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嘉納先生伝 / 国立国会図書館デジタルコレクション

昭和11(1936)年、東京市が4年後のオリンピック開催の権利を勝ち取り、歓喜に沸いたのも束の間のことでした。そこから先に見えていた明るい未来は、次第に翳りを見せ始め、昭和13(1938)年7月、ついには東京大会の返上に至ります。

第11回ベルリン大会(1936年)

第11回ベルリン大会は、オリンピックの東京開催が決まったIOCベルリン総会直後の、昭和11(1936)年8月に開催されました。

ベルリン大会は、今日「ナチスのオリンピック」と呼ばれることもある、政治色が全面に出た大会でもありました。ベルリン大会の記録映画、『民族の祭典』『美の祭典』(通称『オリンピア』)は、その芸術性を高く評価される反面、第2次世界大戦後、監督のレニ・リーフェンシュタールとともに、ナチスのプロパガンダであったと見なされ、たびたび批判の対象とされました。

ベルリン大会においても、三段跳びの田島直人、平泳ぎの前畑秀子らの活躍により、日本は多くのメダルを獲得しました。前畑は、日本人女性として五輪史上初めてとなる金メダルを獲得しました。

当時は、芸術競技として、建築、絵画、彫刻、文学、音楽といった部門もあり、鈴木朱雀と藤田隆治が絵画種目でそれぞれ3位を獲得しました。

大会準備

第12回東京大会の準備が進められる中で、プログラムや日本を紹介する冊子などが数多く刊行されています。

東京大会プログラム。陸上競技や水上競技といった通常の競技の他、番外競技として、武道と野球が記載されています。

英語版のプログラム。このほか、仏語・独語版のプログラムも用意され、昭和13(1938)年のIOC総会で配布されました。

東京大会や日本について英語で紹介した小冊子。図版が多数用いられ、視覚に訴える作りになっています。

国内の逆風

昭和12(1937)年初頭になると、大会準備の停滞、国際情勢の悪化が次第に影を落とし始め、IOCベルリン総会での東京大会決定の歓喜から1年も経たない内に、東京大会の開催に対する反対論が聞こえるようになります。

衆議院議員の河野一郎は、昭和12(1937)年3月20日の衆議院予算委員会で林銑十郎総理大臣兼文部大臣や佐藤尚武外務大臣らに対し、緊張が高まる国際情勢の中、オリンピックを開催するのは不可能ではないか、という主旨の発言を行い、意見を求めています。

昭和12年当時は総理大臣兼文部大臣

昭和12年当時は外務大臣
  • 東京市 編,東京市

    大会返上後に東京市が発行した本書によると、東京大会に対する反対意見を公人として初めて口にしたのは、戦後、昭和39(1964)年の第18回東京大会の担当大臣となったことでも知られる、衆議院議員の河野一郎でした。

  • 帝国議会衆議院予算委員会の会議録(当該部分)

  • (本の万華鏡「第15回もう一つの東京オリンピック」掲載画像)オリンピック施設建造の規模縮小を伝える記事

その後、昭和12(1937)年7月に日中戦争が勃発し、国内では物資の統制が進みます。昭和13(1938)年4月には、国家総動員法に続き、鉄鋼配給統制規則が公布され、新たなスタジアムの建設が困難になります。

IOCカイロ総会と嘉納治五郎の信念

日中戦争の長期化による影響から、中国だけでなく欧米の一部からも、東京大会の辞退を望む声が聞こえ、開催準備の遅れを見て本当に開催できるのかどうか危ぶむ声も大きくなっていきました。

本書の第四編「スポーツの父として」には、日本スポーツ界・オリンピック界の黎明期を支えた嘉納の活躍について書かれており、IOCカイロ総会前の嘉納の様子についても言及されています。昭和13(1938)年3月のIOCカイロ総会では、嘉納らの必死の工作や説得もあり、ひとまず東京開催の方向で進むこととなり、昭和15(1940)年の札幌での冬季オリンピック開催も正式に決定しました。

