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玄界島 / ようこそ玄界島へ|玄界島公式サイト

福岡市博物館所蔵の玄界島関連資料

平成17(2005)年に発生した福岡県西方沖地震から20年。この地震で大きな被害を受けた玄界島(福岡市西区)に関連する資料や、博物館の取り組みを紹介します。

平成17(2005)年3月20日に発生した福岡県西方沖地震。

震災から20年、このギャラリーでは、この地震で大きな被害を受けた玄界島(福岡市西区)について取り上げます。

玄界島では、震災前後で大きく生活様式が変容しました。

福岡市博物館では、前身である福岡市立歴史資料館時代より、玄界島に関わるさまざまな資料を収集・公開してきました。

これらの資料の多くは、震災以前の島の歴史やくらしを伝えるものです。


平成30年4月10日~6月10日に開催した企画展「島とくらし―玄界島―」は、

長きにわたる玄界島のみなさんとの交流のなかで企画された展覧会です。


ここでは、展示の内容をご覧いただけます。

後半ではこれまでの玄界島に関する博物館の取組みとともに、関連する博物館資料を紹介します。

目次

企画展No.512 島とくらし―玄界島―

はじめに

 「島とくらし」は、福岡市にある志賀島(しかのしま)(東区)、能古島(のこのしま)、玄界島(げんかいじま)、小呂島(おろのしま)(いずれも西区)の四島に焦点をあて、島の歴史や文化、くらしの諸相を紹介するものです。

 今回は、平成17年3月20日に発生した福岡県西方沖地震で大きな被害を受けるも、約3年で復興を果たした玄界島に焦点をあてます。時代とともにゆるやかに変化していた島の生活は、震災によって急速にかわっていきました。その過程で島の文化を伝えるさまざまな生活道具や写真アルバムなども失われました。

 福岡市博物館には、玄界島から寄贈された昭和時代から震災までの姿を知ることのできる資料が展示・保存されています。本展は、当館が所蔵する玄界島関連の資料を通して、島の文化やくらしについて紹介します。

玄界島

 玄界島は、本市の中心部から約20km、博多ふ頭より福岡市営渡船で約35分のところにあります。花崗岩と玄武岩で形成された島に平地はほとんどなく、標高217.9mの遠見山(とおみやま)を頂とする傾斜地に集落が形成されています。昭和36(1961)年に糸島郡北崎村(きたざきむら)が本市に編入されたことにともない、福岡市西区になりました。平成29年12月現在、218世帯、462人(住民基本台帳)がくらしています。

25000分の1 地形図 玄界島

昭和22 年に地理調査所が作成した地形図。図からは、島のほとんどが山地であることが読み取れる。南側に集落があり、海岸から山頂に向かって縦貫するふたつの道と、西にある神社(小鷹神社)から東に横断する通りが確認でき、道を挟むようにして家屋が建ち並んでいる。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕

歴史にみる玄界島

 古来より対外交流の窓口であった博多湾は、さまざまな人・物・文化が往来してきました。博多湾の海底からは、そうした歴史を物語る遺物が見つかっています。玄界島の周辺からも、13世紀代の中国浙江省(せっこうしょう)の龍泉窯(りゅうせんよう)青磁碗や江戸時代初頭の廻船(かいせん)積載品であった唐津焼などが見つかっています。

 江戸時代の地誌『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)(貝原益軒・かいばらえきけん著)によると、この島はかつて久島、月海島とよばれており、むかしは72軒の民家があったといいます。永禄(えいろく)年間のはじめに野島(山口県)より海賊が襲来した際には、竹を使って侵入を防ぎ、またあるときは島の長榎田平次郎が防戦し討死したことが記されています。その後、島民は40年あまり対岸の宮浦(みやのうら)に逃れてくらしていましたが、源三郎という者が孫を連れ、慶長(けいちょう)年間に帰島したことを機に、再び集落が形成されたようです。

 玄界島は、漁業や海運業など、海に生活の場の中心をおく福岡藩の「浦(うら)」のひとつです。島では漁業を中心としたくらしが営まれていましたが、 正保(しょうほう)2(1645)年、外国船の取締強化を目的として遠見番所(とおみばんしょ)が置かれ、藩より定番と配下の足軽が在島して監視にあたるなど軍事的役割も果たしていました。

