時期に収集された井伊家伝来の楽器コレクションには、わずかながら明楽器や七絃琴など雅楽器以外の楽器も含まれており、当時の音楽観を反映しているとみられる。国立劇場所蔵品の「洞簫」の呼称で伝わる2管の一節切尺八は、そうした武家における理想の楽を象徴する楽器のひとつと位置づけられるだろう。

 なお、紀州徳川家伝来の楽器ではないが、同時期に政府出資資料として国立劇場に移管されたものに、九条家伝来とされる琵琶「青山」と、 十二律管(図竹)の2点がある。

日高薫(国立歴史民俗博物館教授)


篳篥「蘭」

篳篥は、西アジア起源の縦笛で、雅楽の管絃では主旋律を奏でる。管の上部に、芦の茎で作った蘆舌(ろぜつ・ダブルリード)を挿入して演奏する。小さな楽器だが大きな音を出し、その音色は迦陵頻伽の囀りなどと呼ばれる。 本管は、文政5年(1822)に京都方の楽家である多(おおの)家から入手されたもので、附属文書には、天正年間に多忠治(おおのただはる・1564-1612)が本家の父・忠雄(ただはる・1540-1603)より譲り受けたものが代々伝えられたとの由緒が記される。紫檀地に厚貝や染象牙の象嵌で貝海松文を表し、多家嫡流の家紋である酢漿草(かたばみ)紋をあしらった扇形の管箱、房付きの袋が附属し、二重箱に収められている。銘の蘭(あららぎ)は、フジバカマ、あるいはイチイの異称とされる。

龍笛「青龍」

龍笛は、大陸伝来の横笛で、横笛(おうてき)とも呼ばれる。雅楽の管絃では篳篥の主旋律を装飾的に彩る副旋律を奏で、その音色は、天と地を行き交う龍の声に喩えられる。 本管は、源義経(1159-1189)が愛用した「青龍」「白龍」の銘をもつ2管のうちのひとつと伝えられ、附属文書によれば、元暦元年(1184)、義経によって播州刀田山(とたさん)鶴林寺普賢院(兵庫県加古川市)に寄進され名器として伝来したこれらの笛を、紀伊田辺城主安藤道紀(1760-1825)が入手し、享和3年(1803)に主君徳川治宝(とくがわはるとみ・1771-1853)に献上したという。なお、「白龍」の笛の方は、これに先立つ享和元年(1801)、安藤家と関わりの深い紀伊田辺の闘鶏神社に奉納されている。義経所持の真偽は不明ながらも、管は太く手取り軽く、古管の趣がある。黒塗葵紋蒔絵の箱は、治宝の入手後に調えられたものであろう。

龍笛「寛治丸」

龍笛は、大陸伝来の横笛で、横笛(おうてき)とも呼ばれる。雅楽の管絃では篳篥の主旋律を装飾的に彩る副旋律を奏で、その音色は、天と地を行き交う龍の声に喩えられる。 本管は、堀川天皇治世の寛治4年(1090)、白河上皇が熊野行幸の折に本宮において催された管絃に用いられたと伝えられる。その後熊野本宮社人尾崎家に代々伝来したものが寛政12年(1800)11月に献上された。徳川治宝(とくがわはるとみ・1771-1853)は翌12月、琵琶「白鳳」(国立歴史民俗博物館蔵)、笙「小男鹿丸」(サントリー美術館蔵)とともに、京都の楽器師神田大和掾定祥にこの笛の修理を命じている。3点の楽器は、いずれも松平定信編纂『集古十種』「楽器部」に紀伊家所蔵として所載されており、治宝の楽器コレクションの比較的早い時期の収集例に相当する。 伝承が示すとおりかなりの古管とみられるが、目を引くのはその特異な樺巻(補強・装飾のため樺桜の皮を巻く技法)である。通常より太く平らな樺を巻く例は極めて珍しく、紀州徳川家伝来品の龍笛「青柳」(国立歴史民俗博物館蔵)と共通する。

洞簫「鳳凰」

箱書には「洞簫」とあるが、中世末期から近世にかけて用いられた一節切(ひとよぎり)に相当する。一節切は、尺八の一種といえるが、竹製で節が一つだけであることからその呼称があり、洞簫は一節切の別名である。伝世する楽器の箱書や附属文書から、紀州徳川家においては、一節切を洞簫と呼んでいたようである。なお、中国にも洞簫と呼ばれる竹製縦笛があるが、こちらは非常に細長い縦笛が一般的で、日本で浸透した普化尺八や一節切とは形状も音色もかなり異なるものである。 本管は徳川家康(1543-1616)所用と伝えられる。歌口や管尻、指孔周辺を帯状に残して総体黒漆塗とし、樺巻(補強・装飾のため樺桜の皮を巻く技法)は施さない。管の上部に金の金貝(かながい・文様形に切り抜いた金属の薄板を嵌め込んで装飾する技法)で、鳳凰を表す。

洞簫「遅鳳」

春慶塗外箱の箱書には「洞簫」とあるが、中世末期から近世にかけて用いられた一節切(ひとよぎり)に相当する。一節切は、尺八の一種といえるが、竹製で節が一つだけであることからその呼称があり、中国風に洞簫と呼ばれることもある。伝世する楽器の箱書や附属文書から、紀州徳川家においては、一節切を洞簫と呼んでいたようである。なお、中国にも洞簫と呼ばれる竹製縦笛があるが、こちらは非常に細長い縦笛が一般的で、日本で浸透した普化尺八や一節切とは形状も音色もかなり異なるものである。 本管は、桃山から江戸時代初期に活躍した一節切中興の祖、大森宗勲(おおもりそうくん・1570-1625)作。樺巻(補強・装飾のため樺桜の皮を巻く技法)部分を黒漆塗とし、管の側面、節を挟んで上下に「遅鳳」、下部第一孔と第二孔の脇に「大」「宗勲」の文字を銀蒔絵で表す。中箱蓋表には、江戸時代初期の書家、佐々木志津摩(ささきしづま・1619?-1695)による「尺八一官入 大森宗勲作」の箱書がある。竹筋に沿って金蒔絵を施して破留(やぶれどめ・竹の割れを修理してふさぐこと)とするのは、由緒ある一節切の修理法として一般的なものである。

