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定(キリシタン邪宗門禁令) / 和歌山県立文書館所蔵 大川浦文書Ⅰ 整理番号4

和歌山県立文書館「授業で使える和歌山の資料」

「授業で使える和歌山の資料」では、当館の所蔵資料を中心に、授業の教材として活用可能な和歌山に関する地域資料を紹介します。小学校・中学校における社会科や高等学校における地理歴史科・公民科、総合的な学習(探究)の時間等の授業はもちろん、ふるさと学習や一般の方の学習用としても幅広く御活用いただけます。なお、学校の授業で利用する場合は、当館へ申請することなく自由にお使いいただけます。ただし、利用の際には出典(「和歌山県歴史資料アーカイブから転載」等)を明記してください。資料は今後、順次追加していきますので、ぜひ御利用ください。また、授業等での活用についての御意見・御要望や実際に活用した御感想などがございましたら、当館メールアドレス(e0221011@pref.wakayama.lg.jp)までお寄せください。

キリスト教の禁止は何をもたらしたのだろう?

 江戸時代の初め頃、和歌山城下には教会が建てられ、多くのキリシタンがいました。しかし、1613(慶 長 18)年、江戸幕府が全国に禁教令を出すと、紀州藩でも次第にキリシタンの弾圧が強まっていきま した。和歌山市大川に伝わった古文書から、幕府によるキリスト教の取締りについて考えます。 

和歌山城下のキリシタン

 1605(慶長 10)年、紀州藩主浅野幸長(1576~1613)は、江戸城修築の御手伝普請のため江戸に滞在中、持病の皮膚病をフランシスコ会修道士アンドレスに治してもらったことをきっかけに、翌 1606(慶長 11)年、アンドレスとソテーロ神父(ともにスペイン出身)を和歌山城下に招きました。

 同年秋には、和歌山城の近くに小さな教会と病院が建設され、フランシスコ会宣教師による布教が 始まりました。この教会には、説教を聞くため一日あたり 300~500 人の人々が集まったと伝えられ ています。幸長が布教に好意的であったことから、江戸初期の和歌山城下には武士を中心に多くのキリシタンがいたとされています。 

問1 上の記述の後、江戸幕府や諸藩は、宗教に対してどのような政策を行いましたか?

問2 なぜ江戸幕府はキリスト教を禁止したのでしょうか?

問3.江戸幕府は、キリスト教の禁止を徹底するためにどのような取り組みを行いましたか?

紀州藩におけるキリシタン禁制の強化

 1613(慶長 18)年に江戸幕府から全国的な禁教令が出されると、翌年には和歌山城下の教会が閉鎖 され、布教活動も衰退の一途をたどりました。1619(元和 5)年、浅野氏に代わって入国した紀州徳川家の初代徳川頼宣は、当初キリスト教を黙認していましたが、1631(寛永 8)年に宗門改めの実施を 命じ、キリシタンの摘発を行うなど、徐々に取締りを強化しました。

 1637(寛永 14)年に島原の乱が起こると、幕府はキリシタンの弾圧を一段と厳格化し、紀州藩でもそ の徹底が図られました。海岸地域での詮索が続けられるとともに、キリシタンの訴人に褒 賞銀が与 えられることとなり、伊都郡名倉村(現橋本市高野口町名倉)などでキリシタンが検挙されました。 

資料 和歌山県立文書館所蔵「大川浦文書Ⅰ」 整理番号 4  「定(キリシタン邪宗門禁令)」

【意訳】

   定

キリスト教は長年禁止されている。もし、不審な者がいれば申し出よ。御褒美として


・バテレン(宣教師)を密告した者に銀五百枚

・イルマン(修道士)を密告した者に銀三百枚

・一度棄教したが、再びキリシタンになったものを密告した者に銀三百枚

・同宿(布教を補助する者)や一般信者を密告した者に銀百枚


以上のとおりに与える。たとえ、同宿や信者であっても、申出内容によっては銀五百枚を与える。(キリシタンを)匿い、そのことが他から露見した場合は、その地の名主及び五人組まで一類ともに厳しく処罰する。命令は以上のとおりである。


