ジャパンサーチ・セレクション(GIF IT UP 2022)
色とりどりの衣装を着飾って群舞する風流踊り(ふりゅうおどり)は、室町時代末期から江戸にかけて、京都を中心に全国的に広がった。もともと風流とは、雅やかな衣装・持ち物などで華やかに飾り立てること。神社の祭礼で鉾や山車が綺羅を飾り、行列の人たちが派手な衣装を競った。やがて笛・太鼓・鐘などで囃し、歌唱が加わり、手振りの美しい踊りをともなう芸能が流行した。盆踊りの初期形態といわれる。その様子は、近世初期の洛中洛外図屏風・遊楽図屏風や風俗絵巻などにも多く描かれている。この「踊尽草紙絵巻」1巻は、そうした風流踊りの中から8種類の踊りを描いたもの。金の揉箔を一面に散らした装飾料紙に、極彩色の絵筆が駆使されている。また、それぞれの絵様の上部に、その囃言葉や踊りを説明する歌詞が書き添えられている。(紙継ぎの誤りよる錯簡がある。)1.唐子踊り:秋祭りの際に神社に奉納される稚児舞。朝鮮風の衣装をまとった2人の男子が歌に合わせて踊るもので、朝鮮通信使についてきた小童が踊ったものを真似たものという。2.小町踊り:七夕の日に、美しく着飾った少女たちが、歌いながら町中を踊り歩くもの。3.住吉踊り:大坂・住吉神社において、五穀豊穣を願う神事の一つ、田植え祭りで舞われる踊り。4.小切子踊り:小切子は竹製の民俗楽器。長さ20~30センチの竹筒2本を持ち、打ち合わせながら踊る。5.若衆踊り:元服前の若衆が踊る。6.唐人踊り:唐子踊りと同じく朝鮮通信使が起源とされるが、長崎に渡来した中国人の踊りが取り入れられているともいう。中国風の装束を着て踊る。7.懸踊り:村や町などの共同体間で踊りを掛け合う、あるいは踊りを送り継いでいく形式の踊りが起源。厄神を踊りによって囃し立て、村境から送り出し、次の村はこれを受けて踊り廻し、さらに次の村へと踊り継いだ。悪霊追放、豊作祈願などのための踊りでもあった。8.差物踊り:差物・旗差物(戦陣における目印の旗で、家紋のはいった幟)を持って踊る。雨乞いの踊りで知られる「芭蕉踊り」と同義か。「芭蕉踊り」では、芭蕉の葉に見立てた差物を背負って踊る。
「唐蘭船持渡鳥獣之図」は「鳥之図」2帖、「獣類之図」「馬之図」「犬之図」各1帖の5帖からなる図譜である。江戸時代後期、寛保~嘉永年間(1741–1854)に中国船・オランダ船によって長崎に渡来した珍しい鳥獣を極彩色で描いた225図が収録されている。「獣類之図」に収められた象の図は、象使いの道具4図や種々の動きを描写した絵も一緒に収められ、当時の人々が象に対していかに大きな関心を抱いていたかを伝えている。長崎の代官や町年寄を務めた高木家は、寛文年間(1661–1673)より長崎に渡来した品々を幕府に報告する役目を命じられ、珍鳥異獣については御用絵師に正確な絵を描かせ、その絵を江戸へ送って鳥獣を届けるべきか幕府の判断を仰いでいた。高木家は手許に残した控図を巻物として秘蔵し、それを明治時代に折帖に改めたのが本図譜である。各図に鳥獣の種名、渡来年、出所(出生地)、雌雄、寸法などの情報が記され、江戸時代に渡来した動物の歴史を詳細に伝える本図譜は、博物学史上において大変貴重な資料とされている。昭和32年(1957)、松永安左ヱ門氏より寄贈された。(三田メディアセンター 倉持隆)
幕医栗本丹洲(通称は瑞見、1756-1834)は『千虫譜』で有名だが、その魚介譜はより大規模な図説で、原本は巻子本計30軸ほどだったと思われる。現在は当館(4軸)、東京国立博物館(『博物舘魚譜』などに貼付)、杏雨書屋(『栗氏魚譜』22軸)に分かれて収納されている。本資料はその一つで、クラゲ12・タコ3・イカ5(1点は卵嚢)・ヒトデ3・クモヒトデ1(原記載名、わくのて)・カメノテ(甲殻類)1の計25図から成る。うち19点は、高松藩主松平頼恭編『衆鱗図』の転写である。当館所蔵の丹洲自筆本は、これ以外に、『魚譜』(本別10-3、1軸)、『魚譜』(寄別10-38、2軸)、『王余魚図彙』(カレイずい:ち二-15、1軸)の3点がある。全貌が不明なので、正確な計算はできないが、魚介譜の総品数は1000を上まわり、その約半数が『衆鱗図』と『衆鱗手鑑』に由来するようである。:『魚譜』(り二-3)解題参照(磯野直秀)
