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テエベス百門の断面図 歿後100年記念 森鷗外旧蔵書展

令和4年度東京大学附属図書館特別展示 電子展示サイト

 2022(令和4)年は森鷗外の歿後100年にあたります。これを記念して、東京大学附属図書館では「テエベス百門の断面図 歿後100年記念 森鷗外旧蔵書展」を2022年10月13日(木)から11月28日(月)まで開催しました。展示会の詳細は以下のウェブサイトをご覧ください。

→ テエベス百門の断面図 歿後100年記念 森鷗外旧蔵書展ウェブサイト

→ 展示会場での展示資料一覧(PDF形式)


 このギャラリーは、「テエベス百門の断面図」の電子展示サイトです。展示資料全て閲覧できるのはもちろん、様々な「鷗外文庫」資料をご覧いただけます。是非デジタルの世界でも鷗外文庫をお楽しみください。

ごあいさつ

 東京大学附属図書館では、毎年、全学で所蔵する貴重な資料を学内外の皆様にご覧いただくため特別展示を行っていましたが、主な展示会場である総合図書館の改修工事により、やむを得ずしばらく休止しておりました。2020年に改修工事が終了し、森鷗外の歿後100年に当たる本年、8年ぶりの特別展示会「テエベス百門の断面図――歿後100年記念 森鷗外旧蔵書展」を開催いたします。

 「テエベス百門」とは、本学医学部教授でもあった詩人の木下杢太郎(本名太田正雄)が、敬意をこめて森鷗外を「テエベス百門の大都」と呼んだことにちなみます。この呼び名の通り、鷗外は軍医・官僚・作家・詩歌人・翻訳家など、実に多様な顔を持っており、その多くで卓越した業績を残しました。これを踏まえ、本展示会では、総合図書館で所蔵している鷗外の旧蔵書、鷗外文庫から、これまでに展示されたことのない資料を多く含む、厳選された貴重な資料を展示いたします。広範な分野に亘るさまざまな資料を通して、鷗外の知と教養の多面性を感じていただけるよう企画いたしました。

 鷗外文庫は、1,000冊を超える武鑑(大名や旗本の姓名・出自・職務・石高等を掲載した名鑑)や江戸古地図をはじめ、和・漢・洋の幅広い分野にわたる、約19,000冊のコレクションです。今回の展示では、「医学生鷗外」「職務に向きあう」「知識への渇望」「人脈のなかで」「作品への通路」の5つのコーナーを用意し、本展ではじめて披露する新出草稿をはじめ、鷗外が読書をしながら書入れをした蔵書や自筆本など、約100点をご紹介いたします。

 東京大学総合図書館は、大正12年(1923)の関東大震災で図書館の全焼、資料の焼失という甚大な被害を受けました。その後、ロックフェラーJr.氏の寄付による図書館の再建に加え、国内外から数多くの資料の寄贈をいただきました。今回展示いたします鷗外文庫も、大正15年(1926)1月に森鷗外の遺族から寄贈されたコレクションです。当時の図書館の整理方針に基づき、長らく各分野の書架にばらばらに収められておりましたが、平成17~21(2005~2009)年度に遂行された整理プロジェクトにより、資料の別置と書入れ状況の悉皆調査が行われて全貌が明らかになりました。その成果とも言える、鷗外文庫書入本画像データベースがインターネット上で公開されておりますので、そちらも併せてご覧いただければ幸いです。

 このたびの展示は、本学総合文化研究科出口智之准教授の指揮のもとに開催されます。出口先生には、さらに、寄稿と講演もお願いしました。皆様には展示物とともに、出口先生のご発表もぜひお楽しみいただきたいと思います。


令和4年10月

東京大学附属図書館長

坂井 修一

テエベスの甍―鷗外文庫の深奥から

テエベスの甍―鷗外文庫の深奥から

東京大学大学院総合文化研究科准教授

出口 智之


 歿後100年を経てなお、鷗外文庫の大部分は立入ることの困難な迷宮である。

 はじめてこの名を耳にされるかたもおられようかと思い、簡単に注しておくと、鷗外文庫とは東京大学総合図書館が所蔵する森鷗外旧蔵書の総称である。大正11年7月、すなわち本令和4年から遡ること100年前に鷗外が他界したあと、遺族の手によって、蔵書の多くが当時の東京帝国大学に一括寄贈された。相続による分割が惜しまれたのと、大正12年の関東大震災で甚大な被害を蒙った図書館の復興とが、その理由であった。寄贈された書籍のすべてに、鷗外と親交のあった画家・書家の中村不折が作った「鷗外蔵書」朱方印が押され、ここに鷗外文庫が誕生したのである。

 時を超えて平成17~21年度、図書館は同文庫の整理プロジェクトを遂行した。まず、書庫内にばらばらに配架されていた鷗外旧蔵書を特定・集約別置したうえで、全点全ページを目視確認し、鷗外自筆か否かにかかわらず、すべての書入れを調査票に記録する。そのうえで、重要と判断される自筆・他筆の写本や書入れについて、デジタル画像化するとともに解題を附し、データベースとしてウェブ上に公開するという企画であった。これにより、およそ19,000冊にもなろうとする鷗外文庫の全容がはじめて明らかになった。

 以上の経緯については、東京大学学術機関リポジトリでウェブ公開されている、平成24年度東京大学附属図書館特別展示『鷗外の書斎から―生誕150年記念 森鷗外旧蔵書展 展示資料目録』に詳しく書いておいたので、あわせて参照されたい。

 かくして資料のほぼすべてが特定され、図書館の請求記号には「鴎」の印が附され、検索もアクセスも容易になった鷗外文庫の大部分が、なお迷宮であるとはどういうことか。それは、蔵書の著しい多様性と、そこに含まれる厖大な書入れとが、いまだ本格的な調査研究を拒み続けているからである。

 かつて、劇作家・詩人の木下杢太郎は鷗外を評し、「森鷗外は謂はばテエベス百門の大都である。東門を入つても西門を窮め難く、百家おのおの一両門を視て他の九十八九門を遺し去るのである」と述べた(「森鷗外」、『岩波講座日本文学』第10巻、岩波書店、昭和8年1月)。坂井修一附属図書館長の命名にかかる本展タイトル、「テエベス百門の断面図」でも参照したこの比喩は、鷗外の学問と知識、それに仕事の幅広さを、古代エジプトの紫都テーベに見立てている。われわれが読む鷗外の遺した文章が、いわば百の門から入って歩く通りだとすれば、鷗外文庫はその通りと通りのあいだを埋めつくす屋宇である。入ってみねば何があるかわからず、またその裏手がどこに通じているかも判然としない、無数に並ぶ甍なのだ。

 もちろん、著名な書籍はいくつもある。大正期に書かれた歴史小説や史伝の典拠資料は、多く全文が翻刻公開され、研究も盛んである。ドイツ留学から戻ったばかりの若き日に手掛けた訳詩集、『於母影』(明治22年)の翻訳原本Maximilian Bern(ed.), Deutsche Lyrik : seit Goethe's Tode (Leipzig : P. Reclam, n.d. 資料5-17)なども、参照される機会が多い。それらは、本学図書館や諸文学館等での展示にしばしば出展されてきたので、ご覧になったことのあるかたもおられるだろうし、上記データベースなら時と場所を問わずに参照可能である。

 しかし、そうした展示にかからず、またデータベースにも録されていない大多数の資料は、依然として書架に眠ったままである。東京大学OPACで検索すれば、鷗外文庫の総目録は簡単に出力できるとはいえ、万を超えるそのリストを地道に調査し、重要そうな資料をすべて実見して確認するには多大な手間を要する。また、OPACには書入れの有無までは記載されていないから、その方向からの調査は不可能である。したがって、研究者や学芸員がアクセスすることもほぼなく、重要性どころかその存在すら知られず、結果として一般の目にふれる機会のまったくない資料が、山のように堆積しているのである。

 鷗外文庫の書籍全点を、デジタル画像で公開すればよいだろうか? たしかにそれは理想だが、簡単にできる規模ではないうえ、資料の内容や書入れの有無を順に確認してゆかねばならないのは、ウェブ上とておなじことである。では、上述の調査票を公開してはどうか? しかしこれはあくまで作業用で、信頼して利用できるデータにするためには、毛筆や独文の肉筆に慣れた研究者が、厖大な書入れをあらためて翻字せねばならない。また、単に書入れの内容だけをテキスト化しても不便きわまるから、最低でも当該ページの画像化と連動させることが必要で、これまた容易ならぬ作業である。

 将来的には、そうした利便性・網羅性の高いデータベースができることを切に願いつつ、しかしその完成を待っていては、鷗外文庫はいつまでも生きない。そう考えて、鷗外歿後100年を記念する本展では、これまで出展される機会のなかった資料を積極的に選んだ。鷗外文庫の深奥に秘められた、鷗外という文人の知の豊かさを、ぜひご堪能いただきたい。

 第1章「医学生鷗外」では、(旧)東京大学医学部に通ったころから、留学時代に用いられた資料を選んだ。自身もはじめ蘭方医学を学んだ鷗外が、若年時に読んだ痕跡を残す杉田玄白『蘭学事始』(資料1-3)や、弟の篤次郎(三木竹二)とともに愛読したらしい曲亭馬琴『松染情史秋七草』(資料1-14)などは、これまでほぼ出展されたことのない資料である。

 第2章「職務に向きあう」では、文学者である以前に陸軍軍医であり、退職後は帝室博物館総長兼図書頭となった鷗外の、職務に関わる資料を取上げる。ドイツ留学時代に勉強のため作成したノート、Noticen, 1884-86(資料2-1)は、昭和58年の「鷗外文庫展」以来の出展である。多数所蔵のある陸軍関係の資料や、自筆書入れが見られる『帝国美術院第三回美術展覧会陳列品目録』(資料2-21)も珍しいだろう。

 第3章「知識への渇望」では、文学にも職務にも直接結びつかない、鷗外の幅広い知識欲を示す資料を選定した。交流のあった評論家・翻訳家の内田魯庵が伝える、「何でも書物は一生の中一度役に立てばそれで沢山だ。そういう意味で学術的に貴いものなら何でも集めて置く」という鷗外の言葉を(「森鷗外君の追憶」、『明星』大正11年8月)、われわれは鷗外文庫の前で実感することができる。

 第4章「人脈のなかで」では、蔵書にうかがえる鷗外の多彩な人脈を示した。平成24年度の展示では、与謝野晶子・石川啄木・北原白秋・斎藤茂吉らから贈られた本を出展したが、今回は高浜虚子や萩原朔太郎、小山内薫といった文学者に加え、旧藩主の亀井家、医師の呉秀三、哲学者の井上哲次郎、美術史家の大村西崖らの本を選んだ。夏目漱石・幸田露伴・吉井勇・永井荷風の雑誌掲載作品を、鷗外自身が切抜いて製本した一連の資料には、そうした作家たちへの敬愛が感じられる。

