徳川家康の生涯
徳川家康の生涯について書いています。
こんにちは、この展示を作った館長です。この展示を見て徳川家康に少しでも興味を持ってくれたら嬉しいです。
ぜひ最後まで見ていってください。
織田信長や豊臣秀吉でも叶わなかった天下統一。それをどのようにして達成したのか、その後はどうなったのかなど
詳しく見て、考えていきたいと思います。
徳川家康の生涯
徳川家康生誕から少年時代について
徳川家康は生まれたときから大変でした。徳川家康は、1543年に現在の静岡県の三河国で生まれました。本名は松平元康です。彼の出生地は岡崎城の近くとされており、三河地方の武士の家に生まれました。 幼少期の家康は、当時の戦乱の中で育ちました。父親は松平広忠で、彼は三河の有力な戦国大名の一族でした。家康は幼い頃から戦国時代の厳しい環境の中で育ち、家臣や親族から戦術や政治の基礎を学びました。 彼の幼名は竹千代といい、若い頃から非常に聡明であったと伝えられています。家康は幼少期に人質として他の大名のもとに預けられることもあり、その経験を通じて人間関係や政治の重要性を学びました。 また、家康は幼少期に織田信長や今川義元などの大名と関わりを持ちながら、戦国時代の動乱の中で生き抜く術を身につけていきました。
初陣から天下統一へ
徳川家康は1557年に築山殿と結婚後、その翌年に今川義元の配下として初陣にあがりました。この戦いは、家康がまだ若く、戦術や戦略を学びながら経験を積む重要な機会となりました。その後、織田信長と同盟をしました。1573年に起こった三方ヶ原の戦いでは、徳川家康の生涯の中で最大の敗戦となりました。数で劣る家康が攻めの陣形「鶴翼の陣」を敷いたのに対し、信玄は「魚鱗の陣」で正面から粉砕しました。その時の敗走であまりの恐怖にうんこを漏らしたという話もあります。徳川家康はその悔しさを忘れないために絵を描かせ、自分への戒めとしました。その後織田信長が亡くなり、豊臣秀吉と対立しますがのちに和睦、秀吉に妹や母を人質に出される形で臣従。1590年の小田原征伐後、関東(旧北条領)へ領地を移されるが、これが結果として250万石超の巨大な実力を得る要因となりました。そして秀吉の死後、豊臣政権の五大老筆頭として政務を実質的に独占し、関ヶ原の戦いにて石田三成率いる西軍を破り、実質的に覇権を確立させました。その後1614〜15年の大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、完全に天下を統一しました。
その後
天下統一を果たした徳川家康は、約260年続く平和な江戸時代の基礎を築いて1616年に没しました。最近の研究によると胃がんで亡くなったとされ、亡くなる前に食べていた天ぷらが死を早めたとされている。その後徳川家康は日光東照宮に神として祀られ、後世にまで伝わっていきました。
関連資料
- 徳川家康像
この絵は徳川家康の姿を後世の人たちが描いたもの。徳川家康は神格化されたことにより、祀られたことでできた絵なのではないかと考えた。
- 徳川家康二十将図
栃木県立博物館
二十将図は家康忠臣の中でも特に功績のある人物を描いたもので、十六将図や二十四将図などの種類があります。本図は上部中央に家康を据え、両側に本多忠勝、井伊直政、榊原康政、酒井忠次、服部半蔵らを描いています。有名武将が居並ぶ中、右列の真ん中で白い顔で若年の武将が井伊直政です。直政は家康が若年であった頃から常に陰で支え続けた忠臣として評価されました。
徳川家康にはこうして昔から支え続けた忠臣がいたからこそ天下統一を成し遂げらたのではないか
- 徳川家康三方ヶ原戦役画像
家康の経験した負け戦とは三十一歳に当たる元亀三年(一五七二)十二月、三方ヶ原で起こった武田信玄との合戦である。家康は後年、この敗戦を肝に銘ずるためにその姿を描かせ、慢心の自戒として生涯座右を離さなかったと伝えられる。威厳のある堂々とした権現像とは異なり、憔悴し切った家康の表情が巧みに描かれており、別名「顰(しかみ)像」とも呼ばれている。
悔しさを忘れなかったことも天下統一には必要だったのではないか。
ここまで展示を見てくれた人へ
展示を見てくれてありがとうございました。この展示を通して、これを見ている人が徳川家康や歴史について興味を持ってくれると嬉しいです。
展示関連イベント等
・2026年2月7日〜4月5日 徳川美術館 「尾張徳川家の雛まつり」




