三筆
館長のあいさつ
こんにちは。この博物館にご来場いただきありがとうございます。この平安時代初期に活躍した三筆についてです。是非、彼らの輝かしい作品群を見てみてください。
三筆の概要
平安時代に入り、貴族の教養としての漢文学は、さらにさかんになった。文人としても名高い嵯峨天皇の宮廷を中心に詩人・文人が輩出し、勅撰漢詩文集も編集されました。三筆とは平安時代の代表的な能筆家、つまり書道に優れた人々を後世に尊重して呼んだ言葉です。3人に共通する特徴として「力強い唐風の書の名手」というのがあります。また、彼らの後にもそれぞれの時代で三筆が存在しますが、今回は後世に最も大きな影響を与えた平安の三筆についてです。
奈良時代~平安時代前期
空海(774~835)は後に弘法大師と号され,真言宗の開祖として知られています。佐伯田公(さえきのたぎみ)の子として讃岐国多度郡屏風浦(びょうぶがうら)に生まれ、上京して仏門に入りました。延暦23(804)年には遣唐使にしたがい入唐し、大同元年(806)に帰国して真言宗を開創しました。
空海は優れた宗教家であっただけでなく漢詩文にも秀で、唐では仏教のほか書法や筆の製法なども学びました。その達筆ぶりは、後世にさまざまな伝説を生み出しています。たとえば空海は、左右の手足と口に5本の筆を持って一度に5行を書し、「五筆和尚」と呼ばれたと伝えられますが(『入木抄』)、これも能書家として尊崇されたことの反映といえます。現代でも「弘法筆を選ばず」「弘法も筆の誤り」など、空海と書道にまつわることわざが残されています。
まずは彼が影響を受けたとされる二人の中国の書道家を見ていきましょう。
空海の影響元
- 王義之十七帖
楠山秀太郎
王義之(おうぎし)は東晋時代に活躍した書家です。中国はもちろん、日本でも現代にいたるまでにさまざまな書家に多大な影響を与え、「書聖」と呼ばれました。書聖とは書道の達人のこと。書道をたしなむ人はもちろん、そうでない人も「聞いたことがある」というくらい、有名な画家ではないでしょうか。
若いころから才能を認められた王義之は、最初は宮中の図書をつかさどる秘書郎になります。その後は右軍将軍、地方長官にあたる会稽内史などの官僚職を歴任。退任後は悠々自適な生活を送ったといわれています。
王義之が「書聖」と呼ばれるようになったのは、書の世界で楷書・草書・行書などが生まれた時代に新しい書の表現方法を生み出したからです。王義之の書はたくさんの書家に影響を与えただけではなく、唐の第二皇帝である太宗皇帝も虜にするほどでした。王からも愛されるほどの書の腕前だった王義之は民衆からも愛され、やがて書聖として崇められるようになっていきました。
王義之の書は、残されている作品のほとんどが「草書体」であるのが特徴のひとつです。また、大半の行書や草書の内容は主に尺牘(手紙)で、私的な内容が少なくありません。
その理由には、「草書の横画は右に上がっている、点画がくずされ省略されている」ことがあげられます。隷書体は「横画は水平に書くべきもの」でしたが、草書体の登場によって、人は自由に速く書くことができるようになったといえます。
王羲之はこの草書体を整え、さらに手紙で私的な心情や思いなどを綴ることで、時の為政者、権力者をはじめ、時代を超えて多くの人をひきつけたのです。
〈館長からの一言〉
この十七帖は王義之の代表作で、彼の手紙29通を集めたもので、大半が蜀郡の太守、周撫への手紙です。始めの行に「十七日」とあることからこのように呼ばれています。中学校時代の選択授業で書いたのですが、難しかったです。
- 顔真卿多宝塔碑
顔真卿 書,埜本白雲 編,日本書道学院
