新しい時代へ
大正時代の落語と寄席
大正時代になっても、3代目柳家小さん(1857-1930)、初代三遊亭円右(1860-1924)、4代目橘家円蔵(1864-1922)などの落語研究会時代の名人の活躍は続きます。また、巧みな話芸と奇行で知られた3代目蝶花楼馬楽 (ちょうかろうばらく・1864-1914)、廓噺(くるわばなし)の名手初代柳家小せん(1883-1919)、昭和の名人5代目古今亭志ん生の師匠でもあった4代目古今亭志ん生(金原亭馬生・1877-1926)、英語とナンセンスな笑いを落語に取り入れた初代柳家三語楼(1875-1938)など、個性的な落語家も続いて落語の人気は保たれます。
一方で観客数は漸減し、明治40年代の後半には180~190軒あった寄席の数も大正半ばには120軒程度まで減少します。不振の原因は一般に明治時代末期からの不況の継続に求められますが、活動写真、浅草オペラなどの新しい娯楽が登場したことの影響も小さくなかったでしょう。大正の半ば以降、観客動員はいくぶん改善の兆しを見せるものの、大正12年(1923)の関東大震災で東京の下町は壊滅的な打撃を受け、市内にあった席数、観客数ともに激減し、翌年以降の回復後も席数、観客数ともに郡部が半分以上を占めるようになっていきます。
また明治時代の後半に日本に入っていたレコードが大正時代になってようやく一般化してきます。SPレコードによる落語が本格的に人気を得るのは昭和に入ってからですが、その兆しは大正期にあらわれます。さらに大正14年(1925年)に 開局したラジオは、落語のあり方を一変するほどのインパクトを持ちますが、それも昭和になってからのことです。
大正時代の落語界
大正時代の落語のもう一つの大きな波は、落語家に月給制を導入する株式会社化の動きで、これによって三遊派・柳派という二派閥を中心に回っていたそれまでの寄席のあり方、落語界の勢力図も大きく揺れ動くことになります。きっかけとなったのは、大正6年(917)8月に4代目橘家円蔵、初代三遊亭円右、3代目柳家小さんらが中心となって設立した東京寄席演芸株式会社で、月給制導入を掲げたこの会社の設立にはたちまち反対の声があがり、5代目柳亭左楽、4代目春風亭柳枝らが会社を脱退して落語睦会(三遊柳連睦会)を旗揚げします。以降、この両派を中心に落語家の離合集散がめまぐるしく繰り返され、落語協会、落語芸術協会という現在まで続く両協会並立の形で落ち着くのは、昭和に入ってからのことになります。
大正時代の主な落語家
レコード 新しいメディア
エジソンによって発明された蓄音機が日本に紹介されたのはかなり早く明治12年(1879)のことですが、レコード吹込みが本格的に行われるようになったのは、明治36年(1903)、英国グラモフォン社のフレッド・ガイスバーグ Fred Gaisberg が録音機材一式とともに来日・滞在して長唄・常磐津・義太夫・落語などの日本の芸能276面(片面円盤)を録音したのが始まりです。この録音は当時の名人芸を幅広く収録した貴重な記録になっていますが、この後すぐに米国コロンビア社など欧米のレコード各社が競って来日してさまざまな音源を録音しました。録音済みの原盤は本国に送られてプレスされ、それが日本に商品として輸出されましたが、こうしたレコード各社による録音を出張録音、録音されたレコードは出張録音盤と称されます。残念ながら三遊亭円朝はすでに死去していていましたが、3代目柳家小さん、初代三遊亭円右、4代目橘家円喬、異色の英国人落語家快楽亭ブラック、初代柳家小せんなどの録音が残っています。
しかしこの頃は蓄音機もレコードも高価なもので、一般の落語ファンの手に届くものではありませんでした。また、マイクロフォン発明以前のラッパに向かって吹き込む旧式の録音で、レコード自体聞き取りにくいものでした。大正時代に入ると次第にレコードの普及も加速しますが、本格的な大衆化はマイクロフォンを使った電気録音がはじまり、蓄音機やレコードの値段も下がった昭和期に入ってからです。演者としては、3代目三遊亭金馬、柳亭芝楽(7代目柳枝)、そして上方の人気者初代桂春団治、兵隊落語やモダンな風俗を巧みに取りいれた新作落語の柳家金語楼などが、レコード会社から引っ張りだこの売れっ子となりました。速記落語は「寄席に行かなくても楽しめる落語」への第一歩でしたが、聞き取りにくさがあるとはいえ、落語家の肉声が聞けるレコード落語はこれをさらに推し進めます。そして昭和2年に開始されたラジオ放送、戦後のテレビ放送はこれを極限にまで推し進めることになります。