玄界島は、漁業をおもに営む浦のひとつであったが、正保2(1645)年に外国船の監視強化のため遠見番所が置かれた。遠見山の山頂付近には、それらしき建物が描かれている。島は、軍事的な役割も担っていた。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
正保2(1645)年、福岡藩は玄界島に遠見番所を設置した。遠見番には定番として足軽数人がつとめていた。この書には、遠見足軽であった浦田利平に対し、藩が、遠見足軽として長く仕えたことを労い、褒賞を授ける旨が書かれている。その子孫は現在も島にくらしている。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
江戸時代に描かれた竹山図で、筑前国領内の竹量把握のために藩が作成したものとされている。島の南側から西側にかけて竹が確認される。竹は、生活のあらゆる道具の材として用いられた。また、藩にとっては建築資材や軍事資材にもなる重要な資源でもあった。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
博多湾の海底では、古くから人や物、文化が行き交った歴史を物語る遺物が見つかっている。玄界島周辺でも中国浙江省にあった龍泉窯の青磁碗や江戸時代初頭の廻船積載品であった唐津焼などが採集されている。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
博多湾の海底では、古くから人や物、文化が行き交った歴史を物語る遺物が見つかっている。玄界島周辺でも中国浙江省にあった龍泉窯の青磁碗や江戸時代初頭の廻船積載品であった唐津焼などが採集されている。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
博多湾の海底では、古くから人や物、文化が行き交った歴史を物語る遺物が見つかっている。玄界島周辺でも中国浙江省にあった龍泉窯の青磁碗や江戸時代初頭の廻船積載品であった唐津焼などが採集されている。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
博多湾の海底では、古くから人や物、文化が行き交った歴史を物語る遺物が見つかっている。玄界島周辺でも中国浙江省にあった龍泉窯の青磁碗や江戸時代初頭の廻船積載品であった唐津焼などが採集されている。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
博多湾の海底では、古くから人や物、文化が行き交った歴史を物語る遺物が見つかっている。玄界島周辺でも中国浙江省にあった龍泉窯の青磁碗や江戸時代初頭の廻船積載品であった唐津焼などが採集されている。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
博多湾の海底では、古くから人や物、文化が行き交った歴史を物語る遺物が見つかっている。玄界島周辺でも中国浙江省にあった龍泉窯の青磁碗や江戸時代初頭の廻船積載品であった唐津焼などが採集されている。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
博多湾の海底では、古くから人や物、文化が行き交った歴史を物語る遺物が見つかっている。玄界島周辺でも中国浙江省にあった龍泉窯の青磁碗や江戸時代初頭の廻船積載品であった唐津焼などが採集されている。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
博多湾の海底では、古くから人や物、文化が行き交った歴史を物語る遺物が見つかっている。玄界島周辺でも中国浙江省にあった龍泉窯の青磁碗や江戸時代初頭の廻船積載品であった唐津焼などが採集されている。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
博多湾の海底では、古くから人や物、文化が行き交った歴史を物語る遺物が見つかっている。玄界島周辺でも中国浙江省にあった龍泉窯の青磁碗や江戸時代初頭の廻船積載品であった唐津焼などが採集されている。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
博多湾の海底では、古くから人や物、文化が行き交った歴史を物語る遺物が見つかっている。玄界島周辺でも中国浙江省にあった龍泉窯の青磁碗や江戸時代初頭の廻船積載品であった唐津焼などが採集されている。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
博多湾の海底では、古くから人や物、文化が行き交った歴史を物語る遺物が見つかっている。玄界島周辺でも中国浙江省にあった龍泉窯の青磁碗や江戸時代初頭の廻船積載品であった唐津焼などが採集されている。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕

海にいきる人びと

 島の周辺は好漁場で、古くより沿岸型の網漁(あみりょう)、釣漁(つりりょう)、魚介や海藻の採捕などが営まれてきました。筑豊水産組合が編纂した『筑豊沿海志(ちくほうえんかいし)』(大正6・1917年)によると、元禄(げんろく)年間にはじまったタイやカナギ(イカナゴ)の網漁は、明治中期以降、ほかの浦の指導者に漁法を学んだり、改良漁具を導入したことによって、漁獲量が大幅に増加したと記されています。その様子は、「県下に於て模範漁村たるのみならず、全国優良漁村の内へ数へ」られたといいます。