 第5章「作品への通路」では、文学作品の典拠資料や翻訳原本を扱った。この章はしばしば展示される資料が多めだが、短篇「カズイスチカ」につながるような傅青主『女科』(資料5-10)や、江戸時代の裁判の模様を伝えるガリ版刷りの講演録、佐久間長敬『裁判百話』(資料5-12)などは、展示の機会がまずなかったはずである。

 こうした蔵書にうかがわれる、鷗外の知と教養の宏大さとは、はたして何であろうか。

 鷗外は医学生時代、ドイツ語で行われた講義を直接漢文で書取っていたと伝わる(緒方収二郎「森鷗外君の追憶」、『明星』大正13年7月)。しかし、しばしば驚嘆されるそうした言語能力が、彼のすごさの本質ではない。10代にして、高度な学術的内容を第2言語から第3言語へ直接筆記することが可能な語学の才人は、おそらくほかにもいただろうし、現代にもいるだろう。鷗外の傑出は、そのドイツ語の向こうに広がる西洋医学やヨーロッパの哲学・歴史・芸術文化と、漢文の向こうに広がる和漢のそれとを、ひとしく知の領野におさめていた点にこそ存している。

 本展ではじめて披露される新出草稿(資料I)と、それがはさまっていたドイツ語雑誌Die Grenzboten(資料II)の書入れだけを見ても、イタリア・英国・ドイツ・フランスの多種多様な領域への興味関心がよくわかる。そして、そのひとつひとつの関心がほかのどの資料とつながっており、いかなる連関のなかでどう作品へと結実していったのかは、いまだ未解明のことばかりである。何しろ鷗外文庫には、幕末水戸学の巨魁、会沢正志斎がキリスト教を批判した『豈好辯』(文政11年跋、鷗外若年時の読書)、山県有朋の序を有し、陸軍入省のころに読んだ形跡のある小林雄七郎訳『拿破崙((ナポレオン))第一世伝』(陸軍文庫、明治13年11月)、国学者の黒沢翁満による奇書『藐姑射秘言(はこやのひめごと)』(安政6年跋)、大正期の帝展の内紛を伝える鷹田其石『文部大臣ニ提出セル帝国美術院展覧会廃止卑見』(私製、刊年不明)、デンマーク語で書かれた露土戦争の記録C. F. Wahlberg, Anteckningar fran Rysk-Turkiska kriget, 1877-1878 (Helsingfors : Hufvudsbladets, 1878)など、とても出展しきれない魅力的な資料がまだまだ眠っているのだから。

 単に医者であり、かつ文学者であったというだけでなく、いわゆる文理の隔てを設けず和漢洋の多彩な方面に通じ、それを教養として嚢中におさめた、まさに大都たる鷗外の知の全貌は、いまだ鷗外文庫という迷宮のなかに埋れている。そこに光をあてることは、狭隘な知識と視野の拘束を自覚的に乗越えてゆくための、たしかな灯標となるだろう。100年の時を経て、鷗外文庫はなお、次の100年の知を導き示す指針であり続けているのである。


  • 鷗外の新出草稿(資料Ⅰ)およびDie Grenzboten(資料Ⅱ)の詳細については、令和5年1月刊行予定の『比較文學研究』第108号に掲載決定済みの、出口智之・鶴田奈月・ディ マルコ ルクレツィア「〔新出〕ガブリエーレ・ロセッティのダンテ受容に関する森鷗外草稿 翻印と解題」を参照されたい。


【資料 I】新出草稿/【資料 II】Die Grenzboten

I. ガブリエーレ・ロセッティのダンテ受容に関する草稿

 総合図書館書庫で新たに見つかった洋雑誌、Die Grenzboten第49巻3号(1890年第3期)に挟まれていた未完の草稿。19世紀のイタリア統一運動期にナポリを逃れ、英国に渡ったガブリエーレ・ロセッティ(Gabriele Pasquale Giuseppe Rossetti, 1783-1854)が、ダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri, 1265-1321)らの文学を論じた著書にまつわる逸話を記す。中絶部分のあとは、長子で画家・詩人のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti, 1828-82)に言及する予定だったと見られる。その一方、鷗外が明治30~31(1897-98)年に東京美術学校で講じた「西洋美術史」において、ダンテ・ロセッティとあわせて父ロセッティの生涯も紹介していることから、この講義との関連で書かれたと推定できる。これが講義ノートの未定稿だったのか、それとも講義準備中に見出した故事に興味を抱き、作品への発展を視野に入れてまとめた草稿だったのかなど、詳細な執筆目的は不明だが、歴史把握のなかで関心を持った人物をクローズアップし、そのドラマを文章に綴ってゆくという、鷗外文学の始原をよく示している。

II. Die Grenzboten : Zeitschrift für Politik und Literatur

 総合図書館書庫で新たに見つかった洋雑誌。ライプツィヒで刊行されていた週刊誌で、政治を中心に経済、歴史、美術、音楽、文学などの論説を掲載する、硬派な雑誌であった。鷗外の所蔵は48・49巻(1889-90年)の各4号計8冊。週刊ながら年に4号なのは、1年を4期にわけて価格なども設定する方針をとっていたためで、鷗外文庫本も4半期ごとに合冊された形である。8冊すべてに少なからぬ自筆書入れがあり、加えて新出草稿がはさまっていた49巻3号には、自筆と思われる鉛筆のメモが記された栞12葉も挿入されていて、熱心な読書の形跡がうかがえる。当該号に掲載されたR. Muther, ‘Die Kunst in England’は、草稿の内容と関わりのある「西洋美術史」講義の典拠文献の1つである。草稿に記されるガブリエーレ・ロセッティにまつわる逸話自体は、どの号の記事にも確認できていないが、今後書入れや様々な記事の内容を詳細に調査すれば、何らかの作品の典拠・情報源であることが判明する可能性は十分にあるだろう。

【 電子展示サイトの資料について 】

●凡例

  • 資料番号(章番号-章内通番)は、展示会場での資料番号と一致しています。
  • 資料番号が付いていないものは、本電子展示サイトのみの紹介で、会場では展示していません。
  • 文京区立森鴎外記念館主催 特別展「鴎外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」(2022年10月22日(土)~2023年1月29日(日))と関連のある資料は、解説文に「*森鴎外記念館特別展示「鴎外遺産」関連資料」と記しています。

●画像/解説文/メタデータの利用について

第1章 医学生鷗外

 森鷗外(本名森林太郎)は石見国(現・島根県)津和野に生まれ、幼い頃からオランダ語と儒学を学んでいた。上京後の明治 6(1873)年、官立第一大学区医学校(後の東京大学医学部)の募集年齢が14歳以上17歳以下だったため、数え12歳だった鷗外は14歳と年齢を偽って応募し、予科生として入学。 2 年後に本科へ進み、明治14(1881)年に東京大学医学部を卒業した。同年12月に陸軍に入り、明治17(1884)年に陸軍省派遣留学生として、プロイセンの陸軍医事制度の調査と衛生学研修のためにドイツに渡った。                                                                           

 この章では鷗外の東大医学生時代とドイツ留学時代の資料を紹介する。                                                                           

 鷗外は大学で優秀な成績を収めていたが、さりとてドイツ医学一辺倒な生活を送っていたわけではなかった。鷗外文庫には若年時の書込れがある資料や、留学生時代に求めた資料が多数所蔵されている。それらを眺めていくと、若き頃の鷗外の、ドイツ医学の勉強をしながらも、伝統的な漢方医学を学び続け、儒学の書を読みふけり、また多くの文学に親しんでいた姿が浮かび上がってくる。

しゅうえき                                                                                                    (宋)朱熹本義;(日本)林子[點] 延寳2(1674)年[印]                                                                                     朱子による、「五経」の一つである『易経』の注釈書。鷗外は留学以前に読んだと考えられる。全丁にわたって朱墨による圏点や書入れがあり、青年鷗外の「易」に対する強い関心がうかがえる。(合山・出口、一部改編)

らんがく ことはじめ                                                                                                                                     杉田玄白著 明治2(1869)年                                                                                                              文化12(1815)年成立。江戸中期の蘭方医である杉田玄白が、蘭学創始の事情と蘭学発達の跡をまとめた回想録。『解体新書』翻訳の苦心談が著名である。写本のみで伝わっていたところ、明治2(1869)年に福沢諭吉が『蘭学事始』の書名で刊行した。「橘井堂」、「參木之舎」は若年時に用いた蔵書印。

しょうかんろん もじこう                                                                                                      伊藤馨著;島川三折,中島忠順同校 嘉永4(1851)年                                                                                                          『傷寒論』は漢方医『傷寒論』は漢方医学の原典であり、主に急性熱病の症状と治療法が詳述されている。そこから85則を選び、経史などを引いて考証している。巻末に「明治十年五月十二日贖之 東京大学医学部 森林太郎」の識語があり、東大医学部在学中の購入と知られる。

やまと ほんぞう                                                                                                                               貝原益軒編録 寶暦11(1761)年                                                                                                                                               『本草綱目』に準拠しながらも独自の分類を立て、内外の動植物について誌した百科事典的な書。医学生時代の入手と見られ、西洋医学を学びながら、父祖の業であった漢方医学にも興味を持つ、鷗外の二重性を示している。若年時に加え、後年の書入れも見られる。(梅山、一部改編)

やくそう りゃくふ                                                                                                                                             却螱窩主叟著 寛政5(1793)年                                                                                                                 薬草図譜。漢名の見出しと、俗名や形態、開花時期について解説があるが、薬効や使用法についての説明はない。                                                           ドイツ医学を学ぶかたわらで漢方医学も学んだ鷗外は、教室でその知識を主張して教授の反感を買い、卒業時の成績を落す一因になったと伝わる

neu bearbeitet von Eug. Seitz 1877-1879(明治10-12)年                                                                                                                          ニューマイヤー『病理学と治療』。当時の東大医学部の授業はドイツ人の教員により、ドイツ語で教えられていた。下線が多数引かれており、書入れはドイツ語がほとんどだが、漢文もある。

べんめい ・ べんどう                                                                                荻生徂徠著 寛政元(1789)年[刊]・荻生徂徠著 享保2(1717)年[刊]                                                                                                          江戸時代の大儒・荻生徂徠の著述。『辨名』と『辨道』をあわせて「二弁」と称される。「明治十二年八月四日牽舟居士」との自筆識語から、数え18歳での閲読とわかる。当時、医学部本科生であった鷗外は、漢方医学のみならず、広く漢学にも興味を示していたのだった。(合山、一部改編)

めいよ しんし                                                                           佐田白茅編輯                                                                                 『名誉新誌』は、勤皇の志士を中心に明治維新で活躍した人々の事跡を紹介する雑誌であり、明治9年(1876)3月以降、『明治詩文』の出版元でもある大来社によって発行された。本資料は、それを合綴したものである。鴎外は、目次や各号の発行年月を書入れ、また、記事に取り上げられた人物の詩を欄外に注記している。「読之者欲毋号泣得乎」(これを読んだ人は、号泣することを止めようとしてもできないであろうの意)という「岩倉具視公」(十四号)に対する感想からは、若年期の鴎外の慷慨癖をうかがうことができる。(合山)                                                                                                                                                             *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません

