桶狭間の戦い博物館
館長からの一言
この博物館では桶狭間の戦いについて書いています。
ぜひ見てみてください。
この展示について
この博物館では桶狭間の戦いに関わった人物、歴史的文化財、本などを展示しています。
桶狭間の戦い
- 「織田信長」
豊宣
織田信長は1534年(天文3年)、尾張国(現在の愛知県)の「勝幡城」の城主織田信秀の嫡男として誕生した。信長はあと少しで天下統一のところまで上り詰めましたが、1582年に家臣の明智光秀に本能寺の変で追い詰められ自害した。
- 「今川義元」
延一
今川義元は、1519年(永正16年)に今川氏親」の5男として誕生した。4歳のときに「太原雪斎」(たいげんせっさい)に預けられ、太原雪斎と共に「山城国」の健二寺と妙心寺で学び、得度した。
桶狭間の戦いで信長に敗れ死亡する。
- 桶狭間の戦い
小和田哲男 著,学習研究社
1560年(永禄3年)5月19日に起きる。織田信長対今川義元の戦だ。織田信長が4,000人ばかりの兵を味方に、25,000人もの今川義元軍と戦い、勝利した。今川義元が織田信長の父である織田信秀の死をきっかけに尾張に手を出したことにより戦が始まる。身分の差、経験の差、兵力の差から今川義元の勝利が予想されていた。
桶狭間は文字通り「狭間=谷」だと推測されていましたが、実は「山」。これは「信長公記」にも記されていた。ということは今川義元がいる場所は山。山の天辺(てっぺん)から下は丸見えだ。しかし天気が悪くなり黒い雲が桶狭間山の周辺を覆った。これにより織田軍は見つかりにくくなった。しかしまだ兵力の差があるので全面戦争をするのではなく「今川義元の首」だけを狙った。さらに雨が降り出し織田軍の音も聞こえなくなった。織田軍が襲いかかると敵は善照寺砦にいるとばかり思っていた今川軍は混乱した。混乱していう敵に対し織田信長軍のひとり「毛利新介」が乱闘の間をすり抜け今川義元の元へ行き首を取った。織田信長は色々な作戦を使いこの戦に勝った。少ない兵の中内通者を使ったり、手紙で混乱させたり、奇襲作戦を使ったり、若いにも関わらず織田信長の戦の才能が目立った。
- 信長公記
著者:太田牛一,著者:太田牛一
信長公記は1610年(慶長15年)頃に戦国大名、太田牛一が書いた織田信長の一代記だ。戦国時代から安土桃山時代の資料である。あの有名な桶狭間の戦いの戦闘場面を伝える良質な載資料は信長公記にほぼ限られる。桶狭間の戦いの経緯を知る上で最も信頼性が高いとされる資料だ。
- 徳川家康像(模本)
森田亀太郎模、原本:狩野探幽筆,Copied by Morita Kametarō; original by Kanō Tan'yū (1602–74),東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p>目を見開き正面を向く束帯姿の徳川家康は、東照大権現として神になった姿です。対面する僧侶は家康の死後、「権現」として祀ることを勧めた天海です。原本の賛は天海が記し、絵は狩野探幽が描きましたが、残念ながら戦災で焼失しました。<br /></p>
実は桶狭間の戦いには徳川家康も関わってた。今川義元側の当時は松平元康という名前だった。。当時は今川義元の人質・臣下だった。桶狭間の戦いでは今川方の先鋒として大高城(名古屋市緑区)への兵糧入れを成功させ、直後に義元の討死を知り撤退した。
展示を見終わった人へのメッセージ
最後まで展示を見てくださりありがとうございます。
展示関連イベントについて
無料ガイドツアー 桶狭間古戦場保存会が毎月第二日曜日にガイドツアーを実施している。



