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鎌倉時代の仏教 

館長からの挨拶

仏教が非常に盛んになり、様々な宗派が新たにできていた鎌倉時代。今回は鎌倉時代の仏教である浄土宗・浄土真宗・曹洞宗・臨済宗・日蓮宗・時宗について考えていきます。


  • 法然上人絵伝断簡

    法然〈ほうねん・1133-1212〉は、鎌倉新仏教のひとつ浄土宗の開祖。諱は源空。比叡山に入り、叡空の弟子となって研鑽を積み、承安5年〈1175〉、中国浄土宗の高僧善導の『観無量寿経疏』によって開眼、専修念仏による往生を説いた。南無阿弥陀仏の名号を称え、念仏すれば万人が極楽浄土に往生できると説く考え方は、理解を得やすく、貴族を中心に、武士・庶民にまで支持を拡げていった。没後、その布教の一助として法然の生涯を絵巻にあらわした絵巻が作られた。京都・知恩院蔵の48巻本をはじめ、多くの伝本が現存する。本図は、いずれの系統に属するか不明ながら、貼り札に見える「長楽寺逗留松山一見ノ処」から、建永2年〈1207〉配流のため讃岐に到着、松山で観桜を行ったというが、その場面であろうか。

    館長からの一言 法然は鎌倉仏教の中でも代表的な浄土宗の開祖 京都にある知恩寺から仏教について学び、その後、比叡山へ弟子入りした。これは3人の悟りを開くための修行をしている様子。恐らくこの中の1人は法然だと言われており、専修念仏を唱えていき難しい教義や寺を求めず、極楽浄土への往生を唱えた。現代に残されているものは数珠を持っており穏やかな表情のものがほとんどである。また、これは浄土真宗や時宗の元となる宗教である。浄土宗では開祖だが、浄土真宗では七高僧の1人に数えられており、浄土真宗を深く信仰した画家が描いたものにも親鸞の元に法然が描かれている。

  • 親鸞聖人像

    正面を向き両手で念珠を爪繰る、「等身御影」または「真向きの御影」と称される親鸞像で、特に本願寺とゆかりの深い寺院に所蔵が許されたものである。「等身御影」の名は、かつて大谷本願寺に安置されていた親鸞像を写したという伝承に由来する。 その姿は通例のごとく白い帽子(もうす)を巻き、黒衣に黒袈裟を着ける。座具は繧繝縁(うんげんべり)の上畳を乗せた二狭間(にさま)の礼盤(らいばん)とする。「等身御影」の根本像とされる本願寺本(文明9年[1477]蓮如裏書)に概ね倣っているが、左肩口の袈裟を吊る白い紐は本願寺本にはない要素。面貌はやや丸くふっくらとし、額や目元、口元には深い皺が刻まれている。 本図は慶長16年(1611)に、本願寺第12世・准如より勝興寺第11代住職・顕称(1578~1638)に授与された。越中における真宗の要衝にして、本願寺との関係も深い勝興寺にふさわしい一幅といえる。(高田克宏)【参考文献】『浄土真宗と本願寺の名宝Ⅰ-受け継がれる美とこころ-』龍谷大学 龍谷ミュージアム,平成28年(2016)

    館長からの一言 現在の仏教で日本で一番人口が多いとされている浄土真宗の開祖 親鸞は非常に信仰深い高僧であったとされている。法然と同じように数珠を持っており、法然に非常によく似通っっていることから(浄土往来についての考え方)師事していたことがとてもよく分かる。浄土宗の中では聖人として敬われる存在。親鸞は法然と同じような根本的なところから似通っていた事がわかります。

  • 一遍上人像

    九州国立博物館(福岡県立アジア文化交流センター),Kyushu National Museum ( Fukuoka Prefectural Asian Cultural Exchange Center )

    館長からの一言 時宗の教祖である一遍。そもそも時宗は研究者からは「時衆」とよばれ、一遍自ら好んで開祖したのではないという事が伺える。また、一遍は聖達から仏教について学んでいる(聖達を師事していた時期は浄土宗を信仰 そして聖達は法然の弟子であるため、比較的法然と考え方が近い事がわかる)。

