肖像画とは、特定の人物の顔や姿を描いた絵画を指す。中でも、作者自身を描いたものは「自画像」と呼ぶ。日本では平安時代の中頃まで、歴史上の高僧や伝説の聖人などを除いて、実在する人物の肖像画が制作されることはほとんどなかった。平安末期から鎌倉初期にかけて、武人・僧侶・天皇など実在する人物を写実的に描いた大和絵「似絵」が盛行して以降、徐々に肖像画の制作が行われるようになった。鎌倉中期には、禅僧の肖像画「頂相(ちんそう)」(師僧が弟子に印可の証として自らの肖像画に賛をして与えたもの)が中国から伝わり、日本の肖像画に影響を及ぼした。江戸時代には肖像画の対象となる階層が広がりを見せるとともに、浮世絵師による木版肖像画が多数制作され、流布している。また、明治時代に入ると、西洋画の影響を受け、油彩による肖像画も描かれるようになった。
一方、海外の肖像画に目を向けると、古代ギリシャ・ローマ時代には既に写実的な肖像画が描かれていたとされる。古代ギリシャ時代の遺品は残っていないが、ポンペイの邸宅の肖像画、エジプトのミイラ肖像画など、古代ローマ時代の肖像画がわずかに現存している。しかし、その後、ヨーロッパ社会にキリスト教が広まると、宗教的な価値観から、世俗的な個人の肖像が絵画に描かれることはなくなった。ヨーロッパにおいて、再び肖像画が広く描かれるようになったのは、14世紀以降のルネサンス期である。肖像画制作の潮流は、当時絵画芸術が隆盛していたネーデルラントから始まり、イタリアやフランスなど他のヨーロッパ諸国にも広まった。16世紀以降、肖像画は絵画の独立したジャンルとして飛躍的な発展をとげ、その描かれる対象も拡張されていく。19世紀に写真が登場すると、「人物の形態を写し取って記録する」という伝統的な肖像画の目的は薄らぎ、肖像画は人物をモティーフとして芸術性を探求するアートへと変貌していった。
関連するひと・もの・こと
墨一色を基調とした東洋絵画の様式。雪舟が日本的様式を大成
江戸時代に盛行した浮世絵の中でも、多色刷りの木版画の総称。
女性美を主題に描いた絵画で、江戸から明治にかけては「美人絵」「女絵」などと呼ばれていた。菱川師宣の『見返り美人図』などが有名。
安土桃山時代を代表する画家。金碧障壁画と水墨画の両分野で画風を確立した長谷川派の祖
室町時代の画僧。明に渡り水墨画を大成した
宮廷の絵所預をつとめた、土佐派中興の祖
奇行でも知られる、江戸時代後期の浮世絵版画シリーズの巨匠
江戸時代後期、独特の役者絵を描いた謎の浮世絵師
奇想天外な構図と斬新な画風で知られる幕末の浮世絵師
日本国内の美術館で鑑賞できる印象派の名作。
本で知る
[松平定信] [編],[出版者不明]
『集古十種』は、松平定信が編纂した古宝物図録集。1800年頃刊行。全85巻。日本各地にある古宝物約2千点を鐘銘・碑銘・兵器・楽器・銅器・法帖・古画・印章・扁額・文房の10種に分けて摸写し、所在地や寸法を記録したもの。模写は谷文晁らが行なった。肖像部は5冊。
(明) 周進隆 輯,(朝鮮) 闕名 贊
書名は序首による。明周進隆輯、朝鮮某氏賛。中国の歴史上著名な君臣のうち40名の君主を上巻に、68名の臣下を下巻に収め、総計108名の図像と略伝に賛を加えて紹介したもの。明成化23(1487)年の周進隆序等から、中国に存した図像・略伝のある原本に朝鮮で賛を付け加えたことが分かる。図像は木版陽刻、君臣名と略伝及び賛は木活字。朝鮮刊本をもとに図像を陽刻したうえで、文字を木活字で植版・刊行した。無刊記であるが、慶長年間刊と推定されている。当館本は、英国の日本研究家で和漢書収集家でもあったチェンバレン(1850-1935)の旧蔵書。当館に入る前は、大阪毎日新聞社専務取締役で蔵書家でもあった高木利太(1872-1933)が所蔵していた。
