長谷川等伯
安土桃山時代を代表する画家。金碧障壁画と水墨画の両分野で画風を確立した長谷川派の祖
1539―1610(天文8―慶長15)
安土桃山時代、江戸時代初期の画家。能登国七尾(現在の石川県七尾市)の生まれ。幼名は又四郎、のち帯刀(たてわき)。実父は畠山家の家臣・奥村文之丞。養父は染色業を営む長谷川宗清(むねきよ)で、雪舟の弟子・等春(とうしゅん)の門人であった。能登時代の等伯は長谷川信春(しんしゅん)と号して仏画や肖像画を制作、作品は能登一帯に残る。元亀3年(1572)に京都本法(ほんぽう)寺の「日堯(にちぎょう)上人像」を描いており、これ以前に上洛したものとみられる。天正中頃に等伯と改号、「伝名和長年(なわながとし)像」「武田信玄像」は、その頃の作品とされる。
等伯はやがて本法寺の日通(にっつう)や千利休との交際を通じて、中国宋元や室町時代の水墨画に傾倒し、豊臣秀吉が天正10年(1582)に織田信長の菩提を弔うために創建した大徳寺総見院に水墨障壁画(現存せず)、同17年には同寺三玄院の障壁画を描いた。文禄2年(1593)には秀吉が長子鶴松(棄丸)の菩提のため建立した祥雲禅寺(しょううんぜんじ)に、子の久蔵(きゅうぞう、1568ー1593)はじめ一門(長谷川派)を率いて壮麗な障壁画(智積院蔵)を制作、桃山美術を代表する作品とされている。等伯は水墨画と金碧障壁画の両分野で画風を確立し、長谷川派は狩野派に対抗する存在となったが、後年は雪舟に傾倒、自ら「雪舟より五代」を称した。慶長9年(1604)法橋(ほっきょう)、翌年法眼(ほうげん)となる。同15年徳川家康の招きにより江戸に向かう途中病にかかり、到着間もない2月24日に客死。菩提寺は本法寺教行院、法名は厳浄院等伯日妙居士。主な作品は前掲のほか、「松林図屏風」「枯木猿猴(こぼくえんこう)図」など。なお、本法寺の日通が筆録した『等伯画説』は日本最初の画論書として貴重である。
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長谷川等伯の出身地、石川県七尾市に所在。信春時代の「善女龍王図」「愛宕権現図」などの作品を所蔵。 館内のハイビジョンコーナーで作品を見ることができる。
京都市上京区にある日蓮宗寺院。長谷川等伯は本法寺10世・日通と交友があり、等伯の作品やゆかりの品が伝来する。
京都東山区の智積院の宝物館には、長谷川等伯一門による桃山時代の障壁画が収められている。「桜図」「楓図」「松に秋草図」「松に黄蜀蔡図」「松に梅図」「雪松図」で、国指定重要文化財の「松に梅図」を除き、すべて国宝。
日本と東洋の文化財を守り伝える中心拠点としての役割を担う我が国の総合的な博物館です。
平安時代から江戸時代の京都文化を中心とした文化財を取り扱う地域に根ざした博物館です。
長谷川等伯の作品を所蔵。年に何度か展示を行う。
長谷川等伯の京都ゆかりの地を紹介。
参考文献
- 日立デジタル平凡社,平凡社