<p>橋口五葉は鹿児島出身の画家。日本画を学んだ後、上京して洋画に転向し、装幀家@そうていか@として才能を開かせました。浮世絵研究仲間であった渡邊庄三郎の勧めで渡邊版「浴場の女」を刊行し、日本人初の新版画作家となります。本作はその後に取り組んだ私家版@しかばん@で、近代の美人画を代表する一作です。<br /></p>
「菊寿」とは、9月9日に行う重陽の節句。節句の折りには、菊花酒を飲みかわすなどして長寿を願ったとされる。また菊は長寿を寓意し、画題としても良く用いられる。本作はこの菊の宴を終えた後であろうか、菊を愛でながらくつろぐ婦人の姿が描かれる。鮮やかな黄赤色を基調とした鹿の子柄の入った着物にやや黄味がかった水色の色打掛という取り合わせが鮮やかで、白い女性の肌と菊の花を際立たせている。特に打掛の裏地に薄い黄赤色を使い、青系統とオレンジ系統という補色の色同士を組み合わせており、松園の色彩への細やかな意識を窺わせる。女性は江戸の元禄時代以降に流行ったとされる投島田を結い、鼈甲製の櫛、笄、簪で髪を飾っている。
<p>濃密でしかも細部まで緻密に描写された色とりどりの花や草木を背景に、雉に巻きついた蛇が、樹上の鷹とにらみ合い不気味な雰囲気が漂う。暁斎画の特色ともいえるあたかも時間が凍りついたような空間である。明治14年の第2回内国勧業博覧会に出品された。<br /></p>
<p> 龍虎相うつ。龍の巻き起こす風が波を逆立たせ、竹の葉を激しくなびかせる。右から左への大気の流れが圧倒的だ。左隻画面を支配する巨大な虎は強風に耐え、竹林から歩み出る。迫力満点のこの大作の筆者直庵は、当時貿易港として栄えた堺を拠点に活躍した。<br /></p><br /><p> 屏風の大きな画面いっぱいに、迫力ある龍と虎が描かれています。力の伯仲した二者が勝負する、という意味の「龍虎相打つ」という言葉があります。龍は架空の動物で虎は現実のものという違いこそありますが、どちらも強く、畏れられる存在として並ぶものでした。龍と虎は、多くの画家にセットで描かれてきました。<br /> 昔から、龍が雲を起こし、虎は風を生むとも言われ、龍には雲が、虎には風がつきものです。向かって右の屏風では、龍は鋭い爪をむき出しにし、天からこちらをぎょろりと睨みつけています。右から左に向けて湧き立つ雲の動きが目に見えるよう。左側の屏風の虎は肢を踏ん張って、何者かを威嚇しているようです。その上には竹の葉がやはり右から左になびいて描かれています。右から左の屏風に、空気が激しく流れているように見えます。このダイナミックな躍動感と、はみ出すように大きく描かれたモチーフは、この時代の大きさや豪壮さへの志向を表しているようです。<br /> 作者の曾我直庵は、水墨画を多く描き、安土桃山時代に活躍しました。当時国際的な商業都市だった堺で活動し、奈良や京都に作品をのこしています。</p>
<p> 右側に風神、左側に雷神が描かれた屏風が2枚でセットになったものです。風や雷といった、人間には抗えない自然の大きな力を、神の姿を借りてちょっとユーモラスに描いています。<br /> 風神も雷神も、衣が風にはためいて、左から右への強い風の動きを感じさせます。緑色の風神は右の方から画面に飛び込んできたかのような勢いがあり、対する白で描かれた雷神は足を踏ん張って風神の動きを受け止めているかのようです。墨をにじませた雨雲のような部分が、空間の奥行きを感じさせ、また風神と雷神の色合いをくっきりと際立たせています。もともと俵屋宗達(たわらやそうたつ)が描いた国宝「風神雷神図屏風」(京都・建仁寺蔵)を、尾形光琳(おがたこうりん)が忠実にトレースした作品です。宗達の風神雷神図との違いはいくつかありますが、宗達版で下界を見下ろしていた雷神の視線の向きは、光琳版では風神をまっすぐ見るように変えられています。