足利義教の治世
館長挨拶
室町幕府六代目将軍の足利義教は、籤引きにより選ばれた異例の将軍であり、「万人恐怖」と表現される恐怖政治を志向したとされています。今回の展示で、その治世が実際どのようなものだったのか、その中身を知っていただけると嬉しいです。
この展示について
今回は、それぞれの義教期における個々の政策と同時期の日記資料の二つの構成に分けて、その治世を見ていきたいと思います。本当に義教期は「恐怖」だったのか、一つではなく、様々な視点からの資料を紹介し、見る方々に興味を持っていただくことを目的としています。
足利義教の生涯
| 1394年:義教、義満の子として生まれる。 | |
| 1403年:青蓮院に入室 | |
| 1428年:籤引きにより次期将軍に選ばれる | |
| 1438年:義教の執奏による新続古今和歌集成立 | |
| 1439年:関東征伐を命じる。(永享の乱) | |
| 1441年:赤松満祐により殺害(嘉吉の乱) |
義教による政策
足利義教
足利義教〈あしかがよしのり・1394-1441〉は、室町幕府第6代将軍。3代義満の第四子で、4代義持の弟。出家して青蓮院(しょうれんいん)に入室、義円(ぎえん)と称し、応永26年〈1419〉には天台座主に補せられた。しかし、後嗣なき5代義量(よしかず)の死後、重臣によるくじで後継者に定められた。還俗して義宣(よしのぶ)と称し、永享元年〈1429〉将軍となった際に再度改名し、義教と名乗った。幕府の統制力を強めるため、苛烈な専制政治を行って諸将の不満・不安を招き、嘉吉元年〈1441〉赤松満祐〈あかまつみつすけ・1381-1441〉に暗殺された(嘉吉の乱)。義教は和歌を好み、正長元年〈1428〉以降、多くの幕府歌会を開催した。また、『新続古今和歌集』は彼の発意で、飛鳥井雅世〈あすかいまさよ・1390-1452〉に撰進させたもの。義教の詠歌は、同集に18首入集する。この短冊は、雲紙に金泥で、霞・雲・土坡・草花などの下絵をほどこした豪華な装飾料紙に書写する。その激しい気性とは対照的な、貴族的で穏やかな書風である。
(館長からの一言)義教が書写したものです。
六代目将軍である義教は、1428年、青蓮院より籤引きにより選ばれ還俗し、将軍になりました。父義満の政治を手本とし、将軍親政を推し進めました。しかし苛烈な側面を有し、1441年に赤松満祐により暗殺されました。(嘉吉の乱)
芳艶, 辻岡屋文助
(館長からの一言)六代目将軍を選ぶ籤引きはこの石清水八幡宮でおこなわれました。三宝院満済や管領 畠山満家らの会議の結果、籤引きが決まりました。
伝後花園天皇筆,Attributed to Emperor Gohanazono (1419–1471),古筆了悦氏寄贈,Gift of Mr. Kohitsu Ryōetsu,東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p>紙の上下に、雲の形の繊維を漉き込んだ雲紙に、金泥で草の下絵が描かれています。『新古今和歌集』の和歌「あけくれは昔をのみぞしのぶぐさ葉末の露に袖ぬらしつつ」を散らし書きしたものです。宸翰とは天皇の書のことで、本作は後花園天皇筆と伝わります。<br />す(き)こ(んだ)、くもがみ、きんでい、しんこきんわかしゅう</p>
(館長からの一言)伏見宮貞成親王の第一王子であった後花園天皇は、1428年、称光天皇の崩御後、皇位を継ぎました。後南朝勢力の活動を憂慮した義教は、後花園天皇を後小松上皇の猶子とし、速やかに即位させました。
(“後花園天皇“, Wikipedia, 2022-5-19,https://ja.m.wikipedia.org/wiki/後花園天皇,参照2022-9-15)
(館長からの一言)1439年に成立した勅撰和歌集で、義教の執奏、後花園天皇の勅宣によるものです。義教の歌も18首が入集されています。