こうした流れと反比例するように落語を聞く拠点としての寄席の数は減少の一途をたどりますが、大衆演芸としての落語はレコードやラジオなどのメディアによって全国的に浸透していきます。特に、第2次世界大戦後のラジオの民間放送に際しては多くの落語家が各放送局の専属となり、これを契機として昭和落語の黄金時代といってよいブームを招来することになります。
さまざまな蓄音機
歴史的音源で聴く落語 明治・大正
歴史的音源で聴く落語 昭和
コラム『大正時代の東京の寄席』
大正時代のはじめ、日露戦争後の不況が継続するなかで市内の寄席の数は150軒程度を保っていたが、大正3年(1914)の120軒から急激に減りはじめ、大正11年(1922)には84軒(市内)にまで落ち込む。減少の原因としては、活動写真や浅草オペラなどのこれまでにない娯楽に押されたことが大きかったと考えられる。
活動写真の観客の伸びは特にめざましく、「警視庁統計書」によれば、大正7年(1918)には映画館61軒、観客数909万8253人が記録されている。同じ年の寄席の動員人数は、124軒、404万3338人(昼夜合計)で、活動写真の統計が前年までは記載されていなかったことを考えても、その観客動員の伸びが急激で大きかったのよくわかる。寄席の404万人の観客数自体は大正初年の不況から回復しつつある数字で決して悪いわけではないが、勢いの差はいかんともしがたい。社会学者の権田保之助(1887-1951)は、みずからの講演をまとめた『民衆娯楽』(東京市、大正10年)で、明治36年(1903)と大正9年(1920)の活動写真・芝居・寄席の観客数を比較して、「此二十年の間に活動写真は六倍の増加をして居ります。芝居は二倍少し足らず、寄席の如きは却って減少をして、四分五厘の減少を来たして居ります。」と述べている(同書48P)。
また、この時期の「寄席」に、落語・講談・義太夫・浪花節の席がそれぞれ何軒あるかという実地調査を行ったのも権田の功績で、この貴重な調査は大正7年(1918)10月に東京市内の寄席をすべて回って実施され、『民衆娯楽問題』(同人社書店、大正10)の「第二部 寄席興行に関する調査及び鑑札」にまとめられている。これによれば、当時東京市内に97軒あった寄席の内訳は、落語席(色物席)30軒、講談席25軒、浪花節席31軒、義太夫席9軒、雑席2軒である。落語席は全体の30.9%で浪花節席の32%に及ばないが、定員数の合計から割り出したキャパシティでは落語席が8.910で全体の約38%、浪花節席は7,297で31%、となっている。権田は結論として、「現今寄席興行に於て最も隆盛なるものは落語」としている。
また、地域性との相関にも着目して、「「落語」は主として商人及び学生の色彩濃き地区に繁栄し(例へば日本橋、京橋、神田等の如き)、「講談」は手工業者の居住する地域に喜ばれ(例へば神田、日本橋、浅草、下谷の如き)、「浪花節」は工場労働者の多き地方に歓迎せらるゝ傾向がある樣である(例へば本所、深川の如し)」という興味深い考察を加えている。
この時代、郡部の新興市街地(世田谷、淀橋(新宿)、中野、世田谷、目黒など)への寄席の広がりはますます顕著で、『警視庁統計書 大正10年』によれば、市内88軒に対して郡部54軒を記録して観客数を押し上げているが、大正12年(1923)の関東大震災で東京の下町が灰燼に帰すと市内の寄席は壊滅的な打撃を受ける。震災からの復興はすばやく、翌年には市内107軒、郡部77軒という立ち直りを見せるが、市内の席数はその後再び減少に転じ、昭和に入ると郡部と市内の席数は逆転するにいたる。
参考文献
- 諸芸懇話会, 大阪芸能懇話会 編,平凡社
- 山本進 著,河出書房新社
- 暉峻康隆 著,河出書房新社
- 橘右近 著,小学館
- 小島貞二 著,エーピーピーカンパニー,丸善出版事業部
- 関根黙庵 著,雄山閣
- 権田保之助 著,同人社書店
- 都家歌六 著,国書刊行会
- 「落語」「寄席」「三遊亭円朝」「速記」の項目。
- 「落語」「寄席」「速記」の項目。
- 「落語」「寄席」の項目。