[野村]文紹 著,[書写者不明]
作者の野村文紹(のむらぶんしょう)は、江戸後期の画家で、谷文晁の晩年の弟子。 聖徳太子、藤原鎌足、 豊臣秀吉、織田信長など、日本各地に所蔵されている肖像画を模写している。全2巻。
藤浪剛一 編,刀江書院
昭和11年(1936)刊行。日本の歴代名医の肖像165点を収録する書籍。著者の藤浪剛一(ふじなみごういち)は、明治から昭和時代の放射線医学者。慶応義塾大学医学部教授。レントゲン學、光線医学などの診療、研究を行なう傍ら、医学史の資料を収集、医学史の研究にも取り組んだ。
渡辺華山 画,好古堂
明治37年(1904)刊行。著者の渡辺崋山、江戸後期の画家・蘭学者 。絵は谷文晁に学ぶ。西洋画の陰影法を取り入れた写実的な画風を確立し、すぐれた肖像画を残す。
日本肖像画研究会
大正9年(1920)刊。大正時代に刊行された、青少年向けに肖像画の描き方を解説したテキスト。「陰影の描き方」「下図の必要」など、細かく項目立てし、イラストを交えて丁寧に説明されている。
経済雑誌社
明治40年(1907)刊行。
もっと知りたい
日本(鎌倉時代)の肖像画
東京国立博物館,Tokyo National Museum
【重要文化財】 鎌倉時代。孔子(前551~479)は中国春秋時代の思想家で儒教の祖。その言行を集録した『論語』は著名です。この作品は画面上方の色紙形に、孔子の略歴とその徳を讃える讃文を記しています。礼盤に坐る孔子像は正面観で描かれ、礼拝像的な性格を強く示しています。 中国春秋時代の思想家で儒教の祖として知られる孔子の肖像画です。孔子を描いた肖像画としては、日本に現存する最古の作品です。 孔子の肖像画は、奈良時代に中国から日本に伝えられた、孔子とその門人を祀る儀式・釈奠(せきてん)で用いられたと考えられます。釈奠は、春と秋の2回、2月と8月に実施されました。しかし、近世以前の日本でどのような孔子像が使用されていたのかは、作品がほとんど残っていないためはっきりしません。 描かれているものをじっくり見てみましょう。中央に大きく描かれた孔子は、導師が加持祈祷(かじきとう)を行う際の席である礼盤(らいばん)に座っています。そして左手をやすませ、右手は手のひらを正面に向け、薬指と小指を折り曲げています。こういった姿は釈迦の弟子のひとり、維摩居士(ゆいまこじ)の描かれ方と似ています。維摩居士は一般の生活を営みながら仏道に帰依した人物です。 また、孔子像は一般的に斜めを向いた姿が描かれますが、今回の作品では正面を向いています。さらにその両脇には二人の人物が描き込まれています。正面向きの孔子は、三尊像の中心に据えられる本尊に、両脇の人物たちは、本尊の左右に控える脇侍(きょうじ)のようにも見えます。 仏画を意識しているかのようなこの作品は、あるいは仏教とかかわりのある儀礼で用いられたのかもしれません。
奈良国立博物館,Nara National Museum
【重要文化財】 鎌倉時代。武将の法体肖像画のうち、特に禅宗の頂相に倣う形式のものは、鎌倉幕府の執権北条時頼(ほうじょうときより)をはじめとする北条得宗家の禅に対する深い理解を契機にして、時頼の没年(1263)頃にはじめて成立した。以降、得宗家の頂相形式の肖像画は鎌倉時代を通じて展開したが、本図もその系譜に倣うものと考えられる。 安東円恵(1285~1343)は、鎌倉幕府の有力な武将で六波羅探題の被官である。俗名は安東治右衛門助泰という。渡来僧であり鎌倉の円覚寺や建長寺に住した西澗子曇(せいかんすどん)について禅をおさめ、はじめ在俗の居士となり晩年には禅僧南叟円恵として上野国長楽寺に住した。得宗家被官、御内人の安東蓮聖(1240~1330)の子である。 