本文に飛ぶ
/

桑原羊次郎の欧米美術行脚~日英博覧会を中心に~

令和5年度島根大学附属図書館 デジタル展示サイト

島根県松江市出身の桑原羊次郎(1868-1955)は、明治後期から昭和前期にかけて刀装具や浮世絵の美術研究家、コレクターとして活躍した。桑原は日英博覧会の美術部門委員に任命されたことをきっかけに欧州に渡り、その後1910年から1913年まで展示会等の用務のかたわら欧米各地の美術館やコレクターなどを訪問したときの出来事を『欧米日誌』に記録し、約30年後に『欧米美術行脚』として清書している。ここでは本学所蔵の「桑原文庫」より、日英博覧会のパンフレットや、桑原が欧米滞在中に持ち帰った資料等を中心に紹介する。

桑原羊次郎について

桑原羊次郎は1868年に松江藩の御用商人の家系に生まれ、ミシガン大学で法学修士号取得後、三井物産や鴻池銀行等に勤務した。留学や会社勤めをする中で、欧米人が刀装具や肉筆浮世絵に夢中になっている様子を目にして興味を持つようになった。前半生では、神戸や東京、欧米でそれらの収集・研究に傾注し、後半生では主に郷里の松江で文化・社会事業に尽力した。1955年に87歳で世を去った後、松江市名誉市民の称号を得ている。 画像元:『出雲陶窯』国立国会図書館蔵

年表

18681955
1868(明治元)年:誕生
1876(明治9)年:私塾「相長舎」へ
1885(明治18)年:松江中学校卒業
1888(明治22)年:英吉利法律学校卒業
1892(明治25)年:ミシガン大学法学修士号取得
1895(明治28)年:松江電灯株式会社発電所設立
1900(明治33)年:三井物産会社に入社
1901(明治34)年:合名会社鴻池銀行神戸支店長に就任
1910(明治43)~1913(大正2)年:欧米美術行脚
1915(大正4)年:山陰盲唖保護会理事長に就任
1917(大正6)年:『不昧公印譜』刊行
1922(大正11)年:『北斎改名考』刊行
1933(昭和8)年:『出雲陶窯』発行
1935(昭和10)年:『島根県画人伝』刊行
1941(昭和16)年:『日本装剣金工史』刊行』
1955(昭和30)年:逝去
1911(大正元)年
1926(昭和元)年
1868(明治元)年
1868(明治元)年:誕生

主な著作

日本装剣金工史 〔本編〕

日本装剣金工史 附圖

浮世絵師人名辞書

不昧公印譜

出雲陶窯

島根県画人伝

桑原の雅号
桑原は「双蛙」「蝸牛庵」等、複数の雅号をもっている。「桑原文庫」の『北斎改名考 完』には、表紙にカタツムリ(蝸牛)をかたどった印が押され、「手元保存分」と書入れがある。 なお、この『北斎改名考 完』表紙をめくったところに挟み込まれているのは、北斎翁図が描かれたページを切り取ったものだが、そこには桑原によって「此ノ肖像ハ縮少スル方体裁ヨロシカラン」と朱字で書入れがなされている。

美術行脚のはじまり

1908年、40歳で鴻池銀行を退職した桑原は、上京して東京美術学校(現・東京藝術大学)校長の正木直彦と交流を深めた。1909年には正木が委員長を務める日英博覧会事務局の美術部門委員に任命され、古美術品の輸送等を担当することになった。