とうきょう こんわ                                                                                                [横井彦九郎編] 明治11(1878)年                                             明治11年(1878)に刊行された漢文雑誌であり、鴎外の書入れもその頃のものと思われる。表紙扉に書入れられた深壕拙鳩の詩は、『明治詩文』10号(明治10年(1877)9月)掲載にされたものの転記である。末尾には、幕末の漢詩人菊池渓琴の詩に対する重野成斎と大来社員の評が引用されている。重野は昌平黌出身の儒学者であり、明治期には歴史学者として活躍した。大来社員は『明治詩文』などを出版していた大来社のメンバーのことである。(合山)                                          *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません

きんせい めいか しょうひん ぶんしょう                                                                                        土屋榮編 明治10(1877)年                                                                近世末期の漢詩文アンソロジー。「序」、「論著」、「題跋」、「贊銘」、「雑著」など12項目にわたって各家の文章を収める。 鴎外の墨筆書入は少なくとも二度にわたって行われていることが川北温山「送松本実甫」の部分に明らかであり、さらに朱筆による書き入れも存在する。先の筆はやや粗い筆跡で、「可愛」、「使読者絶倒」など初学者の感想めいたものが多い。後筆にあたる部分では斎藤拙堂「拙堂文話」などをもとに本文の記事を補筆し、また各分類項目の末尾に自らの選んだ詩文を挿入している。下巻には朱筆による圏点・読点、さらに頼山陽の川北温山評がある。何度か繰り返して読まれた形跡のある本書には、鴎外の読書行動が変化して行くさまを窺うことができよう。(多田)                                                                                   *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません

けいおう じっか ぜっく                                                          内田脩編選 慶應4(1868)[刊]                                                              慶応度漢詩人のアンソロジー。「十家」とは、大沼枕山、小野晏斎、佐藤牧山、植村藘州、釈金洞、鷲津毅堂、鈴木松塘、長谷川昆渓、関雪江、釈錦河の十人である。鴎外は気に入った詩句に圏点を付し、感想を記している。感想からは森春濤の影響下に育った漢詩趣味のありようが、「読史雑詠」の対象人物や作品初出の注記などからは考証癖が窺える。(多田)                        *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません                        

とうきょう ていこく だいがく いか だいがく ならびに どうがく いがくぶ そつぎょうせい めいぼ                                                                             金子常蔵編 大正3(1914)年                                                                                    鷗外(森林太郎)は明治14(1881)年に、東京大学医学部を席次8番で卒業した。主席ではなく文部省官費での洋行の道は潰えたが、後に陸軍の軍医となりドイツへ留学することになる。                                                                                            *森鴎外記念館特別展示「鴎外遺産」関連資料

bearb. von C.J. Prager 1875(明治8)年                                                                            プラーゲル『プロイセン陸軍衛生制度書』。明治14(1881)年に陸軍入りし、プロイセンの陸軍衛生制度調査に従事した鷗外が、約10ヶ月で『医政全書稿本』12巻として抄訳摘録した文献。この評価が明治17(1884)年のドイツ留学につながった。

neu bearbeitet von I.G. Volbeding 1872(明治5)年                                                                             ラテン語- ドイツ語の辞書。鷗外はラテン語も習得しており、「ヰタ・セクスアリス」や「カズイスチカ」といった、作品のタイトルとしても使用している。

らいごう あじゃり かいそでん いんよう ぐんしょ ようご                                                                             [森鷗外自筆] [明治期]                                                                        鷗外による若い頃の読書ノートと考えられる。曲亭(滝沢)馬琴の読本「頼豪阿闍梨恠鼠伝」より、「猫」「鼠」に関した言葉を中心に引用。『本草綱目』などを元に語注を加えている。(神田、一部改 編)

いとざくら しゅんちょう きえん                                                                  滝沢馬琴著 明治19(1886)年                                                             曲亭(滝沢)馬琴の読本で、義太夫節の人物に浄瑠璃の趣向と文体を取入れた作品。序の頁にある鷗外 の所蔵印「医学士森林太郎図書之記」は、医学部卒業後に製作され、購入時期を知る手がかりになる。鷗外文庫に多数の押印がある。目次は弟、篤次郎(三木竹二)の筆か。

しょうせん じょうし あき の ななくさ                                                                      滝沢馬琴著 明治16(1883)年                                                                        曲亭(滝沢)馬琴の読本。扉は鷗外または篤次郎の自作で、「橋北橘井堂」とは、父が千住大橋北側の千住にて営んだ医院、「穐」は「秋」の異体字である。鷗外は、おなじく東大医学部に通い、後年には劇評家となる弟の篤次郎とともに、これらの馬琴作品を熱心に読んだ。

このリンク先は鴎外文庫ではなく文化デジタルライブラリーの歌舞伎事典です。                                                                *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません。

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むかし がたり いなづま びょうし                                                                                              山東京傳編 ; 歌川豊國繪                                                                     江戸後期の戯作者山東京伝の読本における代表作。初版は文化3年(1806)だが、水野稔氏によれば、鴎外蔵のものは、明治刷。初冊巻頭に、鴎外の筆で「姓氏略目」を書いた和紙が折り込みで貼付されている。この「姓氏略目」には、「人名」以外にも、「図書」、「地名」なども含んだ固有名詞一覧が含まれている。「明治十七年五月十六日夜記」との書入れがあり、留学直前期、23歳での読書であったことが分かる。(小谷)                                                                   *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません

けいこく びだん  :  せーべ めいし                                                                            矢野文雄纂譯補述 明治16-17(1883-1884)                                                                                                 内容記述:古代ギリシャのテーベを舞台とした矢野龍渓の政治小説。全4冊であるが、第2冊目には、合計6首の作中人物を題材に詠じた七言絶句が書き込まれている。これらの漢詩は挿絵の裏頁に書かれており、その挿絵の場面を漢詩に直したものである。6首すべてが、スパルタの専制政治を擁する奸党を打倒し、テーベの独立を果たそうとする正党の志士たちを扱っており、鴎外が作中で是とされている主要人物たちに感情移入していたことがうかがえる。漢詩の制作年代は不明であるが、明治16年(1883)頃と推定されている。(神田)                                                                 *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません                                                        

ゆうよう ざっそ                                                              (唐)段成式撰 ; (明)毛晉訂                                                               中国古代の怪事異聞や言語事物などについて記録した書物。書入れの多くは、本文の内容と類似性を持つ逸話の抄出である。『捜神記』や『山海経』、『孟子』や『蒹葭堂雑録』の名が見えるほか、近世後期の儒者で私塾咸宜園を開いたことで知られる広瀬淡窓や明治初期に活躍した漢学者石津灌園らの詩が引用されている。また、巻七の一丁裏に注記された「欧州小説」とは、『イソップ童話』中の狼少年の話である。 「明治十四年十一月廿二日牽舟居士以西域記校訂(後略)」(続集巻四、十丁裏)との記述から、明治14年(1881)の冬、鴎外が20歳の時の書入れと分かる。同年7月に大学を卒業後、12月に陸軍に出仕するまでの間、鴎外は進路が定まらず、様々な道を模索したとされる。浪人時代の鴎外の動向を知る上でも、本資料は重要である。(合山)                                                                                                               *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません

しょうせつ しんずい                                                                   坪内逍遥述 明治18(1885)年緒言                                                                   坪内逍遙による日本最初の体系的小説論。赤色鉛筆の書入れが多く、有名な一説「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」の部分にも印が付されている。鷗外留学中の出版で、小堀桂一郎は「或いはドイツ宛に送られてゐたかもしれない」(小堀桂一郎『森鷗外―日本はまだ普請中だ』)と推測している。(神田、一部改編)                                                                                                         *森鴎外記念館特別展示「鴎外遺産」関連資料

von Gottfried Kinkel 1877(明治10)年                                                                キンケル『火葬について』。陸軍軍医としてドイツに留学した鷗外は、軍の意向を受けて衛生学を研修した。自筆識語から、ミュンヘン滞在中に軍医ヴェーバーの薦めにより購入したとみられる。鉛筆の下線が多く、熟読したものと推測される。(河野、一部改編)

von Vrrazin Otto 1886(明治19)年                                                                                   1886 年出版のドイツ語辞書。「Rintaro Mori München, 23. Maerz 86」と鷗外の自筆で記されている。ドイツ留学中の1886(明治19)年にミュンヘンで新刊として手に入れたものか。

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第2章 職務に向きあう

この章では、鷗外森林太郎の文学以外の活動、すなわち陸軍や宮内省等における、鷗外の「公務」上の仕事がうかがえる資料を紹介する。

鷗外は長く陸軍の軍医をつとめ、最高位の医務局長・軍医総監で退役した。陸軍は日清・日露戦争中、脚気で多くの戦病者・死者を出した。鷗外は陸軍における衛生行政の中心人物として、その対応について論じられることも多い。

一方で、軍医として気を配るべきは脚気だけではなく、感染症など多岐にわたる。感染症予防に関する蔵書や、衛生学者として東京の都市計画に関与していたことを示す資料、あるいは温泉や風土病に関する資料など、多面的な関心のあり様がその蔵書から伺える。

また、留学時代と小倉時代にクラウゼヴィッツの「戦争論」の講義をして翻訳を残したほか、海外の情勢や地誌に関する蔵書も多く、これらは帝国軍人としての鷗外の視界がどのようなものであったのかを示すものと言えよう。

晩年には文化行政の分野で、文学者としての鷗外に連なる仕事に関わった。仮名遣い問題では、歴史的仮名遣いを支持し、その後の文部行政に大きな影響を与えた。大正6(1917)年には宮内省帝室博物館総長兼図書頭となり、「寮館事略」等に伺われるような勤勉さで、死の直前までその任に当たった。

にほん べいしょくし                                                          岡崎桂一郎著 大正2(1913)年                                                                   鷗外が漢文体で「私は臨時の脚気病調査会長になって(中略)米の精粗と脚気に因果関係があるのを知った」(口語訳は志田信男『鴎外は何故袴をはいて死んだのか』より)という内容の序文を寄せている。また、奥書に鷗外が調査を委嘱し、多大な好意と尽力を寄せた旨の記述がある。                                     *森鴎外記念館特別展示「鴎外遺産」関連資料                       

たいわんを じゅんしし じゅへいのえいせいにつき いけん                                                               石黒忠悳[述] 明治28(1895)年                                                               日清戦争後の台湾平定で、鷗外の上官であった石黒忠悳が台湾視察後に出した報告書。鷗外も石黒の命で、大陸から直接台湾に赴任した。石黒は白米至上主義で、鷗外も同調することが多かったが、前年の意見書と異なり、白米飯堅持の姿勢が薄れているようである。                                               *森鴎外記念館特別展示「鴎外遺産」関連資料

