1862-1922(文久2-大正11)
明治・大正時代の小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医。石見(いわみ)国津和野藩の典医森静泰(せいたい)の長男として津和野(島根県)に生まれる。本名は林太郎、号は別に千朶山房(せんださんぼう)主人、観潮楼主人など。7歳より藩校養老館で漢学・国学を習い、父にオランダ文典を学ぶ。明治5年(1872)上京、親戚の西周(にしあまね)邸に寄寓し、本郷の進文学舎でドイツ語を学ぶ。同14年東京大学医学部を卒業、陸軍省軍医となる。同17年ドイツに留学、ミュンヘン、ベルリンなどで衛生学を研究し、西欧の文学・芸術・哲学・美学にも親しむ。同21年帰国。同27年日清戦争に従軍。同32年近衛師団軍医部長兼軍医学校長から小倉の第12師団軍医部長に転勤。同37年日露戦争に出征。同40年陸軍軍医総監に昇進、陸軍省医務局長の最高職に就任。大正5年(1916)陸軍省退官。翌6年宮内省帝室博物館総長兼図書頭(ずしょのかみ)、同8年さらに帝国美術院初代院長に就任。同11年千駄木(せんだぎ)の観潮楼で死去。墓は津和野町の永明(ようめい)寺と東京都三鷹市の禅林寺。
明治政府の公的な仕事のかたわら医学や文学など多方面で啓蒙・普及活動に努め、『衛生新誌』『医事新論』『公衆医事』などを創刊、医学界の封建性に対して論陣をはった。政府の実力者山県有朋(やまがたありとも)への献策もあり、また文部省の国語政策に干渉して歴史的仮名遣いの改定を阻止した。図書寮(ずしょりょう)の仕事として考証『帝諡考(ていしこう)』を出版。文芸雑誌「文学評論しからみ草紙」や「めさまし草」などを創刊、浪漫主義的理想主義的立場から評論活動を展開し、文学理論の形成に貢献した。『於母影(おもかげ)』『即興詩人』『ファウスト』などの翻訳は多大な影響を与え、観潮楼歌会などの歌会を主宰した。小説では『舞姫』などの雅文体三部作により戯作性を脱した近代小説を示し、『半日』『ヰタ・セクスアリス』『普請中』『沈黙の塔』『かのやうに』『雁』など多彩な現代小説を相次いで発表。『興津弥五右衛門(おきつやごえもん)の遺書』は歴史小説に新しい分野を開いたとされ、『阿部一族』『安井夫人』『山椒大夫(さんしょうだゆう)』『高瀬舟』などの傑作が続く。次いで『渋江抽斎(しぶえちゅうさい)』『伊沢蘭軒(いざわらんけん)』『北条霞亭(ほうじょうかてい)』の史伝3作を発表、高雅な文体とともに高く評価される。その著作は『鷗外全集』全38巻にまとめられ、評伝や研究書は数多い。観潮楼跡に文京区立森鷗外記念館が建ち、津和野町の森鷗外記念館とともに遺品を収蔵する。蔵書の大部分は東京大学附属図書館に鷗外文庫として収納。
関連するひと・もの・こと
近代知識人の問題を自己意識の問題として追究し続けた日本の近代文学を代表する作家。森鷗外と並ぶ明治の文豪と称される。
3回の欧米渡航経験により脱亜を説き、慶応義塾を創始した幕末―明治の啓蒙家。著作や雑誌などにより啓蒙活動に努め、日本の近代化に貢献した。
近代日本の美術を牽引した画家。明治の洋画壇の発展に貢献した。フランスに留学、美術など文化行政に努め、森鷗外の後任として帝国美術院院長に就任した。
咸臨丸で太平洋を横断しアメリカを見聞。江戸無血開城に成功した幕末―明治の政治家。明治新政府の参議、海軍卿などを歴任、近代日本の指導者の一人。
日本近代経済の父。明治新政府の大蔵省役人として、貨幣、金融、財政制度の制定にかかわり、また銀行、製紙、紡績、鉄道などの創立に関与するなど、財界のリーダーとして活躍した、近代日本の指導者の一人。
小説家、評論家、翻訳家、劇作家。森鷗外との「没理想論争」は近代最初の本格的な文学論争として知られている。
本で知る
[渋江抽斎] [編]
「江戸鑑図目録」は、武鑑、古地図などの目録。渋江抽斎著。武鑑は、江戸時代の大名と幕府諸役人の名鑑。森鷗外は、歴史小説執筆の資料として武鑑を蒐集していたが、その過程で見る武鑑の多くに「弘前医官渋江氏蔵書記」という朱印のあることに気がつき、何冊かは購入もしていた。その後、上野の帝国図書館(現在の国立国会図書館の前身)で本書に出会うと、そこにも「弘前医官渋江氏蔵書記」の印があり、またその記述が「古武鑑」に精通していることに感心するが著者名はなく、ただ文中に「抽斎云」という考証があるのみだった。以来、この抽斎と「弘前医官渋江氏蔵書記」の印主が同一人物ではないかと調べてみると、はたしてその抽斎は弘前の医師・書誌学者で、『経籍訪古志』の著書としても知られた渋江抽斎その人であることがわかったという(以上森鷗外『渋江抽斎』による)。それから鷗外は考究を進めて史伝小説の傑作『渋江抽斎』を完成させるが、そのきっかけとなったのが本書である。
前出の『江戸鑑図目録』を森鷗外が大正4年(1915)2月に書写したもの。書写者は鷗外でなく、誰であるか不明。
森鴎外 著,春陽堂
明治40年(1907)、東京。日露戦争に従軍、その合間に創作した詩歌(短歌、俳句、新体詩、長歌)を編む。
森鴎外 著,春陽堂
明治44年(1911)、東京。大逆事件など明治政府の弾圧政策に危惧を表明する「沈黙の塔」のほか、「鶏」「身上話」「金貨」「金毘羅」「そめちがへ」などを収録。
森林太郎 著,籾山書店
大正2年(1913)、東京。小説家志望の青年の個性形成を追う長編小説。
森林太郎 著,籾山書店
大正2年(1913)、東京。乃木希典夫妻の殉死に触発されてなった「興津彌五右衞門の遺書」、歴史小説に新たな分野をひらく。ほかに武士道を貫いた死者への感動を示す「阿部一族」と、「左橋甚五郎 」を収録する。
森林太郎 著,籾山書店
大正2年(1913)、東京。半生を回想して見果てぬ夢、またその世界観をつづる「妄想」、無政府主義を話題にする「食堂」のほか、「カズイスチカ」「流行」「不思議な鏡」「田楽豆腐」を収録する。
森林太郎 著,籾山書店
大正2年(1913)、東京。傍観者の人生を語る「百物語」のほか、「心中」「羽鳥千尋」「藤鞆絵」「蛇」「鼠坂」などを収録。
森鴎外 著,籾山書店
大正3年(1914)、東京。現実の時代状況に対する態度を扱う「かのやうに」のほか、「吃逆」「藤棚」「鎚一下」を収録。
森鴎外 著,鳳鳴社
大正3年(1914)、東京。「護持院原の敵討」「大塩平八郎」の2編を収録。
森林太郎 著,籾山書店
大正4年(1915)、 東京。薄幸の女性お玉の願いと失意を描く。
森林太郎 著,春陽堂
大正7年(1918)、東京。安楽死の問題を提起する面をみせる「高瀬舟」、庶民の反抗を描く「最後の一句」のほか、「ぢいさんばあさん」「山椒太夫」「寒山拾得」「魚玄機」、脚本「曽我兄弟」などを収録。
森鴎外 著,鈴木三重吉
大正3年(1914)、東京。慶応4年(1868)堺の町を取り締まっていた土佐藩の歩兵隊がフランスの水兵たちを銃撃して殺害、その罪を問われて藩兵20名が切腹した事件を題材とする。武士道を扱う作品。
森鷗外の翻訳作品
森鴎外 (林太郎) 訳,春陽堂