像容は頂相に同じで、法被をかけた椅子の上に趺坐し、面相は細勁な墨線で描写し、ひかえめな隈取りを施している。特に面貌は対看写照の厳しさを見せている。小花文を散らす着衣は豪華な舶載の裂、当時の唐物趣味をかいま見せる。上部には賛文がある。図は円恵が居士の時のものであり、禅の法嗣に与える頂相ではないから自賛とはせず、ちょうど元徳元年(1329)に中国・元から来朝した臨済宗楊岐派松源派の高僧である明極楚俊(みんきそしゅん)の着賛を得ている。俊明極は翌元徳2年の春頃には鎌倉建長寺に住した。ちなみに円恵はこの時父蓮聖の肖像画(遺像)とかつて久米田寺に住した禅爾(ぜんに)の肖像画(現存しない)と併せて三幅に賛を請うている。賛と像主の関係は像主の記念を目的とする遺像における関係に同じである。すぐれた肖像画であると同時に、明極楚俊の墨跡としても注目される。
東京国立博物館,Tokyo National Museum
【重要文化財】 鎌倉時代。唐時代の僧侶、玄奘三蔵(?~664)は、インドに渡り膨大な経典類を中国にもたらした。大きな笈(おい)に多数の経巻をつめて背負い、髑髏(どくろ)の首飾りをつけて、経文を唱えながら歩む姿が、大般若会(だいはんにゃえ)の本尊・釈迦三尊十六善神像にも描かれるが、単独像は珍しい。 これは西遊記に登場する三蔵法師の名でもお馴染みの玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)を描いた肖像画です。玄奘はインド各地を巡って多くの経典を中国に持ち帰り、その翻訳も行いました。この肖像画では玄奘が左側を向いています。絵巻物では右から左へ物語が進みますが、その原則は掛軸にも当てはまります。このことから、右から左に向って歩を進めている姿は、進んでいる状態、つまり玄奘が経典を集めて方々を巡っている最中を捉えたものであると考えられます。玄奘に注目してみると、お経を唱えるために開かれた口元や目鼻立ちはどこか生々しく、繊細に描写されています。立体感を引き出す顔の陰影表現からは、日本に大量にもたらされた中国浙江省・寧波(ニンポー)で描かれた仏画表現の影響がうかがえます。姿は、インドで集めたらしきたくさんの経典が入った大きな荷を背負い、髑髏(どくろ)の首飾りをかけています。右手には払子(ほっす)と呼ばれる仏具、左手には経巻を持ち、腰には刀、足には脚絆を着けています。帯のしめかたは通常とは異なり、個性的です。玄奘がこの絵のように旅の姿で、さらに単身で描かれる現存例はほとんどなく、珍しい作品です。
原操氏寄贈,Gift of Mr. Hara Misao,東京国立博物館,Tokyo National Museum
【重要文化財】 鎌倉時代。勺を持ち、巻纓(けんえい)冠に緌(おいかけ)をかけた武官の姿。忠峯は下級武官であったが、画面では武官の正装である闕腋袍(けってきのほう)や帯刀を確認することができない。こうした点に佐竹本(あるいはその先行本)を描いた絵師の有職理解をうかがうことができるのかもしれない。 三十六歌仙絵とは、実在した36人の優れた歌人の和歌とその肖像を描き、絵巻に収めたものです。歌人ごとに名前、経歴、和歌、肖像画という順番で紹介されます。36人の歌人を紹介するという形式は、平安時代の貴族で歌人でもあった、藤原公任(きんとう)によって作られた、「三十六人撰」という歌集を踏まえています。 この作品は、現存する歌仙絵の中で最も古い作品で、秋田の佐竹家に伝わったことから佐竹本と呼ばれています。佐竹本は他の絵巻に比べて紙が大きく、さらに雲母(うんも)という鉱物を細かくして塗料に混ぜて画面に塗っているため、キラキラとした光沢と共に存在感をはなっています。佐竹本は上下巻に分かれており、下巻の巻頭に大阪・住吉大社の和歌と風景が加えられ、37図あったことが分かっています。 大正時代に、実業家で茶人としても知られた益田鈍翁(ますだどんおう)が中心となって、佐竹本は歌人ごとに切り分けられ、掛け軸に仕立て直されました。その現場となった、鈍翁が当時所有していた応挙館は、現在、東京国立博物館の庭園に移築されています。
