解説
{br=>[[], [], []], content=>[ 最澄が空海に宛てた書状や、空海のもとで学んでいた最澄の弟子、泰範(たいはん)に宛てた書状など、最澄に関連する八通の文書を収録した写本。空海から最澄への両部密教の授法と、経典・儀軌の貸与に関する内容から、二人の交流の様子がうかがえる。, 五通目の弘仁三年(八一二)十一月五日付の書状は、最澄が近江国(おうみのくに)の高島にいた泰範に宛てたもの。空海から「宜(よろ)しく所持の真言の法を最澄闍梨に付属すべし」という約束を得たので、比叡山に戻って灌頂の準備を整えるよう、泰範に勧めている。その約束通り、最澄は同月十五日に金剛界、十二月十四日には胎蔵界の灌頂を高雄山寺(たかおさんじ)(神護寺(じんごじ))で受けた。, 六通目の同年十二月十八日付書状、および七通目の弘仁四年十一月二十五日付書状には、最澄が空海に借用を申し込んだ経典・儀軌が記されている。とくに後者では、久隔帖(館蔵品番号648-0)にも登場する「方円図幷注義(ほうえんずならびにちゅうぎ)」や、「新撰文殊讃法身礼(しんせんもんじゅさんほっしんらい)」という書物と、『釈理趣経(しゃくりしゅぎょう)』一巻の借用を求めている。このうち『釈理趣経』については空海が伝授を拒み、最澄との絶縁のきっかけになったとする議論もあって注目されている。, 本巻の末尾には、醍醐寺(だいごじ)僧の隆勝(りゅうしょう)(一二六四~一三一四)による正応二年三月十八日の書写奥書があり、平安時代後期の写本とみられる仁和寺本に次ぐ古写本として知られている。]}
{br=>[[], []], content=>[ 伝教大師最澄(さいちょう)(七六六または七六七~八二二)の書状六通、遺言一通、最澄の弟子である円澄(えんちょう)(七七一~八三六)の啓状一通をまとめて写したもの。十一世紀の初めに、小野僧正こと仁海(にんかい)が編纂したと考えられる。本品は仁和寺所蔵の承暦三年(一〇七九)の写本に次ぐ古写本。, 最澄の書状六通のうち五通は空海宛である。一通目の弘仁四年(八一三)の空海宛書状は、弟子の円澄を真言の受法者に推挙するものである。「修行満位僧円澄」の下に「大安寺」と書いてあるのは、円澄の本寺が大安寺であることを示している。最澄は弘仁三年に高雄山において空海から大悲胎蔵(だいひたいぞう)の灌頂(かんじょう)を受けていたが、その後比叡山での仏事に忙しく自ら赴くことが出来ず、泰範(たいはん)や円澄など弟子たちを送って真言密教を学ばせた。, 円澄は武蔵国出身で、鑑真(がんじん)の弟子である道忠(どうちゅう)に師事し、唐僧の泰信(たいしん)から受戒(じゅかい)して名を法鏡(ほうきょう)とした。これは大安寺三論宗の年分度者(ねんぶどしゃ)としての受戒で、空海と同時に受戒していた可能性が高い。延暦十六年(七九七)に最澄の弟子となり、名を円澄と改めた。もとの師である道忠は、関東を拠点として活動したことで知られるが、本来は大安寺を本寺としていたのであろう。なお、本品の最後に写されている円澄啓状は、円澄が空海に密教の受法を願う内容である。円澄はのちに第二代天台座主となった。大安寺は、平安時代初期の優れた僧侶たちの重要な起点であった。]}
{br=>[[], [], []], content=>[ 最澄(伝教大師、767~822)の書状6通、最澄の遺言状1通、最澄の弟子である円澄(772~837)の起請状1通を写し収めたもの。, 書状6通のうち、5通までが空海(弘法大師、774~835)に宛てたもので、経典や儀軌などの借用を依頼したり、弟子への付法を乞う内容になっている。他の1通は愛弟子の泰範に宛てたもので、高雄山寺(現在の神護寺)において空海から灌頂を受けることを勧めている。, 巻尾に正応2年(1289)3月18日の奥書があり、本巻が醍醐寺の隆勝(1264~1314)の書写になることを明らかにしている。, 『伝教大師求法書等』の古写本としては、本巻は平安時代後期に書写された仁和寺本に次ぐものである。]}
収録されているデータベース
ColBase
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最終更新日
2026/09/28