聖徳太子こと厩戸皇子は、推古天皇の摂政(せっしょう)として冠位十二階、憲法十七条を定めて中央集権化に務めたとされ、対外的には遣隋使を派遣して隋との間に国交を回復した。これら政治的業績の一方で、その名を不朽のものとしているのが、仏教興隆にまつわる功績である。
14、15歳の頃、蘇我馬子とともに廃仏派の物部守屋(もののべのもりや)を討つと、戦勝に感謝して四天王寺を建立した。また、法華(ほっけ)・維摩(ゆいま)・勝鬘(しょうまん)の三経を講説した『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』を著し、憲法十七条で「三宝を敬え」と謳い、さらには斑鳩寺(いかるがでら)を建立するなど、仏教の興隆に貢献したといわれる。
こうした業績からか、太子が人間を超えた存在として人々から祀られるようになり、『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』では、夢殿に籠った太子が入定中に唐へ渡り前生に所持していた法華経を持ち帰った、太子は救世観音(如意輪観音とも)の化身であり、厩戸皇子としての生を終えたのち聖武天皇に再誕して大仏を造ったといった逸話が紹介されている。さらに真言宗では弘法大師に再誕したという説が生まれ、太子信仰が流布する契機となったといわれている。
関連するひと・もの・こと
世界最古の木造建築物群をもつ聖徳太子ゆかりの寺。法隆寺東院伽藍のうちの夢殿には、聖徳太子をかたどった観音像(救世観音)が安置されている。
奈良時代の天皇。国家安泰のため仏教を重んじて諸国に国分寺を建立し、大仏造営を発願した。『聖徳太子伝暦』には、厩戸皇子としての生を終えたのち、聖徳太子は聖武天皇に再誕して大仏を造ったという逸話が紹介されている。
寺院の塔のなかでも5階建てのものを指す。塔は仏舎利を安置するインドのストゥーパに起源を持つ。聖徳太子と推古天皇が創建した法隆寺五重塔は1300年以上もの歴史があり、木造建築としては、世界最古の建築物。
日本の神話や歴史を伝える書で、奈良時代に編纂された。「厩戸皇子」に関する記述がある。
古代より人々に讃仰されてきた日本の最高峰。聖徳太子には、「甲斐の黒駒」に乗って空から富士山に降り立ったという伝説がある。
本で知る
佐々木 惣四郎
「聖徳太子」という名称は、天平勝宝3年(751)に成立した『懐風藻』の序文が初見といわれる。
[舎人親王] [編]
掲出本は、慶長15年の古活字版で、全巻刊行された日本書紀刊本の嚆矢。
狩谷望之 證注
平安中期に成立したと考えられる聖徳太子の伝記。仏教伝来を「志癸島天皇(欽明天皇)御世戊午年(538)」とするなど、『日本書紀』と異なる所伝を含んでいる。本書は江戸時代の考証学者・狩谷棭斎による注釈書。
写
編年体で書かれた聖徳太子の伝記。2巻本。平安時代中期に成立したと考えられる。先行する聖徳太子の伝承・伝記を集大成したもので、太子信仰の基盤となった。
写
聖徳太子,写
聖徳太子が著したとされる、三経御疏(法華経・維摩経・勝鬘経の注釈書)の1つ。
聖徳太子の生涯を描いた奈良絵本。奈良絵本とは、室町時代末期から江戸時代前期にかけて作られた絵入の古写本のこと。画像は、35歳の聖徳太子が推古天皇に勝鬘経(しょうまんぎょう)を講じている場面。
境野黄洋 著,丙午出版社
仏教史学者・境野黄洋が執筆した聖徳太子の伝記。
大和田建樹 著,博文舘
歴史・伝記シリーズである「日本歴史譚」の一冊として発行された聖徳太子の伝記。
吉田修夫 著,森江書店
高楠順次郎, 望月信亨 編,金尾文淵堂
聖徳太子が著したとされる、法華・維摩・勝鬘 三経の注釈書。
もっと知りたい