Japan-Britih Exhibition, 1910 Shepherd's Bush, London fine arts catalogue
1910年にロンドンのシェパーズ・ブッシュ (Shepherd's Bush) という場所で日英博覧会 (Japan-British Exhibition) が開催された。同博覧会の会場にはいくつか展示会場があったが、その中の一つが日英美術館(Palace of Japanese & British Fine Arts)であった。同館は第二十六号館とも呼ばれた。本書はその日英美術館で展示された英国と日本の美術品の目録である。もともと日英美術館の建物は同地で二年前に開かれた仏英博覧会(Franco-British Exhibition)の際に建設された美術館(Fine Art Palace)を転用したものであった。 日英美術館の展示物は英国部門と日本部門に分割されていた。英国部門の中は存命の英国の画家の作品およびすでに死去した英国の画家の作品に二分されていた。さらにそれらの中が油絵と水彩画に分けられていた。油絵と水彩画以外には英国王室から貸与された展示物、線画、彫刻などが含まれていた。一方、日本部門の展示物は過去に作成された作品と現代に制作された作品に分けられ、それぞれの中には絵画、彫刻、金工品、漆器、陶磁器、七宝細工、古い建物の模型などが含まれていた。  なお、桑原羊次郎が所蔵者を福庭透の名前で貸与した100点ほどの肉筆浮世絵は日英美術館で展示された。桑原羊次郎が出品した浮世絵もこの目録に掲載されている。 (小山騰)
日英博覧会(のパンフレット)
1910年5月から10月までロンドンで開催された日英博覧会で配布された案内の小冊子。同博覧会の開会に合わせて日本で印刷され(東京国文社印刷)、ロンドンに送付されたのであろう。 日英博覧会は英国国王エドワード7世崩御のため予定より二週間遅れて実際には5月14日から開催されたが、本小冊子には5月1日より開催と印刷されている。日英博覧会の会場は1908年に開催された仏英博覧会(Franco-British Exhibition)をそのまま利用したので、本小冊子に掲載されている写真は同博覧会のものを援用しているかもしれない。 (小山騰)
The Japan Magazine
The Japan Magazineの第1巻第1号は1910年2月に刊行された。同誌は平山成信によって創刊された英文月刊雑誌で、発行所はジャパン・マガジーン社(東京)である。初号では同社の所有者(proprietors)は平山成信とB. Wilfrid Fleisherの二人になっているが、Fleisherは早い段階でジャパン・マガジーン社から離脱した様子で、平山がまもなく同社のPresident(社長とか会長)に就任した。 平山は1873年に開催されたウィーン万国博覧会の事務官などを務めるなど、博覧会と関係が深く、1911年には博覧会協会の副会長、続いて1914年には会長に就任した。The Japan Magazineはその初号が日英博覧会が開催された1910年の2月に刊行されたが、同誌の発行は同博覧会や翌年のイタリア万国美術勧業博覧会などを視野に入れた企画であったかもしれない。桑原文庫に収蔵されているThe Japan Magazineは、桑原羊次郎が日英博覧会の会場などで入手したものであろう。 (小山騰)
Notes on Shippo
本書は七宝についての研究書で、著者ジェームズ・L・ボウズ(James L. Bowes)は一九世紀後半に英国で活躍した日本美術の研究家である。日本美術の収集家としては、自分の収集品を公開するためリヴァプールに私的美術館を開館した。ボウズはロンドンの日本協会でペーパー(論文)を読むために本書の原稿を準備したが、量が多くなったので書籍として出版することにした。 ボウズが琺瑯(ほうろう)や七宝について刊行した主要な研究書は二点あり、本書は二作目にあたる。最初の著作である ”Japanese enamels“は1886年に出版された。著者ボウズによると本書の執筆には二人の日本人(小脇源治郎と河上謹一)が援助した。小脇は三井物産の社員としてロンドンに滞在していた。当時三井物産は日本の美術品も扱っていた。河上は留学時代にボウズと親しくなったのであろう。ボウズの前作(Japanese enamels)の場合、河上、増島六一郎および加藤高明がボウズを援助した。増島や加藤は河上同様に留学時にボウズと知己になったのであろう。 本書の表紙への書込、『欧米美術行脚』および『欧米日誌』によると、桑原羊次郎は本書を1910年6月1日にロンドンのリッチモンドという場所にあった書店で購入した。桑原は英吉利法律学校(中央大学の前身)の卒業生で、彼の恩師の一人が同校の校長であった増島六一郎であった。おそらく、桑原は増島からボウズのことを聞いていたので、ボウズの著作はよく知っていたのであろう。たまたま日英博覧会にためにロンドンに滞在していた時、宿泊していた場所(リッチモンド)にあった古書店で本書を見つけたので早速購入したのであろう。 (小山騰)
The British Press and the Japan-British Exhibition of 1910
日英博覧会事務局は、同博覧会開催の発表があった1909年3月から閉会後1910年12月までの期間に英国の新聞および雑誌などに掲載された同博覧会関係の記事を収録・編纂し、四回(”No.1”― ”No.4”)に分けてロンドンで刊行した。編纂は同事務局事務官(駐英日本大使館一等書記官)陸奥広吉が担当した。 ”No.1”は1909年3月から1910年5月までの同博覧会開催前の記事、”No.2”は1910年6月から7月、”No.3”は1910年8月、”No.4”は1910年9月から12月までの記事を収録している。”No.1”、”No.2”そして”No.3”は1910年、”No.4”は1911年に刊行された。”No.4”には索引も含まれていた。 『日英博覧会事務報告』は、以上の出版物について「英国各地ノ新聞紙及雑誌ニ掲タル本博覧会関係記事ヲ摘録シ「英国新聞ト日英博覧会」ト題シテ其ノ記事ノ日付ニ随ヒ前後四回ニ編纂発行シ是亦関係方面ニ配付セリ」と報告している。 (小山騰)

