
1763-1827(宝暦13-文政10)
江戸時代後期の俳人。本名は小林弥太郎。圯橋、菊明、雲外などの号がある。信濃国水内郡柏原村(現・長野県上水内郡信濃町大字柏原)の農家の長男として生まれる。3歳で母と死別し、8歳の時から継母に育てられた。継母と折り合いが悪く、14歳で故郷を離れて江戸へ奉公に出る。奉公先を転々としながら、20歳頃から俳諧の道を志す。25歳の頃に山口素堂(やまぐちそどう)を祖とする俳諧流派・葛飾派の門人となり、溝口素丸(みぞぐちそまる)、二六庵竹阿(にろくあんちくあ)らに師事。37歳で師・竹阿より「二六庵」の庵号を継承する。
竹阿の死後、寛政4年(1792)から寛政10年までの約6年間、俳諧修業のため西国・上方を行脚し、『寛政句帖』『西国紀行』を執筆。51歳で故郷の柏原に帰還し、52歳で家庭をもつが、子供4人を幼くして失い、その後、妻とも死別。後妻を迎えたが離別し、3度目の妻を迎える。晩年には火事によって自宅が全焼し、焼け残った土蔵を仮住居とした。中風のため、文政10年永眠。65歳。代表的な著作として、急病で亡くなった父親との最後の日々を日記形式で綴った『父の終焉日記』、一茶の死後、遺稿を基に刊行された俳文俳句集『おらが春』などがある。
関連するひと・もの・こと
江戸前期の俳人。蕉風を確立して、小林一茶をはじめ、後世に大きな影響を与えた。
江戸中期の俳人・画家。書画、俳諧ともに優れ、文人画の大成者の一人とされる。松尾芭蕉、小林一茶とともに江戸時代を代表する俳人。
近代知識人の問題を自己意識の問題として追究し続けた日本の近代文学を代表する作家。一茶の俳句27句を書し、日本画家・小川芋銭の俳画と合わせた俳画集『三愚集』を刊行。
食肉目ネコ科ネコ属の動物で、猫という場合は家畜化されたイエネコを指し、日本にも広く分布している。一茶は動物を題材にした句を多く詠み、中でも猫は最も多い。
江戸前期の俳諧師、松尾芭蕉による紀行文。全旅程は、奥羽・北陸・東海の600里にわたる。
本で知る
一茶/著併図,イッサ,信陽弓明庵
小林一茶の遺稿をまとめた俳諧句文集。没後25年の嘉永5年(1852)、白井一之が山岸梅塵家伝来の一茶自筆の稿本をもとに模刻刊行したもの。一茶57歳の文政2年(1819)の正月から歳末にかけての随想や見聞に折々の句を交えた句文集で、書名は「目出度さもちう位也おらが春」の巻頭句にちなみ、「ともかくもあなた任せのとしの暮」で一巻が結ばれる。掲出本は、見返しに「信陽有明菴蔵梓」と記された初版本で、一之の私家版であった。その後、江戸の書肆に移って版を重ねて広く流布した。
一茶/著,イッサ,不明
小林一茶の句集。一茶没後2年の文政12年(1829)、門人により出版された句集で、一茶の句集としては最初のもの。本書成立の事情は跋文によると、「一茶の死後、門弟たちが集まって未亡人に聞いてみると、遺言もなく、また一茶が机辺に置いていた反故や本もみな失われていたので、門弟たちは師の遺墨を取り出したり、旅日記などを買い集めて、この二巻の句集を作ったのだという(『一茶全集』別巻参照)。 上巻には春・夏の部を、下巻には秋・冬・雑・俳諧歌、あわせて発句521句、俳諧歌15首を収める。掲出は巻頭の一茶肖像。「おのれかすがたにいふ/ひいき目に見てさへ寒きそふりかな」の句を添える。
一茶/著,イッサ,不明
『一茶発句集』の「春之部」。「元日や上々吉の浅黄空」と「元日も立のまんまの屑家哉」の二句から始まる。
一茶/著,イッサ,山城屋佐兵衛
『一茶発句集』には、「文政版」と「嘉永版」とがあるが、これは嘉永元年(1848)に東都書林山城屋佐兵衛から出された嘉永版である。 掲出は、上巻の春の部。「元日や上々きちの麻黄空」の発句の後、「元日も立のまんまの屑家かな」の連句が続く。
一茶/著,イツサ,一茶同好会