明治25年(1892)、東京。レッシング、ハイネ、ホフマン、バイロン、トルストイなどの翻訳作品のほかに、『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』の雅文体三部作などの創作も収録。
森鴎外 訳,春陽堂
明治30年(1897)、東京。訳詩のほかに「観潮楼偶記」「レツシングが事を記す」「今の英吉利文学」「ギヨオテ詩を論ず」「劇としての罪と罰と」「希臘の民謡」などを収録。
アンデルセン 著,森鴎外 訳,春陽堂
明治35年(1902)、東京。アンデルセン(1805 - 75)はデンマークの童話作家、小説家、詩人。森鷗外の訳文は原作を超えるものと評され、翻訳作品ながら明治浪漫主義の代表作とされた。
イブセン 著,森鴎外 訳,画報社
森鷗外訳。明治42年(1909)、東京。イプセン(1828 - 1906)はノルウェーの劇作家。作品は『人形の家』(1879)、『幽霊』(1881)、『野鴨』(1884)、『ヘッダ・ガブラー』(1890)、『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』(1896)など。
イブセン 著,森鴎外 訳,金葉堂
森鷗外訳。明治44年(1911)、東京。ワイルドの戯曲『サロメ』、ゲーテの『ファウスト』、シェイクスピア『マクベス』など多数の翻訳を発表し、新劇の振興、改革に尽力した面もある。
ハウプトマン 著,森鴎外 訳,金尾文淵堂
森鷗外訳。明治44年(1911)、東京。ハウプトマン(1862 - 1946)はドイツの劇作家。
アンドレーエフ 著 ; 森鴎外 訳,シュトゥッケン 著 ; 森鴎外 訳,春陽堂
森鷗外訳。明治44年(1911)、東京。アンドレーエフ(1871 - 1919)はロシアの作家。
シュニッレル 著,森鴎外 訳,籾山書店
森鴎外訳。明治45年(1912)、東京。シュニッレル(シュニッツラー、1862 - 1931)はオーストリアの医師、小説家、劇作家。
ギヨオテ 著,森鴎外 訳,富山房
森鷗外訳。大正2年(1913)、東京。ゲーテ(ギヨオテ、1749‐1832)はドイツの詩人、小説家、劇作家、自然科学者、美術研究家、政治家。
シュニッツレル [著],森鴎外 訳,現代社
森鴎外訳。大正2年(1913)、東京。シュニッレル(シュニッツラー、1862 - 1931)はオーストリアの医師、小説家、劇作家。鷗外が最も多く翻訳した作家。
シエークスピア 著,森林太郎 訳,警醒社書店
大正2年(1913)、東京。イングランドの劇作家・詩人のシェイクスピア(1564 - 1616)の四大悲劇の一つ。
イブセン 著,森林太郎 訳,警醒社書店
大正2年(1913)、東京。ノルウェーの劇作家イプセン(1828 - 1906)の『人形の家』の翻訳。
ホフマンスタール 著,森林太郎 訳,現代社
大正3年(1914)、東京。ホフマンスタール(1874 - 1929)はオーストリアの詩人、作家、劇作家。
Strindberg, August. 著 ; 森鴎外 訳,Verhaeren, Emile. 著 ; 森鴎外 訳,通一舎
森鴎外訳。大正4年(1915)、東京。ストリンドベリ(1849 - 1912)はスウェーデンの劇作家、小説家。同じ作家の『ペリカン』も翻訳している(大正10年、善文社)。
ストリンドベルグ 著,森林太郎 訳,善文社
大正10年(1921)、東京。スウェーデンの劇作家、小説家のストリンドベリ(1849 - 1912)の1907年の作品。
春陽堂
大正11年(1922)、東京。シュニッツラー、ホフマンスタール、ヘルマン・バール、リルケの9作品を収録。
森林太郎 訳,籾山書店
『人力以上』(ビヨルンソン)、『パリアス』『1人舞台』(ストリンドベルク)、『夜の二場』(ステエンホオフ)、 『ヂオゲネスの誘惑』(シユミツトボン)、 『馬盗坊』(シヨオ)を収録。
評論、雑誌
森鴎外 著,春陽堂
明治29年(1896)、東京。美術論、絵画評、彫刻、演劇論、小説論、没理想論争、韻文論、朗読法などを収録。
森林太郎 等著,画報社
明治31年((1898)、東京。
森林太郎, 大村西崖 同編,春陽堂
明治32年(1899)、東京。目次は「美の詮義」「美の現象」「美の階級」「美の変化」など。
森鴎外 著,春陽堂
明治33年(1900)、東京。目次は「芸術と道義との関係」「芸術と自然との関係」「第二自然としての芸術」「自然主義」「審美学の現況」など。
森鴎外 (林太郎) 著,春陽堂
明治35年(1902)、東京。目次は「審美と倫理との並列」「空間美術と時間美術と」「黄金截」「純形式主義の疵病」「絵画」「詩賦」「悲壮戯曲」「音楽」など。
自治館編輯局 編,自治館
明治33年(1900)、東京。「言文論」を収録する。森鷗外は、二葉亭四迷らの口語体小説の創始を評価する一方、言文一致体の作文が雅趣に欠ける傾向があることを指摘している。
森鴎外 著,春陽堂
明治36年(1903)、東京。明治36年の国語漢文学会における演説の記録。
森鴎外 (林太郎) 著,春陽堂
明治37年(1904)、東京。明治36年11月の早稲田大学の課外講義の記録。
森鴎外 著,西紳六郎
明治31年(1898)、東京。西周(にしあまね、1829 - 97) は啓蒙思想家、西洋哲学者。森鷗外の親戚にあたり、石見から上京した鷗外の寄寓先であった。
森鴎外, 大村西崖 著,春陽堂
明治42年(1909)、東京。阿育王は、紀元前3世紀にインドのマウリヤ朝の王だったアショーカ王のことで、インド最初の統一王国を築く。仏教を保護、宣伝し、理想的な王として、釈迦の遺骨を8万4000基の塔に分骨させたなど、多くの説話が生まれた。本書ではアショカ王の残した摩崖、石柱、石窟に刻まれた銘文をすべて訳出している。
森鴎外 (林太郎) 著,春陽堂
明治39年(1906)、東京。ハウプトマン(1862 - 1946)はドイツの劇作家、小説家、詩人。
森鴎外 著,富山房
大正2年(1913)、東京。『ファウスト』に関連して『ファウスト考』とともに刊行された。
森鴎外 著,至誠堂書店
大正4年(1915)、東京。「妄人妄語」のほか、「ハウプトマン」「ゴルキイ」「マアテルリンクの脚本」「夜なかに思つた事」などを収録。
陸軍軍医森林太郎の著作
森鴎外 (林太郎) 著,陸軍軍医学会
明治21年(1888)、東京。「軍医学会雑誌」第24号附録。
森林太郎 編,橘井堂
明治21年(1888)、東京。森鷗外は近代医学の啓蒙と普及に努め、公衆衛生などとともに、伝統的な食生活や住居の見直しを検討した。
太田雄寧 編
明治22年(1889)1月、森林太郎は『東京医事新誌』の主筆に就任。同年11月同誌を追われる。
明治22年(1889)3月、森林太郎は啓蒙誌『衛生新誌』を創刊。〔論説〕服乳の注意(医学士森林太郎君)のほか、〔詞藻〕〔雑録〕〔雑報〕など。東京々橋区尾張町二丁目二十番地 衛生新誌社
明治22年(1889)12月、森林太郎は『医事新論』を創刊。「敢て天下の医士に告く」(森林太郎)、「精神啓微ノ評」(森林太郎)など。○本郷弓町一丁目二十二番地医事新論。翌年9月、『衛生新誌』『医事新論』の両誌を合わせて『衛生療病志』とする。
森林太郎, 小池正直 著,南江堂[ほか]