欧州各地へ

日英博覧会の閉会後、桑原はスウェーデンでロイヤル・アカデミー日本品展覧会委員、イタリアで建国50周年ローマ万国美術博覧会の日本館委員を務めたほか、フランス、ベルギーなど各地で自身の肉筆浮世絵コレクション展を開いた。

Katalog öfver Fukuba's kollektion
桑原羊次郎が所蔵する百点の肉筆浮世絵の展覧会が1911年1月15日からスウェーデンの首都ストックホルムにある王立学術院(Royal Academy)で5週間ほど開催された。本書はスウェーデン語で記載されたその時の展示目録である。百点の肉筆浮世絵の所蔵者には桑原の従兄弟の福庭透(Toru Fukuba)の名前が使われた。 同目録に掲載されている百点の浮世絵の写真は1910年に清河武安によりロンドンで撮影され、桑原はその銅版を所蔵していた。その後、同様の肉筆浮世絵の展覧会がパリやアメリカで開催されたが、その際に刊行されたフランス語および英語による展示会の目録にも同じ写真が利用された。  本目録の表表紙および裏表紙には、百点の肉筆浮世絵の一つである宮川長春の「女官を背負う男」の絵が利用された。1910年にロンドンで開かれた日英博覧会に、杉崎秀明は版絵制作店を出店していた。そこで、桑原は杉崎に宮川長春の絵の木版の製作を依頼し、同店の版絵制作人の漆原由次郎がその木版の刷り立てを行った。写真の場合と同様に宮川長春の版絵はフランス語および英語による展示会の目録にも利用された。 桑原文庫にはもう一点スウェーデン語版の目録があるが、そちらには表紙に「落丁あり」と記載されている。 (小山騰)
Catalogue de cent peintures originales de l'ukiyo-é
肉筆浮世絵の展覧会の目録は、まずスウェーデン語の目録が出来、フランス語・英語版はその後に作成されたようだ。表紙や写真は最初スウェーデン語の目録に利用され、その後フランス語・英語版の目録に同じものが利用された。 (小山騰)
桑原所蔵浮世繪肉筆目録
1933年、桑原は「桑原所蔵浮世絵肉筆目録」を作成し、各地で行った浮世絵展やその場所をまとめている。日英博覧会美術館、スウェーデンのストックホルム博物館、パリのルーブル博物館、ベルギー王立博物館、と日本のみならず世界各国でコレクションを展示したことが良くわかる。
市内桑原雙蛙亭所藏品入札[目録]
1934年5月26日に行われた入札の目録から桑原のコレクションを図版つきで確認することができる。松江市天神にあった望湖楼という料亭が入札会場だった。

