斎場御嶽
世界遺産に登録されている沖縄県南城市の斎場御嶽。その隠れた歴史を紹介します。
はじめに
沖縄本島南部に位置する南城市は、2006年に4町村(佐敷町、知念村、玉城村、大里村)が合併して誕生した、人口4万5千人ほどの市です。市内には、さまざまな有形・無形の文化財がありますが、なかでも広く知られているのが、世界文化遺産にも登録されている斎場御嶽です。今回は、「なんじょうデジタルアーカイブ」で公開されている資料を用いながら、斎場御嶽の隠れた歴史をご紹介します。
御嶽とは?
沖縄の島々には、御嶽(ウタキ)とよばれる神聖な空間が存在します。地域によって、御嶽は「オン」や「オガン」などともよばれ、祈願の場として住民から大切にされてきました。
御嶽という場所がもつ性格や、その伝承については、民俗学などの領域で数多くの研究成果が蓄積されていますが、なかでも仲松弥秀の研究は特筆すべきもののひとつです。人文地理学者である仲松は、各地の御嶽を丹念に踏査したうえで、御嶽とは古代の葬所であり、そこに祀られている神は祖霊(先祖の霊)であるとする説を提示しました。そして、祖先の葬所である御嶽には、必ずといってよいほど人骨(先祖の骨)が収納されていることを指摘し、その骨を骨神(ふにしん)と呼びました。ー古代の沖縄では、死んだ祖先は神となり、子孫の住む村を加護した― 仲松は、御嶽の神と村の住民との関係性を、このように捉えたのです。
現在でも、各地の御嶽では住民が神に対して繁栄や豊穣を祈願するために、さまざまな儀礼がおこなわれています。また、御嶽以外にも、井戸や屋敷跡、岩、古墓などが祈願の場(拝所)となることもあります。南城市教育委員会が刊行している『南城市の御嶽』によると、市内にはこうした拝所がじつに1,100か所以上も存在しています。
御嶽の敷地内には、石垣や祠、香炉などがみられることも多いですが、なかには目立った人工物が見当たらないような例もあります。たとえば、知念半島の沖に浮かぶ久高島には、琉球の創世神であるアマミキヨが最初に創った七御嶽のひとつとされる、クボー(フボー)御嶽があります。クボー御嶽は、ビロウ(沖縄ではクバという)の木が繁茂する森のなかに立地しています。細い道を通って中へ進むと、御嶽の中心部である広場に到達します。この空間はイビとよばれる祈りの場ですが、そこには小さな石積みがあるのみです。芸術家の岡本太郎は、著書『忘れられた日本:沖縄文化論』のなかで、沖縄の御嶽を訪問した際の印象を、「なにもないことの眩暈(めまい)」と表現しました。木々に覆われたクボー御嶽では、まさに静寂な空間そのものが、神聖さを生み出しているのです。
クボー御嶽を含め、沖縄の御嶽には部外者の立ち入りが禁止されている場所もあります。御嶽を訪問する際には、地元の人びとの信仰と文化に敬意を払い、地域のしきたりを守るようにお願いします。
琉球王府と斎場御嶽
斎場御嶽は、那覇空港から車でおよそ40分、知念半島東端の久手堅という字に立地しています。250種を超える植物が生い茂る森に囲まれた御嶽の敷地には、6か所の拝所があり、そこには祈願に用いられた香炉や壺が置かれています。
斎場御嶽は、琉球王府の祭祀において非常に重要な役割を果たしてきました。とくに大きな儀礼のひとつが、「お新下り(おあらうり)」です。琉球王府では、王族の女性から聞得大君(きこえおおきみ)という最高位の神女が選ばれ、国家の繁栄や安寧を祈願しました。その就任儀礼である「お新下り」の舞台となったのが、この斎場御嶽です。
「お新下り」を催すにあたっては、聞得大君一行が斎場御嶽へ向かう際に通る道路の修繕や草取りが、数か月前から進められるなど、その準備に大きな時間と労力が費やされました。儀礼当日、斎場御嶽に到着した聞得大君は、この日のために建てられた仮屋で休息をとり、夜が更けるのを待ちました。仮屋が建てられたのは、御嶽の入り口近く、現在駐車場がある場所です。
御嶽の敷地には、久高島から運ばれた白砂が敷かれ、松明が灯されました。子の刻(深夜12時)になると、聞得大君と神女たちは御嶽の中に入り、それぞれの拝所に米と酒を供えて祈願をおこなっていきます。6か所の拝所で祈願を終えると、最後は大庫理(うふぐーい)という拝所に戻ります。そこで、久高島の外間ノロ(神女)は聞得大君の髪に黄金の簪(かんざし)を授け、神前に供えた水を指先で聞得大君の額につけます。この儀礼を経て、聞得大君は神霊を授かり、王府の祭祀を総括する最高位の神女に就任したのです。