小林一茶の句日記。一冊。文化7年(1810)正月から文化15 年(1815)12月までの日記で、筆者および友人の俳句などをも収める。一茶の日記中、代表的なもの。掲出本は、明治43年(1910)3月、一茶同好会が編集発行したもので、小林一茶と親交があった中村家で発見された原本をもとにまとめられている。前付には、一茶の肖像画・一茶墳墓の写真・七番日記原本巻頭の圖書などを掲載。
小林一茶 著,信濃教育会 編,古今書院
一茶41歳の享和3年4月11日から同年12月11日に至る小林一茶の発句控帖。大正15年(1926)刊行。
小林一茶 著,信濃教育会 編,古今書院
原本は小林一茶の手記。一茶の故郷である信濃言葉を中心に、諸国方言および古語などをあわせていろは順に配列・収録。大正15(1926)刊行。
小林一茶 [句],夏目漱石 [書],小川芋銭 [画],秋元梧楼 編,秋元梧楼
大正9年刊行。小林一茶の俳句27句を夏目漱石が書し、日本画家・小川芋銭の俳画と合わせた作品集。一茶の親しい支援者だった秋元梧樓が企画。
大塚 甲山/編,オオツカ コウザン,内外出版協会
陸奥の人大塚甲山編、明治40年(1907)2月、東京駒込内外出版社発行の第三版である。初版は35年12月発行。この句集の資料は巌谷小波らが提供したという。一茶は筆まめで、日記や句を丹念に書きとめ、それらが弟子などに収蔵され、各種一茶句集の資料となった。この全集は2700の句を春夏秋冬の四季、季語ごとに配列している。信濃毎日新聞社が昭和54年に刊行した『一茶全集』発句集の句数は約18700である。一茶の句集は明治以前にもあるが、明治30年以降、一茶への関心が高まり33年には信濃毎日新聞に束松露香の「俳諧寺一茶」連載(121回)が始まった。この前後の一茶関係書は、30年の『俳人一茶』宮沢義喜編、31年『一茶大江丸全集』岡野知十編、そして35年大塚甲山の『一茶俳句全集』が出、41年には丸山可秋(長野市豊野町)編『一茶一代全集』が出た。これらが、現在の一茶ブームの基となっていた。
一茶/著,イッサ,博文館
小林一茶・大伴大江丸ら両人の俳句をまとめた俳諧全集である。明治31年(1898)11月発行。2人は一茶の西国行脚時代からの仲であり、互いに影響し合っていたということから2者合わせた全集を作成したと考えられる。編者である岡野知十は毎日新聞に「俳壇風聞記」を連載していた俳人であり、俳諧に関する書物等の収集に努めた人物。「一茶全集」に収められているのは一茶発句集・一茶句帳・一茶連句集・をらが春。一茶の残した句は2万以上あると言われており、その多くがここに掲載されている。「大江丸全集」に収められているのは俳懺悔・俳諧袋・あかたの三月よつき。中でも俳懺悔・俳諧袋は当時の俳壇の記録として貴重なものとされている。附録には岡野氏の俳人らしい洒落がきいた「ふる茶袋(ふるさとの“ふる”と一茶の“茶”)」と名が付けられ、一茶の行状・俳懺悔と俳諧袋・一茶坊と大江丸・夏目成美(一茶の庇護者)について岡野氏の見解が述べられている。
宮沢 義喜,ミヤザワ ヨシキ,三松堂
明治30年(1897)7月、初版発行。同年8月、再版発行。著者は小林一茶(1763-1828年・江戸時代を代表する俳諧師)、校閲批評は正岡子規(1864-1902・近代俳諧の革新者)、編者は宮澤義喜と宮澤岩田郎。一茶の作品を集成し、生き方と作品への評論を載せた書物である。初めの5章では様々な作品を考察し、慈愛深い心や世の無常を悟った姿勢など、一茶の生き方を論じている。以降の章は、集めた作品を多面的に(俳文・書簡・俳句・連句・俳歌など)掲載。俳文は34作品、俳句は凡そ1,500句が見られる。末尾の評論「一茶俳句を評す」は、正岡子規(獺祭書屋主人は別号)によるもの。「滑稽」や、多くの擬人法、俗語を用いる形式、新調の形式など、一茶作品の特徴を関連句によって論じる。また、佳作として「夕月や御煤の過きし善光寺」などを挙げる一方で、無趣味な句を秀句と評価するのは「一茶を誣ふる(=事実を曲げて言う)の甚しき者と謂うべし」と結んでいる。