中国の歴史上、東晋時代(317–420)と唐時代(618–907)は書法が最高潮に到達しました。書聖・王羲之(おうぎし、303–361)が活躍した東晋時代に続いて、唐時代には虞世南、欧陽詢、褚遂良(ぐせいなん、おうようじゅん、ちょすいりょう)ら初唐の三大家が楷書の典型を完成させました。そして顔真卿(がんしんけい、709–785)は三大家の伝統を継承しながら、顔法と称される特異な筆法を創出します。王羲之や初唐の三大家とは異なる美意識のもとにつちかわれた顔真卿の書は、後世にきわめて大きな影響を与えました。
多宝塔碑(たほうとうひ)は、中国唐の四大家の一人・顔真卿によるもので、楷書の古典の中でも有名です。フルネームは「大唐西京千福寺多宝仏塔感応碑」で、現在は西安碑林にあります。碑面の状態がよく、拓も明瞭なので、楷書のお手本として昔からよく使われています。
長安の東の千福寺に多宝塔が建てられ、745年に完成します。その千福寺の僧「楚金」が碑文をシンクンに頼み、書を顔真卿に依頼したのです。顔真卿は当時44歳で、現存する真卿の作品の中では最も若いときのものです。
〈館長からの一言〉
顔真卿の書法は、蚕頭燕尾(起筆が丸く蚕の頭のようで、右払いの収筆が燕の尾のように 二つに分かれている)で顔法といわれます。これも中学校時代の選択授業で書いたのですが、今現在日本で主流となっている「楷書体」で書かれていることもあり、十七帖よりは書きやすかったです。
空海
空海 書,清雅堂 編,清雅堂
「風信帖」は日本を代表する僧侶、空海(弘法大師 774 ~ 835 年)が、同じく日本を代表する僧侶、最澄(伝教大 師 767 ~ 822 年)に送った手紙で、平安時代初期(812 年頃)に書かれたものです。空海は7歳年上の先輩、最澄と何通もの手紙をやりとりし、その1通目の書き出しが「風信雲書」か ら始まるので「風信帖」と呼ばれる。 遣唐使の一員として中国に渡った空海は、当時、書の最高 峰と言われた王羲之の書をはじめ、最先端の中国文化を吸収 して帰国した。この「風信帖」も、中国の書に学んだ堂々と した行書で書かれており、ところどころ王羲之の「蘭亭序」 に影響を受けた文字が見られます。そうした中国風の書を「唐 様」というが、空海の書にはそればかりでなく、軽やかで曲 線的な日本風の書、「和様」へとつながる表現も見られ、豊かで巧みな表現力が感じられます。
〈館長からの一言〉
字形は縦長で、右上がりになっています。書き出しの「風」もそうで、2画目の横画は、少し右に上がって、肩を張りますが、いかめしさはなく、ゆったりと落ち着いた気構えを感じます。筆は深く沈み、線は厚く、筆力は終筆まで持続します。運筆は、巧みで熟達しており、深みを感じさせます。個人的に好きです。
空海 書,清雅堂 編,清雅堂
『灌頂歴名』は、812年高雄山寺で多くの人々に金剛界、胎蔵界の両部灌頂を授けた時の記録。「歴名」とは姓名を書き連ねた帳簿のこと。灌頂とは仏の慈悲である五智の法水を頭の頂上に灌ぎ仏縁を結ぶ密教の儀式です。目隠しの状態で曼荼羅の上に花を投げて自分の守り本尊とする儀式が行われました。
〈館長からの一言〉
「灌頂記」は、空海不用意に書かれた書であるが、その中に「潭厚さ』を堅持し、「堅密さ』『広闊さ』を程良く表した名品です。また『風信帖』のそれよりも単的な表現が多いので、空海の行き方を究めてゆく絶好の作品です。これが、顔真卿 という先人の優れたあり方を伝承したことに大きな意義を感ずるものがあります。
奈良時代~平安時代
平安前期の官人・能書家。嵯峨天皇、空海とともに三筆。入唐し、橘秀才と呼ばれた。帰国後、謀反(承和の変)に連座したとして伊豆に配流途中の遠江(静岡県)で病没しました。死後、無実として正五位下、のち従四位下を贈られた。また怨霊が恐れられ、上・下御霊神社に祭られました。782?~842(承和9)
