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宸翰 天皇の書2

南北朝時代から室町時代までの宸翰の名品。

天皇の自筆(宸筆)であるすべての書きものの総称。日記・記録・文書(書状・宸筆綸旨・宸筆女房奉書など)・詠草・懐紙・短冊・経文・奥書・賛などの多岐にわたる。もっとも古いものとしては、奈良時代の聖武天皇のものが2点あり、それにつづく孝謙天皇・淳仁天皇にも各1点がある。平安時代では嵯峨天皇・宇多天皇・醍醐天皇・後朱雀天皇・後白河天皇・高倉天皇のものが伝存する。鎌倉時代以降になると後鳥羽天皇をはじめ、土御門・後嵯峨・後深草・亀山・後宇多・伏見・後伏見・後二条・花園の諸天皇など伝存数も多くなり、南北朝時代では後醍醐天皇、後村上天皇の数十点のほか、北朝の天皇の宸翰もかなりの数が遺されている。後小松天皇以降、室町時代から江戸時代の天皇の伝存数は非常に多い。これらの主要な部分は帝国学士院編の『宸翰英華』に収録されている(北朝天皇の宸翰を除く)。宸翰は政治・経済・宗教・学問・文芸などあらゆる方面の歴史研究の資料として重要であり、また、各天皇の事歴・人格・資性・教養を知るにも貴重な文化財である。

南北朝時代

後村上天皇(1328-1368)の「宸翰消息(部分)」。後醍醐天皇の皇子で征西将軍であった懐良(かねよし)親王宛、正平2年(1347・北朝貞和3年)9月頃の消息。当時薩摩にあった親王に上方の戦況を伝える。

長慶天皇(1343-1394)の「宸筆御願文(部分)」。北朝方との合戦に雌雄を決して勝利することを願った願文。元中2年(1385・北朝至徳2年)9月10日付。金剛峯寺蔵。

後亀山天皇(?―1424)筆。応永元年(1394)11月15日付。観心寺蔵。

後光厳天皇(1338-1374)と尊円法親王(1298-1356)の応答の消息。親王から天皇へ書かれた消息の行間に天皇が返事を書いている。このように受け取った手紙の行間に返事を書いた形式の手紙を「勘返状」という。尊円法親王は、伏見天皇の第六皇子。能書で知られ、青蓮院流の流祖。後光厳天皇も若年から親王に書を学んでいる。 

後円融天皇(1358-1393)の宸翰消息。 嘉慶元年(1387)正月に、天皇が雅楽の旋律に関して臣下に諮問した消息。後円融天皇は北朝5代の天皇で、後光厳天皇の皇子。名は緒仁。永徳二年(1382)に皇子の幹仁親王(後小松天皇)に位を譲った。

後小松天皇(1377-1433)の和歌懐紙。応永21年(141)12月19日、称光天皇(後小松天皇皇子)の即位の際に書かれたもの。「愚詠 わたりますはしめの/時と臣も南の/とのに/いて事つゝ」。

室町時代

称光天皇(1401-1428)が自ら書写した「論語抄」の一冊。応永27年(1420)の奥書がある。

後花園天皇(1419-1470)のものと伝える色紙。上下は雲紙に金泥で草の下絵が描かれている料紙。『新古今和歌集』の和歌「あけくれは昔をのみぞしのぶぐさ葉末の露に袖ぬらしつつ」が散らし書きされている。

後土御門天皇(1442-1500)は後花園天皇の第一皇子で、母は嘉楽門院信子。名は成仁。皇位を嗣いでまもなく応仁の乱が起こり、下剋上の世相のなか、三十六年間にわたり在位した。この三首の和歌懐紙がいつ書かれたものかは定かではないが、ゆったりとしたその筆跡は天皇の穏やかな人となりをよく表す。

重要美術品。

文明13年(1481)、後土御門天皇29歳の時の宸翰著到(ちゃくとう)和歌短冊。御製(ぎょせい)各一首の短冊11枚に、侍臣7人の短冊118枚が残る。著到和歌とは、日数と人数を決め、毎日所定の場所に集まり、事前に定めておいた題によって、一人一首あて読む和歌のこと。

後柏原天皇(1464-1526)は、後土御門天皇の第一皇子。名は勝仁(かつひと)。詩歌をよくした天皇として知られる。また、能筆として名高く、その書風は後世、後柏原院流の名で呼ばれた。漢字・仮名ともに豊潤な筆使いに特徴がある。