京都国立博物館 Kyoto National Museum,Kyoto National Museum
【重要文化財】 鎌倉時代。摂関大臣などの公卿57人を上下2段に、上段は前を向いて、下段は背向して振り向く姿で描くもので、かつて「年中行事着坐図巻」と呼ばれたが、ある時の行事に集う人を描くものではなく、公家の列坐影である。宮内庁本天子摂関影によって像主を見ると、巻首の藤原忠通から、建長4年(1252)補任の摂関大臣まで描かれている。
 筆者を藤原信実と伝えるように、画風は細線をひき重ねて像主の相貌を写し取る似絵の伝統的技法が生きており、隆信、信実以来の似絵の家系に筆者を求め得る。束帯の文様に有職を無視して蕪や大根まで描くのは異例であり、あるいは似絵の手控として作られたかとの想像をひきおこす。
京都国立博物館 Kyoto National Museum,Kyoto National Museum
【重要文化財】 鎌倉時代・江戸時代。巻首の一部(一宮の垂迹の場面)を失っているが、前半に若狭彦若狭姫二社の創立の縁起を描き、つづいて2神鎮坐の時から、この神社の神職を継承した節文以下の笠氏歴代の肖像を描く。この肖像が、初代節文を神、2代俊文を人というように、奇数代には背障礼盤を描き添えて神、偶数代には上畳のみで人として、神人相対するように描いていることから「神人絵系図」の名がある。縁起絵の部分は連続した画面で、要所に説明の文字を入れる古い形式を残し、清澄な彩色と素朴な線描に特色がある。肖像のうち、前12代は鎌倉時代の制作になり、細線重ね書きの似絵の筆法で描かれているが、これに続く部分は江戸時代に補加されたものである。
冷泉為恭模,Copied by Reizei Tamechika (1823-64),東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p>歴史の教科書などでもおなじみの源頼朝の肖像画の模本。私たちの抱く頼朝イメージはこの画像によって決定づけられたと言っても過言ではない。この部屋の入口のケースに展示している「伝源頼朝坐像」と本図の像主。同じ人物のはずが若干印象が異なりはしないだろうか。<br /></p>
冷泉為恭模,Copied by Reizei Tamechika (1823-64),東京国立博物館,Tokyo National Museum
伝源頼朝像、伝藤原光能像とともに、神護寺に伝わった肖像画の模本。近年、重盛像は足利尊氏、頼朝像はその弟直義、光能像は尊氏の子義詮を描くとする説が提出された。同じ人物を描くとされる本図と「天子摂関大臣影」の重盛。じっくりと比較してみたい。
松永安左エ門氏寄贈,Gift of Mr. Matsunaga Yasuzaemon,東京国立博物館,Tokyo National Museum
鎌倉時代。通例の図様ながら、小振りの紙本に描かれた人麻呂像。色紙型には「ほのぼのとあかしのうらのあさきりにしまかくれゆくふねをしぞ思」、手に執る料紙には「むめのはなそれともみえすひさかたのあまきるゆきのなへてふれれは」と、人麻呂の歌が記される。
東京国立博物館,Tokyo National Museum