橘逸勢
[伊都子内親王 書],清雅堂
この書は橘逸勢が書かれた名作と後の鑑定の結果から語られていますが、確証はありません。
伊都内親王(いとないしんのう)は、平安時代前期の皇族であり、桓武天皇の第8皇女(阿保親王妃)。在原業平の母でもあります。これは伊都内親王が、死去した母の藤原平子の遺言によって山階寺(やましなでら 現在の興福寺)に香灯と読経料として墾田16町ほかを寄進した際の願文です。料紙は、楮紙が使用されています。
〈館長からの一言〉
筆の性能を生かし切り、自由奔放でありながらも格調の高い書です。行書と草書をおりまぜて、字の大きさも大小まぜて書かれています。字形は縦長で、少し右上がりになっています。平安時代初めの行草体の筆跡には、字形が縦長で少し右上がりのものが多く存在します。運筆は自在で変化が多く、点画には強い筆力があります。書風は唐風です。
奈良時代~平安時代
嵯峨天皇(786~842)は、桓武天皇の第二皇子で平城天皇の弟にあたり、大同4(809)年に天皇となりました。詩文や書にすぐれ、在位中は宮廷を中心に唐風文化が栄えたことで知られています。
嵯峨天皇は唐代の書家欧陽詢(おうようじゅん,557~641)を愛好し、また空海に親近したことから、その書風にも影響を受けたようです。『日本紀略』には「真(まこと)に聖なり。鍾(しょうよう、魏の書家)・逸少(いつしょう、王羲之)、猶いまだ足らず」とあり、筆づかいは羲之らにも勝るとまでほめたたえられました。
嵯峨天皇
陽明文庫 [編],陽明文庫
宸翰(しんかん)は、天皇自筆の文書のことで、宸筆(しんぴつ)、親翰(しんかん)とも言います。鎌倉時代以降、室町時代までの宸翰の書風を特に宸翰様と呼ぶ。中世以前の天皇の真跡で現存するものは数が少なく、国宝や重要文化財に指定されているものが多いです。これはそんな嵯峨天皇自筆の書です。
これは唐の詩人「李嶠」の百二十詩を行書体で書写した断簡(だんかん、切れ切れになった文書)です。用筆は変化に富み、純粋な唐風の書です。
このほかにも、光定戒牒(こうじょうかいじょう(延暦寺蔵)と哭澄上人詩(こくちょうしょうにんし)が有名な嵯峨天皇の宸翰で挙げられます。前者は最澄の弟子の光仁が、弘仁14年(823年)4月14日、延暦寺で菩薩戒を受けた時、朝廷から給せられる通知を執筆したものであります。宸翰と断定できるのは、光定が撰した伝述一心戒文の中に「厳筆徴僧が戒牒を書し給ひ、恩勅之を賜ふ」と記されていることによります。楷行草を交えた荘重な書風で、空海に学んだものと推定されます。後者は弘仁13年(822年)最澄の入寂を悲しんだ嵯峨天皇の五言俳律(12句60字)の詩で、宸翰と伝えられるが、自筆原本でなく写しであるとする説もあります。草書体で気品に富み、大師風(空海の書風)が認められています。
〈館長からの一言〉
今を生きる人にも達筆と思わせる書なのではないでしょうか。自分自身も好きな一作です。
展示を見終わった人へのメッセージ
いかがでしたでしょうか。みなさんも普段からノートやプリントに字を書きますよね?この展示を見たらほんの少しだけ今度から上手に書いてみようと思えたのではないでしょうか。自分は書道をやっていたので臨書(絵画でいうところの模写)を通じて今回紹介したいくつかの作品を知ることが出来ました。是非、彼らの作品群を通じてその周辺の歴史へのより深い理解の手伝いとなれば嬉しいです。
展示関連イベント
① 寛永の三筆展覧会
・・・三筆と言えば、今回の平安の三筆が有名ですが後続の寛永の三筆もなかなかいいですよ~
② 臨書体験会
・・・みんなで好きな書物を選んでそれをまねっこして書いてみましょう!


