発電所建設の熱気
このページでは、本名発電所建設時の様子と、発電所湛水開始時に行われた式典の様子を紹介し、発電所建設が地域にもたらした影響を振り返ります。
建設現場にて
発電所建設現場で働いた人々
発電所建設現場では、上で紹介した写真のように、10代の少女を含む多くの地元出身者が働いていました。現金収入を得られる職場は当時の周辺地域では貴重であったため、発電所建設地となった村の外からも、多くの人が働きに来ていたそうです。
水力発電所の建設現場で働いた人々は、様々な人々と出会いました。その出会いは、新たな人生を切り開くことにもつながります。例えば、建設現場で働いた女性のなかには、仕事を通して出会った男性と結婚して他地域へと転出する選択をした人も少なくありませんでした。また、男性のなかには、地元で得られた経験をもとに、全国の発電所建設現場へと、活躍の場を広げる人もありました。
一方、建設現場では多くの受刑者も働いていました。1953(昭和28)年には、上田発電所に169名、本名発電所に254名の囚人が刑務作業に派遣されています(長町次郎「ルポルタージュ只見川電源開発作業隊」『刑政』1953年、64巻7号)。これら受刑者の存在は、地域住民には複雑な思いで受け止められていました。地域住民のなかには、囚人とともに発電所建設現場で働くことを家族から反対された女性もいました(榎本千賀子・金山町教育委員会編著『山のさざめき 川のとどろき』2019年、金山町教育委員会、105頁)。
さらに、発電所建設には戦後の日本に残された朝鮮半島出身の人々も従事していました。これらの人々は、現在の金山町内で発電所建設が終了した後も、田子倉ダム建設資材運搬専用線(のちの只見線)の建設に関わるなど、長く周辺地域の開発に携わります。また、地域住民の家に間借りして暮らし、子弟が地元小学校に通うなど、地元住民と密接な交流を持つことも珍しくありませんでした。しかし、朝鮮半島出身者の多くは、昭和30年代に盛んとなった帰国運動により北朝鮮へと帰国します。本名に滞在していた帰国者のなかには日本人妻や子を連れた者も多かったそうで、その後の生活が案じられます(前掲書、102-104頁)。