『欧米美術行脚』には、桑原の旅の行程が細かに記載されている。ここでは、『欧米美術行脚』に記載された土地を地図に示した。なお、1巻に複数の地域の記録がある時は、主たる地域に本をピン留めしている。

懐かしのアメリカ、そして帰国

桑原は学生時代をミシガン大学で過ごしている。卒業後、約20年ぶりのアメリカに渡ったのは1912年のことだった。ワシントンの新国立博物館、ニューヨークのアメリカン・アートギャラリーでも肉筆浮世絵コレクションの展示を行い、ニューヨークを拠点に個人のコレクション等を視察して1913年に帰国の途についた。

Japan Punch
本誌は『ジャパン・パンチ』(Japan Punch)の第3巻(1870年、1871年、1872年)に含まれる1872年12月号である。『ジャパン・パンチ』はチャールズ・ワーグマン(Charles Wirgman)が描いた風刺漫画雑誌である。同誌は1862年から1887年まで発行された。 本誌の入手の由来については、裏表紙に書かれた桑原羊次郎の注記、同じ桑原の『欧米美術行脚』(1912年10月13日)および『欧米日誌』(1912年10月13日)などを読むと詳しい事情が判明する。なお、桑原の注記の日付は大正元年(1912年)10月16日であった。また同じ裏表紙には、次のようなヘンリー・C・スチュアート(Henry C. Stuart)の贈呈の言葉も記されている。 “To Doctor Yojiro Kuwabara with the compliments of Henry C. Stuart  Washington, Oct. 1912” 桑原羊次郎は1912年10月と11月に米国の首都ワシントンで肉筆浮世絵の展覧会を開催した。会場は現在の国立自然史博物館の中の一部であった。1912年10月8日にヘンリー・C・スチュアートとその家族が展覧会を訪問した。桑原は五日後の日曜日にスチュアート家の午餐に招待された。その際、ヘンリー・C・スチュアートは父親が旧蔵していた古雑誌を桑原に見せ、桑原がその古雑誌を称賛したので、彼は古雑誌は日本で保存した方がいいと考え、その場で桑原に贈呈した。 ヘンリー・C・スチュアート(1864-1952)は鉱山技師、不動産業者、投資家、著述家、重役、米国の総領事などの経歴を持っていた。広い意味での政治家であったといえる。彼の父親(John Stuart)はPacific Mail Steamship Company (パシフィック・メイル汽船会社) の重役であった。そこで、父親が横浜あたりで『ジャパン・パンチ』を入手したのであろう。ヘンリー・C・スチュアートはその『ジャパン・パンチ』を桑原に贈与したのである。 (小山騰)
開國文化大展覽會目録
『ジャパン・パンチ』はただの思い出の品ではない。1931年、大阪朝日新聞創刊50周年の記念に開かれた「開国文化大展覧会」の展示品(番号30)として『ジャパン・パンチ』が出品されている。

関連リンク

本デジタル展示は、国立国会図書館と島根大学附属図書館のデジタルアーカイブで公開されている桑原羊次郎関連資料を使用し、小山騰氏(元ケンブリッジ大学図書館)のご協力のもと、島根大学附属図書館が作成した。画像下等で特に所蔵元が示されていない資料は島根大学附属図書館が所蔵している。

作品解説の末尾に(小山騰)とあるものは小山騰氏に著作権がある。作品解説文末に(小山騰)と書かれていない解説文や年表は、参考文献や現物資料を元に島根大学附属図書館が作成した。


【参考文献】 

桑原羊次郎・相見香雨研究会編2018『桑原羊次郎:郷土のエンサイクロペディア』(松江市ふるさと文庫21) 

南明日香2020「パリ装飾芸術美術館における審美書院展と桑原羊次郎コレクション展(1911年)」『相模女子大学紀要』第84号 

林みちこ2016「明治政府の対外美術戦略に関する研究 -1910年日英博覧会をめぐって」筑波大学平成28年度博士論文 

村角紀子2018「桑原羊次郎とその美術工芸研究 -附『欧米美術行脚』目次翻刻-」『松江市研究』9号(松江市歴史叢書11)