鎌倉時代。画面左を向き、畳に坐す人麻呂像で、上部の色紙型には人麻呂の経歴と和歌が記されている。こうした賛を付した画像が人麻呂影供の本尊として用いられた。人麻呂の周囲には桜が舞い散るが、藤原兼房が人麻呂を見た際、舞い散るのは梅花であったことは注意される。
日本(南北朝・室町・安土桃山時代)の肖像画
東京国立博物館,Tokyo National Museum
【重要文化財】 南北朝時代。神護寺別当、東寺長者をつとめた勧修寺栄海(かじゅうじえいかい)(1278~1347)撰になる、歌人の全てを僧侶で構成する歌仙絵。達磨(だるま)・聖徳太子(しょうとくたいし)、菩提僊那(ぼだいせんな)・行基(ぎょうき)の贈答歌から貞慶(じょうけい)、明恵(みょうえ)にいたる37人の像と36の和歌から成る。和歌、及び各像が時代不同歌合絵の強い影響下にある。 歌仙絵(かせんえ)とは、優れた歌人の和歌と肖像を表した絵のことです。釈教とは釈迦の教えなどという意味がありますが、ここでは僧侶のことを指していると考えられます。今回ご紹介する作品は、三十六の和歌とその和歌を詠んだ僧侶の肖像を描いた絵巻の一部です。三十六人の歌人を紹介するという形式は、平安時代の貴族で歌人の藤原公任(きんとう)によって作られた、「三十六人撰」という歌集を踏まえています。和歌は、京都にあるお寺、勧修寺(かじゅうじ)の僧侶だった栄海(えいかい)によって選出されました。 巻頭には栄海による選出の趣旨が述べられています。最初に出てくる肖像は、禅宗を開いた達磨(だるま)、その向かい側の子どもは聖徳太子です。聖徳太子は僧侶ではありませんが、日本に仏教を広めた人物ということで、取り上げられたのでしょう。次に出てくる二人の人物は、奈良の東大寺の大仏建立に深く関わる、僧正菩提(そうじょうぼだい)と行基(ぎょうき)です。いずれも、日本仏教史に深い関わりのある人物たちで、年代順に登場します。 肖像の描き方に注目してみましょう。一部彩色が施されていますが、基本的には墨のみで人物を表現しています。このように墨線で描く方法を白描(はくびょう)といい、仏教絵画では絵の様式や図柄を描いて伝える際に用いられる手法です。肖像の描き方にも仏教の要素が盛り込まれています。宮廷文化である和歌と仏教を関連させた、興味深い作品です。
南北朝時代。桓武天皇〈かんむてんのう・737-806〉は、光仁天皇〈こうにんてんのう・709-781〉の皇子。天応元年〈781〉に即位。天皇は、平城京から長岡京に、ついで延暦13年〈794〉平安京に遷都を果たした。また坂上田村麻呂〈さかのうえのたむらまろ・758-811〉による蝦夷地遠征、最澄〈さいちょう・766-822〉・空海〈くうかい・774-835〉を遣唐使に登用、帰国後はとくに最澄を重用して日本天台宗の普及に貢献した。さらに勘解由使の設置など、律令政治の再建に多大なる尽力を図った。神殿風の室内に、繧繝縁(うんげんべり)の上畳に毛氈を敷き、その上に置かれた背もたれ付きの椅子に衣冠姿で椅坐する桓武天皇を描く。これは、桓武天皇を神格化し、礼拝の対象として描かれたものであろう。比叡山延暦寺では桓武天皇の命日である毎年3月17日に天皇講と称する桓武天皇への謝恩の法会が開かれているが、こうした行事に用いられたものではなかったか。大幅の堂々とした肖像画で、桓武天皇像としては出色の作品といえる。
没倫紹等賛,Inscription by Motsurin Joto (?-1492),岡崎正也氏寄贈,Gift of Mr. Okazaki Masaya,東京国立博物館,Tokyo National Museum
