解説
「赤城の山も今夜を限り…」の名セリフとともに知られる新国劇の人気演目のひとつを、タイトル・ロールの初演者である澤田正二郎の主演、「日本映画の父」牧野省三の総監督によって映画化した作品である。元素材は1928年に検閲記録の残る改訂版を基にした16㎜短縮版と考えられるが、行友李風の戯曲(参考文献⑰)と比較すると、序幕「赤城山山麓室沢村才兵衛茶屋」がないほかは、元素材の各篇は戯曲の各幕の内容にほぼ対応している。1917年、東京新富座での旗揚げ公演が興行的に失敗した新国劇は関西で再起をはかり、京都南座を経て大阪角座で公演。立ち回りを取り入れた熱気あふれる舞台が白井松次郎の目に留まり、松竹との契約が成って迎えた夏の弁天座公演で人気のきっかけをつかむ。坪内逍遥の文芸協会演劇研究所の第2期生として学んだ澤田は、参考文献(①)によれば、新国劇創設当初に「新劇の俳優に髷物が出來るかと云つて笑はれ」たこともあるが、座付作者として行友李風を迎えて剣劇に取り組み、1919年初演の『月形半平太』と『國定忠次』が大成功を収めて新国劇=剣劇のイメージが形成されることになった。なお、『國定忠次』は立師段平が付けた最後の立廻りだったという(参考文献⑱)1921年に新国劇は明治座で4年ぶりの東京公演を行い、そのあと劇団の夏休み中に松竹キネマで初めて映画に出演した。その作品『懐かしき力(力よ響け)』(木下杢太郎脚本・監督)は初期の蒲田作品で活躍したロシア人女優キティ・スラヴィナが共演した現代劇だった。人気舞台俳優として映画出演の時間が取れなくなった澤田に、牧野省三が所属する東亜キネマから1924年12月の宝塚公演の機会に撮影を行うプランが打診された。同年11月13日に澤田は東上した東亜キネマ重役の立花良介と帝国ホテルで懇談して契約を了し(参考文献④)、11月下旬には仲介に関わった直木三十三(直木三十五)を同道した牧野省三が公演中の赤坂演技座の楽屋に澤田を訪ね、舞台監督の俵藤丈夫を加えた4人で会談が行われたという(参考文献③)。映画化作品については牧野側から前月の演技座公演で好評を博した『仮名手本忠臣蔵』と『月形半平太』の希望が出されたものの、最終的に『國定忠次』と菊池寛の『恩讐の彼方に』に決まったとあるが、先の澤田と立花の会談を報じた新聞記事(参考文献②)にすでに「澤正得意ものの『國定忠次』及び『恩讐の彼方』の二本を撮影する事になつたといふ」とある。11月24日に演技座の千秋楽を迎え、翌25日に大阪へ出発して当日中に到着、26日には京都入りして、27、28日に荒神山でロケーション撮影、29、30日に等持院撮影所で山形屋から忠次の臨終までのセット撮影という強行軍で(参考文献③、④)、翌12月1日には宝塚公演が初日を迎えた。同月31日に京都マキノキネマで封切、東京では翌年1月15日から浅草大東京で封切られた。わずか4日間で撮影されたことを考えれば、「映畫劇ではない。澤正一派が舞臺では十八番の「國定忠次」をその儘撮影したに過ぎない映畫である」(参考文献⑧)と指摘されることは仕方ないが、松明の光と煙が山中を満たす場面などには、ロケーション撮影による映画ならでは効果が認められよう。なお、次の『恩讐の彼方に』は直木三十三脚色、牧野省三監督で1924年12月12日より甲陽等持院両撮影所で撮影を開始して23日完成。新国劇一座は宝塚公演を終わって帰京したと伝えられている(参考文献⑤、⑨)。同作は1925年1月29日に京都マキノキネマで封切られた。参考文献(④)によれば、最後の捕り手との立ち回り場面で、巖鐵を演じる上田吉二郎は小砂利を集めてその上に倒れて大写しされることを申し出たが、上田の身体を気遣ってそれを認めない牧野との間に「いさかい」があったという。のちに「怪優」と呼ばれた個性派俳優の二十歳の熱血を伝えるエピソードである。※説明および台詞字幕の少なさを補うため、以下に粗筋を添える。「第一篇 赤城山」飢饉と干ばつに苦しむ民のため代官を斬り赤城山に立て籠もる忠次たちを川田屋惣次が単身命懸けで訪れ、忠次を説得する。いきり立つ子分たちを制止した忠次は、自分の身柄の代わりに子分たちを助けるという条件を出す。そこに舅である御室の勘助の首を討った板割の朝太郎が戻ってくる。朝太郎の話を聞いた忠次と惣次は義理を立てて死のうとするが、様子を見ていた日光の圓蔵が割って入り、忠次一党が赤城山を下って四散することを提案して二人を納得させる。忠次は故郷と子分たちとの別れを惜しみ、愛刀義兼を月明かりにかざす。「第二篇 山形屋」ひとりで旅を続ける忠次は怪しい二人組の後を追う老爺に出会う。老爺は越後の農民喜右衛門で年貢のために遊女屋の山形屋藤蔵に娘を売った100両の金を、藤蔵の手下に奪われたと話す。義憤に燃えた忠次は喜右衛門の甥と偽って山形屋に入り、主人藤蔵が見くびって十手をちらつかせると初めて忠次と名乗り、100両の金に加えて娘も取り戻してふたりを帰してやる。山形屋を出た忠次は後を追ってきた山形屋の一味を斬り伏せる。「第三篇 尼寺」巖鉄と定八と一緒になった忠次は知り合いの尼妙眞の庵を訪ね一夜の宿を求める。快く受け入れられた3人だったが、外で妙眞が秘かに息子伊三としめし合わせているのを聞く。さらに閉じ込められていた女と赤ん坊を助け出し、彼女の話から妙眞と息子たちの悪逆ぶりを知った忠次は持っていた金を与えて女を逃がす。翌朝、庵を出る際に妙真を斬った忠次は一瞬何かに憑かれたようになるが、気を取り直して歩き始めた途端に躓いて生爪をはがしてしまう。「第四篇 御用」病に倒れた忠次は叔父多左衛門の土蔵の地下に匿われていたが、土蔵は与力の中山に率いられた捕り手たちに囲まれていた。子分たちの必死の抵抗もむなしく、捕り手たちは土蔵内になだれ込み、布団に横たわる忠次を取り囲む。体が不自由になった忠次を見て中山も思わず同情する。忠次は多左衛門から数珠を首に掛けられて捕縛される。
収録されているデータベース
はじまりの日本劇映画 映画 meets 新派・新劇・新国劇
日本の劇映画が外国映画の影響などによって、その初期の段階から変貌を遂げてゆく時期に、人材を中心に大きな役割を果たした新派、新劇、新国劇という日本の近代演劇との関係に焦点を当て、可燃性ポジフィルムからデジタル化を行った『寒椿』(1921年)など、関東大震災をはさむ大正の後期に製作された貴重な9作品を公開するとともに、演劇研究・評論の第一線で活躍されている専門家の方々に論考をお寄せいただき、また配信作...
最終更新日
2026/01/16