俳諧寺 可秋/編,ハイカイジ カシュウ,又玄堂
小林一茶の発句等を収集編纂した全集。編者の俳諧寺(丸山)可秋は、水内郡南郷村(現在の豊野町)の生まれ。趣味の俳句で宗匠となり、一茶の別号である俳諧寺を継いだ。この全集の刊行を目指し苦心したが、出版に至らず明治39年(1906)に死去。息子直樹の手により同41年(1908)、出版に至った。前編318ページと後編23ページからなる。発句は所々に散逸する短冊や片紙から拾い挙げるなどし、創作年にかかわらず陰暦によって季節ごとに分類。俳諧歌と連句も季節ごとに分けている。収録数は前編の発句が春、夏、秋の部がそれぞれ約1000、冬の部は約800、雑の部は22。俳諧歌は春の部62、夏の部30、秋の部54、冬の部28、雑の部59。文章は60。尺牘(手紙の類)は16。茶話は6。連句は春の部18、夏の部13、秋の部39、冬の部40、雑の部3。後編は発句が春の部120、夏の部95、秋の部101、冬の部49。連句は春の部3、秋の部5、冬の部2となっている。
小林一茶 [著],半田良平 編,素人社書屋
[小林一茶 原著],俳句研究会 著,文進堂書店
小林一茶 [著],小池直太郎 編,荻原朝陽館
栗林農夫 著,伊藤書店
もっと知りたい
小林一茶筆,By Kobayashi Issa (1763–1827),久世民榮氏寄贈,Gift of Ms. Kuze Tamie,東京国立博物館,Tokyo National Museum
一茶/著,イツサ,一茶同好会
明治43年(1910)3月、一茶同好會(代表者は中村六郎)が編集発行。小林一茶と親交があった中村家で発見された原本をもとにまとめられた書物。「はしがき」には、文化7年(1810)元旦から文政元年(1818)12月まで(一茶が郷里柏原に戻った全盛時期)の記事を収録した俳諧日記で、掲載俳句数は七千余りと記すほか、現存する珍本であるなど、解説を付記する。前付には、一茶の肖像画・一茶墳墓の写真・七番日記原本巻頭の圖書などを掲載。本文「七番日記」は、原本に忠実な体裁と構成で著され、日付・天気・日常の出来事を記す上段と、俳句・俳文を列記する下段から成る。上段には、妻を娶った時の記事として、文化十一年(1814)四月の部に「十一晴 妻來」や、長男の誕生や生後間もなく死亡の記事なども見られる。下段には、文化八年(1811)二月の部に「春風や牛に引かれて善光寺」、文化十二年(1815)四月の部に「痩蛙まけるな一茶是にあり」など見られる。
中俣正義 モノクロ 35mmネガフィルム
1962(昭和37)年4月 長野県信濃町柏原 小林一茶旧宅 一茶は、50歳の時にふるさとの北国街道柏原宿のに戻った。1827(文政10)年に起きた柏宿の大火により家の母屋を失ってしまった。その後は、焼け残った土蔵(小林一茶旧宅)に移り住んだ。1957(昭和32)年に国史跡として指定。
中俣正義 モノクロ 35mmネガフィルム
1962(昭和37)年4月 長野県信濃町柏原 小林一茶旧宅 一茶は、50歳の時にふるさとの北国街道柏原宿のに戻った。1827(文政10)年に起きた柏宿の大火により家の母屋を失ってしまった。その後は、焼け残った土蔵(小林一茶旧宅)に移り住んだ。1957(昭和32)年に国史跡として指定。
中俣正義 モノクロ 35mmネガフィルム
1962(昭和37)年4月 長野県上水内郡信濃町柏原 一茶扇墓
中俣正義 モノクロ 35mmネガフィルム
