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江戸時代の文化1―寛永文化

元和から寛永にかけての文化。中世の特徴を受け継ぎ、元禄へと架橋する。

江戸時代初期の寛永年間(1624~1644)を中心に、広義には前後の元和から寛文期の間に成立した近世初頭の文化を指す。元和偃武(1615)の後、泰平無事の世を迎えるなかで江戸幕府を頂点とする近世封建体制が強化され、学問の分野では朱子学を官学として公認した。江戸では体制に順応した儒教的文化が発展し、三代将軍徳川家光は祖父・家康を祀る霊廟として日光東照宮を完成させる。一方、京都では公家、武家、僧侶、そして上層町衆が連帯し、古典的文化を復興しようとする気運が高まる。なかでも学問や諸芸術の素養に秀でた後水尾天皇が宮廷文化の復興に尽力し、自ら古典文学や和歌の研鑽を積み、公家衆にも学芸稽古を奨励した。また、桂離宮とともに同時代を代表する建築である修学院離宮を設計したことでも知られ、皇后で徳川秀忠の娘でもある東福門院は戦乱によって荒廃した清水寺をはじめとする社寺などの文化財再建に努めた。金森宗和、俵屋宗達、烏丸光広などの寛永文化の担い手となる芸術家も宮廷に出入りし、書画、漆芸、陶芸などで幅広い才能を発揮した本阿弥光悦はその代表格に挙げられる。後年、寛永文化は中世までに培われた華麗な文化を継承しつつ、近世から近代に至る文化創造の源流となる結節点としての役割を担った時代であったと評されている。

文学・芸術

書画、漆芸、陶芸に通じた桃山・江戸初期を代表する芸術家

江戸初期の僧侶、文人。能筆で知られ、「寛永の三筆」の一人に数えられる

江戸初期の茶人。遠州流の祖。江戸幕府の奉行として建築、土木、造園にも優れた手腕を発揮し、能書家としても知られた

近世初期の公卿で歌人。文章も巧みで、能書家としても知られた

すみのくらそあん。江戸時代前期の、京都を本拠とした貿易家、朱子学者。家業を継いで朱印船貿易に尽力した他、藤原惺窩(せいか)に師事して朱子学を学ぶとともに、諸芸に通暁したことで知られ、本阿弥光悦らと嵯峨本を出版し、能書家としても才を発揮した。

このえのぶひろ。江戸時代前期の公家。後陽成天皇の第4皇子で、後に関白の近衛信尹(のぶただ)の養嗣子となる。書においては養父の薫陶を受け、古田織部に師事して茶の湯を学び、沢庵宗彭(そうほう)らと交流。兄である後水尾天皇とともに宮廷文化復興の中心的役割を果たした。

仮名草子は慶長年間(1596〜1615)の頃より刊行された、平仮名で書かれた文学作品。幕府の封建体制確立の時期にあたることから啓蒙的傾向が強い一方、名所案内や見聞録なども散見される。木版印刷技術の普及に伴い流行し、後に成立する江戸期の文学に多大な影響を与えた。

いけのぼうせんこう。華道池坊家三十二世家元。初世専好の確立した芸を受け継ぎ、多種多様な草木を用いて大自然を表現する立花を寛永期に大成。後水尾天皇の寵愛を受けて宮中にて立花を指導し、公武と親交を深めて同家の地位を確固たるものとし、多数の立花図も残した。

江戸時代初期の歌人、俳人。和歌、連歌、儒学、神道、有職故実など文芸・学問を広範に学び、京都に私塾を開いて庶民教育に取り組んだ。また、和歌や連歌にはみられない平易卑俗な表現をもった俳諧が時代に適しているとし、近世俳諧を大成して貞門俳諧の祖となった。

学問

はやしらざん。江戸時代初期の儒学者。近世儒学の祖である藤原惺窩(せいか)のもとで朱子学を学び、やがて師に推挙されて御用学者として徳川家康から家綱に至る四代にわたって幕府に仕え、法度、外交、典礼などに関与した。また、同時代に活躍した小堀遠州や狩野探幽らとも交友を結んだ。

ふじわらせいか。江戸時代初期に活躍した朱子学者で、近世儒学の祖とされる。もとは相国寺の禅僧であったが、朝鮮の儒学者である姜沆(きょうこう)と出会い、後に還俗して朱子学を究めた。門下には、儒者として徳川家康に仕えた林羅山などがいる。

朱子学は中国南宋の朱熹(しゅき)によって確立された儒学の新体系。孔孟(こうもう)の真の教えを明らかにしようとしたところに特徴があり、日本には鎌倉時代に伝来。禅僧を中心に受容され、やがて公家や上層の武士に影響を与えた。江戸初期には藤原惺窩(せいか)らによって隆盛し、幕府は官学として保護した。

いしかわじょうざん。江戸時代初期の漢詩人。徳川家に仕える武士の家系に生まれたが、大坂夏の陣において軍律に反したことで武士の身分を捨てて出家。藤原惺窩(せいか)に師事して儒学や詩文を学び、後に洛北の一条寺に隠棲して林羅山などの文化人と交誼を結ぶ。