明治29年(1897)、東京。栄養、食品及嗜品、気象、空気、土地、水、衣服、家屋などに分けて詳述する。
公衆医事会事務所,南江堂書店
森林太郎は、日清戦争より帰国後の明治30年(1897)12月、『公衆医事』を創刊。「陸軍衞生部士官學術研究會の實施方法に關する所見」(森林太郞)など。
森鴎外 (林太郎) , 久米桂一郎 選,画報社
明治36年(1903)、東京。芸用解剖学は人体の美術的表現のための解剖学。骨論に次いで体幹骨・四肢骨・首骨などについて記述する。
森鴎外 著,博文館
明治40年(1907)、東京。土地・気候をはじめ、下水・上水、家屋、衣服、都会、埋葬、栄養などを章立てて記述する。
森林太郎 傍訓,軍事教育会
明治41年(1908)、東京。救急法は創傷、三角巾、急病、人工呼吸法、衛生法は伝染病の予防、コレラ、ペスト、赤痢、マラリア、結核、トラホームなどその種類について記す。
ベッケル 著,森林太郎 訳,前原等
明治24年(1891)、東京。 軍医。障害の医学的認定を論じたもので、項目に身体破損、興産ノ不能、永久及暫時ノ興産不能などとあり、「工人保険」による救済が必要であると指摘する。高島炭坑などの労働災害が公刊の背景にあったとされる。
クラウゼヴィツツ 著,森林太郎 訳,軍事教育会
昭和9年(1934)、東京。『大戦学理』の題名で出版されたクラウゼヴィッツの『戦争論』。この鷗外訳は日本におけるこの書物の翻訳の嚆矢をなすもの。
伝記・評伝
森潤三郎 著,丸井書店
昭和17年(1942)刊、東京。森潤三郎(1879 - 1944)は明治〜昭和期の近世学芸史研究家。鷗外の弟。「留学時代」「文壇に乗出した時代」「目不醉草時代」「沈黙時代」「藝文及び萬年艸時代」「日露戦役出征」「歴史小説の製作」「考証学者伝記の研究」などに分けて記載する。
山田弘倫 著,文松堂書店
昭和18年(1943)刊、東京。山田弘倫(ひろとも、1869 - 1955)は 明治・大正・昭和期の陸軍軍医。「官費留学生」「航西日記」「獨逸留学中の動静」「我国兵食の確定」「戦時糧食区分意見」「日清戦役の先生」「青年学生より見た森校長」「医務局第一課長事務取扱」「近衞師団軍医務部長」「陸軍々医監第十二師団軍医部長」「ベルツの観た青年、森」「乃木将軍を批判」「第二軍軍医部長」「軍医総監、医務局長」「森は仙人だからネ」「淡々たる情味」など(目次より)。
小金井喜美子 著,大岡山書店
昭和19年(1944)刊、東京。小金井喜美子(1871 - 1956)は近代日本の歌人・翻訳者。森鷗外の妹。鷗外をはじめ森家の人びとの肖像が浮かびあがる回想記。
成瀬正勝 著,万里閣
昭和15年(1940)刊、東京。成瀬正勝(1906 - 73)は日本の作家、文芸評論家、国文学者。「鷗外の理念」「鷗外の伝統」「鷗外と逍遙」「鷗外と漱石」「鷗外と露伴」「鷗外の作品にあらはれたる人物」「鷗外の古典性」「鷗外と官僚」など(目次より)。
石川淳 著,三笠書房
昭和16年(1941)刊、東京。石川 淳(1899 - 1987)は、小説家、文芸評論家、翻訳家。『渋江抽斎』以下の史伝三作品を森鷗外の「作家精神の大業」として評価した。「澀江抽齋」「北條霞亭」「古い手帳から」「抒情詩風」「我百首とその前後」「翻訳概観」「諸国物語」「傍観者の運動」など(目次より)。
馬場久治 著,黎明調社
昭和年18年(1943)刊、東京。「獨逸留学時代」「獨逸の少女エリス」「しがらみ草紙時代」「小倉時代」「第二の結婚」「日露戦役前後」「森鴎外と齋藤茂吉氏の短歌 」「夏目漱石と森鴎外」「長篇小説「ニイチェと森鴎外」「ゲーテより森鴎外まで」「社会思想研究」「完成と諦念」など(目次より)。
唐木順三 著,筑摩書房
昭和18年(1943)刊、東京。唐木順三(1904 - 80)は文芸評論家、哲学者、思想家。「鴎外探求 『イタ・セクスアリス』から『堺事件』まで」「歴史を超えるもの 『安井夫人』から『寒山拾得』まで」「邂逅と追蹤 抽齋、蘭軒、霞亭伝」など(目次より)。
日夏耿之介 著,実業之日本社
昭和19年(1944)刊、東京。日夏耿之介(こうのすけ、1890 - 1971)は、詩人、英文学者。「翻訳文学の師子座」「日本近代劇草創始末」「仮面の意味」「隨筆の幽光」「鴎外の詩」「鴎外の歌」など(目次より)。
森於莵 著,養徳社
昭和21年(1946)刊、丹波市町(奈良県)。森於菟(おと、1890 - 1967)は医学者。鷗外の娘。「鴎外の母 」「鴎外と女性」「観潮楼始末記」「鴎外の死面と遺品」「乃木将軍と鴎外」「父鴎外の陣中消息と凱旋」「名附親としての父鴎外」「父の映像」「紅葉の手紙」「漱石と啄木の手紙」「鴎外日記後記」「鴎外と医学」など(目次より)。
高橋義孝 著,雄山閣
昭和21年(1946)刊、東京。高橋義孝(1913 - 95)は、ドイツ文学者、評論家、随筆家。「鷗外の文体」「舞姫」「仮名遣意見」「我百首」「予が立場」「普請中」「かのやうに」「ギヨオテ伝」「歴史その儘と歴史離れ」「渋江抽斎」など(目次より)。
中野重治 著,筑摩書房
昭和27年(1952)刊、東京。中野重治(1902 - 79)は小説家、詩人、評論家、政治家。「独逸日記」「遺言状のこと」「「半日」のこと」「鷗外論目論見のうち」「鷗外位置づけのために」「「傍観機関」と「大塩平八郞」」「鷗外と自然主義との関係の一面」「漱石と鷗外とのちがい」「小説十二篇について」「鷗外の詩歌」「漱石と鷗外との位置と役割」「翻訳の一面」など(目次より)。ほかに中野重治編による『森鴎外研究』(作家研究叢書、1957年、新潮社)がある。
小堀杏奴 著,宝文館
昭和32年(1957)刊、東京。小堀杏奴(あんぬ、1909 - 98)は随筆家。森鷗外の娘(後妻志げとの間の次女)。「晩年の父」「思出」「母から聞いた話」「父の日記」「父と飜訳」「悪妻」「鷗外の妻」など(目次より)。
長谷川泉 著,明治書院
昭和37年(1962)刊、東京。長谷川泉(1918 - 2004)は国文学者。森鷗外記念会理事長、森鴎外記念館館長。「自然科学者鷗外と文学者鷗外」「鷗外の系族と鷗外への凝視」「鷗外と書籍」「鷗外と漱石」「「在徳記」から「独逸日記」への変貌」「舞姫」「青年」「阿部一族」「最後の一句」「高瀬舟」「寒山拾得」「渋江抽斎」「鷗外の手法の推移」など(目次より)。
小堀桂一郎 著,東京大学出版会
昭和44年(1969)刊、東京。小堀桂一郎(1933 - )は文学者、専攻はドイツ文学、比較文学など。鷗外についてはほかに『森鴎外の「智恵袋」』『鴎外とその周辺』『森鴎外文業解題 創作篇』『森鴎外―批評と研究』などがある。
岡崎義恵 著,宝文館出版
昭和44年(1969)刊、東京。岡崎義恵(よしえ、1892 - 1982)は、国文学者、文芸学者。ほかに『鷗外と漱石』などの著作がある。
吉野俊彦 著,毎日新聞社
昭和47年(1972)刊、東京。吉野俊彦(1915 - 2005)は、日本銀行理事。鷗外研究でも知られる。
山崎正和 著,河出書房新社
昭和47年(1972)刊、東京。山崎正和(1934 - 2020)は、劇作家、評論家、演劇研究者。