1962(昭和37)年4月 長野県信濃町柏原 小林一茶旧宅 一茶は、50歳の時にふるさとの北国街道柏原宿のに戻った。1827(文政10)年に起きた柏宿の大火により家の母屋を失ってしまった。その後は、焼け残った土蔵(小林一茶旧宅)に移り住んだ。1957(昭和32)年に国史跡として指定。
中俣正義 モノクロ 35mmネガフィルム
1962(昭和37)年4月 長野県上水内郡信濃町柏原 俳人一茶の遺跡 歌碑
中俣正義 モノクロ 35mmネガフィルム
1962(昭和37)年4月 長野県上水内郡信濃町柏原 明治43(1910)年。一茶を敬慕する地元の人々が建てたお堂。一茶の俳号にちなんで俳諧寺という名が付けられた。
小林一茶
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文政10年(1827)閏6月1日水内郡柏原宿に大火があり宿場の殆どが焼失した。それにより各家が家作の時の屋敷地の境界で争いがないように総役人(名主・年寄・組頭・百姓代・等)が立会って慎重に相改め、若し後世に境界の争いがあった場合には、此の帳面をもって解決するように本陣兼問屋の中村六左衛門利賓(観国)が大火直後の6月中に記録した「屋敷間数改」である。被災者の戸数は不明だが無税である御伝馬屋敷数52軒、御高地屋敷数31軒である。俳人一茶も弟弥兵衛と共に被災者で間数改に間口4間3尺2寸5分づつ等分に屋敷地が分けて決められている。更に六左衛門は同年10月には子孫の為に「古例品々覚書」を27項目に亘り記録している。道橋用水の由来、番小屋の由来、助郷人馬口伝の先例、柏原宿成立ちの歴史、道路掃除受持ち区域の記述などである。最後に「以上宿場の古実等大略書いたがその外判らない事は古来からの書物で調べる事」と結んでいる。
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宿場の伝馬屋敷に住んでいる者は人馬を出さなければならない義務があった。人馬を出さない者は役金(人馬を出す代わりの金銭)を出さなければならなかった。この文書は天明6年(1786)年に北国街道柏原宿役人から問屋中村六左衛門に宛てた「宿役人馬改覚帳」である。文書の内容を見ると「馬1匹と人足1人を勤める者16人、馬1匹の者17人、人足1人の者21人、人足馬も出さないで役金1分の者7人、2朱の者4人、先状の者6人、全然出さない者16人で総人数86人である。一茶の父弥五兵衛の名前も認められ馬1匹人足1人で村では上の部に属している。これら人馬の指揮は問屋や宿役人が行うが直接現場で行うのは馬差人である。馬差人とは江戸時代宿場で伝馬の指示や荷物を割付た宿場の実務を行う下役人である。
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文化7年(1810)2月質入主元右衛門、保証人与惣次立会人六左衛門から当村柏原村(信濃町)弥兵衛宛家屋敷の質入証文である。概略は「与七が年貢金・夫銭や病気の時の薬代・扶持米等引負(借金)をして死んでしまった。そこで私元右衛門が後始末を引受与七の家屋敷畑を質に今年2月から来年の12月まで金7両2分を貴殿から借りて与七の借金を返済しその暁には質物を貴殿に渡すから年貢夫銭等を負担頂きたい。又来年の極月に借金を返済したら質地を返して頂きたい。返済不能なら質流れで貴殿のものにされたい。」とある。そして別に屋敷、雪隠を中心に見取図が描かれている。先ず質入れの物件は表屋敷半次郎の裏屋敷で与七持分の屋敷及び雪隠一ヶ所である。そして地所の表間口、裏間口の長さ、及び南北東側境等を明記し、更に与七生存中に買った高壱斗五合の地所も含めるとある。江戸時代は土地の売買は表向き禁止されていた。弥兵衛は俳人小林一茶の異母弟である。
作品