ほりきょうあん。江戸時代初期の儒医、儒学者。医学を曲直瀬正純(まなせしょうじゅん)に、儒学を藤原惺窩(せいか)に学び、林羅山・松永尺五・那波活所(なわかっしょ)とともにの惺窩門下四天王と称された。後年、尾張藩主の徳川義直に仕えて儒官となった。

美術

400年にわたって日本画壇に君臨した絵師集団

江戸時代前期狩野派の絵師。江戸幕府が成立すると父の孝信とともに江戸に進出を図り、幕府御用絵師となる。政権の安定にともない絵師を江戸に下らせて勢力を拡大し、江戸狩野の地歩を固める。江戸における絵画文化の黎明期を支え、後年の浮世絵をはじめとする庶民芸術の源流となった。

桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した京都狩野派を代表する絵師。狩野山楽の門弟で、後に娘婿となる。義父の装飾的画風を継承しながらも、繊細で大胆な画風を確立した。また儒学者との交友も知られ、林羅山の依頼によって「歴世大儒像」などの作品を手掛けた。

くすみもりかげ。江戸時代前期の江戸狩野派の流れを汲む絵師。探幽門下の四天王の一人に数えられるが、後に破門されたことで放浪の生涯を送る。当時の狩野派は手本に重きを置く粉本主義によって創造性が失われつつあったなか、江戸を離れて農村の風景風俗を捉え、従来の狩野派にはない新境地を開いた。

江戸時代初期に活躍した絵師。京都に育ち、後に越前に赴き本格的な絵画制作をはじめる。風刺を含んだ和漢の人物画、古浄瑠璃や説教節を正本とした絵巻、また新様式の美人画像の典型を生み出し、寛永期の風俗画に与えた影響は大きく、存命中より浮世又兵衛の異名を誇った。

江戸時代前期の有田の陶工。中国の上絵付けの技法を学び、日本で初めて色絵磁器の焼成に成功する。純白の白磁に色絵具を用いて花鳥人物文などを描いた作品は柿右衛門様式と称えられ、後年ヨーロッパにも輸出されるなど国内外に大きな影響を与えた。

有田焼は江戸時代初頭、肥前有田一帯の諸窯にて生産がはじまった磁器。伊万里港から諸国に積み出されたため伊万里焼とも呼ばれる。藩主の鍋島氏が文禄・慶長の役の後、朝鮮より連れ帰った陶工を中心に興ったことから初期有田焼は李朝の様式がみられ、また中国磁器の影響も指摘されている。

唐津焼は佐賀県西部から長崎県北部一帯で生産される磁器の総称。開窯については鎌倉中期、室町中期、桃山初期などの諸説がある。最初期の焼き物は雑器であるが、次第に茶人の好みに応えた茶碗や花器が作られるようになり、唐津焼は楽焼や萩焼とともに茶陶の主流となった。

ののむらにんせい。江戸時代初期の京焼の名工。寛永期を代表する茶人である金森宗和に指導を仰ぎ、正保4年(1647)頃に開窯。同時代の潮流であった「きれい寂び」の美意識に基づき、優雅で洗練された造形の茶器や懐石道具を生み出した。晩年には尾形乾山に陶法を伝授したといわれている。

建築・庭

栃木県日光市に所在し、朝廷から東照大権現の神号を贈られた徳川家康を祀る神社。元和3年(1617)に創建され、現在の壮麗な社殿は寛永13年(1636)に徳川家光の命によっておこなわれた大造替を経て完成する。壁画や天井画は幕府の御用絵師であった狩野探幽一門が担い、権現造と称される建築様式はその後、近世神社建築に多く採用された。

桂離宮は後陽成天皇の弟で八条宮家初代智仁(としひと)親王、智忠(としただ)親王父子が現在の京都市西京区桂御園に建てた別荘建築。元和6年(1620)頃より造営され、古書院、中書院、新書院の数寄屋造の書院、当時の貴族趣味にあわせた草木で彩られた回遊式庭園、月波楼、松琴亭、笑意軒などの茶室から構成される。

修学院離宮は現在の京都市左京修学院に造営された後水尾天皇の山荘。後水尾天皇の構想に基づいて明暦元年(1655)に着工され、上(かみ)・中(なか)・下(しも)の3つの御茶屋(庭園)で構成される。比叡山の麓にあって自然の地形を最大限に生かし、寛永期における王朝文化を代表する大庭園として名高い。

清水寺は延暦17年(798)、坂上田村麻呂が延鎮を開山として建立。その後、幾度か焼失と再建を繰り返し、現在の伽藍の大部分は寛永10年(1633)に徳川家光の援助によって再建された。本堂は現在国宝に指定され、懸造りとよばれる伝統工法によって作られた張り出し舞台では古くから雅楽や能楽などの芸能が奉納されてきた。

延暦寺は延暦7年(788)、最澄によって開創された一条止観院を前身とする天台宗の総本山。山内には東塔、西塔、横川の3区域があり、なかでも東塔にある根本中堂は延暦寺の中心道場として現在国宝に指定される。織田信長によって焼打ちされた後、寛永19年(1642)に徳川家光の命によって再興された。

参考文献

  1. サントリー美術館 編,サントリー美術館
  2. 林屋辰三郎著,東京大學出版會,林屋, 辰三郎(1914-1998)||ハヤシヤ, タツサブロウ <AU00202015>
  3. 詳説日本史図録編集委員会 編,山川出版社