解説
馮子振(ふうししん)は官僚として活躍する一方、禅学にも造詣が深く、中峰明本(ちゅうほうみょうほん)、古林清茂(くりんせいむ)ら当時の僧侶とも親交を結びました。本作は、中峰明本のもとで修行をしていた日本からの留学僧、無隠元晦(むいんげんかい)の求めに応じて、馮子振が書き与えた七言絶句の形式をとる三首の法語です。
本作のように、馮子振の書は入元の禅僧に好まれ、日本に少なからずもたらされました。在家の居士の書ではありますが、禅僧の墨蹟のように珍重されてきたのです。本作は著名な大名茶人でもある雲州@うんしゅう@松平家7代の松平治郷@まつだいらはるさと@(不昧@ふまい@)の旧蔵品です。
この書は、馮子振(ふうししん)という人物が、日本の禅宗の僧侶であった無隠元晦(むいんげんかい)のために、七言絶句(しちごんぜっく)の詩を3首つくって書いたものです。左に大きく張り出した横画(よこかく)、長く伸ばしたハネやハライなど、線は鋭く、活き活きとして歯切れのよい筆使いをしており、北宋時代11世紀から12世紀の能書家、黄庭堅(こうていけん)の書に似ているところがあります。文字は余白のメリハリが効いており、実に大胆な形です。
筆者の馮子振は、元の王朝に仕えた官僚で、儒教の経典や歴史に精通し、詩文や書に優れていました。仏教の禅にもよく通じていた馮子振は、出家せず仏教の修行を行う信者として、中峰明本(ちゅうほうみょうほん)や古林清茂(くりんせいむ)などの徳の高い僧侶とも親交を結びました。一方、この書を送られた無隠元晦は、今の福岡県東部から大分県北部に位置した豊前(ぶぜん)出身の禅宗の僧侶です。仏道修行のために元にわたり、中峰明本を師として学びました。15年以上の修行期間を経て日本に帰国したのち、博多や鎌倉、京都などの禅寺(ぜんでら)で住職を務めました。
詩の中では、無隠元晦が中峰明本を師として学んだことや、禅僧として優れていたことを述べています。馮子振は無隠元晦が日本に帰国する際にこの書を送り、日本に持ち帰られたと考えられます。その後、江戸時代には、現在の島根県にあたる松江藩の藩主で、茶人としても名高かった松平不昧(まつだいらふまい)の手にわたり、茶の湯の席に掛ける書として珍重されました。松平不昧の茶道具コレクションの目録にも登場し、その記述の内容から、現在の表装の裂(きれ)や付属の箱などは、不昧が所有していた当時のままであることがわかります。馮子振は出家をしない仏教の信者でありながら、その書は留学した僧侶に好まれて日本にもたらされ、あたかも禅僧があらわした墨蹟のように扱われて、茶の湯の文化のなかで珍重されてきたのです。
収録されているデータベース
ColBase
ColBase: 国立文化財機構所蔵品統合検索システムは、国立文化財機構の4つの国立博物館(東京国立博物館、京都国立博物館、奈良国立博物館、九州国立博物館)と一つの研究所(奈良文化財研究所)の所蔵品を、横断的に検索できるサービスです。
最終更新日
2026/07/20