蒲生芳郎 著,春秋社
昭和49年(1974)刊、東京。蒲生芳郎(1928 - 2011年)は日本近代文学研究者。
尾形仂 著,筑摩書房
昭和54年(1979)刊、東京。尾形仂(つとむ、1920 - 2009)は、国文学者。
伊達一男 著,績文堂出版
昭和56年(1981)刊、東京。伊達一男(1927 - 77)。
竹盛天雄 著,小沢書店
昭和59年(1984)刊、東京。竹盛天雄(てんゆう、1928 - 2019)は、日本近代文学の研究者。
浅井卓夫 著,教育出版センター
昭和61年(1986)刊、東京。
中井義幸 編,青裳堂書店
昭和63年(1988)刊、武蔵村山。
山崎一穎 著,新典社
平成3年(1991)刊、東京。
山崎国紀 著,人文書院
平成4年(1992)刊、東京。
もっと知りたい
上山草人主宰の近代劇協会から第3回公演(大正3年9月)用の翻訳を依頼された鷗外は、逍遥に稿本を示して意見を求め、逍遥は付箋に註を記してこれに応じた。上山草人は、この二文豪の手になる稿本を家宝として常々身辺に置いていたとされる。
文部省普通学務局編による漢字整理案(大正8年刊)。凡例に「本案ハ尋常小学校ノ各種教科書ニ使用セル漢字二千六百余字ニ就キテ、字形ノ整理ヲ行ヒ、其の標準ヲ定メタルモノナリ」とある。全編にわたって鷗外の朱筆書入れがあり、本字や異体字についてのメモ、『説文』からの引用、あるいは書き順の案などが記されている。明治41年(1908)の臨時仮名遣調査委員会で「仮名遣意見」を述べ、大正10年(1921)には臨時国語調査会の会長になるなど、国語政策に積極的に関わっていた鷗外の漢字に対する関心の深さがうかがえる。
森鷗外著,By Mori Ogai,東京国立博物館,Tokyo National Museum
森鴎外が書目解題とは別に人名を中心に関心のある事項を諸書籍から抜き書きした資料。東京大学の「鷗外文庫」所蔵の『博物館蔵書鈔』と併せて見ると、鷗外がどのような順序で書籍を調査していったかが判明する。
鷗外の晩年に作られた、私的な雑記帳。ほぼ鷗外自筆だが、一部別筆。大正6年~9年の4年間(1917-1920)にわたっている。内容は人名録や年譜、系図、用語集、語句の傍訓などが主で、図や絵なども多く書き込まれている。『松江式延喜式傍訓』、『菊桐御章考』、『白河燕談抄』、『拾芥抄』、『椎実筆』、『栗里先生雑著』、『桂林漫録』などの書名も見られ、これらの本から抄写した部分もあると思われる。鷗外の幅広い興味を窺わせる資料である。
森鷗外著,By Mori Ogai,東京国立博物館,Tokyo National Museum
大正6年(1917)より5年間、帝室博物館総長の職にあった森鷗外が博物館の蔵書目録の編纂を意図し、自ら執筆した解題の稿本。資料の総数はおよそ4200件に及び、考証家鷗外の広く深い学識を伝えている。有用な解題としてきわめて貴重。
撮影者不詳,,,
森鷗外の弟篤次郎が逝去した後の家内事情を描いた作品で、吉川家(=森家)の実態をうかがわせる。大正4年(1915)に執筆を終えたが、生前に発表されず、昭和12年(1937)の『鷗外全集』3巻に初めて収録された。
嶋田青峰(せいほう、1882 - 1944)は、俳人、翻訳家、新聞記者、教員。鷗外は大正6年(1917)の別の手紙で北條霞亭の書状を「長々拝借」し、「一応通読」したことを記している。
饗庭篁村(あえばこうそん、1855 - 1922)は明治・大正時代の日本の小説家、演劇評論家。根岸派の重鎮。
史伝『伊沢蘭軒』執筆の折の問合せか。伊沢徳(信忠)は「伊沢家系図」を著す。
石川琢木//〔著〕,写
石川啄木の後藤寅之助(宙外。1866-1938)宛書簡(明治41年6月15日付)。後藤宙外は小説家、評論家で、当時は春陽堂発行の雑誌『新小説』編集主任。この書簡で啄木は、森鴎外の斡旋で春陽堂が買い取った小説「病院の窓」の掲載と原稿料支払いを嘆願している。その後も嘆願を続けた結果、翌年2月に原稿料を受け取ったものの、結局雑誌には掲載されなかった。啄木は41年4月函館に妻子を残し上京し、本郷赤心館に親友金田一京助とともに下宿、与謝野寛の新詩社に加わり、鴎外宅の観潮楼歌会にも出席していた。
春日信映(のぶあき)著『倉城大略誌』『倉府俗話伝』の抄写、鷗外の自筆でない部分を含む。鷗外による多数の校訂の跡がある。小倉時代の制作で、 小倉城や町の歴史について、在住していた鷗外ならではの「竪町安国寺現存」などの頭注が付されている。
官版は江戸時代に昌平坂学問所が刊行した書物のことで、本資料はその目録。鷗外は弘化4年(1847)杉山精一による出版『官版書籍解題目録』から書名・筆者・編者を抄出し、それに掲載されていない書物について、天保頃の刊行と思われる『昌平坂御官板書目』により補っている。宮内省帝室博物館総長図書頭に就任した大正6年(1917)12月以降の制作であろう。
明治座
大正2年(1913)。森鷗外氏原作山﨑紫紅氏脚色、「阿部一族」(上中下、七場)、ほか2編。
古賀穀堂筆,By Koga Kokudo(1777-1836),東京国立博物館,Tokyo National Museum
古賀穀堂は佐賀の人。江戸で儒者の父古賀精里(こがせいり)に学び、藩校の教授として学問の振興と藩政の改革に努めた。これらは穀堂の詩文集の原稿で、鷗外の史伝『北条霞亭』の連載がきっかけで博物館の所蔵に帰した。表紙の所々に鷗外が年代を考証した書き込みが見える。(180515_h15森鷗外)
鷗外と家族の肖像
森鴎外 著,鴎外全集刊行会
ドイツ遊学当時の森林太郎。
森潤三郎 著,丸井書店
留学中の森鷗外
東洋文化協会 編,東洋文化協会
森潤三郎 著,丸井書店
陸軍二等軍医時代の森鷗外
森潤三郎 著,丸井書店
明治38年(1905)、日露戦争従軍時の写真。撮影場所は奉天。
山田弘倫 著,文松堂書店
陸軍医学校時代の森鷗外
山田弘倫 著,文松堂書店
陸軍医学校時代の森鷗外
[平福百穂] [画]
小金井喜美子 著,大岡山書店
小金井喜美子 著,大岡山書店
小金井喜美子 著,大岡山書店
小説・史伝の執筆資料
改稿『興津弥五右衛門の遺書』の資料。鷗外は初稿『興津弥五右衛門の遺書』を大正1年(1912)10月の『中央公論』に掲載したが、のちに本書および『興津又二郎覚書』『忠興公御以来御三代殉死之面々』を入手したことから改稿を加え、単行本『意地』(大正2年6月)に収めた。
森鷗外『護持院原の敵討』の資料。姫路城主酒井家の大金奉行山本三右衛門の殺害をめぐって、その子の宇平・りよと、弟の九郎右衛門による仇討ちの経緯を記した書。
鷗外自筆の題簽は「大塩平八郎事件」とする。2丁表には「武蔵国岩槻領岡泉村/組頭 丈輔事/宇三郎/執筆/大塩平八郎ヲ森先生ニ謹呈ス/孫/渋谷塊一」とあり、鷗外の筆で「(南埼玉郡日勝村岡泉也)」の注記がある。『大塩平八郎』の執筆に参考とした資料と考えられる。
歴史小説『魚玄機』(大正4年)の資料の一つ。 明治37年(1904)前後に佐々木信綱より本書が贈られたものと推定される。 『魚玄機』のもう一つの資料『温飛卿詩集』は大正4年6月に購入。
