縄文~安土桃山時代の美術
縄文時代から安土桃山時代における日本美術の変遷
日本の美術は縄文時代の土器や土偶の造形にはじまり、四方を海に囲まれた島国の風土の中で独自の美の世界を育んできた。しかし、その背景には、常に中国や朝鮮をはじめとした外来文化の影響が見て取れる。大陸から農耕文化が伝来し、高い装飾性を特徴とした縄文土器に代わって、より実用性を重視したシンプルな造形の土器が普及した弥生時代。仏教が日本にもたらされ、宗教・文化・美術の枢軸を担った飛鳥時代から室町時代。ポルトガル・スペインとの南蛮貿易が始まり、西洋の風俗に影響を受けた異国趣味的な絵画や工芸品が生まれた安土桃山時代。日本が諸外国の文化の受容を行いながら、わが国固有の文化と美意識を形成していった、縄文時代~安土桃山時代の美術の様相を概観する。
奈良時代以前(~8世紀末頃)
日本美術の始原と仏教美術の展開
日本の造形芸術の萌芽は、紀元前1万2千年頃、縄文時代に作られた「縄文土器」まで遡ることができる。日本における土器の出現は世界的に見ても古く、また、出現からほどなくして、縄文や幾何学文などのさまざまな文様で飾られるようになった。やがて土器を飾る装飾は、実用の範疇を超えた「過剰装飾」とも言えるデザイン性をもつ。粘土を焼成して作る人形「土偶」も、縄文時代を代表する造形物である。弥生時代に入ると、大陸から伝来した稲作農耕が普及する。この時代、過剰な土器の装飾は影を潜め、農耕中心の生活様式を反映し、壺や甕など、シンプルで美しい形の土器が主流となった。また、大陸から伝わった金属器の製造技術を用いて緻密な文様を刻み込んだ祭祀用の銅鐸や青銅の鏡も弥生時代に発達する。3世紀後半から6世紀までの古墳時代の造形は、日本各地の古墳から出土した品々からその特徴をうかがい知ることができる。古墳の墳丘に立て並べられた「埴輪」のほか、鏡、玉類、金属製の武具・馬具など多彩な副葬品が当時の技術と美意識を今に伝えている。6世紀半ば、飛鳥時代に仏教が伝来すると、日本美術の主要なジャンルの一つとなる仏教美術が発達しはじめる。続く、奈良時代も仏像・仏画・寺院建築など、仏教美術が華々しく展開した。奈良・東大寺の正倉院には、これらの仏教関連品をはじめとした、奈良時代の貴重な宝物の数々が納められている。
平安時代(8世紀末~12世紀末頃)
密教美術の開花と和様の展開
平安時代の美術は、900年頃を境に大きく前・後期に分けられる。平安時代前期は、奈良時代に続き、唐(中国)の文化が積極的に摂取された時代であった。9世紀初頭に、唐から帰国した最澄・空海らによって密教が伝来すると、平安京を鎮護する宗教としての地位を獲得。美術の分野においても、密教的な世界観を図示した曼荼羅や密教諸尊の絵画・彫像、法具類などの密教美術が主流となった。しかし、894年に遣唐使が廃止されると、大陸との交渉は途絶え、平安時代後期には、日本の風土や暮らしに合った国風文化が醸成されることとなる。9世紀末には、漢字を元にした日本独自の音節文字「かな文字」が発達を遂げ、和文における文学表現が成熟し、『源氏物語』『古今和歌集』などのかな文字を用いた文学作品が生み出される一方、造形芸術においても和様化が推し進められた。絵画では、中国的主題を描いた「唐絵」 に対し、日本の風俗を題材とした「やまと絵」が展開されたほか、物語文学の発達に応じて、物語絵の絵巻や冊子絵が多く作られた。工芸の分野では、蒔絵が日本的な様式を確立し、貴族の調度品や建築、仏教関係の道具など幅広く展開された。
鎌倉時代(12世紀末~14世紀中頃)
絵画・仏像におけるリアリティ表現の追求