    浄土宗との違いは仏を信仰しない者がどうなるかというところ。浄土宗は仏を信仰しない人々は救われないとされているが時宗では仏を信仰しない人でも念仏さえ唱えれば救われるという考え方。絵の一遍も念仏を唱えている様子である。ここから念仏第一という考え方だったという事がよく伝わるのではないだろうか。

  • 日蓮上人

    横山大観筆,By Yokoyama Taikan (1868–1958),東京国立博物館,Tokyo National Museum

    <p>安房(あわ)(千葉県)清澄山(きよすみやま)に立ち、「南無妙法蓮華経」とお題目を唱える法華宗(日蓮宗)の開祖日蓮上人を海側から見上げた姿。下村観山(しもむらかんざん)ら日本美術院の画家たちは、しばしばこの題材をとりあげましたが、そこに明治大正期における日蓮信仰の状況の一端がみてとれます。<br /></p>

    館長からの一言 日蓮宗は明治時代などに大きく動きのあった宗派の一つ。日蓮が説いたことは日蓮法華経のみが救われるという思想。鎌倉時代には天台法華経との対立などもあったが現代まで続いている歴史ある宗派である。日蓮は自身が法華経の使者ということを自覚することや末法観を重視した宗派。禅や阿弥陀信仰を邪法として法華経を信仰する事が一番大事としていた。「真言亡国・禅天魔・念仏無間・律国賊」と激しく他宗を攻撃する「四箇格言」なども作られていた。日蓮入滅後、師弟などに分かれて独自の宗派で分かれて時に対立をして現代に至る。

  • 禅宗祖師図

    狩野元信筆,By Kanō Motonobu (1477-1559),東京国立博物館,Tokyo National Museum

    <p>本図はもと大仙院、衣鉢の間の障壁画、禅宗祖師図(現在は全6幅)の一部。大仙院は古嶽宗亙が大徳寺内に永正10年(1513)に開創した塔頭。祖師図には弘忍、慧能、香厳智閑、霊雲志勤、潙山霊祐、三平義忠、石鞏慧蔵、徳山宣鑑ら、唐代の高僧の事跡が描かれる。(るび:だいせんいん、えはつ、こがくそうこう、たっちゅう)<br /></p><br /><p> 祖師図とは、仏教の修行上の教師であり、模範とすべき先輩の姿を描いたもののことです。これは、京都市北部にある大仙院の衣鉢(えはつ)の間という部屋の襖に描かれていたものを、保存のために掛軸に仕立て直したものです。絵を描いたのは室町時代の絵師、狩野元信(かのうもとのぶ)。室町時代中期から江戸時代にかけて活躍した日本絵画史上最大の絵師の集団、狩野派の基礎を作った人物です。<br /> ここに描かれた祖師図は、中国・唐時代に活躍した禅僧のエピソードを基にしたものです。向かって左から、禅僧・霊雲(れいうん)が桃の花が咲いているのをみて、突然悟りを得たという「霊雲観桃(れいうんかんとう)」。その隣が、師より瓶(びん)を瓶と言わずして何と呼ぶかと問われた禅僧・潙山(いさん)が、瓶を蹴り飛ばした「潙山踢瓶(いさんてきへい)」。水辺を描いた絵が続き、最後が禅僧・石鞏(せっきょう)が修行にやってきた禅僧・三平に弓を引くしぐさをしたところ、三平が胸を開いてみせたという場面の「石鞏張弓(せっきょうちょうきゅう)・三平開胸(さんぺいかいきょう)」です。<br /> 時期や場所、内容が異なる3つのエピソードをうまくつなぎ、さらにそれぞれのモチーフを際立たせているのが、巧みに用いられた雲です。手前・中ほど・奥と段階的に配置して、奥行きも演出しています。元信は、雲を効果的に配置することにより、一連の絵として見事に描き上げました。</p>

    館長からの一言 禅宗は元々は中国で発達した宗派である。平安時代から日本で始まった宗派であるが鎌倉時代に純粋な禅宗が始まった。有名なものは臨済宗の栄西と曹洞宗も道元である。坐禅は禅宗における禅那になるための修行である。坐禅による解脱を目指す修行である。