「お新下り」以外にも、琉球国王は一年おきに本島南部の聖地を行幸し、斎場御嶽での祈願をおこないました。国王の行幸は1673年まで、「お新下り」は琉球処分(1879年)まで続けられ、斎場御嶽は王府の重要な聖地として役割を果たしてきたのです。なお、国王による行幸は明治以降に形を変え、「東御廻り(あがりうまーい)」とよばれる聖地巡礼の行事として、民間に広がっていきました。現在でも、斎場御嶽では、巡礼の一環として祈りを捧げる人の姿が見られます。
斎場御嶽と地域とのかかわり
王府が直轄管理してきた斎場御嶽に、一般人が自由に立ち入ることができるようになったのは、明治時代に入ってからのことです。斎場御嶽は男子禁制で、1903(明治36)年の土地整理事業までは久手堅村(のちの知念村久手堅)の村有地でした。仕事で御嶽の森に入る男たちは、入り口で帯を締め直し、女性の恰好をしてから中に立ち入ったそうです。
斎場御嶽の周辺は木々に覆われていましたが、明治後半から大正時代にかけては、木材の乱伐採が進みました。とくに、大正時代に入りサトウキビ栽培が盛んになると、製糖に用いる薪の需要が増大しました。また、昭和初期には日本軍の陣地構築のため、建築資材として大量のマツが伐採されました。現在、斎場御嶽は緑豊かな森に囲まれていますが、このころは、自然破壊がかなり進行していたようです。
下の写真は、斎場御嶽の入口で撮影された写真です。撮影時期は不明ですが、中央の男性がサトウキビを担いでいる様子が確認できます。ちなみに、写真左の男性は、久高島小学校の校長や知念村長などを歴任した新垣孫一氏。民俗学者の柳田国男が1921(大正10)年に沖縄を訪問した際には、氏が斎場御嶽の案内をつとめました。
冒頭にも述べたとおり、沖縄各地の御嶽には、村人を加護する祖先の神(祖霊)が祀られていることが一般的です。ところが、斎場御嶽には祖霊が祀られているとの伝承はなく、骨神が置かれている場所も見当たりません。斎場御嶽に隣接する安座真では、字による祭祀の一環として、初御願(1)や、ウフジチゥヌウュエー(2)、五月ウマチー(3)などの祈願が、御門口でおこなわれます。しかしながら、「村落の拝所」としての、斎場御嶽に対する宗教的な位置づけは希薄です。ひとくちに「御嶽」といっても、国家レベルの聖地として機能してきた斎場御嶽と、村落の御嶽との間には、一括りにすることのできない相違点がみられます。
(1)五穀豊穣と無業息災の祈願。旧1月1日におこなう。
(2)大漁と航海安全の祈願。隔年で旧4月18日におこなう。
(3)稲の初穂祭で、豊作を祈願する。旧5月15日におこなう。
幻となった村社建立計画
沖縄有数の観光地としても人気のある斎場御嶽ですが、かつてこの場所に神社を建立する計画があったことは、あまり知られていません。
古琉球の時代から、御嶽が村における信仰の中心であった沖縄では、一般庶民の間に神道はさほど広まりませんでした。沖縄には、「琉球八社」のひとつである波上宮(那覇市)など、いくつかの神社がありますが、その多くは琉球王府によって創設されたものです。神道は、おもに王府の役人の間で信仰されてきましたが、1879年の琉球処分以降、文化的な面での「日本化・皇民化」が進行し、御嶽と神社をめぐる状況は次第に変化していきます。
廃藩置県後、全国に大きな神社が相次いで新設されていくなか、沖縄でも「県社」を設置しようとする動きがみられるようになります。県は1910(明治43)年、「県社・村社建設理由書」を内務省神社局に提出しました。紆余曲折があったものの、1925(大正14)年、には首里城内に「沖縄神社」が設立され、翌年には内務省によって「県社」として認定されることとなりました。沖縄神社で行われた例祭では芸能も披露され、県内各地の人でにぎわったそうです。
沖縄における神社設置の動きは、戦争とも深く関係しています。村から兵士が出征する際、日本本土では神社で「武運長久」を祈願しましたが、沖縄には地域にねざした神社というものがなく、その祈願をおこなう場もありませんでした。