鎌倉時代は公家政権と武家政権の並存体制から、やがて武家政権が確立されていく、という時代の流れを反映し、初期は優美な公家文化が中心、後に公家文化と宋文化を摂取した武家の文化が構築されていった。このような社会の変遷を受け、美術工芸の分野においても、写実的で剛健な武家好みの作品が出現する。この時代、それまで描かれることのなかった世俗の人びとが絵画の対象となり、肖像画が描かれるようになった。鎌倉時代初期には、藤原隆信・信実父子がやまと絵形式の写実的な肖像画「似絵」を完成し、公家・武家の間で流行した。また、「似絵」の様式を用いて歴史上の歌人の肖像画を描いた「歌仙絵」も盛行する。一方、絵画だけではなく、仏像の分野でもリアリティを追求した彫刻が登場。とりわけ、建久年間 (1190~99) の東大寺復興造仏を手掛けた運慶・快慶らの慶派は、力強く写実的な仏像を数多く生み出し、鎌倉彫刻様式を築いた。
室町時代(14世紀中頃~16世紀中頃)
禅宗の影響下で醸成された、北山文化と東山文化
室町時代前期、南北朝合一を果たした第3代将軍・足利義満は、応永元年(1394)将軍職を義持に譲ると、京都の北山に山荘を造営し、金閣寺(鹿苑寺)を建てた。この北山殿を中心に展開された文化を「北山文化」と呼ぶ。伝統的な公家文化と新興の武家文化の融合が進むと同時に、日明貿易を通じて中国文化を積極的に摂取し、禅宗の影響を受けた水墨画や五山文学が発達した。芸能面では、義満の同朋衆、観阿弥・世阿弥が猿楽に曲舞などの要素を加えた能楽を大成。義満の時代に、室町幕府は最盛期を迎えた。室町時代後期には、応仁の乱の後、政治的権力を失った第8代将軍・足利義政が将軍職を義尚に譲り、文明14年(1482)、東山に山荘(慈照寺銀閣)を造営。この東山殿を中心に生み出された文化を「東山文化」と呼ぶ。義政は、芸術面で卓越した指導力を発揮し、水墨画、書院造、茶の湯、連歌、立花、枯山水など、その後の日本文化の源流となるさまざまな芸術がこの時代に開花した。絵画の分野では、遣明船で明へ渡った雪舟が日本水墨画を大成。また、幕府の御用絵師を務めた土佐光信の土佐派と狩野正信の狩野派が画壇の二大勢力となり、室町美術を牽引した。
安土桃山時代(16世紀後半)
豪華絢爛な桃山美術とわび茶の成立
安土桃山時代は、永禄11年(1568)の織田信長上洛から、慶長8年(1603)の江戸幕府開設までの約30年間という短い時代であるが、この時代は日本美術史上極めてエネルギッシュで重要な時代であった。絵画の分野では、武将たちが構築した城郭や住宅の内部を飾るため、金箔を貼った画面に濃彩を施した金碧障屏画が盛んに制作された。狩野派の狩野永徳が織田信長の安土城、豊臣秀吉の大阪城、聚楽第などの障壁画を次々と手掛け、金碧画隆盛の契機となった。また、長谷川派の祖・長谷川等伯は、祥雲寺 (現・智積院) の華麗な金碧花木図などを描く一方で、水墨画においても日本独自の様式を確立した。16世紀中頃に、ポルトガルやスペインとの南蛮貿易が始まると、西洋の文物や風俗に影響された異国趣味的な絵画や工芸品が生まれる。これらは「南蛮美術」と呼ばれ、特に漆芸においては、螺鈿を多用し西洋風の文様をほどこした「南蛮漆器」と称される輸出用の作品群が多く作られた。こうした華やかな流れの一方、桃山時代は千利休が大成した「わび茶」が大いに流行し、簡素な中に美を見出す「わび」の美意識も形成された。
参考文献
- 『世界大百科事典』(japanknowledge)
- 『日本大百科全書』(japanknowledge)
- 『国史大事典』(japanknowledge)
- マルチメディアマイペディア 百科事典CD-ROM日立デジタル平凡社,平凡社
- 日本美術史入門河野元昭 監修,平凡社
- 日本美術史 : カラー版辻惟雄 監修,美術出版社
- JapanKnowledge所収コンテンツの最終アクセス日は、いずれも2021/12/20。