めいじにじゅうしちねん にじゅうはちねんえき だいにぐんぐんいぶ ほうこく                                                         第二軍軍医部[編] 明治28(1895)年緒言                                                          鷗外は明治27-28(1894-95)年の日清戦争において、第2軍兵站軍医部長として戦地に赴いた。この報告書では、負傷者数、脚気・コレラ等の患者数のほか、出征中の第2軍の衛生状況が詳細に報告されている。

von J.M. Cuningham ; mit einem vorwort von Max von Pettenkofer 1885(明治18)年                                                                 コレラやチフスに関するドイツの医学書。著者のPettenkoferはドイツ留学中に鷗外が師事したミュンヘン大学の衛生学者。明治41(1908)年、当時軍医総監だった鷗外は、ワクチンによる予防接種(腸チフス)を陸軍で初めて正式導入した。                                                    *森鴎外記念館特別展示「鴎外遺産」関連資料

von Max v. Pettenkofer 1889(明治22)年                                                    コレラやチフスに関するドイツの医学書。著者のPettenkoferはドイツ留学中に鷗外が師事したミュンヘン大学の衛生学者。明治41(1908)年、当時軍医総監だった鷗外は、ワクチンによる予防接種(腸チフス)を陸軍で初めて正式導入した。

あんせい ころり りゅうこうき                                                 金屯道人[著] 安政5(1858)年                                                      金屯道人(仮名垣魯文)著。安政のコレラ流行の際に、民間で数多く発行された啓蒙的な養生書のうちの代表的なものである。『転寝の夢』(幕末に西洋医学の伝習を行ったポムペ・ファン・メールドルフォールトによるコレラの対策法を記した本)をそのまま収録している。 巻末に「安政虎列刺之行其事多不伝今僅獲此一書可以少考矣明治十二年牽舟居士」という書入れがあり、鴎外による入手が医学部本科2年時であったこと、明治10年代、既に入手困難な本であったことがわかる。論文『Beriberi und Cholera in Japan』(日本における脚気とコレラ)内で、当時江戸で刊行されていたパンフレットとして、注に挙げられている。(山田)                                                                                                                   *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません。

とうきょうしくかいせいいいんかい ぎていてんまつ                                                                     明治21(1888)年の東京市区改正条例で設置された委員会の決議書。鷗外はこの委員会の建築条例調査委員会専門委員だった。公衆衛生学の観点から複数の論文を発表して、都市計画に関する具体的な提案を行っている。

にほんこうせん らぢうむえまなちおん がんゆうりょうひょう                                                           森林太郎[編] 大正4(1915)年序                                                           鷗外は軍医であると同時に衛生行政官であり、医学・衛生学分野の様々な領域に目配りしていた。『日本鑛泉ラヂウムエマナチオン含有量表』は、鷗外を団長とする陸軍軍医団が全国主要温泉のラドン含有量調査を行い、各道府県ごとに結果をまとめたものである。『日本住血吸蟲病豫防法』は、寄生虫によって起こる日本住血吸虫症に関する予防法がまとめられた雑誌記事の別刷で、数年間にわたる実験結果が多数まとめられている。これらの資料からは、鷗外が調査や実験結果をもとにした理論を重視していたことがうかがえる。

にほんじゅうけっきゅうちゅうびょう よぼうほう                                                          藤浪鑑, 末安吉雄著 大正8(1919)年                                                        鷗外は軍医であると同時に衛生行政官であり、医学・衛生学分野の様々な領域に目配りしていた。『日本鑛泉ラヂウムエマナチオン含有量表』は、鷗外を団長とする陸軍軍医団が全国主要温泉のラドン含有量調査を行い、各道府県ごとに結果をまとめたものである。『日本住血吸蟲病豫防法』は、寄生虫によって起こる日本住血吸虫症に関する予防法がまとめられた雑誌記事の別刷で、数年間にわたる実験結果が多数まとめられている。これらの資料からは、鷗外が調査や実験結果をもとにした理論を重視していたことがうかがえる。

たいせんがくり                                                           クラウゼウィッツ著 ; 陸軍士官學校譯 明治34-36(1901-1903)年                                                           鷗外は留学中にクラウゼヴィッツ「戦争論」を知り、高く評価して、同じくベルリンに留学していた後の陸軍中将・田村怡与造にこれを講じた。日清戦争従軍後、小倉時代には第12師団の将校のために毎週講義を行い、翻訳に取り組んだ。原著へのペンの書き入れは留学中の読書の進捗を表し、鉛筆は抄訳のためのメモと思われる。抄訳『大戦学理』は明治36(1903)年に出版された。(河野・一部改編)

1832-1834(天保2-天保5)年                                                          鷗外は留学中にクラウゼヴィッツ「戦争論」を知り、高く評価して、同じくベルリンに留学していた後の陸軍中将・田村怡与造にこれを講じた。日清戦争従軍後、小倉時代には第12師団の将校のために毎週講義を行い、翻訳に取り組んだ。原著へのペンの書き入れは留学中の読書の進捗を表し、鉛筆は抄訳のためのメモと思われる。抄訳『大戦学理』は明治36(1903)年に出版された。(河野・一部改編)

たいわんし                                                     [參謀本部編纂課編輯] 明治28(1895)年                                                         台湾島統治資料。鷗外は日清戦争終結直後の明治28(1895)年5月、台湾赴任を命じられ、台湾総督府陸軍局軍医部長に就任している。同行した近衛師団は、現地住民の激しい抵抗にあい、苦戦することになった。鷗外は戦闘終結前の9月に帰国している。

ちょうせん てつどうせんろあんない                                     朝鮮總督府鐵道局 [編] 明治44(1911)年                                      鷗外は日清戦争時に釜山で1ヶ月ほどすごし、「中路兵站軍医部別報」を書いている。樺太に赴任したことはないものの、陸軍軍医総監・陸軍省医務局長就任後に出版されたこれらの資料が鷗外文庫に残ることは、外地の統治が意識に入っていたことを物語っている。

からふと しょくみんせいさく                                                        谷口英三郎著 大正3(1914)年                                                            鷗外は日清戦争時に釜山で1ヶ月ほどすごし、「中路兵站軍医部別報」を書いている。樺太に赴任したことはないものの、陸軍軍医総監・陸軍省医務局長就任後に出版されたこれらの資料が鷗外文庫に残ることは、外地の統治が意識に入っていたことを物語っている。

しな いんしょうき                                                       小林愛雄著 明治44(1911)年                                                              著者は早稲田実業学校(現・早稲田実業高校)校長で、作詞家・脚本家としてオペラ・オペレッタの普及に尽力した。本書は明治41(1908)年の大陸旅行に際した印象記で、鷗外の序を持つ。日露戦争を背景とする「鼠坂」(明治45(1912)年)との関連も指摘されている。

にっしんたいやく せんじんようご                                                         明治37(1904)年例言                                                      日露戦争に併せて急遽刊行されたと思われる、戦地用中国語会話集。北京語にフリガナが振られている。鷗外が実際に使用したかは定かではない。

ぽんぷ しようほう                                                        陸軍省編 明治27(1894)年                                                          明治27(1894)年に陸軍省が定めた「ポンプ使用法」別冊。ポンプの構造から使用方法まで図解入りで説明している。

りんじかなづかい ちょうさいいんかい ぎじそっきろく                                                       文部大臣官房圖書課 [編] 明治42(1909)年                                                                 明治41(1908)年に委員に任命された、臨時仮名遣調査委員会の速記録。6月26日の委員会で、鷗外は歴史的仮名遣いを守る立場から、「私ハ御覽ノ通リ委員ノ中デ一人軍服ヲ着シテ居リマス」という印象的な発言で始まる長文の意見(「假名遣意見」)を述べている。

りょうかん じりゃく                                              「寮」「館」は宮内省図書寮・帝室博物館を指し、規定・名簿など事務資料を綴じたもの。鷗外は大正6(1917)年12月から死去まで、帝室博物館総長兼図書頭をつとめた。一部鷗外自筆も含み、「東京帝室博物館」「宮内省」の罫紙が使用されている。

しょうそういんがっき の ちょうさほうこく                                                        上眞行[ほか]著 大正10(1921)年                                                         大正9(1920)年11月に行われた、宮内省の上眞行らによる正倉院所蔵古楽器の調査報告。帝室博物館総長だった鷗外が創刊した、『帝室博物館学報』の第2冊にあたる。鷗外はほかに、総長として毎年立会った正倉院曝涼の拝観資格を拡大したことでも知られる。

ていこくびじゅついん だい3かい びじゅつてんらんかい ちんれつひんもくろく                                                        明治40(1907)年創設の文展が改組され、大正8(1919)年に帝展となった第3回の陳列品目録。鷗外は帝国美術院初代院長をつとめ、第1回から上野公園の会場に足を運んでおり、本書にも実際の見聞によると思われる書入れが施されている。                                                     *森鴎外記念館特別展示「鴎外遺産」関連資料

第3章 知識への渇望

鷗外は40歳前後にあたる明治30-40年代に、『塵冡』と題された雑記帳を作成している(資料番号3-1)。ページを繰っていくと、簡単な見出しと共に記されるメモ書きの、その内容の幅広さに驚かされる。「歐米梵學の梗槩」「馬蹄薬」「もうせん苔」「雪中行軍」「音の高低」……。「本職」としていた軍事、医療関係のみならず、宗教、博物誌、園芸、地誌など多岐に亘る内容が次々と並び、流麗な横文字の筆記体や漢語の語彙で埋め尽くされているページもある。 

興味を持った事柄を筆録する形で物事を学び取っていった鷗外は、こうした雑記帳的なノートや写本、手抄本の類を数多く残した。 

『塵冡』のような自筆資料から読み取れる鷗外の知のあり様は、彼の蔵書そのものにも表れている。鷗外文庫を少し見渡しただけでも、極めて広範な分野の図書が含まれていることに気付かされる。 

そこでこの章では、一見彼の職業や創作活動とは直接的な関わりがないように思われる鷗外の蔵書を紹介する。各種の宗教、建築技法、社会・労働問題、工芸、諸芸など、多様な資料とそこに残る学びの痕跡を通じて、木下杢太郎によって「テエベス百門の大都」と称された、縦横無尽に広がる鷗外の知の宇宙の一端を感じていただければ幸いである。 


3-1 塵冡

ちりずか                                                                                                                         [森鷗外自筆]                                                                                                                                                                                                          鷗外自筆による雑記録。執筆時期は明治32(1899)年から明治40(1907)年ごろと推測される。内容の多くは覚え書き程度のもので、分野は宗教・博物誌・地誌・軍事・医事・語彙など多岐にわたり、鷗外の関心領域の広さを示している。(多田、一部改編)

