大灯籠絵展
2024年9月13日~11月4日に開催した特別展「大灯籠絵」をオンライン展示します。展覧会後に新たに発見された大灯籠絵も公開!
福岡市内では、7月から8月にかけて開催される夏祭りで各所に大灯籠が飾られます。
夏祭りの時期に合わせて、昨年2024年9月13日~11月4日に開催した展覧会、特別展「大灯籠絵」をオンラインで開催します。
このオンラインギャラリーでは展覧会後、新たに発見された大灯籠絵2点も初公開します!
プロローグ
町の神仏とまつり
福岡市内では大小さまざまな年中行事が行われています。博多祇園山笠など、全国的に知られている祭りもありますが、この展覧会では、「町内」、「町」といった小さなコミュニティで受け継がれてきた、神仏の夏祭りに注目します。
7月から8月にかけて行われるこれらの祭りでは、夕暮れより法要や祈願が執り行われ、夜店や舞台が設けられるなど、町内は厳かでありながら賑やかな雰囲気に包まれます。松源寺 (博多区千代)の10代住職で福岡博多の郷土文化研究に携わっていた佐々木滋寛は、著書『博多年中行事』で、明治時代から昭和時代戦前期の福岡市、市近郊の年中行事について紹介しています。そのなかに「夏祭風景」の項があり、「夏祭景趣をかざるもの」として、「大灯籠」〈参考1〉、「千灯明」〈参考2〉、「造物」〈参考3〉を紹介しています。
- 特別展「大灯籠絵」を楽しむために その4「造り物」って?
外部サイト「福岡市博物館ブログ」
「大灯籠」と「大灯籠絵」
灯明が消えないように紙や火屋などでおおった灯りの道具を灯籠、そして絵や文字が入った灯籠を絵灯籠と呼びます。福岡市内では、畳4畳ほどの巨大な絵灯籠を神仏の夏季大祭で道辻に飾る町内がいくつかあります。この大きな灯籠は、「オオトウロウ」、「オオドウロウ」、「ダイトウロウ」と呼ばれるほか、地域や世代によっては「オオエドウロウ」、「トウロウエマ」とも呼ばれてきました。また、同趣のものとして、石川県金沢市の「大行燈」、新潟県佐渡市相川の「大提灯」、江戸時代末期の土佐(高知県)の「絵馬提灯」などがあり、地域により多様な呼び方があることが分かります。この展覧会では、人びとの言葉の豊かさを尊重しつつ、夏祭りに飾られる大きな灯籠をさす言葉として「オオトウロウ」を使っています。
さて、「大灯籠」 には、武者絵や説話の一場面などが描かれています。この絵は取り外しができます。市内では、この絵を「灯籠絵」と呼ぶ例があるほか、絵を収める木箱に「大燈籠絵箱」と記された例もあります。そこで本展では、「大灯籠」と区別するために、他地域の語句整理も参考にして、これらの絵を「大灯籠絵」と呼ぶことにします。
他地域の類例
- 佐渡の文化財「佐渡市指定 民俗文化財:大提灯武者絵」
外部サイト「佐渡市」
- 土佐年中行事図絵
下司凍月/画 : ゲシトウゲツ
幕末ごろの土佐の年中行事や風俗を描いた絵巻物。元日の年賀回礼から始まり、3月のひな祭り、4月の初鰹、11月の浦戸湾の魚釣りなど28の場面を描く。下司凍月の模写。原本不明。
「六月 夏祭/ノ体見物/人群集/大小各種/ノ燈出ツ」
施餓鬼供養と「大灯籠」
福岡における「大灯籠」のはじまりは、よく分かりません。しかし、福岡藩2代藩主・黒田忠之の治世期の動向を記した「忠之公御代日記」の寛永17年(1640)正月27日条に「一、七月灯炉作り物其外結構成儀仕間敷事」とあり(『福岡市総合図書館研究紀要』第6号所収)、江戸時代初期には、なんらかの灯籠やつくりものを仕立てる風習があったようです。『仙厓和尚逸話』からは、口伝ながらも江戸時代後期に博多の町々で行われた施餓鬼供養※の際に「絵灯籠」が飾られていたことが分かります。また、軒先に飾る「絵灯籠」の制作を絵師に依頼することがあったこともうかがえます。
※施餓鬼供養・・・餓鬼道で苦しむ衆生に食事を施して供養すること
- 仙厓和尚逸話
倉光大愚 著,柏林社
しかし、「大灯籠」については記されていません。江戸時代後期の地誌「筑前名所図会」には、「流灌頂(現在の大浜流灌頂)」についての記述がありますが「つくりもの」の記載があるのみで「大灯籠」についての言及はありません。明治35年(1902)に出版された『福博誌』には「大浜の各町は灯籠を灯し」とあるものの「大灯籠」であるかははっきりしません。
年代が特定できるものは、「大徳寺焼香之図」(大浜)などの一得斎高清(第二章参照)が手がけた「大灯籠絵」です。彼の活動時期から少なくとも明治時代中期には「大灯籠」が飾られていたことが分かります。
- 福博誌