(“新続古今和歌集”. Wikipedia. 2022-7-5.https://ja.m.wikipedia.org/wiki/新続古今和歌集. 参照 2022-9-15)
義教期を記述した資料
- 満済准后日記 第1軸裏
満済,写
(館長からの一言) 醍醐寺座主、義持・義教の護持僧であった三宝院満済による日記です。1411年, 1413年-1422年, 1423年-1435年の自筆による大部分が現存しています。
満済は政治顧問として大名と将軍の間を取り持ち、義教の籤引きによる将軍就任に大きな役割を果たしました。
- [南都法蓮院勧進帳]
経覚 写
写本、巻子本1軸。紙高31㎝。南都法蓮院釈迦堂の修造について、人々の助成を請う勧進帳。冒頭に「勧進沙門西阿敬白」とあり、本尊は天上天下の独尊(釈迦如来)、垂迹は法相擁護の霊神(春日明神)、左右の脇士は信貴・鞍馬両寺の毘沙門天と述べ、信貴山の毘沙門・鞍馬寺の毘沙門の霊験の由緒を記す。次いで、当堂は朽損したまま年を経ているため、人々の援助によって修造したい、同心合力の衆は、現世には息災安穏、来世には往生浄土の願望を遂げるであろうと記し、末尾に「享徳三年十一月 日」とある。書風などから、享徳3年(1454)当時の写本と見てよいと思われる。西阿は勧進聖と推測されるが、詳細は不明。法蓮院は現在の奈良市法蓮町にあった寺院らしく、興福寺の末寺であった。尋尊『大乗院寺社雑事記』長禄4年(1460)9月23日条に、「昨日法連院尺迦堂修理奉伽帳令加判了、勧進帳草安ハ光胤律師、清書安位寺御筆」とある勧進帳が本資料のことと考えられ、興福寺の学僧光胤(1396-1468)が文章を書き、「安位寺」即ち尋尊の前の興福寺大乗院門跡であった経覚(1395-1473)が清書したことが知られる。本書は『続群書類従』に「法蓮院釈迦堂修造勧進帳」の書名で収められるが、宮内庁書陵部所蔵の続群書類従原本の奥書に「右一巻以屋代弘賢蔵大乗院経覚僧正真跡本書写一校畢」とあり、かつて屋代弘賢(1758-1841)が蔵していた。巻末紙背に、古筆鑑定家の古筆了悦(1831-1894)が経覚の筆と極めた識語が記される。(落合博志)(2021.2)
(館長からの一言) 大乗院門跡経覚が清書しました。
興福寺別当にも就任していた経覚は大和で起きた大和永享の乱に際して、義教と繋がり、対処にあたりました。著した『経覚私要鈔』は1415年-1472年までの分が現存、重要文化財に指定されています。
(“経覚”,Wikipedia,2022-8-23,https://ja.m.wikipedia.org/wiki/経覚,as 参照2022-9-15)
- 看聞日記
(館長からの一言) 伏見宮貞成親王による日記です。1416年-1448年の33年間に渡る部分が現存します。
義教の治世を「薄氷を踏むの時節」、「万人恐怖」と表現しました。
- 建内記
著者:万里小路時房,著者:万里小路時房
(館長からの一言)南都伝奏、武家伝奏を務めた万里小路時房による日記です。1414年-1455年までの記述が断片的に存在しています。
義教が暗殺された嘉吉の乱について詳しく記述しています。
(“万里小路時房”, Wikipedia, 2022-8-19, https://ja.m.wikipedia.org/wiki/万里小路時房,参照2022-9-15)
展示を見終わった人へのメッセージ
将軍義教が暗殺された後、幕府は不安定化し、これが後の応仁の乱へと繋がっていきます。このように、この義教期の中身について理解していただければ、前後の出来事との繋がりも知ることができます。この展示を通して、この時期、さらには室町時代全体に興味を持っていただけると嬉しいです。
関連イベント
①興福寺と室町幕府
興福寺と室町期の大和の関係について焦点を当てた展示です。
②足利義満の治世
義教が手本とした三代将軍義満を主題とした展示です。