 大正時代は、イワシ揚繰網(あぐりあみ)、底刺網(そこさしあみ)、カナギ房丈網(ぼうじょうあみ)などが操業されていましたが、昭和に入ると次第に一本釣、延縄(はえなわ)へと主軸がうつっていきました。戦後は、一本釣が主要な漁業となり、従事者の増加とともに、漁場も沿岸から長崎県の五島地方あたりまで広がりました。同時に、エビ漕網(こぎあみ)やイワシ揚繰網、二双吾智網(にそうごちあみ)など沿岸型の漁も幅広く操業されました。そのいっぽうで、戦後の漁場開放によって大型漁船が近海を荒し魚が寄りつかなくなったことで危機に陥りますが、昭和60年代の漁業技術の開発により、フグ延縄やイカの流し釣、採貝(さいかい)の水揚げが増加したことで再び伸びを示すようになっていきました。

 また、岩礁(がんしょう)が多く豊富な磯資源にめぐまれた島では、海士(あま)による潜水漁が営まれ、さまざまな漁具を用いてウニやサザエ、アワビなどがとられました。ワカメは、乾燥させて博多に卸していた時期もありましたが、現在では、塩蔵(えんぞう)ワカメが特産品として加工販売されています。 自然の変化が生活に直結する環境にいきる人びとは、生命はもとよりくらしの安寧を神仏に願ってきました。正月2日の「乗(の)り初(ぞ)め」をはじめ、10月の若宮様グンチなど島内の神々に大漁祈願や航海安全を祈ります。

 島外で行う大きな祈願のひとつに8月6、7日に行われる志賀島の志賀海(しかうみ)神社の七夕祭があります。玄界灘一帯の漁師たちが参拝するもので、玄界島からも多くの島民が家族総出で訪れます。とくに一年のうちに新造した船は大漁旗などを飾り付け、この先の航海安全を祈願してお祓いを受けます。このとき、海上安全の木札に加え、「志賀茶(しかちゃ)」と「事無柴(ことなきしば)」(玄界島では「ことなししば」と読む)を求めます。神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓から帰還した際に船の舵の柄を植えたところ芽吹いて茂ったと伝承される事無柴は、枯れても葉が落ちないため、身につけると災難から逃れ無事に家に戻れると信じられており、島外へ出る際に葉をお守りとして持参したり、船に常備したりする風習があります。

