朝鮮出兵博物館
館長からの一言
朝鮮出兵について、興味がある人でも、ない人でも分かりやすく説明が書いてあると思うので、ぜひ見てみてください。
展示の趣旨
僕は、歴史で朝鮮出兵という事柄が出てきて、なぜ豊臣秀吉が朝鮮出兵を行ったのか、そして朝鮮出兵を行ってどのような影響が日本や朝鮮にあったのかということが気になり、調べました
文禄の役
- 壬辰倭乱図屏風
この作品は、豊臣秀吉の朝鮮出兵のうち、「文禄の役」(1592年)の東雙城攻略の様子を描いた屏風と思われる。第2~4扇の城郭が東雙城。大手門の上で指揮を執るのが宗象賢であろう。朝鮮軍は整然と並び弓で城壁から反撃している。攻める秀吉軍の本営は、第2扇の下にみえる。その前に鉄砲隊が並び、最前線では二刀流の兵が朝鮮軍の放つ矢に苦戦を強いられている。第5・6扇には東雙城に向かって進む隊列がみられるが、朝鮮方の援軍であろうか。
文禄の役は、1592年(文禄元年)に15万人の大軍で朝鮮に攻め入り、首都の漢城(今のソウル)など各地を占領した。しかし、僧侶や義兵と呼ばれる民衆の抵抗運動、李舜臣の水軍の抵抗が強く明の援軍もあり、豊臣秀吉の軍は休戦し、一部引きあげた。この画像は東雙城を攻略する戦いを描いたものです。
慶長の役
- 蔚山城合戦図屏風
九州国立博物館
本品は、「慶長の役」時、日本軍と明・朝鮮連合軍との間で行われた蔚山城合戦を描いたもの。現存する屏風装の蔚山城合戦図のうち、江戸時代後半に制作された最古級かつ高い完成度を誇る写本であり、現存しない原図の作風を留めるものとして、重要な作例である。原図は江戸時代初めに6曲2双(4隻)で製作されたものであったが、早くに1隻失われたようである。17世紀後半、残った3隻を、鍋島家と姻戚関係のあった深溝松平家(島原藩主)が模写(存否不明)した。その後、原図は安政2年(1855)に佐賀藩江戸屋敷から国許に移され、安政4年(1857)に表装替えを行う際に、古川松根(1813-71)・村島雪川(生没年未詳)・伊藤春洋(生没年未詳)という3人の絵師によって副本が制作された。この頃に、「朝鮮蔚山攻城図」(佐賀県立図書館所蔵、蓮池鍋島家旧蔵)も制作されたと考えられている。原図と副本が佐賀の乱で焼失したため、明治19年(1886)に島原本をもとに、4つの写本(鍋島報效会所蔵品、福岡市博物館所蔵品、宮内省献納品(存否不明)、細川侯爵家所蔵品(存否不明))が制作された。本品は蓮池鍋島家旧蔵本以前、あるいは同時期に、原図をもとに制作され、鍋島家の外部に存在していたものと考えられており、これまでに知られる屏風装の蔚山城合戦図のなかで、原図から写された最古級の作例である。蓮池鍋島家旧蔵品と特徴を同じくする写本であるが、蓮池本は残欠であるのに対し、本品は完品である点でも重要な作例である。本品の制作時期から明治時代までの所有者は不明であるが、大正・昭和前期(戦前)には、旧平戸藩主・松浦伯爵家が所有していた。戦後の経緯は不明だが、「婦女遊楽図屏風」(いわゆる「松浦屏風」、奈良・大和文華館所蔵)と同様に、松浦家から流出したものと思われる。<松浦晃佑執筆, 2024>
慶長の役は、豊臣秀吉が文禄の役の後に行った2度目の朝鮮出兵である。文禄の役の講和交渉が決裂したことが原因で、1597年に出兵した。しかし、1598年に豊臣秀吉が亡くなり、全ての軍が朝鮮から撤退した。この画像は、蔚山城での戦いを描いたものです。
豊臣秀吉
- 豊臣秀吉像
豊臣秀吉〈とよとみひでよし・1536-98〉は、尾張国の片田舎の小身から出世、はじめ木下藤吉郎を名乗る。織田信長〈おだのぶなが・1534-82〉に仕え、のち羽柴姓に改めた。「本能寺の変」の後、明智光秀〈あけちみつひで・1528?-82〉を討って、織田家臣団のなかで急速に擡頭、その破天荒の勢いを駆って、ついに天下一統を成し遂げた。未曾有の栄進を重ね、従一位をきわめ、関白・太政大臣に任じた。秀吉51歳、まさに位人臣をきわめた。この画像は、この絶頂期の秀吉を描かせたものではなかったか。今日に伝存する秀吉像の多くは、神殿が背景に描かれており、慶長3年〈1598〉8月18日、63歳をもって死去した後に、正一位豊国大明神を贈られて神格化された肖像である。が、この画像にはそれがなく、容貌もいくぶん若く見える。上畳を縁取る繧繝縁は、当時、天皇・院・東宮・諸親王・摂関家などの所用と定められていた。とすれば、これは天正14年〈1586〉12月19日、51歳で太政大臣に任じられた直後の画像、すなわち寿像(生存中に描く肖像画)であった。冠をいただき、雲形をあらわした束帯の袍、平緒を結び、腰には黄金造飾太刀を佩き、手には笏をとる。得意絶頂の秀吉の面貌が、見事に描き出されている。
豊臣秀吉は、織田信長に仕え、織田信長を殺した明智光秀を討ち天下統一した人で、朝鮮出兵(文禄の役、慶長の役)を行った人でもある。大阪の陣で徳川家に負けてしまうが、日本で初めて天下統一を成し遂げた人である。この画像は、天下統一をし、関白・太政大臣の頃の豊臣秀吉を描いている。
名護屋城
- 名護屋城
この画像にある名護屋城は、今回の朝鮮出兵の拠点となった城である。この城は、朝鮮出兵のために作られ、1598年に豊臣秀吉が亡くなって廃城となり、7年間だけ使われた、大規模な城郭であったと言われている。
陶磁器を作る技術
- 有田焼の大皿
1600年代末から1700年代初に有田で作られた大皿。本来はヨーロッパ向けの輸出品として作られた皿だと思われる。■画像の二次利用をする場合には、所蔵・撮影・提供などを「江差町教育委員会」として下さい。
この有田焼は、1700年代初期に作られた大皿で、豊臣秀吉が朝鮮出兵した際に陶磁器などを作る技術を持ち帰ったからできたと言われている。他にも、波佐見焼や薩摩焼、萩焼などもこの時期に誕生したと言われている。
最後まで見てくれた人へ
展示を見てくださり、ありがとうございました。朝鮮出兵について少しでも興味が湧いたなら、嬉しいです。もしも興味があるのならばもう少し調べてみるのも良いと思います。改めて、見てくださり本当にありがとうございました。
関連するイベント
佐賀県唐津市呼子町で毎年6月の第一土曜日と日曜日に行われている呼子大綱引きは、420年ほどの歴史がある国の重要無形文化財に指定されています。参加費は無料で、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際名護屋城で陣を構えた際、将兵の指揮を高めるために加藤清正と福島正則の両陣営に軍船のとも網をひかせたのが始まりとされています。もしも興味があるならば、遠いですが行ってみるのもいいかもしれません。