『寿阿弥の手紙』のもととなった書簡で、桑原苾堂に宛てられている。寿阿弥は通称真志屋五郎作といい、神田新石町の菓子商で、渋江抽斎に演劇の趣味を開かせた人物。内容は、苾堂の姑の死去に弔書を送らなかった詫言、物価高騰のこと、自身が怪我をして名倉に通ったこと、店が火事にあったことなど、『寿阿弥の手紙』作品中にみれられるとおりである。鷗外は大正4年(1915)12月これを入手した。
史伝『渋江抽斎』の基礎資料で、渋江家の家系図、津軽藩日記の抄出などの覚書を一冊に綴じた本。大正4年(1915)頃の成立か。
森鷗外が『渋江抽斎』執筆のため抽斎の息子保に作成を求めたもの。鷗外は保自筆の原稿を一冊に綴じ、一部に書入れを加えている。
森鷗外の作成した伊沢蘭軒の著書目録など、史伝『伊沢蘭軒』の資料となったもの。
渋江保、鷗外らの手になる原稿の合綴、 4冊。『伊沢蘭軒』の資料となった。第1冊は伊沢徳(信忠)による「伊沢家系図」、「旗本伊沢家譜抄」、「先祖書・親類書・遠類書」、「飯田系譜」など。 第2冊は、蘭軒自著の「文化七年庚午二月以来勤向覚書」の鷗外による筆写を収める。 第3冊は伊沢家墓所、系図、蘭軒の親戚、蘭軒および門人・友人の賦詠、蘭軒遺稿の抄録など。 第4冊は柏軒関係の書状・遺書、伊沢良子の談話、「丙寅三次集」など。
『伊沢蘭軒』の資料。伊沢棠軒(蘭軒の長男榛軒の養嗣子)の履歴書を鴎外が筆写し、一冊に綴じた本。
森鷗外の史伝『北條霞亭』の資料。霞亭の養嗣子の北条悔堂の漢詩文稿『悔堂乱稿』より人名や詩題などを抄録したもので、随所に朱筆で注記や考証を書き込む。
与謝蕪村が亡母追善のために試みた3ヶ月の句日記に、青年時味の各地遊歴の思い出を合わせて綴った書。陸軍軍医学校の罫紙により明治30年(1897)前後の筆写と推定される。底本は未詳。俳句との関わりについては『俳句と云ふもの』『徂征日記』に鷗外自身の言及がある。
能改庵は江戸時代初期の茶人片桐石州の庵号で、石州流茶道の創始者。これは全丁とも鷗外の自筆により、茶具の配置、茶の手順などの作法を記した本の写しとみられる。鷗外の祖父玄仙は石州流の茶を嗜み、父静男もまた茶を愛好したことから、その影響があったと考えられ、自伝的短編小説にも記述がある(『カズイスチカ』、『本家分家』)。鷗外文庫には、『茶事雑抄』、『半政庵茶規』(石州流の系統図)、『井伊大老茶道談』など茶道に関する書物が複数所蔵され、茶道に一貫した関心を抱いていたことがうかがえる。
鷗外自筆のノート・雑記類
鷗外は大正6年(1917)12月、帝室博物館館長に任ぜられた。帝室博物館には東京・京都・奈良の三館があるため、鷗外はしばしば奈良を訪れている。本図も同時期に購入したものであろう。その生活圏と水路に若干の線書込みがみえる。 奈良居住時代、晩年の鷗外官舎は博物館のほど近くにあった。当地には、官舎の門構を残した「鴎外の門」が今なお姿をとどめる。
鷗外は大正7年~10年(1918 - 21)まで帝室博物館総長として毎年11月に奈良に赴いており、本書はその際に作成されたものと考えられる。第1冊は「寺院」「建築」「芸術」「仏経」「戸籍」などの項目を立てた覚書様のノートで、巻末に付された「正倉院蔵古写王勃文巻首」と、「鳥毛篆書屏風六扇」・「鳥毛帖文書屏風六扇」についての記録、新薬師寺の略縁儀は、鷗外の筆ではなく、全集未収録。第2冊は、奈良の各社寺についての記録、そのほかの雑多なメモ。
鷗外による、楽器(主として日本の古楽器)の性質や来歴を抄書したノート。晩年のものと推定される。内容は『日本雅楽概弁』、栗田寛『楽器考』、藤原守中『歌舞品目』などからの抜抄。
鳥類・魚類について、その和名と漢名、またラテン語の学名などを対照した自筆ノート。鳥類は栗田万次郎「支那禽類彙考」(『東京地学協会報告』明治18年12月 - 明治19年5月)、魚類は畔田併存『水族志』(田中芳男私家版、明治17年)からの抄出。また魚類は上田恭輔「魚属の名に用ゆる漢字に就て」(『東亜之光』大正9年)との対校もなされていることから、鷗外最晩年の制作であると推定できる。こうした和漢名を対照する書入れは、鷗外の学問の一端をうかがわせる。
鷗外の晩年に作られた、私的な雑記帳。ほぼ鴎外自筆(一部別筆)。大正6年~9年(1917 - 20)の4年間にわたる。内容は人名録や年譜、系図、用語集、語句の傍訓などが主で、図や絵なども多く書き込まれる。『松江式延喜式傍訓』『菊桐御章考』『白河燕談抄』『拾芥抄』『椎実筆』『栗里先生雑著』『桂林漫録』などの書名もみられ、これら抄写した部分もあると思われる。鷗外の幅広い興味をうかがわせる資料。
大正6年(1917)12月から死去の大正11年9月まで帝室博物館総長兼図書頭を務めた鷗外が、図書寮および帝室博物館に関する規定などの記録を綴じたもの。自筆のものの他、活字部分含め複数の人物の手による資料となっている。内容は、職員名簿や会計簿など事務的な書類、図書寮の事業であった天皇・皇族実録編修および六国史校訂について鷗外に提出されたと思われる報告書など。制作年代は大正10年頃と推定される。
鷗外自筆のノート(一部他筆)。「世系」「神器」「年中行事」「倉庫」「践阼」「復辟」「大行」「葬送」「陵墓」「祭祀」の10項目を立て、それぞれ関連する用語集、覚書、系図などを書き込む。大正8年(1919)前後のものではないかと考えられる。
「徂徠集人名」「南郭集人名」「春台集人名」の3部で、全丁が鷗外の自筆である。『徂徠集』『南郭先生文集』『春台先生紫芝園稿』より作成した人名録であり、一部に略系図も含まれる。また、全編にわたって他集との校合が鷗外自身の朱筆によってなされている。
仏教教理の基礎学である唯識思想についての鷗外自筆本。唯識宗・法相宗の教典である護法等菩薩造の成唯識論(10巻)の7巻までを、語彙の解釈や思想の論述などで綴る。唯識三十頌の注釈、宗派、伝通経歴など、数十項目にわたって唯識学の問題点が集められ、仏教特有の読みくせについての振り仮名が105カ所記される。また仏教教理を解説するための図表である義図が172カ所あり、鷗外の自作と思われるものを含む。多くの註がドイツ語で書かれた鷗外自身の見解を示すもので、その仏教観をうかがう一助となるものといえる。
鷗外の音楽に関するノート。帝室博物館館長として奈良と東京を往復しつつ書かれた晩年のメモの一つと考えられる。注目すべきは、上巻の琴や尺八に対する平均律の計算や各楽器固有の調性関係を検討するという、ドイツ音楽の素養を活かした試みである。また日本音楽の起源を印度音楽に求める意見が『仏教全書』などをもとに述べられており、これはチェンバレン『日本事物誌』などにも通底する考察である。随所に挿入された音階図や朱筆書き入れからうかがえる鷗外の正確な音楽理解は、大正期の知識人の音楽観を詳細に伝える貴重な資料となっている。中巻・下巻では『資治通鑑』『康煕字典』『文机談』『拾芥抄』『仙隠伝』などをもとに楽器名、調名が細かく考証されている。
明治40年(1907)頃に至るまでの雜記録。記事にみえる最も早い年代は明治32年。内容は宗教・博物誌・地誌・軍事・医事・語彙など多岐にわたる。日清戦争から小倉赴任、日露戦争の各時期に鷗外が関心をもっていたあらゆる知の様態を正確に示している。