嘉納治五郎、志半ばで倒れる

東京大会を返上の縁でなんとか踏みとどまらせることに成功した嘉納でしたが、IOCカイロ総会の帰りの船中で風邪を悪化させて肺炎となり、昭和13(1938)年5月4日に亡くなります。

東京大会は、嘉納の努力もむなしく、嘉納の死から3ヶ月も経たない内に、返上する結果となります。

嘉納が亡くなる1ヶ月前に、貴族院議員で当時日本体育協会会長であった、下村宏に宛てた書簡。

大会返上決定と副島道正

日中戦争の激化をはじめとする国際情勢の悪化、物資の統制化、相次ぐ国内外からの大会返上の呼びかけがあり、昭和13(1938)年7月15日、ついに東京大会・札幌大会を返上することが閣議決定されました。

  • 嘉納治五郎が亡くなり、東京大会組織委員長でIOC委員の徳川家達も病で伏せていました。そのため、政府とIOCを繋ぎ、開催するか否かの態度をはっきりと示すよう働きかけたのは、IOC委員としての重責を一身に担っていた副島道正でした。

  • The Committee

    副島は、近衛文麿相ら政府の要人と会談を重ね、東京大会の返上決定に至ります。オリンピックの東京開催に奔走した副島が、オリンピック開催返上における中心人物ともなりました。本書には、東京大会返上に関する内容が記されており、日本の大会返上に同情するものから、返上に踏み切った勇断を称えるものまで様々で、中には、将来の日本での大会開催について触れているものもあります。

  • (「本の万華鏡 第15回 もう一つの東京オリンピック」掲載画像)東京大会返上決定を伝える記事

大会返上と選手たち

東京大会・札幌大会の返上と、その後の世界情勢の悪化を原因とした1940年・1944年大会そのものの中止により、数多くの選手たちがオリンピックでの活躍の場を奪われました。

  • 大島十九郎 編,明治天皇聖徳奉讃会

    大江季雄(すえお)は棒高跳びの日本代表としてベルリン大会に参加し、2位の西田修平に次ぐ3位となりました(記録は大江、西田ともに同じでしたが、先に跳んだ西田が2位とされました)。大江は東京大会でも活躍を期待されており、自身も「國際競技はどうしても勝たねばならぬ。そして選手の氣持には國の形が何パーセントか影響する。(日本橋青年団主催講演会にて)」と本書でその決意のほどを述べています。しかし、大江は昭和14(1939)年に召集され、昭和16(1941)年に戦地で亡くなります。

  • (「本の万華鏡 第15回 もう一つの東京オリンピック」掲載画像)ベルリン大会で全く同じ記録ながら2位と3位を分かち合った西田とメダルを半分に分割し、片方ずつを繋ぎあわせたメダルを作っていたことは、戦前にも一部新聞で紹介されていましたが、戦後、雑誌やテレビなどで「友情のメダル」として大々的に取り上げられ、小学校の教科書などでも紹介されました。

  • (「本の万華鏡 第15回 もう一つの東京オリンピック」掲載画像)フィギュアスケートの稲田悦子は、12歳(日本代表として出場した選手で、現在も歴代最年少)で出場した昭和11(1936)年の第4回ガルミッシュパルテンキルヒェン冬季大会(ドイツ)で10位に入り、優勝したソニア・ヘニーに、「近い将来彼女の時代が必ず来る」と言わしめました。その後、全日本選手権を5連覇するなどし、札幌大会では活躍が期待されていましたが、大会の返上・中止により、その希望を絶たれました。本記事は、男子の金メダリスト・シェーファーに抱えられる稲田の写真。

本ページはダイジェスト版です。ぜひ、オリジナルサイト:https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/15/3.html(国立国会図書館HPへ飛びます)もご覧ください。