秦致貞筆,東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p>聖徳太子の生涯に起こった様々な奇跡を、太子の伝記に基づいて描いた作品。もとは、法隆寺の東院伽藍(とういんがらん)にある絵殿(えでん)の内壁を飾っていた障子絵でした。現在は10枚のパネルに仕立てられています。<br />東院伽藍は、聖徳太子が住んでいた斑鳩宮(いかるがのみや)の跡地に、奈良時代になって建てられた寺院です。法隆寺における太子信仰の中心をなしてきました。<br />画面には太子の住んだ奈良・斑鳩のあたりを中心とした壮大な自然景観がパノラマのように展開されており、その中に60近い物語の場面が配置されています。それぞれの場面には簡単な説明を記した色紙形が貼られています。向かって右側は飛鳥地方から富士山のある静岡・山梨まで。左側には大阪の四天王寺から海を隔てて中国まで描かれています。<br />記録によってこの作品は、平安時代の延久元年(1069年)の2月から5月にかけて、秦致貞(はたのちてい)という絵師が描いたものと分かっています。唐草文様を織り出した絹に絵が描かれており、同様の絹織物は平安時代の貴族の衣装にも用いられていました。<br />なお、この作品は現在残っている数ある聖徳太子絵伝の中でも最古のもので、かつ最大の遺品です。<br /></p>
上野法橋・但馬房筆,By Kōzuke no Hokkyō and Tajima no Bō,東京国立博物館,Tokyo National Museum
聖徳太子の生涯の功績、約70の場面が描かれた作品。太子の事績が季節ごとに分類され、春夏秋冬の各幅に描かれているのが特徴。
川合玉堂氏寄贈,Gift of Mr. Kawai Gyokudō,東京国立博物館,Tokyo National Museum
聖徳太子(しょうとくたいし)は、冠位十二階(かんいじゅうにかい)や十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)を定めるなど、天皇を中心とした中央集権国家の体制をうちたてた、飛鳥時代(あすかじだい)の政治家です。四天王寺(してんのうじ)や法隆寺(ほうりゅうじ)を建てるなど、仏教の興隆にもつとめました。 この作品は、聖徳太子の生涯を描いた3幅の掛け軸です。第一幅は太子が16歳から21歳までの間の11場面、第二幅は22歳から29歳までの間の13場面、第三幅は太子の死からその24年後の大化(たいか)の改新(かいしん)により蘇我入鹿(そがのいるか)が暗殺されるまでを描いています。場面の内容からすると、もとは8幅(ぷく)一組で太子の全生涯の物語をカバーしていたと考えられます。 興味深いエピソードがたくさん描かれているのですが、とても全部は紹介できませんので、ここではそのうちの一つをご紹介しましょう。 第二幅の下のほうを見てください。黒い馬に乗った聖徳太子が描かれています。これは、太子がまだ20代の頃のお話。太子が諸国から馬を献上させたところ、その中に1頭の神馬がいることを見抜きました。太子がその馬にまたがると、馬は天高く駆けて雲の中に消えていき、富士山を越え、現在の長野県、信濃国(しなののくに)まで行き、さらに今の福井県から新潟県にあたる越前(えちぜん)・越中(えっちゅう)・越後(えちご)を通って3日で都に駆け戻ったという伝説の場面です。雪をかぶった富士山を、聖徳太子をのせた馬が軽々と越えていく様子が描かれています。日本仏教興隆の祖として知られる聖徳太子の生涯の事蹟を描いた図です。各幅とも上から下へ順に事蹟が配されています。事蹟内容から本来は八幅一組と推測され、独自の場面選択や図様が特徴的です。品のある穏健な描写と彩色が美しい作例です。
横山松三郎撮影,By Yokoyama Matsusaburo (1838-84),東京国立博物館,Tokyo National Museum
重要文化財。明治5年(1872)撮影。
東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p> 6世紀半ばごろ、アジア大陸から朝鮮半島を経由して日本に仏教が伝えられました。その後、仏教を受け入れるのに大きな役割を果たした人物に、聖徳太子(しょうとくたいし)という人がいます。聖徳太子は飛鳥時代に天皇を助けて、当時の日本の国家の中心で活躍しました。また現在の奈良や大阪などの各地に寺院を建て、日本で仏教が発展する基礎をつくりました。この聖徳太子に対する信仰は、彼が亡くなってから間もなく起こりました。聖徳太子の生涯には数々の奇跡的なエピソードが伝わり、そのエピソードを描いた絵画や、そのときどきの年齢に応じた姿の彫刻が作られるようになります。とくに13世紀の鎌倉時代以降、信仰の高まりとともに作品の数も飛躍的に増えていきます。