じきしょうらん                                                    (釋)周觀 [註] 元禄12(1699)年[刊]                                       (唐釋)智廣撰『悉曇字記』の注釈本。梵語研究の最古の専著『悉曇字記』は五十音図の成立や字音仮名遣いに大きな影響を与え、その注釈や改編として本書のような日本独自の音韻学研究文献も多数出版された。全篇にわたり傍線や誤植訂正などが多く、鷗外の悉曇学への関心の高さが窺える。また鷗外蔵書の中に、『字記捷覧』と同じ「支那撰述」シリーズで、元禄年間に興儔が出版した珍本『佛祖源流贊』(道盛述)もあったことから、鷗外の仏教に対する関心の高さもうかがえる。

3-2 字記捷覧 2巻  関連資料                                                                  国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている資料です。                                                                                      *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません                                                       

せつもんえきけん                                              (清)史恩錦編 民国6(1917)年刊                                                                             最古の部首別漢字字典である『説文解字』(西暦100年)の検索の便のため、史恩綿が作成した参考書。鷗外蔵書の中には、説文の関係書籍が30余部あって、漢字への興味をうかがわせる。展示箇所(巻八上の13丁)などは、鷗外自筆と思われる補訂である。

はいかいごしこう                                                   [朝陽館編]                                                     鷗外の随筆「俳句と云ふもの」に<『秋風や白木の弓に弦張らん 去来』 と云ふ句がひどく気に入つて、こんな句がして見たいと思つた。> との記述があるが、実際に本書の「落柿舎去来句集」の該当の句に朱筆で〇が付いている。 <その後俳句を少しして見たが、かう云ふ向きの句は一つも出来たことがない。> 幅広い興味と知識を持つ鷗外も、思うようにならなかった分野もあったようである。

はいかいてじょうちん                                                                                       明治22(1889)年刊                                                                                                                                                                                                                                         季語など俳諧に用いる語を集めたもの。冒頭に凡例として、連歌俳諧の形式や用語についての詳しい解説があり、指南書として興味深い。

はいかいじゅうろん                                              東華坊述                                                   各務支考が、師である松尾芭蕉以来の蕉風の理論を体系的にまとめた俳論書。多くは2冊もしくは3冊本として流通するが、この鷗外文庫本は1冊に改装されている。支考は本書を著すにあたり、儒学や仏教などの用語を多用しているが、鷗外はそれらに解釈を附したり、時には感想を書入れたりしていて、熱心に読んだことがうかがわれる。英語やドイツ語が散見することから、比較的若年時の書入れと考えられる。(出口)                                              *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません

せんちゃけつ                                                                               (清)葉雋永之撰  (日本) 小田誠一郎訓點 明治12(1879)年刊                                           蔵茶、択水から茶具まで、煎茶の作法を漢文体で解説した書。一部が寛政10(1798)年跋刊の『煎茶略説』(沢田実成撰)にて和訳され、後世の煎茶及び茶師に大きな影響を与えた。鷗外は東大在学中の明治10年代より、煎茶の趣味を覚えたことが知られている。                                                                    

せんちゃりゃくせつ                                                          3-6 煎茶訣  関連資料                                                                                                     *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません                                                

ちゃじざっしょう いちめいすきやのちり                                                                                        牽舟老衲撰録                                                                                                                              『考槃餘事』、『楽山堂詩抄』、『大和本草』などの諸書から、茶に関する記事を抄写したノートである。用いられた文献は、和漢の古典籍から『西洋薬物学』のような教科書類、さらには『東京今話』、『桂林一枝』など明治期に刊行された雑誌まで多岐にわたる。また一部には、「明治十三年五月十一日 牽舟老衲撰録」と記された「茶史」など、鷗外自身の文章も含まれている。巻頭の書名には「牽舟医士著」とあり、また用いられた用紙の柱にも「牽舟居士」とあることなどから、鷗外がこの号を用いていた明治10年代前半にまとめられたものと推定できる。鷗外若年時の関心の所在や、多数の文献を閲読することで知識を広げてゆく過程が知れる、興味ぶかい資料である。(出口)                                                 *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません

しゃくしょうき ぞく                                            [森鷗外自筆]                                                   題箋は『釋小記續』、内題は『日本仏教史綱』となっており、仏教各宗派の所依、始祖、法統などを抄録した『釋小記』と同じく鷗外自筆の読書ノート。村上専精の『日本仏教史綱』から三論成實、法相、華厳、天台真言、密教各宗の伝来、真宗、禅宗、臨済、曹洞、日蓮、浄土宗、儒佛など各宗派の法統図を抄録、又は構成したもの。鷗外の晩年に散見される山加製原稿用紙に書かれており、大正5年頃の作成と考えられる。(神田、一部改編)

しゃくしょうき                                                                                                      3-7 釋小記續  関連資料                                                                                                                                                                                                               *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            

3-7 釋小記續 関連資料                                                                                                                      国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている資料です                                                                                                                                                                                                                                                                                                               *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません                                                                                                                                                         

せかいしゅうきょういっぱん                                                                                 内山正如, 瑜伽理圓著 明治33(1900)年刊                                                                                                                        冒頭の山田喜之助の叙で「古今東西教義之綱要如指之於掌、而国家待教義之法又叙述而詳且備矣。」と記されているように、仏教やキリスト教諸派をはじめ、イスラム教、ヒンドゥー教、ユダヤ教などの多様な宗教教義及び世界各国宗教の現状が紹介されている。一部、鷗外のものと思われる朱筆圏点が施されており、各宗教への関心を示している。

じょうゆいしきろん                                                                                       護法等菩薩造  (唐釋) 玄奘奉詔譯   (日本釋) 眞興 [注]                                                       玄奘による世親著の『唯識三十論頌』の注釈書。法相宗の成立に大きく寄与した書物であり、中国法相宗の教学の基礎となった。鷗外の書入れは巻3と巻6に集中しており、本文中の語の意味がドイツ語で記されている。読書年次は不明であるが、鷗外の仏教理解の過程がうかがわれて興味深い。また、鷗外の『生田川』(『中央公論』明治43(1910)年4月)には、『成唯識論』の偈が引用されている。(出口)                                                                                                                  *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません

ろうどうもんだいひはん                                                                                                    自筆題僉に「労働問題批判」と題しているが、社会主義などに関連する雑誌記事を切り抜き合綴した本。全体に墨筆、朱筆、ペンによる線引・傍点の書入れが多く、晩年の鷗外が当時の社会問題に関する尖端的議論を学習しようとしたさまがうかがえる。末子の類は、鷗外が「「新しい思想を弾圧してはいけない。よく勉強してみなければ」と言い、晩年その研究に着手していた」ことを伝えている(『鷗外の子供たち』)。

ろうどうもんだいのげんざい および しょうらい                                  わがくに しほんかかいきゅうのはったつ と しほんしゅぎてきせいしん                         しゃかいかいぞうのげんり                                                 社会運動、労働問題についての興味がうかがえる一連の資料。

たいしょうてかがみ ぜん                                                                   [鈴木重春著]                                                                                                                                                              享保年間に江戸の大工鈴木重春によって編まれた技術書の写本。大工棟梁の格式を示すと考えられた技術を体系化・雛形化した一連の公刊技術書のうちの1点で、鳥居、鐘楼の種別に至るまで豊富な図面入りで解説されている。

ごくひろっかく ひいながた                                         赤井幸七恒嘉著 寛政7 (1795)年刊                                         日本の社寺建築における軒の設計技術である「規矩術」の専門的技術書。大型の折本で、テキストは少ないが図が大きく、作図して習得するような構成となっている。                                                *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません

ことうかじ めいずくし                                                                              弘化5(1848)年[刊]                                              江戸末期に編まれた刀剣書。各刀工の銘を集め、主に茎の図入りで解説したもの。刀工は主に国ごとにまとめられている。刃文などの特徴を説明してある刀剣もある。

かっちゅうちゃくようべん                                                                                井上直著 清水赤城校                                                                                      武士の戎衣(鎧や兜など)の着用法に関する文献は多数存在したが、本書では、単騎雑兵の効率的な防具着替え方法が簡潔にまとめられている。巻末附録には「単騎軍中要用之祕事」が載せられており、武士が戦場で必要となる要用口訣とその解説も記されている。作者の井上直は、甲州流兵法(特に火砲の技)に精通していたが、普段は医者の身分で民間に溶け込んでいた。従って本書も医者の視点から「単騎身上切緊處」を考慮して作成されており、鷗外の蔵書の中でもとりわけ異彩を放つ書籍である。                                                                                                                                   *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません

がくしょうき ぞく                                                                                        [森鷗外自筆]                                                                                         楽器の性質や来歴を抄書したノート。『日本雅樂概辯』、『樂器考』(栗田寛撰)、『歌舞品物』(藤原守中撰)からの抜抄である。高知堂、東京宮田、虎の門鈴木製原稿用紙に書かれており、晩年のものと推定される。鷗外は、1917(大正6)年より逝去の年に至るまで帝室博物館総長の在職中、同館所蔵本について毎日数部ずつ調査記録し、目録『帝室博物館書目解題』を編んでいた。『日本雅楽概弁』と『歌舞品目』は、この『書目解題』の中で言及されている。(多田、一部改編)

がくしょうき                                                                                                            3-15 樂小記續 関連資料                                                                                                               *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません                                   

じょうばうんどうしょ                                                                            明治23(1890)年刊                                                                                                    乗馬時の服装や騎乗姿勢、鞭の用法から、複数騎で行進する際の動きまで、図面と共に解説されている。鷗外自身、軍医として常に馬に乗っており、軍服姿で愛馬とともに写った写真も残っている。

にほんちょうるいずせつ                                        にほんそうるいめいい                                         ふじさんしょくぶつもくろく                                    

ちょうぎょ かんめい                                                                           [森鷗外自筆]                                                                                   鳥類・魚類について、その和名と漢名、またラテン語の学名などを対照した自筆ノート。 鳥類については栗田万次郎「支那禽類彙考」、魚類については畔田併存『水族志』(『博物雑誌』)からの抄出である。また魚類の部においては、上田恭輔「魚属の名に用ゆる漢字に就て」との対校もなされている。扉には高知堂製の原稿用紙が、本文には東京帝室博物館の原稿用紙が用いられている。鷗外晩年の制作であると推定できる。こうした和漢名を対照する書入れは、『事物異名類編』(鷗A20:105)、『秇苑日渉』(鷗A90:297)、『陸氏草木鳥獣虫魚疏図解』(鷗B60:1193)などにも見られるものであり、鷗外の学問の一端がうかがわれる。(出口、一部改編)                                                      *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません

じぶつ いみょう るいへん                                           鳥魚漢名 関連資料                                                                                                                                                                             *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません

げいえん にっしょう                                                                                                                鳥魚漢名 関連資料                                                                                                                                                        *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません

りくし そうもくちょうじゅうちゅうぎょ そ ずかい                                                                                                                                                                             鳥魚漢名 関連資料                                                                           *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません

すもう いんうんかい                                                       [式守蝸牛著]                                                                                                     現在まで続く相撲行事の名跡、式守伊之助。その初代が寛政5(1793)年の引退後、式守蝸牛と名乗り著した著作の写本。相撲の濫觴(起源)、歴史を絵入りで解説する。上覧相撲の取組表や四十八手の解説も掲載されている。

とうこしんかく とうこぎせつ                                                                             (宋)司馬光更定 (日本)田中清補正 (日本)神有則校讐 明和6(1769)年跋[刊]                                           司馬光が著した投壺の専門書。投壺とは中国で誕生した伝統的な余興用のゲームで、壺を地面や床に置き、それに向かって矢を投げ入れるというもの。『投壺新格』がルールブック、『投壺儀節』は道具や人員配置を記した手順書。「牽舟居士蔵」の識語から、若年時の読書とわかる。

ちょうろく えどず                                                                                           [森鷗外自筆] 大正4(1915)年                                                                                     鷗外自身が模写した、彩色のほどこされた江戸図。                                           本図には長禄年間(1457-1460)の年号が冠されているが、実際には近世中後期ころに成立した推測図である。                                     鷗外はこの地図を大正4(1915)年1月に模写し、さらに同年3月に、弘化2(1845)年に栄々堂が板行した図と校合している。                               鷗外は原図の識語も写し取っているが、それによれば本図はもともと、安永7(1778)年に画家の狩野閑川が写したものであった。閑川によるその図は、天保15(1844)年にふたたび謄写され、佐久間象山の門人で、のちに外務省書記官を勤めた北沢正誠の所蔵となっていた。その北沢蔵の図が、青郷なる人物によって明治32(1899)年にさらに写されたものを、鷗外が模写したという複雑な過程をたどっている。 鷗外は武鑑とともに、古地図も多数蒐集していたが、みずから写した地図はきわめて珍しい。(出口、一部改編)

第4章 人脈のなかで

 鷗外は東京大学医学部の同期、先輩、後輩はもちろんのこと、留学先のドイツで出会った哲学者井上哲次郎をはじめ、医学とは異なる幅広い分野の人々とも交友を深めた。

 東京美術学校で美術解剖学や西洋美術史など、慶應義塾大学で審美学を教え、軍医の職を退いた後には帝室博物館総長兼図書頭、帝国美術院初代院長を務めるなど美術界とも関わりが深く、美術家の友人も多かった。

 文学の面では、留学から帰国後に活動を本格化、明治22(1889)年に文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊し、坪内逍遙、幸田露伴らがこれに寄稿。『しがらみ草紙』の後身として明治29(1896)年に創刊した『めさまし草』には饗庭篁村や、正岡子規・高浜虚子ら根岸短歌会の俳人などが寄稿した。

 明治40(1907)年には『明星』派の代表与謝野鉄幹、『アララギ』派の代表伊藤左千夫、『心の花』派の代表佐佐木信綱を自宅に招き、観潮楼歌会を開いた。この歌会には若手の歌人も加わり、派を超えた交流の場として明治43(1910)年まで続けられた。

また、若い文学者にも慕われ、明治42(1909)年に石川啄木、吉井勇らが創刊し、自身が名付け親となった文芸雑誌『スバル』や、明治43(1910)年に永井荷風が創刊した『三田文学』にも数多く寄稿した。

 この章では鷗外の人脈、その多彩な顔触れが垣間見える資料を紹介する。

げんえいのたて・ろんどんとう・いちや・かーらいる はくぶつかん・にひゃく とおか                                                        夏目漱石著                                                       『ホトトギス』明治38(1905)年4月号の附録として発表された「幻影の盾」、『帝国文学』明治38年1月号に掲載された「倫敦塔」など、初期夏目漱石の5つの短篇を1冊に綴じた本。鷗外と漱石は、明治29(1896)年1月、東京・根岸の正岡子規邸で初めて対面して以後、直接顔を合わせたのは数回であったが、互いの存在を認め著書等をやり取りしていた。                                              *森鴎外記念館特別展示「鴎外遺産」関連資料

わんきゅう ものがたり・ふあん・とうりゅう じんめい じしょ 幸田露伴著                                                       『文藝倶楽部』明治33(1900)年1月・翌年1月に発表された「椀久物語」、および同時期に『新小説』に発表した随筆類など、幸田露伴の作品を集めて綴じた本。鷗外と露伴は20代から深い親交を持ち、明治29(1896)年創刊の文学雑誌『めさまし草』では、斎藤緑雨もまじえた3人で新作文芸合評「三人冗語」を展開した。 4-1、2はいずれも、鷗外が雑誌から抜き取り、自ら製本しなおしたと推定される。作品と関係のない箇所には、上から半紙を糊付けして隠すという、丁寧な造本が行われている。

よしい いさむ しゅう・ながた ひでお しゅう・あきた うじゃく しゅう                         吉井勇[ほか]著                                                 鷗外が名付け親となった文芸雑誌『スバル』の同人、吉井勇、長田秀雄、秋田雨雀が明治40(1907)年から大正2(1913)年にかけて、『新小説』『早稲田文学』等に発表した小説、戯曲類14篇。鷗外は『スバル』に「ヰタ・セクスアリス」「青年」などを発表し、同人とも深いつながりがあった。

ながい かふう しゅう                                                  明治42(1909)年から大正2(1913)年にかけて、荷風が『中央公論』『三田文學』等に発表した小説、随筆、戯曲など13篇。荷風は鷗外を文学上の師と仰ぎ、敬愛し続けた。鷗外もまた、17歳年下の荷風の実力を認め、「面白い人」とその個性を評価し、明治43(1910)年には慶應義塾大学に推挙している。 鷗外の手による製本の多くに、揃いの柿色表紙と自筆題箋が付されている。全篇の表題が記された題箋から、鷗外の各作家・作品への思いが感じられる。                             *森鴎外記念館特別展示「鴎外遺産」関連資料

国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている資料です                               *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません。

はすは むすめ・かわぞい やなぎ・しん せっしょうせき                                 饗庭篁村著                                                      明治21(1888)年に春陽堂が創刊した文芸雑誌、『小説萃錦』に掲載された小説3篇。作者の篁村は明治20年代に人気が高く、鷗外は「三人冗語」を拡大した合評会「雲中語」に招いている。「森文庫」印は、まだ学生だった鷗外が用いた、最も早い時期の蔵書印であり、蔵書中に残された印のなかで「森氏蔵書」に次いで多く使用されている。

めばえ・きちょうしゃの にっき・わな・じゅうしちのころ・ゆびわ・ちくしょう・とめじい・こきょうのとも                                             島崎藤村[ほか]著                                               明治42(1909)年刊の『中央公論』に発表された8名の作家(島崎藤村、永井荷風、田山花袋、佐藤紅緑、徳田秋聲、上司小劍、薄田泣菫、眞山青果)の作品を、1冊に製本したもの。                                                        *森鴎外記念館特別展示「鴎外遺産」関連資料

しきついとう しゅう                                                 高浜虚子編 明治35(1902)年刊                                          正岡子規が歿して3か月後、明治35(1902)年12月に発行された『ホトトギス』。鷗外は日清戦争の戦地にて、新聞『日本』の従軍記者だった子規に出会った。帰国後、鷗外は主宰する雑誌『めさまし草』の俳句欄を子規や高浜虚子らの一派に任せ、打ち解けた親交が続いた。                                               *森鴎外記念館特別展示「鴎外遺産」関連資料

ししゅう つきに ほえる                                           萩原朔太郎著 大正6(1917)年刊                                        大正6(1917)年に刊行された萩原朔太郎の第1詩集。鷗外の書入れと思われる傍線が随所に見られる。朔太郎が本書をたずさえて鷗外を訪問した日の手紙には、「今日萩原朔太郎ト云フ詩人初対面イタシ候 衒氣ナドナキ好キ人ト存候」とあり、その人柄にも好感を抱いていた様子がうかがえる。

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せいしん けいび:のうずい せいり                                            呉秀三著 明治23(1890)年刊                                             呉秀三は精神病学者。帝国大学医科大学に学び、鷗外の弟篤次郎とは同期。ドイツ留学中の鷗外に手紙を送り、洋書の送付を依頼するなど早くから親交があった。「渋江抽斎」「北条霞亭」執筆に際しては、医学史家として情報提供も行っている。

あいぬ いじだん                                                  関場不二彦著 明治29(1896)年刊                                           関場不二彦は呉秀三らと同期の医師。帝国大学医科大学卒業後、同大助手を経て北海道へ赴任。アイヌの患者に関心を寄せ、本書を著した。鷗外の義弟小金井良精は、アイヌ研究で知られる人類学者であり、本書の参考文献には彼の論文も挙げられている。

まど                                                     小山内薫著 明治41(1908)年刊                                      劇作家・演出家である小山内薫の第1短篇小説集。巻頭に印刷された鷗外への献辞に加え、鷗外文庫本には自筆献辞もある。刊行翌年に結成した自由劇場の第1回試演では、鷗外訳のイプセン「ジヨン・ガブリエル・ボルクマン」が上演され、「青年」には公演の様子が書かれている。                                            *森鴎外記念館特別展示「鴎外遺産」関連資料

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ぶどうしゅるいせつめい                                          [川上善兵衛著]                                             岩の原葡萄園の創立者、川上善兵衛はワイン用品種マスカット・ベーリーAを作出した園芸家で、日本ワインの父と称される。右派活動家の武田範之に親炙し、交流のあった鷗外に伝記執筆を依頼したがはたされず、自身で『武田範之伝 : 興亜前提史』を著した。

はくしゃく かめいけ かはん                                            森家は代々、津和野藩の藩医であり、父静男は藩主亀井茲監(右の肖像)の侍医をつとめた。維新後に一家が上京したのも亀井家を頼ってのことで、以後鷗外は十三代当主玆明がドイツ留学した際、現地でサポートするなど、生涯にわたって深い関係を持った。

こ じゅうにいくんさんとう かめいくん りれき                                       森家は代々、津和野藩の藩医であり、父静男は藩主亀井茲監(右の肖像)の侍医をつとめた。維新後に一家が上京したのも亀井家を頼ってのことで、以後鷗外は十三代当主玆明がドイツ留学した際、現地でサポートするなど、生涯にわたって深い関係を持った。

くろんうぇる                                                    竹越與三郎編 明治23(1890)年刊                                          イングランドの政治家クロムウェルの伝記。著者の竹越與三郎(三叉)は、首相の西園寺公望が文士たちを招いた雨声会の世話人だった。招待された鷗外は、明治40(1907)年6月18日の宴に出席した。三叉は西園寺から厚く信任され、後に貴族院議員となる。

井上哲次郎著                                              大正5(1916)年、井上哲次郎が『帝國學士院紀事』に寄せた、加藤弘之の追悼文。加藤は東京大学初代総理で、その長男の照麿と鷗外は、ドイツ留学中に多くの時間を共に過ごした。