【重要文化財】 室町時代。体を斜めに向け、視線をこちらに送る人物。これは、室町時代の禅僧、一休宗純(そうじゅん)を描いた肖像画です。後世に創作されたとんち話でよく知られる一休ですが、実際は、過激な言動で当時の禅宗を痛烈に批判した、型破りな人でした。 この肖像画の一休は、ぼさぼさの髪に深いしわ、伸び放題の無精ひげなど、あまり身だしなみが整っているようには見えません。実はこの絵、元々は下絵だったと考えられています。正式な肖像画を描く際に参照するものとして、細かい部分までありのままに描写したのでしょう。それにより、生々しいリアルな肖像となり、実際に一休と向かい合っているような緊張感が漂います。 肖像画の上に書かれた文は、一休が残した言葉を弟子が写したものです。自分以外に禅を語れるものはいないと宣言しています。肖像画の一休の何ともふてぶてしい表情は、その宣言を反映しているかのようです。
伝土佐光信筆,Attributed to Tosa Mitsunobu,東京国立博物館,Tokyo National Museum
【重要文化財】 室町時代。江戸時代の土佐光貞の箱書きによれば、土佐光信が義政の姿を描いたものという。像主は黒の袍と浅葱色の指貫を着し、右手に檜扇を持つ衣冠姿である。襖絵や鏡台が描き込まれ、また小画面であるため、公的な肖像画とは別種の親密さ、臨場感を感じさせる。 室町幕府第8代将軍、足利義政を描いたと伝えられる肖像画です。この掛軸をしまっておく箱に、室町時代の絵師・土佐光信が義政を描いたものであるということが書かれ、代々土佐家に伝わったとされています。光信は宮廷絵師のトップにまで昇りつめた室町時代を代表する絵師です。 義政は宮中での正式な服装である衣冠(いかん)姿で、遠くを見つめます。落ちつきと威厳に満ちています。 この作品には、一般的な将軍の肖像画とは異なる点がいくつか見られます。まず、背景が描かれている点です。背景の襖には墨の濃淡でモチーフを描く水墨画が描かれていますが、他の肖像画に背景が描かれている例はあまりありません。書画にも知識の広い文化人であった義政を象徴しているのでしょうか。次に、画面右側に鏡が描かれています。これも例にないことで、何か意味があるのかもしれませんが、詳しいことはわかっていません。そして、画面が横長というのも珍しい点です。 異例な点の多い肖像画ですが、背景の襖や鏡に関しては、もしかしたら肖像画をオーダーした人物から要望があって描かれたのかもしれません。それぞれのアイテムがなぜ描きこまれたのか、推理してみるのも面白い見方です。
大永7年(1527)常庵龍崇賛,Inscription by Jōan Ryūsō dated 1527,東京国立博物館,Tokyo National Museum
【重要文化財】 室町時代。室町時代の連歌師・牡丹花肖柏の肖像画。畳の上で脇息によりかかり、片膝をたてる姿は歌聖・柿本人麻呂像を模したもの。画面の半部ほどを占める、建仁寺の常庵龍崇によって書かれた賛によると、本図は肖柏の没後に描かれた遺像であることが分かる。(ルビ:れんがし、きょうそく、かせい、かきのもとのひとまろ、じょうあん りゅうそう、いぞう)
伝土佐光信筆,Attributed to Tosa Mitsunobu (1469–1523),東京国立博物館,Tokyo National Museum
【重要文化財】 室町時代。幸若舞の始祖とされる桃井直詮の肖像画。室町時代の絵所預・土佐光信筆と伝える。折烏帽子をかぶり、扇を持ち、松喰鶴に亀の文をほどこした青い直垂を着す。左右から張り出した松、絨毯のような赤い敷物など、肖像画としては珍しい表現をとる。
奈良国立博物館,Nara National Museum