<br /> この像はそのなかの一つで、聖徳太子が2歳のときの姿です。2歳のとき、東の方角を向いて両手を合わせ、「南無仏」(なむぶつ)と唱えた、という伝承にもとづいています。「南無仏」とは、仏を信仰することを意味します。赤い袴(はかま)をはき、右の腰から袴を留めるベルトのような紐が垂れています。足は袴のなかに隠れ、裾(すそ)が後ろの方に引きずられている点も特徴です。<br /> 頭は体全体に比べて大きく、体の肉付きはふっくらとしていて、幼い子どもの体の特徴をよくあらわしています。手やお腹に括(くく)り線を刻むことで、体の肉付きの良さがより強調されています。一方で、眉をややひそめて目尻をあげる表情には、利発(りはつ)さが感じられます。</p><br /><p>ふっくらとした幼児らしい体つきながら、凛々+りり+しい表情で立つ聖徳太子像です。二歳の春、東方を向いて合掌し「南無仏+なむぶつ+」と唱え、手から釈迦+しゃか+の遺骨である仏舎利+ぶっしゃり+を出現させた伝承にちなむ姿で、南無仏太子と呼ばれます。鎌倉時代後期以降盛んに造像され、篤+あつ+く信仰されました。<br /></p>
聖徳太子〈しょうとくたいし・574?-622?〉は用明天皇〈ようめいてんのう・?-587〉の皇子。母は穴穂部間人皇女〈あなほめのはしひとのひめみこ・?-621。欽明天皇皇女〉。父帝が大いに愛して皇居の南上殿に住んだところから、上宮(かみつみや)の名に呼ばれ、上宮聖徳皇子と称した。叔母推古天皇〈すいこてんのう・554-628〉の皇太子となり、万機を摂政した。朝鮮半島、ことに新羅や隋王朝との対外関係を密接にして、つぎつぎに政治改革を打ち出した。冠位十二階や十七条憲法などはその顕著なもので、新たな君臣秩序を目指した。また、仏教の信仰にあつく、法隆寺や四天王寺ほか多くの寺院を創建した。著作として『三経義疏』をのこしている。現存する聖徳太子の像は、南無仏・孝養仏のほか、「勝鬘経講讃図」、さらには「聖徳太子像」(一幅・宮内庁保管)などがある。ここに掲げるものは南無仏と呼ばれるもので、聖徳太子が2歳の時に、東に向かって合唱し「南無仏」と唱えたという伝説を基につくられたもの。童形半裸、袴姿で表されている。
聖徳太子〈574-622〉は、推古天皇の摂政として、官位十二階・十七条憲法の制定、新しい国家体制の基礎となし、遣隋使の派遣による大陸文化の導入、さらには深く仏教に帰依して四天王寺・法隆寺を建立するなど、古代の政治・文化に偉大な功績を残したことで、わが国歴史上最も著名な人物の1人である。死後まもなくして、その遺徳をしのび礼拝・供養する聖徳太子信仰が起こり、日本仏教の祖として、時代・宗派を超えて篤く信奉された。まず、中納言藤原兼輔が、延喜17年〈917〉に『聖徳太子伝暦』(2巻)を編んだ。これは、太子の事跡を編年体に叙述したもの。太子受胎の伝説から薨去まで、太子の生涯にわたる。さらに大化改新(645年)や太子一門・蘇我氏の滅亡まで含んでいる。延久元年〈1069〉には絵師秦到貞によって『聖徳太子伝暦』を絵画化した障子絵が作られるなど、これに準拠した彫刻や画像・絵伝がつぎつぎに制作された。なかでも太子絵伝は、四天王寺絵堂の壁画、法隆寺絵殿の障子のほかに、絵巻や掛幅など、さまざまな形式で制作された。本図は、太子孝養像の一種で、太子16歳の絵姿。父用明天皇の病気平癒を祈る姿を表わしたとされるもの。髪を美豆良(古代男子の髪型の一種。頭髪を左右に分け、これを束ねて耳のあたりで結ぶ)に結い、袍の上に袈裟を着けた童形で、両手で柄香炉を持つ立像という典型的な姿に描かれている。装飾性の強い豪奢な色彩や台座・香炉の形から、室町時代・15世紀の制作と思われる。また、二重の框座(かまちざ)に乗る画像は珍しい。
懸仏は御正体(みしょうたい)ともいい、神仏習合思想の本地垂迹説(神の本体は仏であり、神は仮の姿であるとする神仏同体説)から生まれてきた。神社に奉納され御神体として扱われてきた鏡に、仏像が組み合わされたもの。これは鏡面に聖徳太子像を彩画している。仏教興隆に尽力した聖徳太子を蓮の上に立たせ、仏に見立てている。聖徳太子が2歳の時に、東に向かって合唱し「南無仏」と唱えたという伝説を図像化しており、坊主頭の裸体に緋の裳をつけて合掌する姿に描く。