森鷗外が武鑑蒐集のために作らせたメモ。「東京帝国大学附属図書館」の罫紙6枚が含まれており、すでに手に入れた本については鷗外自ら青インクで「所蔵」などと記入している。鷗外は武鑑蒐集の過程で渋江抽斎に関心をもち、やがて史伝『渋江抽斎』を著すこととなる。
鷗外による、様々な項目にわたる自筆のノート。帝室博物館総長時代に正倉院開扉に伴って奈良を訪れたときの制作ではないかと考えられる。 一冊目は東大寺古屏銘や書名、人名のメモなど細かく項目が立てられ、片仮名の異体字表、図書寮新築案などもみられる。二冊目は、織物について文様などを図説した織紝記、陶磁器についての陶磁記、紙についての紙記などをはじめ様々な用語集となっており、多岐にわたる。
鷗外の手になるノート。和漢の古典籍約190の書名が記され、近世の漢詩文集などから儒学者や漢詩人などの姓氏や別号なども抄出されている。作成した丁巳(ていし)すなわち大正6年(1917)、には、『安永騒壇』『闇斎派諸儒墓田録』など多くの近世漢文学関係の人名録を編んでいる。鷗外は大正5年4月に陸軍を辞めてから翌年12月に帝室博物館総長兼図書頭に就任するまで無官であった。この間に大量の書物を渉猟していたと考えられる。
顕宗天皇2年(5世紀後半)より明治6年(1873)までの金銀銅価の交換比率や、米価への換算を年ごとに記した鷗外自筆のノート。本資料の成立は大正10年(1921)9月以前で、鷗外の貨幣経済史への関心を示すもの。校訂に西村兼文「本朝物価表」を参照しているが、これは一部の補足に用いられ、他にどのような資料を用いたかは定かではない。
森鷗外は武鑑とともに古地図も多数蒐集していたが、自ら写した地図はきわめて珍しい。長禄年間(1457-60)とするが、実際には近世中後期頃に成立した推測図という。
日本、中国、西洋の歴史的事件を対照する形で編まれた年表。神代から明治年間にわたる。そこに鷗外の筆で「古事記、旧事記」、「書紀」などの歴史書の書名、和暦と西暦との対照表や、徳川将軍の謚号、また清代中国皇帝の系図などが書込まれている。本文末尾には、明治31年(1898)にグレゴリウス暦改暦の不備を補う目的で出された勅令第90号に関する解説文が貼付される。
鷗外の自筆を含む、複数の資料を合綴したもの。内容は、竹柏園主人(佐佐木信綱)作成の和学者略系図、耳川の戦から秀吉の九州征伐に至るまでの島津家の事蹟を抜書したもの、琴の各部分の名称を付した図、在原業平が小野小町の髑髏を見つけたという「髑髏小町」関連の記事を抜書・考証したもの(実弟三木竹二の筆か)、乗馬の心得、汽船に関するメモ。明治30年代以降の成立。
森鷗外最晩年の自筆ノート。美術関係の事項、画家の伝記・系図・目録などが収録される。
茶に関する記事を抄写した鴎外自筆のノート。「茶史」など、森鷗外自身の文章も含まれる。巻頭の書名に「牽舟医士著」という鷗外の号を記す。
吉田亀寿著『織物組織編』(明治30年)より抄写したノート。手機、力機、ドビー機など織機の種類や構造について、また平織、綾織、繻子織などの織物種類、並子、斜子、斜文などの文様の種類などが図を交えて詳細に写されている。また『字典』から織物関連の用字・用語の抜書があり、英訳やドイツ語訳がなされている。鷗外の多方面への関心を伝える資料である。鷗外の晩年に散見される山加製原稿用紙を使用。
鷗外手択本
正篇は晋の張華の撰、続篇は宋の李石の撰と伝える。地理・物産・動植物・歴史人物の故事などを雑記した書。 1冊目の表紙に朱筆で「明治二十一年冬」とあって、ドイツより帰国した直後に求めた本のようである。書入れは朱筆で傍点や注記など。独語で記されたものが多い。医学薬学や自然科学関係の注記が多いように思われる。続篇巻九に「脚気」との書入れがあるのも注目される。
中国古代の怪事異聞や言語事物などについて記録した書物。書入れの多くは、本文の内容と類似性を持つ逸話の抄出。『捜神記』、『山海経』、『孟子』、『蒹葭堂雑録』のほか、広瀬淡窓や漢学者石津灌園らの詩が引用される。「欧州小説」という注記は『イソップ童話』中の狼少年の話。 明治14年(1881)鷗外20歳の時の書入れであり、同年12月に陸軍に出仕するまでの進路の定まらない浪人時代の鷗外の動向を知るうえでも重要である。
『陰符經』は道家の思想を取り入れた古代の兵法書。本書は明代焦竑によるその解説書である。鷗外は本書について別叢書の所収本などと校勘を行っているが、参照した書は『道蔵経』『説郛』『漢魏叢書』『百家名書』など。大正7年(1918)、鷗外57歳、帝室博物館総長兼図書頭時代の書入れである。
文化9年(1812)出版の滝沢馬琴作の読本。本書は明治17年(1884)の活字本。鷗外の23歳の時の読書で、全丁にわたって傍線やカギ括弧が付される。
『シラー作品集 全12巻』全4冊(レクラム文庫版)。 鷗外はこの全集でシラーのほとんど全ての作品を読んでいる。ここから訳出した作品はないが、ゲーテとともにドイツの文化を代表する詩人として重視し、深い関心を持っていた。さまざまな局面でシラーに言及しており、『シルレルが医たりし時の事を記す』では軍医時代のシラーについて書いており、境遇の類似を意識していたふしもみえる。
ルドルフ・フォン・ゴットシャル『詩学』。 ゴットシャルはドイツの作家・劇作家。正式な書名は『詩学~近代的視点から見た文芸とその技法~』。詩学の理論書であり、その内容は文芸の原理的な考察、修辞学、ジャンル論(文芸を抒情詩、叙事詩、演劇に分類)に及ぶ。鷗外帰国後の初期文芸評論「現代諸家の小説論を読む」「明治二十二年批評家の詩眼」における小説の分類や、「『文学ト自然』ヲ読ム」における立論の依拠文献であり、鷗外の当時の小説観に大きな影響を及ぼした書物だといえる。修辞学の箇所では暗喩の実例として「花之白雪」「国家之柱石」と日本語の例をあげたり、文芸の種類に下線を引いたりと、本書を教科書のようにして使った様子が浮かび上がる。 鴎外が帰国後も本書を参照していたことは書入れからも窺われる。坪内逍遥の『小説神髄』に触発されて著した「現代諸家の小説論を読む」で、鷗外は「春の屋の云く。小説の主脳は人情なり。世態風俗これに次ぐと。ゴツトシヤルの云く。小説の境地は即ち是人生の境地なりと。」と書いている。ほかに「坪内人間派、小天地主義」という鉛筆のメモを含め、本書の書入れと『小説神髄』のそれには呼応する部分が多い。
フリードリヒ・グレディ『ドイツ詩学』。ドイツ詩の韻律の教科書。長短格 Trochäus、短長格 Iambusの解説の項にそれぞれ「平起」「仄起」とみられる書入れがあり、詩の文例に長短の記号を書き入れている。鷗外は、 「三たび平仄に就きて」において、欧米詩には平仄がないという池袋清風に反論して欧米詩の韻律について記号を交えて解説しているが、典拠としたのはこの本と思われる。こうした日本、中国、欧米の詩形式についての鷗外の関心が、石橋忍月の訳詩をめぐる論争や翻訳詩集『於母影』の出版などの帰国直後の文芸活動の基盤にあったことはいうまでもない。