小林一茶筆,By Kobayashi Issa (1763–1827),金子すみ氏寄贈,Gift of Ms. Kaneko Sumi,東京国立博物館,Tokyo National Museum
琵琶湖の情景を詠んだ俳句。亀の長寿を富士=不死にかけている。墨線で描かれた素朴な絵は琵琶湖の湖水に泳ぐ亀を表現したものか。一茶の句集『おらが春』にも琵琶湖を読んだ句があり、自身その風光明媚さと自然を好んでいたようだ。素朴な色彩に富む作品。
小林一茶筆,By Kobayashi Issa (1763–1827),久世民榮氏寄贈,Gift of Ms. Kuze Tamie,東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p>江戸後期の俳人小林一茶が、自画像を描いて俳句を添えています。その句「子どもらを心でおがむ夜寒かな」は、『おらが春』(文政2年1819成立)に所収されます。老いの心境を筆に託した晩年の作品です。<br /></p>
小林一茶
小林一茶〈こばやしいっさ・1763-1827〉は、江戸時代後期の俳人。一茶のほかに亜道・雲外・俳諧寺など多くの俳号を用いた。宝暦13年〈1763〉信州柏原の農家小林弥五兵衛の長男として生まれる。3歳で母に死別。10歳の時に迎えた継母との不和が絶えなかった。父は15歳の春、一茶を江戸へ奉公に出した。その後、俳諧を習い覚え、30歳の春に西国行脚の旅に出て、遍歴の中に、各地の俳人と交友し、俳諧の道の修業につとめた。65歳の生涯を閉じた一茶の俳諧における高い業績は、いまさら多言を要しない。この懐紙は、一茶が卒然と筆を執ってしたためたもの。題の「花鳥」の二字など、習書の果てに至り得た円熟の境地を展開する。現存する句集の中に探り得ぬが、奔放かつ楽しい雰囲気を醸す。「花鳥/一茶/鴬やこの声にしてこの山家」
小林一茶
小林一茶〈こばやしいっさ・1763-1827〉は、江戸後期の俳人。信州の人。本名は信之(のぶゆき)、一茶はその号。菊明(きくみょう)、圯橋(いきょう)、二六庵(じろくあん)、俳諧寺(はいかいじ)、蘇生坊(そせいぼう)などの別号もある。3歳で母と死別、祖母に養育されるが、継母と折が合わず、15歳で江戸に出る。やがて、二六庵竹阿〈ちくあ・?-1770〉、のち溝口素丸〈みぞぐちそがん・1713-1795〉について俳諧を学ぶ。寛政4年〈1792〉から、四国、九州、甲斐、北陸と行脚して俳諧修行につとめ、晩年は郷里に定住した。人間味溢れる主観的な句を数多く詠み、その代表作に『寛政句帖』『おらが春』などがある。句と書と画が調和した自画讃など、数多くの遺墨を残す。この俳句短冊は、渇筆を駆使した淡々たる筆致が、その真面目を示すもの。句は、『七番日記』(文化7年〈1810〉正月より同15年(=文政元年)〈1818〉12月までの一茶の日記・句帖)に所収。人柄そのままに、枯淡ななかにも飄逸味が滲み出ている。
見に行く・調べる
小林一茶が火事で自宅の母屋を焼失した後に、移り住んだ土蔵。昭和32(1957)年に国史跡に指定。現在は、一茶が住んでいた当時の姿が復元されている。
小林一茶の故郷・信濃町柏原にある、一茶の生涯と文学を紹介する記念館。常設展示室では、一茶に関する資料や柏原宿の模型などが展示されているほか、江戸時代後期に建てられた宿場の民家を移築改装した民俗資料棟では、北信濃の民俗資料を展示。
『一茶全集第1巻』(信濃毎日新聞社)掲載の18,700句、『一茶発句総索引』(信濃毎日新聞社)掲載の追加198句を底本に、その後に発表された文献等により異形句を含み一茶の句21,000句以上収録。出典やキーワードで検索が可能。
参考文献
- 日立デジタル平凡社,平凡社
- 責任表示
- 二次利用について
ただし、画像は個々の権利表示による
- 最終更新日
- 2024/03/05