京都国立博物館 Kyoto National Museum,Kyoto National Museum
聖徳太子と推古天皇が創建したとされる法隆寺(奈良県斑鳩町)の金堂壁面に描かれていた仏教絵画。昭和24年(1949)の火災で焼損した。
徳力富吉郎,内田美術書肆版
徳力富吉郎が描いた法隆寺夢殿の錦絵。
国芳,重
江戸時代末期の浮世絵師・歌川国芳(うたがわくによし)の作品。絵の中には、「聖徳太子降誕の比讃岐国兄麿が園に怪き瓢を生じ霊蛇来てこれを守る」と記載されている。
東京国立博物館,Tokyo National Museum
金泥で描いた宝塔の中に経文を書写した法華経の断簡。伝聖徳太子筆。見返しに「聖徳太子絵伝」にもある聖徳太子が黒駒に乗って富士山まで飛ぶ伝説が描かれる。太秦・広隆寺に伝来したことから太秦切と呼ばれる。
飛鳥時代の染織工芸品。聖徳太子の死去を悼んで妃の橘大郎女が作らせた。
吉川霊華筆,By Kkawa Reika (1875 - 1929).,岡田かつ子氏寄贈,Gift of Mrs.Okada Mitsuko,東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p>霊華は、はじめ、浮世絵師橋本周延の門に入り、のち狩野派や土佐派を学んだ。国史内典、有職故実に精通し、日本の歴史上の人物を題材とした作品を描く。冷泉為恭に私淑して、大和絵風の画風をうち立てた。代表作「離騒」など、端麗な白描画は評価が高い。<br /></p>
高村光雲作,By Takamura Koun (1852-1934),高村光雲氏寄贈,Gift of the artist,東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p>小像ながら、険しい表情を浮かべる聖徳太子の姿がよく表わされている。「老猿」などの大作で知られる高村光雲は、日本近代を代表する彫刻家のひとり。徹底した観察による写実表現が特徴。宮内省から名誉ある帝室技芸員に任命された記念に、作者本人から寄贈された。<br /></p>
奈良国立博物館,Nara National Museum
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奈良県明日香村。蘇我馬子の墓だと言われる石舞台古墳。そこから400m離れたところに、都塚(みやこづか)古墳があります。数多くある古墳のひとつでしたが、2014年の発掘調査で、にわかに注目の的になります。古墳の表面に現れたのは、階段のように積まれた石。40メートル四方にわたります。こんなに立派な古墳に眠っていたのは、一体誰なのか。候補にあがったのは、蘇我馬子の父、蘇我稲目(そがのいなめ)です。<br><br>(この動画は、2015年に放送したものです。)
聖徳太子の威徳をたたえ、供養する春の法要「お会式(おえしき)」。お会式では聖霊院の本尊、聖徳太子坐像(しょうとくたいしざぞう)が開帳されます。昭和の終わりに行われた聖徳太子座像の解体調査では、思わぬ発見がありました。<br><br>(この動画は、2009年に取材したものです。)<br>※聖徳太子X線画像:奈良国立博物館所蔵
四天王寺は593年、聖徳太子によって建立された寺院です。国宝、「四天王寺縁起根本本」には創建の由来などが記されています。創建の重要な意義の一つが、今日の病院や孤児救済の施設など社会福祉事業にあたる四箇院制度でした。四天王寺は、仏教の根本思想である慈悲の教えを広めるだけでなく、実践する場として創建されたのです。<br><br>(この動画は、2000年に放送したものです。)
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聖徳太子によって建立された。大阪市に所在。
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聖徳太子伝に基づいて制作された太子二歳のときの姿とされている。康俊の作で、元応2年(1320)の造立銘がある。
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- 最終更新日
- 2023/03/14