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解説

この絵は、いうまでもなくフランスのエクス=アン=プロヴァンスにあるグラネ美術館の大作(327×260cm)と同題、同一構図の小品である。グラネ美術館の作品は、イタリアで研鑽を積んでいた若き日のアングルが、ローマのフランス・アカデミーからパリへ送った最後の野心作で、彼の青春の想像力の振幅を物語る画面として知られる。それは男性的なるものへの畏敬──崇高な男性神、威厳のあるポーズ、力強い身体の大きさ──と、女性的なるものへの崇拝──豊満な女性像、官能的なポーズ、柔らかな裸婦の白い肌──という両極に対峙する要素を一つの主題の中で結合させることであった。この作品を非常に高く評価していたアングルは、1811年に署名をした後、国家によって購入される1834年までの間、アトリエに保存していたという。さて本作は、グラネ美術館の大作と比べてかなり小さな画面であり、アングル作品の文献にも触れられていないので、大作の「縮小ヴァージョン」と考えるか、大作のための「習作」と考えるか、大作の制作後の「記録」と考えるか、それとも弟子や工房による「模写」と考えるか、意見の分かれるところであろう。いずれにせよ、1806年12月25日付の義父フォレスティエ氏に宛てた手紙の中で「私はテティスがユピテルの方に近寄ってユピテルの膝と顎を抱擁するという構図は素晴らしいテーマであり、私の仕事に値するものだと考えています。(中略)私は頭の中でほぼ構想を練り、思い描いています」と書いているように、アングルは1806年頃から本図の制作を具体的に準備していたようである。ユピテルはローマ神話の主神(ギリシア神話ではゼウス)で、神々と人間たちの最高支配者。天空を司り、有鬚で、聖鳥の鷲を連れている。慈悲深く、しかも好色である。テティスは海の精ネレイスで、トロイア戦争のギリシア側の英雄アキレウスの母。『イリアス』によれば、トロイアの包囲戦のとき、アキレウスはギリシア軍の総帥アガメムノンとの争いに関することで、ある請願をしてもらうため、母をユピテルのもとに行かせた。テティスは地上で戦っている息子を勝たせてほしいと懇願するのである。この作品では、王笏を手にしたユピテルが威厳をもって、雲に聳えるオリュンポス山上の玉座についている。その前でテティスが跪き、嘆願するようにその左手を差し上げ、指で神の鬚を愛撫している。更によく見ると、右手、右足の先、そして乳房もユピテルの体に触れているようである。右側の傍らにはユピテルの鷲が控え、反対の左手には妻のユノ(ギリシア神話ではヘラ)が顔を覗かせ、両者ともテティスの方をじっと見つめている。ここに正面向きの座像として描かれた「男性的なるもの」の象徴のような人物像は、アングルが1806年に制作した《皇帝の玉座のナポレオン1世》(パリ軍事博物館蔵)を想起させる。事実、ユピテルをナポレオンに、テティスをマリー=ルイーズに、ユノをジョゼフィーヌに譬えることが可能である。ともあれ、ここに後のアングル芸術を語る際の二つの重要なテーマ──「古典芸術の偉大さの再創造」と「官能的なまでに純化された裸婦」──の萌芽を見い出すことができるであろう。

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日本・東洋・西洋の各国、各時代の絵画・版画・写真・彫刻・陶磁・漆工・武具・刀剣・メダルなど様々なジャンルの作品約30,000点の内、約2,000点を掲載。

2026/01/09