風神と雷神は視線を交錯させ、息を合わせてダンスをしているかのような「コンビ感」があります。風神と雷神を一体として捉え、調和性を重視して描いているのが光琳の「風神雷神図屏風」の特徴でしょう。<br /> ちなみに、この作品の裏に、酒井抱一(さかいほういつ)があとから描き加えたのが「夏秋草図屏風」です。作品保存のため、表と裏に分けられ、現在はそれぞれ別の屏風になっています。雷神図の裏には雨に打たれた夏草が、風神図の裏には、風神が巻き起こした風に吹かれているかのように秋草が描かれていました。</p>
ラ・トゥールは、長い間スペイン派やイタリア画家などの作品群に紛れ込んでいて、20世紀初頭までは忘れ去られていた画家であったが、1930年代になって研究が進み、近年ようやく再評価がなされ、17世紀フランスの偉大な画家としての全貌が明らかになってきた(2005年3月に日本で初めてのラ・トゥール展が国立西洋美術館で開催された)。本作は1973年5月にフランス南部で発見され、同年、ピエール・ローザンベールとフランソワ・マセ・ド・レピネによって出版された『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』の中で、作品番号53として世に初めて紹介された作品である。ローザンベールとクリストファー・ライトは、汚れていた画面に洗浄を施した後のこの作品を実見し、二人ともラ・トゥールの最上の作例であるという点で見解が一致した。ジャック・テュイリエをはじめ、その他の研究者の意見も同様である。約40点(日本国内には2点[1点は国立西洋美術館所蔵《聖トマス》])しか現存しない真作の1点。ただし、ライトを除くほとんどの研究者が、彼の息子エティエンヌとの共同制作の可能性を指摘している。しかしながら、画面全体を支配する均衡の美しさ、立体感あふれる描写の力強さ、仕上げの繊細な質の高さ、そのどれをとっても、人はこのラ・トゥールの絵画世界に感動せずにはいられない。鋭い写実主義とカラヴァッジオ風のドラマティックな明暗法によって、煙草を吸うという風俗画のテーマでありながら、まるで宗教画のような深い精神性に満ちた表現を感じさせる。燃え木の光に照らし出された静謐な画面は、来るべき17世紀フランスの古典主義絵画の到来を感じさせてやまない。
<p>7歳の愛娘を描く。北方ルネサンスの画家デューラーの影響を受けて、克明写実な人物画に執着した劉生だが、そこには「内なる美」を求めたキリスト教信者としての宗教観を見ることができる。時代に逆行した個性的な画風ではあるが、確固たる存在感がある。<br /></p><br /><p> これは油絵の技法で描かれた少女の半身像です。鮮やかな色どりの肩掛けの下から覗く着物や赤い帯、おかっぱのヘアスタイルは、いかにもある時期の、日本の少女のいでたちです。しかし、長い眉と切れ長の目でほほえむ少女の表情は、何かしら意味ありげにも見えます。頭に対してアンバランスに小さい手や、緻密に描きこまれた肩掛けなどともあいまって、画面全体に神秘的な雰囲気が漂っています。<br /> 作者の岸田劉生は、本格的な西洋絵画の技法を学び作品をあらわした洋画家です。明治24年、1891年東京に生まれ、昭和4年、1929年に38歳という若さで世を去りました。日本近代洋画のパイオニアであった黒田清輝に師事した岸田劉生は、短い生涯の間にも、洋画の表現と技法を貪欲に取り込み、みずからのものとして消化し、数多くの話題作を発表します。15世紀から16世紀のヨーロッパ・フランドル絵画に感化され描いた、硬質で緻密な描写と表現の作品は、高い評価を受けました。<br /> この少女のモデルとなったのは、娘の麗子で、当時満7歳でした。劉生は生涯にわたり、油彩、水彩、素描などで愛娘(まなむすめ)の姿を描き続けました。彼じしんの作風の変化や、娘の成長にともなって、麗子の表し方も作品により様々です。中でもこの「麗子微笑」は、数ある麗子像の代表作として知られ、特徴的な表情や神秘的な雰囲気から、かのレオナルド・ダ・ヴィンチの名作「モナ・リザ」を参考にしているとの指摘もあります。また劉生がのこした日記によれば、それまでのフランドル絵画ふうの硬質な印象ではなく、より柔らかみやあでやかさを加えており、モチーフの一部は、17世紀から18世紀のスペインの画家、ゴヤの絵画を参考にしたとのことです。</p>