笙「鹿丸」

笙は、雅楽の管絃において、唯一、和音を奏でることのできる楽器で、メロディを包み込み、厚みや広がりをもたらす役割を果たす。匏(ほう・ふくべ・頭)の上面に、簧(した・リード)を付けた長短の竹管を差し込み、吹口から息を吹いたり吸ったりすることによって音を出す。その姿を鳳凰に見立てて「鳳笙」とも呼ばれる。 竹管のやつれ具合から、中世に遡る古管とみられる。匏の表面には梨子地に金高蒔絵、切金(きりかね・小さな短冊状の金属板)を交えた蒔絵技法で、楓樹のもとにたたずむ雌雄の鹿の姿を優美に表し、底部には紅葉葉を散らす。当初は全面が輝く豪華な蒔絵装飾で覆われていたと推測されるが、長年の使用により摩滅が著しい。黒塗葵紋散らし蒔絵の箱は、紀州徳川家に入ってから調えられたもので、銀高蒔絵で「鹿丸」の銘が記されている。松平定信編纂『集古十種』「楽器部」に所載の笙で、徳川治宝(とくがわはるとみ・1771-1853)の楽器コレクションのなかでは比較的早い時期の収集例に相当する。

笙「白菊」

笙は、雅楽の管絃において、唯一、和音を奏でることのできる楽器で、メロディを包み込み、厚みや広がりをもたらす役割を果たす。匏(ほう・ふくべ・頭)の上面に、簧(した・リード)を付けた長短の竹管を差し込み、吹口から息を吹いたり吸ったりすることによって音を出す。その姿を鳳凰に見立てて「鳳笙」とも呼ばれる。 幾度かの修理の手を経た古管であり、竹管の内側には「嘉元三年(1305)乙巳十月之を造る」との銘を有する。匏の表面には梨子地に金高蒔絵で全体に菊花文、吹口側面には花唐草状の文様が表されるが、長年の使用によって摩滅している。上面に「白菊」の文字を蒔絵した替匏は後世に付加されたものであろう。 儒学者林信允(はやしのぶみつ・1681-1758)が、江戸在住の所蔵者・大神(おおが)勝久に依頼されて寛延3年(1750)8月に記した「白菊笙記」によれば、この笙は足利尊氏所用と伝えられ、雅楽、とりわけ笙の演奏を家業とする当家(大神姓中氏・おおがせいなかうじ)に代々伝来したものという。松平定信編纂『集古十種』「楽器部」には「中氏蔵笙図」として掲載されているが、文化14年(1817)9月付の神田大和掾定幸による鑑定書が附属することから、この頃に徳川治宝(とくがわはるとみ・1771-1853)が中氏より入手したものと推測される。

琵琶「青山」

雅楽に用いられる4絃の琵琶で、楽琵琶とも呼ばれるもの。管絃においては、撥を上から下へ掻き下ろし、分散和音(アルペジオ)で旋律をなぞるように演奏する。本琵琶は、九条家の伝来品で、修復の際に内部の様子を写しとったとみられる附属文書によれば、腹板裏中央に「南無妙音天」の墨書、槽内に「師長」の彫銘のほか、「保元元年/十二日/師長/貞治三年甲辰/六月日祐円上」(腹板裏)との墨書銘がある。藤原師長(ふじわらのもろなが・1138-1192)は藤原頼長(よりなが)の子で、妙音院と称し、管絃・歌曲の名手として名高く、『仁智要録』(箏譜)・『三五要録』(琵琶譜)の撰者としても知られる人物である。一方、銘の「青山」は、藤原貞敏(さだとし・807-867)が唐より請来した二面の琵琶のひとつにちなむ名称。師長や青山の琵琶をめぐる説話は『平家物語』や謡曲など事欠かないことから、伝来の名器を彩る由緒として付会された可能性も高い。寛永6年(1629)、延享2年(1745)、文化12年(1815)の修理銘があり、伝承の真偽は不明ながら、錚々たる由緒のもと大切に継承されてきたことがうかがわれる。

十二律管(図竹)

音高の基準を示す調律用の器具である。「太秦廣永作」の刻銘あり。金属製の簧(した・リード)を付けた長短12本の竹管を音高の順に並べて箱に収めたもので、笙と同じ原理によって1本ごとに音を出す。なお、律管とは、広義には管による調律具一般を指すが、狭義には、指孔や簧のない上下の貫通した管から成るものを指す呼称であり、本資料は簧を付けることから、図竹とする方が正確である。各管に、日本の十二律名「壱越(いちこつ)」「断金(たんぎん)」「平調(ひょうじょう)」「勝絶(しょうぜつ)」「下無(しもむ)」「双調(そうじょう)」「鳧鐘(ふしょう)」「黄鐘(おうしき)」「鸞鏡(らんけい)」「盤渉(ばんしき)」「神仙(しんせん)」「上無(かみむ)」を記す。太秦(薗)廣永(うずまさ/そのひろなが・1634-1703)は、笙を主業とする天王寺方の楽人。