ルドルフ・フォン・ゴットシャル『文学上の死響と生問』。 ゴットシャルはドイツの作家・劇作家。戯曲・小説・詩などの創作に加え、文芸批評など幅広い分野で多くの著作を残した。鷗外がゴットシャルを精読していたのはミュンヘン時代からベルリン時代にかけてと推定されている。 本書は詩人たち5人の評伝と、劇・小説などに関する3つの研究論文からなる。ゾラをはじめとするフランス自然主義を扱った「フランスの自然主義・写真主義小説」を鷗外は精読しており、その反自然主義の論調に大きな影響を与えたことが知られている。鷗外が帰国後に坪内逍遥『小説神髄』に触発されて書いた「小説論」(副題は“Cfr. Rudolf von Gottschall, Studien”)における自然主義小説批判の論旨は、ほぼこの章の要約となっている。
グスタフ・ファイザー著『マルティン・ルターの生涯』。鷗外は1886年(明治19年)3月23日ミュンヘンで購入したと推定される(本書扉のメモ)。鷗外は、人名や日付に下線を引き、歴史・宗教についての内容メモを書入れているほか、「描叙英雄気象、文有生色」、「若読水滸伝」など、ファイザーの生彩あふれる人物描写の文体に触れたコメントも含まれる。鷗外は、ドイツ留学中に西洋史の歴史書・伝記などを多く読んでいたが、その読み方を知る上で貴重な資料となっている。
ハインリヒ・ラウベ編『ハイネ全集』全6巻。鷗外は、明治19年(1886)のミュンヘン滞在中にこの本を読み始め、ベルリン滞在期を中心とするドイツ留学時代に読み続けたとされる。膨大な傍線とおもに漢文による傍注が施されており、熟読の跡がうかがえる。鷗外はハイネを詩人としてより、評論家、社会批評家として評価しており、政治論、社会批評、文学史などへの書入れがとくに多い。書入れからは、鷗外の立憲政治への理解、社会問題、とくに共産主義への関心がうかがわれ、またこの全集からドイツ古典主義やロマン主義文学についての知識を得たことなどがわかる。
ジョン・ミルトン『失楽園』。鷗外はドイツ留学中にドイツ文学だけでなくヨーロッパ文学のドイツ語訳作品を多読したが、その多くがレクラム百科文庫 “Universal-Bibliothek” シリーズのものであった。鷗外文庫には、留学中に購入したもの、帰国後に取り寄せたものを含めこのシリーズの書籍が100点以上所蔵されているが、その中にはアリストテレス、プルタルコスなどの古典、ツルゲーネフやディケンズなどの19世紀小説、デカルトやトマス・モアの哲学書が含まれており、世界文学や古典を意識的に幅広く読んでいたことが分かる。
リヒャルト・ワーグナー『さまよえるオランダ人』(オペラ台本)。鷗外は、「再び劇を論じて世の評家に答ふ」のなかで「余の西欧にあるや、楽劇の場に入ること数十回」と記す。鷗外文庫のオペラ台本(全15冊)には鷗外が実際に観劇した舞台の様子をメモしたと思われる書入れがあるものもある。『さまよえるオランダ人』台本には、末尾に一カ所だけ書入れがある。オペラの最終場面、舞台を霧が覆うなか、さまよえるオランダ人が昇天するシーンを描写しており、この場面の舞台演出に鷗外が感銘を受けたことが推察される。
クリストフ・ヴィリバルト・グルック『オルフェウスとエウリディケ』。 ライプツィヒ市立劇場での公演用に作られた特別な台本で、「ライプツィヒ劇場の興行用公式版」とある。表紙に鷗外がライプツィヒ市立劇場で観劇した日付(1885年6月21日)と、出演したソロ歌手の名前が記される。 鷗外は大正2年(1913)7月14日に田中一良に当作品の翻訳を依頼されるが(『大正二年日記』『大正三年日記』)、その翻訳原本は本書であり、大正3年2月10日より作業が開始され、同14日に終了した。しかし、この第一稿歌詞は国民歌劇協会の使用していたペータース社刊行のピアノ・スコアと合わず、鷗外は同3月30日に相談を受けて、修正を行った。この第二訳稿(『Orpheus(沙羅の木)』)の成立は同8月27日。
軍医森鷗外の関連資料
太政官
明治14年(1881)11月30日。森鷗外はこの年7月大学を卒業しており、12月より陸軍軍医となる。
陸軍の「医事衛生の景況」を記録したもので、傷病死者の統計とその報告などを載せる。鷗外の軍務上の資料であったと思われる。全11冊が所蔵され、第3年報(明治10年7月~11年6月)より第7年報(明治14年7月~15年6月など。ドイツ留学に出立する直前に受領したものを含む。
太政官
明治17年(1884)6月、森鷗外はドイツ留学を命じられる。
日刊紙『アルゲマイネ・ツァイトゥング』“Allgemeine Zeitung”の付録“Beilage zur Allgemeinen Zeitung”“Zweite Beilage zur Allegemeinen Zeitung”のスクラップ2冊。鷗外・ナウマン論争の舞台となった新聞を鷗外自身がスクラップしたものと推定される。 1冊は論争の端緒となったナウマンの日本論 Land und Volk der japanischen Inselkette が掲載された1886年6月26日、29日、およびナウマン講演の報告記事が掲載された同年6月30日を収める。もう1冊は鷗外のナウマンへの反論 Die Wahrheit über Nipon (原題)が掲載された12月29日を含め1886年12月16日 から31日の期間の記事をほぼ毎日分収録。2冊目は鷗外の自筆の目次、蔵書印を含む。 『独逸日記』(12月17日付記事)に、鷗外がミュンヘンでの医学の師ペッテンコーフェルの紹介状を持って『アルゲマイネ』の編集者ブラウンと面会し、「十四日内には君の文を掲載する好機会あらん」と言われたと記される。
ゴットフリート・キンケル『火葬について』。 副題によると、キンケルがドレスデンで1876年6月7日にヨーロッパ会議開会に際して行った火葬についての講演録。鷗外がミュンヘン留学中に軍医ヴェーバーの薦めにより購入したとみられる。鉛筆の下線が多く、鷗外が熟読したものと推測される。
森鷗外自筆の軍務に用いる情報を記したノート。軍隊の所在地表、日清戦争の死傷者数、尺貫法からグラム・メートル法への換算表、摂氏から華氏への換算表、ドイツ語のメモ、「野戦衛生勤務連繋ノ大要」などの図表など、ヨーロッパの軍事技術に通じる軍医としての一面がうかがえる。
6点の医学関係雑誌・書籍からの切り抜きなどを一冊に合綴した本。内容は、1.私立奨進医会(日本医史学会)の機関誌『中外医事新報』、2.石黒忠悳著『脚気談』(明治18年刊)、3.緒方洪庵の次男緒方惟準による『近衛歩兵隊麦飯給与試験成績第一回報告』、4.様々な臨床例を外傷、炎症、婦人病などの項目によって分類した『明治二十年中日本赤十字社病院外科報告』、5.日本赤十字社病院の経費や患者の内訳などのデータを記した『明治二十年日本赤十字社病院報告』、6.乳幼児の食事法について論じた斎木林策著『人工育児法』。石黒忠悳は鷗外の上司でもあった人物で、鷗外が唱えた脚気細菌説に繋がる、脚気の原因は栄養不足ではないとする論が展開されている。また麦飯食は脚気に効果ありとするなど、軍医としての鷗外と脚気細菌説への過程をうかがわせる資料といえる。
内閣
森鷗外(陸軍一等軍医)は、明治26年12月、中央衛生会委員に任命される。