後柏原天皇の筆による唐の詩人・白居易の詩「華陽洞裏 秋壇上 今夜清光 此處多」と平安時代中期の歌人・藤原雅正の和歌「いつとても 月みぬ あきは なき物 を わきて今夜の めづらしき哉」(『後撰和歌集』)の書写。

後柏原天皇の筆による『和漢朗詠集』の書写。写されているのは『和漢朗詠集』巻下、慶賀に収められている橘正通(たちばなのまさみち)の漢詩と、作者未詳の和歌である。

後奈良天皇(1456-1557)が「暁萩」以下の題で詠んだ歌七首を記し、歌会等に先だって点者に評を求めた「詠草」。各題の一首目の歌に見える点は点者が加えたもの。点者は最初の「さらに又」の歌をとりわけ高く評価しており、「殊勝々々」という賞賛の言葉を書き加えている。後奈良天皇の歌にはしばしば父帝の後柏原天皇が点を加えており、ここに見える点も同帝のものかもしれない。

後奈良天皇が「初鶯」の題で詠んだ「山さむみ」と「けふに明て」の二首の歌のうち、最初の「山さむみ」に点がつけられている。点者はこちらの歌をよしとしたわけであるが、ただ、そこにも「うくひすも」を「うくひすの」にするなど、三カ所にわたって添削が施されている。

後奈良天皇は大永6年(1526)後柏原天皇のあとを受けて践祚したが、戦乱の世に即位式を挙行する費用がなく、10年後にようやく即位したことで知られる。無署名で歌の二行が揃って書かれているのが宸筆の短冊の特徴。

後奈良天皇の筆跡は、書流史上、後柏原院流にその名を連ねており、父帝の豊潤にしてのびやかな書風に酷似する。この短冊は、自署に「知仁」とあるところから、即位以前の親王時代の執筆と知る。歌題は別筆。

この短冊の歌は、『新古今和歌集』巻第一・春歌上に所収される慈円(じえん・1155-1225)の詠歌。古歌の書写ゆえに、署名も書かず、二行目は一字下げて書写する。短冊書写の故実である。茶色地の料紙に、金泥で藤などの草木、銀泥で雲や池などが描かれた豪華なもので、稀有な存在である。

懐紙・短冊の書写にあたっては、天皇は署名を書かないのが故実。歌題より、天文2年(1533)7月の月次歌会のものと推定される。

天正2年(1574)3月、正親町天皇(1516-1593)が名香として知られる蘭奢待の小片を九条稙通に下賜するにあたり、同人に宛てた散らし書きの消息。蘭奢待は織田信長の奏請によって二片を切り取ることが許され、一片は信長に下賜された(『信長公記』)。文中の「ふりょに勅封をひらかれ」には、強引ともいえる信長の要請に応じざる得なかった天皇の無念さがにじむ。二紙にわたって書かれた消息の一枚目。

二紙にわたって書かれた消息の二枚目。

天正5年(1577)8月、正親町天皇が荒廃していた近江正法寺(大津市)の再興にあたり、諸国から奉加を募るべきことを醍醐寺理性院の堯助に命じ た消息。2枚続きに書かれている。同寺は西国三十三所観音霊場の第十二番札所として古くより貴賤の信仰を集め、また「ちよくくわん所」とあるように勅願寺でもあった。「女房奉書」は、天皇に近侍する女官が天皇の意思を奉じて執筆する仮名の文書のことだが、天皇みずからが筆を執ることもあり、これを「宸翰女房奉書」と呼ぶ。

二紙にわたって書かれた消息の二枚目。文末に「りしやうゐんとのへ(理性院殿へ)」という宛名が記されている。

正親町(おおぎまち)天皇(1517~93)は、後奈良天皇の第一皇子。名は方仁(しげひと)。その流麗な書風は、父帝後奈良天皇と同じく、後柏原天皇の書の流れをくむ。戦乱の世の天皇にふさわしく、その筆跡には強いはりが感じられる。

祖父の後柏原院流に属す、力強く流麗な筆致である。この短冊には「方仁」の署名があり、即位以前の筆跡。堂々とした書きぶりで、30代の壮年期の筆と思われる。

正親町天皇の書は祖父の後柏原院流に属し、力強く流麗な筆致である。この短冊には「茶地丸」の署名があり、元服以前、10代前半の筆であろう。すでに能書の才あふれる筆致を示している。歌題は別筆。