伊東尾四郎 著,森岡書店
過去から現在に至るまで「大灯籠」が使用された場所とまつりは、博多湾沿岸部(博多、箱崎、唐人町、黒門、千代、今宿)に集中しています。それらの町内の多くは福岡・博多部で、寺社や人口が密集しているところです。福岡の「大灯籠」は、家々の祖先だけでなく、 無縁の霊魂をも弔ってきた都市社会ならではの死者供養と関わりが深いという特徴を有しています。
福岡市内で大灯籠絵を飾っていた場所とまつり
(赤)現在「大灯籠」を飾っているところ (青)かつて「大灯籠」を飾っていたところ (緑)「大灯籠」の特異な例
第1章 「大灯籠」の特徴と展開
博多湾沿岸のいくつかの町で飾られてきた「大灯籠」には、どのような特徴があるのでしょう。
本章では、町をとりまく社会や生活が変化するなかで、「大灯籠」のあり方がどのように変わってきたのかを、町に関わる諸記録や人びとの記憶などを手がかりに紹介します。
↓ タブを押すと各地域の大灯籠について詳しく見られます ↓
大浜流灌頂(おおはまながれかんじょう)
8月24~26日
博多区大博町1区~6区集会所
大浜流灌頂は、福岡市内でもっとも知られている施餓鬼供養の行事です。大浜流灌頂は、宝暦5年(1755)の暴風雨による博多湾での海難による死者や家屋倒壊によって亡くなった人びと、翌年の疫病流行のために亡くなった人びとの霊を弔うために供養を行ったのがはじまりとされています。東長寺 (博多区御供所町)を隠居した僧侶が竪町浜(博多区大博町・下呉服町)に知足庵を結び、東長寺の僧侶たちを招いて行ったとも、町の人びとが被害を目の当たりにして東長寺に依頼したともいわれています。
大浜流灌頂は、8月24日から26日まで3日間行われます。令和4(2022)年より、大浜流灌頂継承保存会を中心として運営されるようになりました。また同年より、知足庵跡とされる瑜伽稲荷神社横の集会所に施餓鬼堂が設けられるようになりました。この期間は毎日19時より、東長寺の僧侶による法要が営まれます〈写真1〉。26日には、施餓鬼堂での法要前に施餓鬼堂の北東にある那の津通り沿いの享保の大飢饉の供養塔前でもお経があげられます〈写真2〉。また同日21時には施餓鬼堂の前に精霊船「西方丸」が設置され、人びとがお参りに訪れます〈写真3〉。かつては浜に祭壇が設けられ、供え物などを入れた船を博多湾に流していましたが、現在は船へのお参りを船の送り出しにかえています。
大浜の「大灯籠」は、かつては旧大浜町内(博多区大博町と神屋町の一部)の道十数か所に飾ったとも伝わります。現在は、大博町の流灌頂通りに海老﨑雪渓作の福岡県指定有形民俗文化財「大浜流灌頂大燈籠」を含む4基の「大灯籠」が飾られます。令和4年より、「大灯籠」の設置を担う若手世代の負担減のため、3基は外側から照明を当てる方法に変更されました。大浜の「大灯籠絵」は、幅が4メートルを超えるものが多いのが特徴です。これは大浜の道幅が広かったことによります。
さて、江戸時代から知られている大浜流灌頂(プロローグ参照)も、昭和40年代には、名物の「つくりもの」や「大灯籠」も中断、露天商による出店も数店となり、賑わいを失っていたそうです。昭和50年代に入り、町の有志たちがかつての賑わいと歴史ある流灌頂への誇りを取り戻そうと「大灯籠」を復活させました。平成時代には、大浜まちづくり協議会が町内の各組織に協力の呼びかけをしたり、「浜友会」という有志の会による夜店の出店などの取り組みがはじまり、再び多くの人びとが訪れるようになりました。
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第2章 絵師たちの活動
「大灯籠絵」は、博多周辺で活動する浮世絵師や絵馬師が手がけてきました。しかし彼らの活動や人物像については謎の部分も多くあります。本章では、一得斎高清、海老﨑雪渓、白水耕雲が残した作品や地域に伝わった資料から、彼らが福岡の年中行事や社会と深く結びついていたことを紹介します。
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一得斎高清
一得斎高清(以下、高清)は、現存する「大灯籠絵」のなかでもっとも大きなものを制作した絵師です。現在5点の「大灯籠絵」が確認されています。(2024年10月時点)
- 特別展「大灯籠絵」を楽しむために その15 現存最古の「大灯籠絵」
外部サイト「福岡市博物館ブログ」
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