ぶんかと かいぞう                                                  桑木嚴翼著 大正10(1921)年刊                                             桑木厳翼は帝国大学文科大学で井上哲次郎に学んだ哲学者。左右田喜一郎らとともに新カント派の立場から文化主義を提唱し、大正デモクラシーの一翼を担った。長女の素子は、鷗外の甥である小金井良一に嫁した。

はんざき さんしょううお ちょうさほうこく                                       石川千代松著 明治36(1903)年刊                                     著者の石川千代松は動物学者で、ドイツ留学中に鷗外と知りあった。明治33(1900)年から東京帝室博物館天産部長と動物園監督を兼任しており、この報告書はその頃に発行されたもの。森鷗外記念館所蔵の書簡からも交流がうかがえる。

おおした とうじろう いさくしゅう                                           大下藤次郎は水彩画家で、師事した原田直次郎を通じて鷗外と知りあった。鷗外はその著書『水彩画之栞』(明治34(1901)年)に序文を寄せているほか、彼をモデルに小説「ながし」(大正2(1913)年)を書いた。この遺作集冒頭の年譜も鷗外の編。                                                                  *森鴎外記念館特別展示「鴎外遺産」関連資料

国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている資料です                               *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません。

しな かいが しょうし                                            大村西崖著 明治43(1910)年刊                                       大村西崖は東京美術学校で教授をつとめた美術史家。明治30(1897)年に創刊した『美術評論』に、鷗外は「西洋美術史」はじめいくつもの文章を寄せたほか、共著として『審美綱領』『阿育王事蹟』や、岩村透らを加えた『洋画手引草』を出している。                                                                *森鴎外記念館特別展示「鴎外遺産」関連資料

第5章 作品への通路

 これまでの章では、鷗外文庫資料の多種多様さ、ひいては森鷗外という人物の縦横無尽な知の広がりを見ていただいたが、この章ではいくつかの鷗外作品を取り上げ、原点となった図書や、作品に影響を与えたであろう資料などから鷗外文庫を紹介する。

 鷗外は生涯をとおして数多くの作品を残しており、まず今回は歴史小説の中から「渋江抽斎」「大塩平八郎」「興津弥五右衛門の遺書」などを取り上げ、各作品の起点となった資料を紹介する。特に「渋江抽斎」では、渋江抽斎の子孫による資料群にご注目いただきたい。鷗外の書簡や日記によると、執筆に際しては知人や被伝者の子孫などに手紙を書いたり、面会したりして資料の収集を依頼していたことが分かる。こうして収集した資料や執筆のためのノートをまとめ、一冊の図書にしたものが鷗外文庫には含まれており(資料5-2,資料5-4)、これらは鷗外作品を研究する上で欠くことのできない重要な資料である。その他、小説の舞台となった地域の資料や、執筆にあたって参照したと思われる考証資料なども鷗外文庫にはある。また鷗外は多くの翻訳も手掛けており、訳詩集『於母影』に所収されている詩の原本や、歌劇「オルフエウス」の翻訳原本であるOrpheus und Eurydiceなどもあり、これらの資料には鷗外の手による書入れも多く見られる。

 鷗外の作品を読みたいと思ったとき、鷗外全集や文庫本など紙の本で閲読できるのはもちろん、現在は青空文庫や国立国会図書館デジタルコレクションなどインターネット上のコンテンツも数多く、かつ自由に利用できるようになっている。この展示会を契機に、鷗外の作品を読み直したり、未読の作品を手に取っていただけたなら望外の喜びである。

第5章 展示資料一覧

けいせきほうこし                                                        渋江抽斎, 森枳園[撰] 光緒11(1885)年序[刊]                                             渋江抽斎や森枳園らの執筆による、国内に存する古漢籍や古写本等の書誌をまとめた本。近世書誌学の金字塔で、後に上海にて上梓された。江戸武鑑に見出した「弘前医官渋江氏蔵書記」の印記が、本書の著者の蔵書印と教えられ、史伝「渋江抽斎」の執筆に結びついた。

えどかんずもくろく                                                  大正4(1915)年                                                    渋江抽斎が蔵していた江戸鑑や御紋尽、分限帳など古武鑑や江戸図の目録であり、「弘前医官渋江氏蔵書記」の印が押されていたことがわかる資料。鷗外が、「渋江氏」が抽斎と同一人物ではないかと考えるきっかけとなった、重要な資料と考えられている。(神田、一部改編)                                              *森鴎外記念館特別展示「鴎外遺産」関連資料

国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている資料です                               *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません。

しぶえしゅう りゃくでん ふ くしゅう                                             [澁江終吉, 澁江脩著]                                                抽斎の五男・渋江修の息子である渋江終吉の原稿を鷗外が1冊に綴じた本。吟月と号した脩の句240を収める。句の一部は、『渋江抽斎』その百十一に抄出されている。(出口、一部改編)                                                            *森鴎外記念館特別展示「鴎外遺産」関連資料

ちゅうさい ぞうしょ もくろくしょう                                                     渋江抽斎の蔵書目録である。巻末に、慶応2年(1866)8月に藹斎なる人物が鈔録したとする識語があり、またセピア色のインクで原稿用紙に筆記されていることから、本書はさらにそれを転写したものと考えられる。筆跡は森潤三郎の筆に近いが、詳細は不明である。(出)                                                   *鴎外文庫書入本画像データベースより                                                         *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません。

国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている資料です(『新選森鴎外集』(改造社, 昭和3年))より                                              *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません。

おおしお へいはちろう                                                  展示部分の2丁表には「武藏國岩槻領岡泉村/組頭 丈輔事/宇三郎/執筆/大塩平八郎ヲ森先生ニ謹呈ス/孫/渋谷塊一」とあり、鷗外の筆で「(南埼玉郡日勝村岡泉也)」と注記がある。『大塩平八郎』執筆の際に参考とされた資料と考えられる。

おおしお へいはちろう                                              幸田成友著 明治43(1910)年                                            歴史小説『大塩平八郎』は本書に多く依拠していると考えられており、鷗外自身も評論「大塩平八郎」(『三田文学』大正3(1914)年1月)において、この資料を読んだことを記している。(出口、一部改編)

国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている資料です(『天保物語』(鳳鳴社, 大正3年)より)                                                      *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません。

おきつまたじろう おぼえがき うつし                                      寛政8(1796)年                                                改稿「興津弥五右衛門の遺書」の資料。同作の初稿は大正元(1912)年に発表されたが、その後これらの資料を入手して改稿され、翌大正2(1913)年の単行本『意地』に収録された。同年4月3日の日記に、「夕より興津弥五右衛門に関する史料を整理す」とある。(出口、一部改編)

おきつけ ゆいしょがき                                            [興津宗也録]                                                      改稿「興津弥五右衛門の遺書」の資料。同作の初稿は大正元(1912)年に発表されたが、その後これらの資料を入手して改稿され、翌大正2(1913)年の単行本『意地』に収録された。同年4月3日の日記に、「夕より興津弥五右衛門に関する史料を整理す」とある。(出口、一部改編)

ただおきこう ごいらい ごさんだい じゅんしのめんめん                               鴎外自筆の題簽には「細川家殉死録」とある。改稿『興津弥五右衛門の遺書』の資料。鴎外は初稿『興津弥五右衛門の遺書』を大正元年(1912)10月の『中央公論』に掲載したが、その後、本書及び『興津又二郎覚書』(鴎H20:442)・『興津家由緒書』(鴎H20:432)を入手し、これらに基づいて改稿を加え、単行本『意地』(籾山書店,大正2年6月)に収めた。奥書に「忠興公御以来御三代殉死之面々長伝略/阿部茶事談共二巻/北岡御邸御文庫中之御本也邸外他方持出難成規定也下宿迄持下願滞態二日三夜燈下写取処拙筆老眼誤字落字可推続也/大正元壬子年十二月中旬七十六翁/興純識」とあり、この後に鴎外の手に渡ったものであろう。大正2年(1913)の4月3日の日記には、「夕より興津弥五右衛門に関する史料を整理す」とある。(出)                  *鴎外文庫書入本画像データベースより                                            *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません。

国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている資料です(『意地』(籾山書店, 大正2年)より)                                                      *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません。

ひご こくしりゃく                                             森本一瑞謹誌                                                「阿部一族」「栗山大膳」などの歴史小説の舞台となった肥後熊本の地図史料。鷗外による地名その他の書入れがある。(多田、一部改編)

じょか;さんごへん                                              (清)傅青主著 ; (清)宋倣祁 [校] 道光27(1847)年                                     鷗外文庫には産婦人科に関する資料がいくつか含まれ、本書もその1つ。明治44(1911)年の「カズイスチカ」(ラテン語で臨床記録の意)は、かつての父の診療を回想した短篇で、女性患者の妊娠を見抜くエピソードがある。その背景を思わせる資料である。

国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている資料です(『分身』(籾山書店, 大正2年)より)                                                 *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません。

かんこん しりょう                                             柳亭種彦著 明治15(1882)年                                              江戸後期の戯作者、柳亭種彦の考証随筆。鷗外が同種の随筆である神沢杜口「翁草」に取材し、「興津弥五右衛門の遺書」「高瀬舟」を書いたことは有名で、その素材選択の背景に、選ばれなかった多くの蔵書の海があったことをうかがわせる資料である。

さいばん ひゃくわ                                               佐久間長敬講演                                               江戸南町奉行与力を務め、維新後は明治政府が設置した市政裁判所に勤務した佐久間長敬による、江戸時代の裁判に関する講演録。鷗外は「最後の一句」などの歴史小説で、江戸の裁判の様子を幾度か書いており、執筆にあたって参照された可能性もあるだろう。

von Adolph Freiherrn [sic] Knigge [1878?](明治11?)年                                 大衆作家クニッゲによる、一般向け人生論。「うたかたの記」ではマリイが家庭教師に借りて読んだ本として登場する。序章、第1章には書入れが多数ある。鷗外の格言集「智恵袋」「心頭語」の大部分は本書からの抄訳である。(河野、一部改編)

von Max Schasler 1872(明治4)年                                       表紙裏の遊紙に、同時期にドイツに留学していた洋画家、原田直次郎の署名があり、彼から鷗外の手に渡ったと推定される。原田は「うたかたの記」の画学生、巨勢のモデルであり、明治32(1899)年に早世した際、鷗外は「原田直次郎」を書いてその死を悼んだ。(山田、一部改編)

国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている資料です(『水沫集』(春陽堂, 明治25年)より)                                                            *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません。

Christoph Willibald Gluck                                                  ライプツィヒ市立劇場での公演用として作成された台本。表紙には、鷗外が劇場で鑑賞した日付と、歌手の名前が記されている。また、鷗外はこれを底本として翻訳も行い、第1稿「未定訳稿オルフエウス」を修正したのが、第2訳稿『Orpheus(沙羅の木)』である。しかし、これが鷗外存命中に上演されることはなく、2005(平成17)年に行われた東京藝術大学奏楽堂での舞台が初演である。(河野・山田、一部改編)