<p>宮中では、平安時代から、陰暦三月三日に鶏を闘わせて観覧した。浅井忠は、明治時代の洋画界に大きな影響を与えた画家であるが、はじめ日本画を学んでいる。本図は、古い絵巻物から図柄を抜き出し描いたもののようにも思われる。 <br />(2005/01/02_h21)<br /></p>
大善寺の本堂には、あらゆる病気を癒してくれるという薬師如来がまつられています。薬師如来は、普通、左手に薬壺をのせていますが、この寺の薬師如来は薬壺の代わりにブドウをのせているのが特徴です。脇侍の日光菩薩像、月光菩薩像とともに秘仏として本堂内の厨子内におさめられ、5年に一度行われる御開帳のときに一般公開されます。このほかにも、本堂には十二神将像、日光菩薩像、月光菩薩像が安置されています。十二神将は、薬師如来を守護する12人の武神で、それぞれ甲冑をまとい、刀や弓などの武器を持っています。鎌倉時代(12-14世紀)の仏像彫刻家で、おもに山梨で活動したという蓮慶によって制作されたとされています。
<p>本例のような、しぐさや行為を象+かたど+った土偶を「ポーズ土偶」と呼んでいます。山猫のような面貌+めんぼう+の顔には、入れ墨+ずみ+を表わしたかのような線刻が目・頬+ほほ+・口の周りに施されています。本例は多くの土偶がもつ乳房の表現を欠きますが、胸をつかむ左手が三本指で表わされています。<br /></p>
旧暦4月1日におこなわれる古堅のミーミンメー。昼には弥勒の登場する道ジュネ―がおこなわれ、夜には公民館の舞台で多彩な芸能が披露される。南城市の無形民俗文化財。
北海道に生息するヒグマのはく製です。苫小牧では樽前山から勇払原野につながるヒグマの移動ルートの存在が知られています。
元時代に始まった器形で、青白磁、釉裏紅、青磁などにも見られる大ぶりの壺です。本来は蓋を伴い、酒などの液体を入れる容器で、日本では俗に「酒会壺(しゅかいこ)」と呼ばれました。本器は胴部中央に、蓮池をゆうゆうと泳ぐケツギョ、草魚などを描いています。魚藻文は元時代の陶磁器にしばしば見られるテーマであり、江南地方の民間絵画の画題としても流行しました。魚の中国語音が「余」に通じ、財産が余るという吉祥の文様でもあります。また、卵を多く産むことから子孫繁栄をも表します。形、文様、コバルト顔料の発色などすべての点で申し分のない、元時代の青花磁器を代表する作品の一つです。
<p>本物と見間違えるほどリアルな蟹。しかも蟹は二匹重なっているのが見えるでしょうか。蟹は土でその姿をつくって焼き、さらに釉薬と呼ばれるガラスを多く含んだ液をかけたのち再び焼いて大まかな色を出します。次にさまざまな色の絵の具で細部を描き焼き上げて作っています。鉢は蟹とは対照的に大きく歪んで釉薬のかかり方も奔放で、蟹のリアルさが一層際立つ工夫と言えましょう。初代宮川香山は、京都に生まれ、明治時代になると横浜に移って、主にヨーロッパやアメリカへ向けた陶磁器を多く手がけ、この鉢もモチーフをリアルにつくる輸出向けの陶磁器に多くみられる特徴を示しています。19世紀後半である明治時代の始め、こうした日本の工芸品はさかんに輸出され、人気を博していたのです。</p><br /><p>初代宮川香山(みやがわこうざん)は海外輸出で早くから功績をあげ、明治29年(1896)に帝室技芸員となりました。卓越した技術で写実的な立体装飾を伴う作品を多く作り、本作では荒々しく力強い造形をした深鉢に、本物さながらの二匹の蟹が付けられています。明治14年(1881)の第2回内国勧業博覧会出品作です。<br /></p>