 天和二年(1662)五月日

          奉行

 公儀(幕府)から命じられた趣旨を承知しなさい。

 天和二年六月日

        水野土佐守

        安藤帯刀

本資料について

 この古文書は、海部郡大川浦 (現和歌山市大川)に伝わった 1682(天和2)年のキリシタン禁制の 触書で、いわゆる「訴人褒賞制」を明記したものです。幕府が発した禁令が、紀州藩付家老の水野氏と安藤氏の名で藩内に伝達されています。こうした触書は、高札として全国各地の街道筋や村役人宅、 役所付近などに設けられた高札場に掲げられ、人々の目に常に触れられるようになっていました。

 訴人褒賞制とは、キリシタンの密告者に対して幕府が賞金などを与える制度です。1622(元和 4)年 頃に長崎で始まり、1637(寛永 14)年の島原の乱後に全国で実施されました。

 ここでは、バテレン(宣教師)であれば銀 500 枚、イルマン(修道士)と立ち帰り者(復宗した者) であれば銀 300 枚、同宿 (布教を補助する者)及び一般のキリスト教徒であれば銀 100 枚を、褒美 として密告者に与えると記されています。また、キリシタンを匿ったことが発覚した場合は、その村 の名主(紀州藩では庄屋と呼称)をはじめ五人組まで厳しく処罰するとしています。キリスト教信仰 の禁止の周知はもちろんのこと、住民相互に監視させる意図が読み取れます。

 こうしたキリスト教の取締りは、1873(明治 6)年、諸外国からの抗議により、明治政府がキリシタ ン禁制の高札を撤去するまで続きました。 

問4 資料1では、①バテレン、②イルマン、③再びキリシタンになった者、④同宿や一般信者を申告したときの褒美は何と記されているでしょうか?

問5 資料1では、キリシタンを匿った場合どのようになると記されていますか?

問6 あなたは資料1の政策は適切だと考えますか?その理由もあわせて考えましょう。












江戸時代における和歌山のキリシタン

 島原の乱が始まってから、禁制がきびしくなり、寛永15年(1638)には伊都郡名倉村にキリシタンがいると訴人があった。寛永17年(1640)には家臣の関係者からもあらわれ、寛永21年(1644)には牢に数名いれられるようになった。正保3年(1646)には那賀郡粉河村にもキリシタンがいると訴人があるなど家臣から農民にまでおよんだ。その処刑については明確ではないが、吹上村で80人あまり仕置したという史料もあり、かなりの犠牲者をだしたようである。

出典:安藤精一「近世和歌山のキリシタン」『和歌山の研究 第3巻』

問7 資料2で記されている人々は、キリシタンを見つけたらどのような行動を取ったのでしょうか?

今回の問い あなたは幕府や藩が行った幕藩体制を安定させるための政策(宗教への政策や対外政策)を どのように評価しますか?根拠とその理由もあわせて答えましょう。












関連資料・ウェブサイト等

・「潜伏キリシタン」(ジャパンサーチ ギャラリー)

…踏絵などキリシタン関連の資料が見られるオンライン展示。

・「キリシタン高札:正徳元年(1711)」(同志社大学デジタルコレクション)…キリシタン禁制の高札。

・『日本ばしの高札場』(ARC 浮世絵ポータルデータベース)…高札場の様子を描いた浮世絵。

・「江戸時代の 1 両は今のいくら?―昔のお金の現在価値―」(日本銀行金融研究所 貨幣博物館)

参考文献

・和歌山県史編さん委員会編『和歌山県史 近世』、和歌山県、1990 年

・和歌山市史編纂委員会編『和歌山市史 第2巻』、和歌山市、1989 年

・清水紘一「キリシタン訴人褒賞制について」(キリシタン文化研究会『キリシタン研究 第 19 輯』吉川弘文館、1979 年)

・安藤精一「近世和歌山のキリシタン」(安藤精一編『和歌山の研究 第3巻 近世・近代篇』清文堂、1978 年)

・播磨良紀「紀州藩における宗門改制度の成立について」(『和歌山地方史研究』第 6 号、1983 年)

・佐久間正訳、Hubert Cieslik S.J.解説「1607 年のムニョス報告書 附録ソテーロの二書簡」(キリシタン文化研究会『キリシタン研究 第 11 輯』吉川弘文館、1966 年)