キリスト教
日本でのキリスト教の扱いについて解説します。
館長あいさつ
こんにちは。館長です。この展示ではキリスト教について展示しています。
最後まで見ていただけると嬉しいです。
この展示について(展示の趣旨)
日本にはキリスト教が1549年に伝来しましたが、時代によって扱われ方が全く違います。今では憲法で宗教の自由が定められていますが、信仰することが許されない時代があり、私も初めて知った時は驚きました。なので少しでも興味を持ってくれたら嬉しいです。
- 聖フランシスコ・ザビエル像
筆者不詳
イエズス会の創立会員であり、アジアでの宣教活動、とりわけ日本に初めてキリスト教を伝えたことで知られる聖フランシスコ・ザビエル(1506〜1552)を描いた礼拝画。ザビエルはローマ教皇の特使として1542年にインドのゴアに到着、南アジア各地で宣教活動を展開した後、天文18年(1549)に鹿児島に到達しました。日本での宣教活動のあと、いったんインドのゴアに戻り、中国での宣教を目指して広東沖の上川島に至りますが、病を得て1552年の12月に亡くなりました。 ザビエルによるアジアでの宣教活動がヨーロッパで広く知れ渡るようになるのは、16世紀末のオラツィオ・トルセリーノによる『ザビエル伝』ラテン語版刊行と、その欧州多言語翻訳によるもので、これらに掲載された銅版画の肖像画が、最初期のザビエル像の典型として流布しました。当館の「聖フランシスコ・ザビエル像」もその系列に連なるものです。 トルセリーノ『ザビエル伝』は、インドのゴアで目撃されたあるエピソードを紹介しています。ザビエルは早朝に教会の庭で祈っている際に、瞑想の中で神の愛に触れて意識を完全に失いました。その後、彼が我に返ると、熱く腫れ上がった胸から上着を開いて、何度も次の言葉を、かなり強い口調で繰り返したとのことです。「充分です、主よ、充分です(Satis est Domine, Satis est.)」と。 祈りの際に神の愛に触れて叫んだ「充分です、主よ、充分です」という言葉は、『ザビエル伝』の流布によって、ザビエルを象徴するフレーズとして定着しました。当館のザビエル像でも「充分です、主よ、充分です(SATIS EST DÑE SATIS EST (DÑEはDomineの略語)の言葉が見られます。 当館のザビエル像では、「燃える心臓」と「十字架」という、『ザビエル伝』所載の肖像画には見られないモチーフが見られます。前者については、『ザビエル伝』が伝える、祈りの後に彼の胸が腫れ上がったという話、後者についてはイエズス会などカトリック信徒が重視した、祈りにおける十字架の観想を視覚化したものと考えられます。本像を描いた日本人絵師とその周辺にいた西洋人宣教師が独自に追加した表象だった可能性もあります。 下部には「聖フランシスコ・ザビエル イエズス会会員」のラテン文を記し、その下の黄色地には「瑳聞落怒青周呼山別論廖瑳可羅綿都 漁父環人」という万葉仮名に「IHS」の朱印と壺印が捺されています。万葉仮名文の意味は「聖フランシスコ・ザビエルのサクラメント(秘跡)」。「漁父環人」についてはローマ教皇とする説もあります。 フランシスコ・ザビエルは1622年に、教皇グレゴリウス15世によって聖人に列せられます。このときの『列聖大勅書』によって、既述の「充分です、主よ、充分です」をめぐる逸話は権威づけられ、1620年代の禁教下の日本においても、ザビエル像制作の機運が高まりました。本像もこのような中で密かに描かれ伝えられてきたものでしょう。 本像は、高山右近の旧領、千提寺(せんだいじ・現茨木市)の東家に「マリア十五玄義図」などととも密かに伝来し、大正9年(1920)に発見されました。禁教で破却された数多くの聖画のうち、現代まで伝世した数少ない江戸初期の洋風画としてきわめて貴重です。 【名品2019】【南蛮美術】
日本に約8ヶ月もかけて、キリスト教を広めていた。すごい努力ですね。
- キリシタン大名
16世紀末より17世紀初めに戦乱期にキリスト教の布教を保護し、自らも洗礼を受けた戦国大名
南蛮貿易での利益を増やすため、キリスト教を積極的に保護していた大名でローマに使節などを送るなど多くのお金をかけていたが保護して得た利益の方が多いということがわかりますね。
- 日本におけるキリスト教の勝利
イエズス会宣教師トリゴーが1612年から20までの日本でのキリシタン迫害や布教状況について述べた書物。キリシタンが拷問を受けている図や処刑図の銅板画が17枚挿入されている。
キリスト教の信者が逆らって罰せられた様子について書いてある本で逆を言えば抑えないといけないほどキリスト教の勢力が強いことがわかりますね。
展示を見終わった人へ
どうでしたか?少しでも興味が湧いてくれたら嬉しいです。