内閣
恩給顧問医は、傷病恩給や扶助料の裁定に際して、傷病の公務性の認否、障害の程度の査定、軽快の見込みの有無など医学的な見解(鑑定)を示す業務を行う。恩給行政で顧問医が初めて設置されたのは明治27年(1894)の公布によるもので、案件の急増に加えて、陸軍・海軍、そのほか各省にまたがる事案の公平な審査という見地から、裁定庁に専門の顧問医を置くことの必要性が認められたためという。この制度の創設当時の顧問医(3名)に森林太郎(陸軍一等軍医医学博士)が就任している。
内閣
森鷗外は(陸軍軍医監)は、明治32年(1899)6月、第12師団軍医部長となり、小倉に赴任する。
内閣
森鷗外は明治40年(1907)陸軍軍医総監に就任する。
内閣
森鷗外(軍医総監)は、大正1年(1912)12月、日本薬局方調査会委員に任命されている。
大正3年(1914)発行の膠州湾青島(ちんたお)の地図。ドイツの租借地の地理を示したもので、ドイツ東洋艦隊の情報も記される。鷗外は自筆で、日本軍の進攻を示す前線、ドイツ軍の布陣と推測される記号を書込んでいる。
内閣
大正5年(1916)
ノットナゲル、ロスバッハ編『薬理学ハンドブック』第5版。 薬品を化学的に分類し、生理学的効果と治療上の用途について解説する。鷗外の書入れはドイツ語、ラテン語の用語の横に漢語を対照したものが多いが、ひとつの洋語に対し複数の漢語(当て字を含む)を書き入れたり、医学現象に関連のある漢籍からの引用を書き入れたりしている箇所もある。ドイツ語の理解補助ということにとどまらず、西洋医学と東洋医学を多重的に関連づける試みとも考えられる。巻末に他の版との異同を付す。
カール・フォン・クラウセヴィッツ『遺稿著作集』3巻。『戦争論』を含む。ドイツ留学中の鷗外は『戦争論』を熟読し、帰国後の小倉時代に本書の抄訳に着手、『大戦学理』として明治36年(1903)に出版した。本書にはペンと鉛筆の二種類の書入れがあるが、ペンの書入れはドイツ留学中の覚書とみられる。また鉛筆の書入れは帰国後、本書を翻訳したときの訳語などのメモと考えられる。
エミール・クノール『ヨーロッパ諸国における軍衛生部隊の発達と形成』。 副題には「軍事史的視点から」と続く。クノールはプロイセン王国大参謀本部所属の少佐であり、本書ではヨーロッパ各国の衛生部隊の歴史を国別に記述している。鷗外は特にプロイセンの衛生部隊に関する章に日本語で多くの書入れを残している。衛生部隊の組織、病院施設や運搬など実務的な内容についてメモを取りながら読んでいた様子がうかがえる。
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俳優火野正平さんによる自転車の旅。今回目指すのは島根県津和野町。目的地の近くにある津和野高校は森鴎外が通ったという、藩校の流れをくむ歴史ある学校です。古い町並みと、どこか懐かしい風景は、疲れたからだも癒される、優しいふるさとの風景でした。2011年放送。
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| タイトル | 主催者 | 会場 | 開始 | 終了 |
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国立国会図書館は、国会に属する唯一の国立の図書館です。国内外の資料・情報を広く収集・保存して、知識・文化の基盤となり、国会の活動を補佐するとともに、行政・司法及び国民に図書館サービスを提供しています。
「エンパク」の名で親しまれる早稲田大学坪内博士記念演劇博物館は、1928(昭和3)年10月、坪内逍遥博士が古稀の齢(70歳)に達したのと、その半生を傾倒した「シェークスピヤ全集」全40巻の翻訳が完成したのを記念して、各界有志の協賛により設立されました。以来、アジアで唯一の/世界で有数の演劇専門総合博物館として、日本国内のみならず、世界各地の演劇・映像関連資料の収集につとめてきました。およそ100万点にもおよぶ膨大なコレクションは、90年にわたり培われた”演劇の歴史”そのものといえるでしょう。演劇人・映画人ばかりでなく、文学・歴史・服飾・建築をはじめ、様々な分野の方々の研究に貢献しています。
2012年、文京区立森鴎外記念館として開館。前身は「文京区立本郷図書館鴎外記念室」で、図書館は現本郷図書館。文京区の千駄木は鷗外がその半生を過ごした地であり、記念館はその旧居「観潮楼」の跡地に建てられている。月命日の7月には、遺言書の原資料を展示する。「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス 宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス 森林太郎トシテ死セントス 墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラズ」
明治43年(1910)開設の東京市立本郷簡易図書館が前身で、昭和37年(1962)森鷗外ゆかりの観潮楼跡地に「鷗外記念本郷図書館」として開設された。平成18年(2006)鷗外記念室と分離して現在地に図書館のみを移転。地階に「鷗外コーナー」を設け、鷗外の著作のほか、森茉莉、小堀杏奴などの著作や鷗外に関する評論などを収集している。
森鷗外の蔵書。国史、文学など中心に、伝記書、江戸古地図や武家の名鑑などのほか、和漢の古医学書、ドイツ留学中に収集したと思われる洋書など、分野は多岐にわたる。『於母影』などの翻訳に用いられた洋書原本、『渋江抽斎』などの史伝を執筆する過程で収集した参考資料や自筆ノート、自筆写本などの手稿なども含まれる。多くは柿渋色の表紙を付けて糸綴じし、鷗外自筆の題簽を附した装丁となっている。鷗外が書入れをした資料も多くみられ、鷗外の人柄もうかがい知ることができる。 関東大震災で壊滅した図書館の復興のため、大正15年(1926)1月遺族から寄贈された。
島根県鹿足郡津和野町町田。記念館は国指定史跡森鷗外旧宅の南側に隣接し、旧宅を展示物の一部として取り込んでいる。一階に展示室、二階に収蔵室などで構成され、映像や写真パネル、遺品をはじめ貴重な資料の展示を行っている。
関連の論文、講演、通信、図書、および森鴎外研究関連サイトリンク集などを紹介する。
日本の統計学に寄与した人物のひとりとして森鷗外が紹介されている。明治22年(1889)「スタチスチック」の訳語を「統計」とするのは適切か、統計学は科学であるのか、統計は因果関係を探究する方法かなど、本質的な議論を展開している。
森鴎外の「高瀬舟」など関連の舞台公演の演目や人物の情報を調べることができる。演目情報では出演者やスタッフなども載せている。伝統芸能の保存及び振興を行う独立行政法人日本芸術文化振興会が運営するサイト。
森鴎外の肖像写真を掲載している。
参考文献
- 平凡社
- 小学館
- 平凡社
- 加藤周一 著,鷲巣力 編,平凡社
- 責任表示
- 国立国会図書館
- 二次利用について
ただし、画像は個々の権利表示による
- 最終更新日
- 2024/03/05