そこで、1940(昭和15)年ごろから、"御嶽再編"や"一村一社"に向けた動きがみられるようになります。これは、沖縄各地の御嶽を整理統合し、各町村にひとつの神社を設置することを目指す構想です。1943(昭和18)年、沖縄県は「普天間宮・斎場神社・北山神社・宮古神社・八重山神社」の5カ所を県社とする方針を発表します。いっぽう、御嶽再編は、財政問題や戦局の変化によって頓挫することになりました。
このような流れのなか、斎場御嶽のある知念村でも、有志による「村社」設立に向けた運動が展開されました。上の資料は、斎場御嶽に設置が構想された「斎場神社」を描いた、「村社計画鳥瞰図」です。
図の左下には、「昭和十七年八月 仲座久雄」という署名があります。建築家である仲座は、琉球政府博物館など、戦後沖縄の主要な建築物の設計に携わったほか、琉球政府文化財保護委員も務めるなど、文化財の保護にも貢献した人物です。
結局、「斎場神社」の設置が実現することはありませんでしたが、この鳥瞰図は知念村によって保管されてきました。図は著しく劣化していましたが、南城市文化課は2019年に修復作業をおこない、現在は適切に保存されています。
発掘調査と整備事業
木材の乱伐採や戦争の被害によって、斎場御嶽をとりまく自然環境は大きく破壊されました。戦争の痕跡として、御嶽内には砲弾の着弾地に水が溜った、「砲弾池」が今も残っています。
戦後復興を進めるなか、斎場御嶽からの木材伐採は続きました。昭和30(1955)年の琉球政府による史跡・名勝指定に関する文書には、明治時代まで鬱蒼としていた御嶽周辺の森が禿山となっており、復旧を進める必要があると述べられています。
昭和47(1972)年、沖縄の日本復帰にともない、斎場御嶽は国指定の史跡となりました。このころは、まだ一部の参道が崩壊したままで、樹木が通行を遮るような状態だったそうです。
こうした状況を改善するため、知念村は平成4(1992)年度に、「知念城跡・斎場御嶽及び周辺整備基本構想・基本計画」を策定し、平成6(1994)年より事業を開始しました。この事業では、御嶽の環境整備とともに不発弾の除去や、植生調査、発掘調査などが進められました。
そうしたなか、平成10(1998)年には、三庫理(さんぐーい)とよばれる拝所から、金の勾玉や中国製の青磁、大量の銭貨などが出土しました。祭祀に用いられたと考えられる品々が確認されたことにより、琉球王府と斎場御嶽との宗教的な関係性が、物質的側面からも実証されたのです。これらは「沖縄県斎場御嶽出土品」として、平成13(2001)年に国の重要文化財に指定されました。
このほかにも、発掘調査では古い石畳道や排水設備、敷き砂の跡などが確認され、かつての斎場御嶽の姿を知る上で貴重な情報がもたらされました。
世界文化遺産への登録
2000(平成12)年12月2日、斎場御嶽は「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の構成資産として、ユネスコの世界文化遺産リストに登録されました。それに先立つ11月30日、知念村では世界遺産登録の通知を記念する式典が開催されました。社会福祉センター前での式典後、村関係者や子どもたちのパレードがおこなわれたほか、斎場御嶽の前に設置されたくす玉を割り、登録を盛大に祝いました。
おわりに
世界文化遺産への登録を機に、斎場御嶽には多くの観光客がやって来るようになりました。しかしながら、斎場御嶽はたんなる観光地ではなく、沖縄(もしくは琉球)の歴史を知るうえで、きわめて重要な史跡であり、人々にとって大切な信仰の場となっています。
「なんじょうデジタルアーカイブ」では、ここで紹介した以外にも、斎場御嶽にかんする写真や動画を多数公開しています。興味を持たれた方は、ぜひともご覧ください。
参考文献
岡本太郎 1964 『忘れられた日本:沖縄文化論』中央公論社.
知念村教育委員会 2003 『斎場御嶽と自然:世界遺産普及図書』知念村教育委員会.
知念村文化協会 2001 『斎場の杜』10.
仲松弥秀 1977 『古層の村:沖縄民俗文化論』沖縄タイムス社.
南城市教育委員会 2018 『国指定史跡斎場御嶽保存活用計画』南城市教育委員会.
南城市教育委員会 2018 『南城市の御嶽』南城市教育委員会.