さらのき:ししゅう                                              森林太郎著 大正4(1915)年                                         ライプツィヒ市立劇場での公演用として作成された台本。表紙には、鷗外が劇場で鑑賞した日付と、歌手の名前が記されている。また、鷗外はこれを底本として翻訳も行い、第1稿「未定訳稿オルフエウス」を修正したのが、第2訳稿『Orpheus(沙羅の木)』である。しかし、これが鷗外存命中に上演されることはなく、2005(平成17)年に行われた東京藝術大学奏楽堂での舞台が初演である。(河野・山田、一部改編)

国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている資料です                               *この資料は電子展示のみです。会場での展示はありません。

Ausgewählt von Maximilian Bern                                         ゲーテ以後のドイツ詩を集めたアンソロジー、マクシミリアン・ベルン編『ドイツ詩集』。書入れは留学中のものと考えられ、「名文」「絶調」など率直な感想が残されている。明治22(1889)年の訳詩集「於母影」に含まれる「思郷」「あまおとめ」などの翻訳原本にもなった。(河野、一部改編)

herausgegeben von Paul Heyse und Hermann Kurz                                    24巻から成る短篇集で、ほぼすべての作品で読後感と読了日が記載されており、ライプツィヒ時代の読書歴を知ることができる。所収作のうち、ハックレンデルのZwei Nächteは、「ふた夜」(明治23(1890)年)の翻訳原本である。(山田、一部改編)

芸術関係資料からみる鷗外文庫

※展示会場では、第1章から第5章の展示資料としては取り上げられなかった多数の資料の中から、特徴のあるものをテーマに沿って紹介しています。【テーマ「芸術関係資料からみる鷗外文庫」展示期間 2022年11月5日~11月28日】


本展示会で様々に紹介しているとおり、鷗外文庫には医学に関することや鷗外が執筆した小説以外のことに関する、多種多様な資料が含まれています。また鷗外自筆の書入れがあるのも当文庫の大きな特徴です。

その中の一つとして、留学時代の鷗外がオペラ劇場に通ったことが分かる台本があります。評論「再び劇を論じて世の評家に答ふ」(明治22(1889)年),「鴎外全集 第22巻」所収)には、「余の西欧にあるや、楽劇の場に入ること数十回」と書き残されています。また台本の余白にはドイツ語や漢文での書入れがなされているものがあり、鷗外が熱心にオペラ鑑賞を行った様子がうかがえます。

時代は下って、鷗外は大正6(1917)年に宮内省帝室博物館総長兼図書頭となります。現在の東京国立博物館等の前身である帝室博物館総長となり、多くの文物や芸術作品と向き合う職務のなかで、鷗外がまとめた自筆ノートといったものも複数残されています。

今はまさに「芸術の秋」というに相応しい季節です。鷗外文庫資料からも芸術の秋を感じながらご鑑賞ください。

Der fliegende Holländer : Romȧntische Oper in 3 Aufzügen 外部サイト

von Richard Wagner                                                       リヒャルト・ワーグナー『さまよえるオランダ人』のオペラ台本。この資料には末尾に一カ所だけ書入れがあり、最終場面の舞台演出に鴎外が感銘を受けたことが推察される。(河野、一部改編)

Tannhäuser und der Sängerkrieg auf Wartburg : Große romantische Oper in 3 Akten 外部サイト

von Richard Wagner                                                   リヒャルト・ワーグナー『タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦』のオペラ台本。この台本にある書入れのうち、第1幕第3場について「幻境ヲ出ルノ処、転換極奇」と記されており、鷗外が舞台転換の巧みさに感心したことが推察される。(河野、一部改編)

Geschichte der dramatischen Literatur und Kunst in Deutschland : von der Reformation bis auf die Gegenwart 外部サイト

von Robert Prölß 1883                                                ロベルト・プレルス著『ドイツ劇文学・劇芸術の歴史』全2巻。鷗外はドイツからの帰国後、演劇改良についての評論を次々と発表し、小説家、文芸評論家である石橋忍月(1865-1926)らと論争を展開した。その際、留学中に精読した演劇論に関する資料を引用しつつ反駁している。(河野、一部改編)

演劇改良意見 外部サイト

エンゲキカイリョウ イケン                                        末松謙澄述 明治19(1886)年                                              演劇改良運動の主導者である明治大正期の政治家・末松謙澄(1855-1920)による演説を評論にまとめたもの。傍線や、「名文句」「女優」などといったキーワードが書入れとして残されている。(神田、一部改編)

四聖坊記 外部サイト

シショウボウキ                                                   鴎外による、様々な項目にわたる二冊の自筆ノート。前半は山加製原稿用紙が、後半は奈良明新社製原稿用紙が使用されていることから、帝室博物館総長時代に正倉院開扉に伴って奈良を訪れたときの制作ではないかと考えられる。(神田、一部改編)

奈良小記 外部サイト

ナラ ショウキ                                                  鷗外は帝室博物館総長の在任中、毎年11月に奈良に赴いており、本書はその際に作成されたものと考えられる。2冊から成る資料で、第1冊には「寺院」、「建築」、「芸術」などの項目が立てられており、第2冊には奈良の各社寺についての記録などが記されている。(神田、一部改編)

博物館藏書鈔 外部サイト

ハクブツカン ゾウショショウ                                              柱に「東京帝室博物館」とある罫紙が使用されている私的な雑記帳。ほぼ鴎外自筆だが、一部は別筆である。大正6(1917)年から約4年間にわたる記述で、人名録や年譜、系図、用語集、語句の傍訓などが主であるが、図や絵なども多く書き込まれている。(神田、一部改編)

鷗外文庫における武鑑の紹介

※展示会場では、第1章から第5章の展示資料としては取り上げられなかった多数の資料の中から、特徴のあるものをテーマに沿って紹介しています。【テーマ「鷗外文庫における武鑑の紹介」展示期間 2022年10月23日~11月3日】


鷗外文庫を特徴づける資料の一つに「武鑑」があります。

武鑑とは、江戸時代の大名家及び幕府役人に関する記載を中心として、民間で出版された武家の名鑑です。鷗外文庫の中では比較的大きなまとまりを持っており、約1,000冊もの武鑑が当文庫に収められています。

本展示会の第5章「作品への通路」では、歴史小説『渋江抽斎』を取り上げています。その『渋江抽斎』からは、医師・儒者であった抽斎が武鑑の収集家であったところに鷗外が大いに共感を持っていたことが読み取れます。いわば「武鑑」は、『渋江抽斎』執筆のきっかけとなった資料といえるでしょう。江戸時代の名鑑資料としての面白さだけでなく、鷗外の作品と結びついた武鑑としてご覧ください。

ブカン:ブンカジュウニネン                                            文化12(1815)年[刊]                                                鷗外は「渋江抽斎」において、武鑑の収集を通して知った「弘前医官渋江氏蔵書記」という蔵書印から、渋江抽斎の存在を知ったと書いている。本資料は5冊から成り、うち3冊にこの蔵書印が押されている。なお、この蔵書印が確認されているのは鷗外文庫中では本資料のみである。

ショウホウヨネン アラタメ オダイミョウ ナラビニ オハタモトキ                          大正4(1915)年                                                      鷗外は、江戸前中期頃の武鑑に対し、収載人物の生没年や役職等の調査・考証結果を書き残している。またこれらの考証は、『渋江抽斎』の連載が始まる前年の大正4(1915)年に集中している。この「正保四年改御大名並御旗本記」の大正4年(1915)4月22日の識語によれば、「帝國大學本を借りて手寫して文庫に藏し」たものであることが分かる。ただし「帝國大學本」は大正12年(1923)の関東大震災で焼失した。

ブカン:カエイニネン                                               嘉永2(1849)年[刊]                                                     武鑑の収集家であった抽斎自身が将軍徳川家慶に謁見を許され、「御目見医師」となったため、抽斎の名(渋江道純)が記されたもの。武鑑は諸大名家についての情報だけでなく、「役人付」と言われる項目においては医師のほか、絵師、連歌師、棋士、能役者や御用達商人・職人なども掲載している。なお鷗外文庫では、翌嘉永3(1850)年版にも抽斎の名が確認できる。

ブカンノケンキュウ                                                    沼田頼輔[著] [大正4(1915)年]                                           大正4(1915)年発行の雑誌『典籍』第2号の抜刷を綴じたもの。著者の沼田頼輔は、明治から昭和前期にかけての歴史学者、紋章学者である。鴎外文庫には、武鑑そのものではなく、このような関連資料も遺されている。

地図から見る鷗外文庫

鷗外文庫書入本画像データベースで公開している資料を、地図から辿ることができます。東京、小倉、ドイツなど様々なエリアへご案内します。

展示会図録 [PDF形式]

展示会の図録をPDF形式で公開しています。図録は、展示会場でも無料で配布しています。

図録には、この電子展示サイトに掲載している内容のほか、「参考文献」や「展示資料一覧」なども掲載していますので是非ご覧ください。

→ 展示会図録(PDF形式)を見る

展示会情報

令和4年度東京大学附属図書館特別展示

テエベス百門の断面図 歿後100年記念 森鷗外旧蔵書展 ※展示会は2022年11月28日に終了しました


開催期間:2022年10月13日(木)~11月28日(月)【終了しました】

時間:平日 9:00-22:30 ,土日祝日 9:00-19:00

観覧できない日

  • 10/27(木)[総合図書館閉館日],11/4(金)[展示替え予定日],11/24(木)[総合図書館閉館日]
  • 平日17:00以降と土日祝日は、一部ご覧いただけない資料があります
  • 開催時間は、原則として総合図書館の開館時間中ですが、一部変更の可能性があります
  • 時間変更等については、Webサイトにて逐次ご案内いたします
  • 総合図書館の開館日及び開館時間については、開館カレンダーをご確認ください

開催場所:東京大学総合図書館1階 展示スペース,オープンエリア

記念講演会

  • テエベスの甍―鷗外文庫の深奥から(東京大学大学院総合文化研究科 出口智之准教授)
  • 日時:2022年10月28日(金)※終了しました

総合図書館へのアクセス総合図書館へのアクセスページをご覧ください

来場に際して

  • 学内の方・学外の方いずれも事前予約は不要です
  • 入場無料です
  • 新型コロナウイルス感染拡大の状況によっては展示会の会期、開館時間等を変更する可能性があります。最新情報は当サイトやTwitterなどで発信しますので、ご来場前に必ずご確認ください


※詳細は、特別展示の専用ウェブサイトをご覧ください

関連リンク

お問い合わせ

本展示会に関するご質問やご意見は、電子メールでお送りください。

 東京大学附属図書館展示委員会

 utl-tenji-group@g.ecc.u-tokyo.ac.jp