明治時代に使われた建網。建網とは魚群の通り道に網を仕掛け、網に魚を導き入れてとらえる漁法。この網は柿渋で染めた木綿糸できている。漁では、この網を20 から30 枚程度つなげて使用した。海底の砂地に生息するカレイなどをとる際に用いられた。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
網漁などで使われる道具で、目印の役割をもつ。木桶に竹と赤い布で作ったハッポウを据えて、網とつないで海上に浮かせる。ハッポウの内側に灯りを入れることで、夜間時にも使えることから網が仕掛けられていることを示す標識にもなっていた。ハッポウには所有者の船名などが書かれた。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
網に浮力を与える漁具。ブイともよばれる。定置網などで網を海中に保持するときなどに使われる。この浮子はガラス製で網袋に入れて使われた。近年では、夜間漁に対応した電気浮子や合成樹脂でできた色鮮やかな浮玉が多く用いられている。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
網漁や延縄漁などで使われる旗。網の場所が分かるよう目印として使う。竹棒がたつように、下部には石などの錘、さらに適当な長さのところに浮子が取り付けられている。上部には赤い布でつくられた旗があり、持ち主である船名が書かれている。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
海に沈んでしまった網などを探す道具。これを海底に沈め、船で引いて捜索した。鉄棒の鉤に網が引っかかるようになっている。海中で鉤が下方を向くよう、錘となる石を下に、石より軽い木を上にして鉄棒を挟む工夫がみられる。かつては水難者の捜索にも使われたという。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
船鑑札は、役所や同業組合などが発行する、船の所有や漁業の権利などを許可、証明するもの。この木板は、怡土志摩早良郡役所が発行したカナギ網漁の許可証。発行された明治18 年は、玄界島において(網を染網から白網にかえたことで)カナギ網の漁獲量が急増し、操業船も増加するなどした年。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
一本釣用の釣糸。イサキやタイなどの手釣りの糸として使われた。この糸は絹でつくられており、糸が海中でたわまないように間隔をあけて錘(ビシ)が取り付けられている。漁ではおもに長さ40 から50メートル程のものが用いられた。玄界島では古くから一本釣が盛んに行われている。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
一本釣用の木製糸巻。取手が軸となって、糸巻が回転する構造になっており、糸をスムーズに出すことができる。この糸巻を使って、イカをはじめ、さまざまな魚がとられたという。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
タイの一本釣で使われる漁具。中空の錘おもりにロープを結びつけたもの。島では「レット」と呼ばれた。海面に錘を強く打ち込むことで水中に泡が発生し、餌がいると勘違いして魚が泡の周りに集まってくる仕組み。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
フグ籠漁で使用する籠。籠のなかに餌となるイワシやサバなどを入れ、魚を誘い捕獲する。漁では、ひとつの仕掛けで30 から50 個程度の籠が使われ、ひと籠あたり20 尾程度のフグが入ったという。フグ籠漁は筑前地方にみられる漁法で、市内ではおもに西浦や玄界島で盛んに行われている。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
魚を乾燥させるための道具。イオとは魚(ウオ)のこと。数尾の魚を竹棒に通したものを、いくつも藁縄にかけて使う。イオグシに刺した魚は軒先などに吊して乾燥させた。イオグシが使われている光景は今やみられなくなった。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
箱眼鏡は、木箱の底にガラス板が張られており、海に浮かべ、海中の様子を確認するための道具。おもにアマ漁において、船上から海中の貝類や藻類をとる「磯いそ見み」で使われた。箱眼鏡には、持ち主が分かるよう名前や船名などが記された。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
磯見の道具。柄が長いのが特徴。サザエハサミは外向きに開いた刃でサザエなどを挟んでとる道具。刃が3 本であるのが玄界島の特徴。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
磯見の道具。柄が長いのが特徴。アワビカギはアワビなどを鉤にひっかけてとる道具。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
磯見の道具。柄が長いのが特徴。サシホコはナマコなどをとる道具で先端が細く針状になっている。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
潜水漁の道具のひとつ。鉾先が燕が羽を広げたように見えるため、この名がついたと考えられる。ツバメボコは、海中でカレイやイシダイなどの魚を突いてとるもので、磯見の道具と比較すると、柄が短いのが分かる。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
藁製の縄。海士の腰に付けるベルトのようなもので、潜水漁の際に使われた。ハチオは、褌がわりの手拭いを固定したり、縄の太い部分にイソガネなどの漁具をさすなどして用いた。ウエットスーツの普及とともに姿を消していった。海士の縄は三つよりでつくられるのが特徴。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
潜水漁でアワビなどをとる道具。総称して「イソガネ」と呼ぶ。ナガガネやセバトは岩に付いた貝を掻き起こす道具で、とくにセバトは岩の下や隙間など狭いところにいる貝をとる際に使われる。オニカギは、先が鉤になっているもので、貝をひっかけてとる道具。漁場の状況に応じて漁具を使い分けた。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
潜水漁でアワビなどをとる道具。総称して「イソガネ」と呼ぶ。ナガガネやセバトは岩に付いた貝を掻き起こす道具で、とくにセバトは岩の下や隙間など狭いところにいる貝をとる際に使われる。オニカギは、先が鉤になっているもので、貝をひっかけてとる道具。漁場の状況に応じて漁具を使い分けた。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
潜水漁でアワビなどをとる道具。総称して「イソガネ」と呼ぶ。ナガガネやセバトは岩に付いた貝を掻き起こす道具で、とくにセバトは岩の下や隙間など狭いところにいる貝をとる際に使われる。オニカギは、先が鉤になっているもので、貝をひっかけてとる道具。漁場の状況に応じて漁具を使い分けた。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
竹製の籠。メゴは籠のこと。おもに海士が使うことから「アマメゴ」と呼ばれる。潜水漁でとれたアワビやサザエ、ウニなどを入れる籠として使われた。現在、竹製メゴはほとんどみられず、プラスチック製のものが多く用いられている。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
ウニの中身を選別する道具。ガゼはウニのこと。ガゼエグリ(匙)で掻きだし、ガゼユリモン(篩)に入れると食用となる生殖巣(精巣と卵巣)が残る仕組み。竹製ガゼユリモンは現在ほぼ使用されていない。玄界島はウニ漁獲量が多い地域のひとつ。8 月の一定期間のみ海女(女性アマ)によるウニ漁が行われる。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
ウニの中身を選別する道具。ガゼはウニのこと。ガゼエグリ(匙)で掻きだし、ガゼユリモン(篩)に入れると食用となる生殖巣(精巣と卵巣)が残る仕組み。竹製ガゼユリモンは現在ほぼ使用されていない。玄界島はウニ漁獲量が多い地域のひとつ。8 月の一定期間のみ海女(女性アマ)によるウニ漁が行われる。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
ワカメ漁で使われた鎌。刃が細く湾曲しているのが特徴。漁場によって柄の長さを木や竹で調整した。現在島でのワカメ漁は2 月から4 月にかけて海士たちによって行われている。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
本来は、帰還する漁船が港の人びとに大漁を知らせるために掲げる「大漁」の文字の入った旗だが、現在は祝い旗としても用いられる。志賀海神社七夕祭では、この一年に新造した船が航海安全の祈願のために参拝に訪れる。このとき、船を大漁旗などで華やかに飾りたてた。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕

雁木段と島のくらし

 かつての集落は島の南麓に広がっており、家と家の間は狭く、細い道と「雁木段」とよばれる石段でつながっていました。密度の高い集落構造は、気軽に隣家の洗濯物を取り込んだり、家の普請や解体時には島民総出で協力するなど濃密な近所付き合いをうみだします。こうした雁木段を中心としたくらしの諸相は、島の古老や昭和30年代に島を訪れた野間吉夫(のまよしお)が著した『玄海の島々』を通してうかがい知ることができます。雁木段を上ると山腹から山頂付近には畑が広がっており、麦や芋、野菜などがつくられていました。こうした物の運搬には背負梯子(せおいばしご)「オイ」や藁籠(わらかご)「フゴ」が使われていました。また、家屋が密集していることから、火事の際にひどくならないよう瓦葺き屋根にしたり、夜回りが行われるなど、日常から防火に努めていたようです。

 島のくらしに欠かせない水の確保は、昭和29(1954)年に簡易水道が整備されるまで、天水や井戸に頼っていました。島には5ヵ所の共同井戸が掘られ、そこは水を汲むだけでなく、洗濯が行われる場であり、女性たちの情報収集の場でもありました。

 長い歴史のなかで、培われてきた強固な人間関係は、福岡県西方沖地震の際に作用し、震災からわずか3年での帰島につながったといわれています。いっぽう、車道が整備され、宅地構造が刷新されたことで、人びとは、従来の基盤をいかしながら、あらたな家や隣人との結びつきを再構築しつつあります。

島では、屋外の階段や壁、垣などをつくる際には、おもに石が使われた。これは「カナテコ」と呼ばれる鉄棒で、石を動かすときに使われる。材料となる石は島内で確保していたという。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
背負梯子「オイ」は、使用者の身体にあわせて自作することが多いが、大工に依頼することもあった。平成9、10 年には島に運搬用モノレール(有料)が架設され、重量物を楽に運べるようになった。ところが震災後、車道がつくられ、車が通るようになると、オイやモノレールは使われなくなった。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
明治から大正時代の行燈。「火の用心」と書かれており、防火を目的とした夜回りの際に使用されたと考えられる。密集した住宅構造をしている島にとって、火災は最も注意すべき事柄のひとつであった。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
ブリキ製のバケツ。取手に4 メートルほどのロープが結ばれている。井戸から水を汲み上げるために、つるべとして用いられた。汲み上げられた水は、飲料水のほか、洗濯などの日々のくらしに必要な生活用水として利用されていた。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
少なくとも昭和30年代までは、年長者を中心に絣や縞でつくられた着物が日常着として着用されていた。半纏や手袋も同様の生地が使われており、これらは寒さをしのぐために、綿がつめられている。〔No.512 島とくらし―玄界島―〕
稲藁で菰編みにした円形の運搬容器。竹籠よりも柔らかいため、収穫物や日用品などの運搬に使われた。左右には取っ手が編み付けられ、そこに縄を通して肩に担いだり、背負ったりして運搬した。

参考文献

  1. 玄海の島々野間吉夫 著,慶友社
  2. 新修 福岡市史 民俗編一 春夏秋冬・起居往来外部サイト2012年,福岡市 外部サイト:新修 福岡市史ホームページ-既刊紹介
  3. 危機を乗り越える知恵 : 福岡県西方沖地震の被災地・玄界島の復興過程外部サイト2014,中野紀和,大東文化大学経営学会 外部サイト:機関リポジトリ-大東文化大学