室町時代。奈良・談山神社の祭神とされる藤原氏の祖・鎌足(六一四~六九)の肖像画。左足を踏み下げ両手で笏を執る鎌足の姿を中央に大きく描き、向かって左下に鎌足の子息である不比等(ふひと)、右下に同じく子息である僧形の定貞(じょうえ)の三人が、上畳上の床座に坐る姿を描く。その背後には、巻き上げられた御簾の上に三面の御正体とみられる鏡がかかり、赤く装飾的な戸張をたくし上げた奥に、藤がからみつく松(天皇家に寄り添って政権を支える藤原氏を象徴)を描いた衝立がのぞいている。こうした神像として荘厳を調えた形式の鎌足像を、通称「多武峯曼荼羅」と呼んでいる。形式面に加え、鎌足の気品のある顔立ち、良質な顔料を用いた色鮮やかな彩色、截金・金泥を多用する精緻な文様表現などから、本品は数多い鎌足画像の中でも代表作といえるだろう。表背の墨書銘により、永正十二年(一五一五)正月十六日に描かれ、多武峯の本所があった平等院に伝来したことが判明することも貴重である。さて、談山神社の前身である多武峯聖霊院に御神体として安置された鎌足の本像は、中世以降しばしば御破裂を起こす霊像として畏怖され、現存する鎌足像がとる半跏踏み下げという像容も聖霊院像に基づいたと考えられる。興福寺の維摩会を創始したといわれる鎌足は維摩の化身として信仰されたが、同じく維摩を本地仏とする園城寺の鎮守・新羅明神を描いた画像には、鎌足像を規範として半跏踏み下げの姿形をとるものが多いといわれる。すなわち本品を含む神像として描かれた半跏の鎌足像は、維摩の垂迹神として礼拝されていたのだろう。
室町時代。南嶺和尚の法嗣(ほうじ:法を受け継ぐ者)である大建禅師の頂相画(禅僧の肖像画)。大建の法嗣桂隠が享徳3年(1454年)、明に渡った時、日本で描かれたこの頂相を持参し、明の僧に賛文(画の添書き)を求め、持ち帰ったものです。 室町時代の頂相画として特に優れた作品であり、また日明禅僧の交流を示す資料として価値があります。縦118cm、横54.5cm。東隆寺所蔵です。
土佐光信
室町時代。鎌倉時代末期の公卿・万里小路藤房〈までのこうじふじふさ・1295-?〉の画像である。藤房は、万里小路宣房〈のぶふさ・1258-1348〉の長子。後醍醐天皇〈ごだいごてんのう・1288-1339〉の近くに仕え、正二位・中納言に叙せられる。元弘元年〈1331〉、後醍醐天皇の倒幕謀反(元弘の乱)に参画するが、まもなく捕らえられて翌年には常陸国に配流となった。元弘3年〈1333〉、鎌倉幕府滅亡により京都に帰還、建武新政府に出仕した。が、翌建武元年に突然出家逐電、その後の消息は不明という。硬骨漢ゆえ、建武新政の誤りを直訴したが受け容れられなかったがために出家したとの説もあるなど、藤房についてはかずかずの逸話が残されている。本図は、その藤房の出家後の姿を描く。烏帽子をかぶり、右手に払子(ほっす)をもち、袈裟をまとった坐像。気骨の表情をとらえた生命感あふれる面貌、眉・鬢の毛・髭の精緻な描写である。この軸には、文化3年〈1803〉の住吉広行〈すみよしひろゆき・1755-1811〉の折紙(鑑定書)と、土佐光孚〈とさみつざね・1780-1852〉が成瀬正胤(なるせまさたね・享和年間〈1801~04〉ころの画家)に宛てた書状が付属しており、それらは筆者を室町時代後期の画家・土佐光信〈とさみつのぶ・生没年未詳〉と極める。それらの鑑定に示す通り、光信の自筆作品としてさしつかえないであろう。光信は文亀3年〈1503〉に従四位となって、絵師として最高の地位にのぼり、屏風・絵巻・肖像画・仏画など広範囲にわたって活躍し、土佐派を確立した、当時を代表する大和絵の画家であった。
専修寺
室町時代。縦78.0㎝、横40.8㎝、掛幅装。上げ畳に座し、墨染衣の法衣の上に白い袈裟をかけ、右手上、左手下に数珠をつまぐる。像の左肩上方に「釈真慧法印」、像の右下部に「明應八(1499)年八月廿八日釈真慧六十六歳書之」の銘がある。これらは真慧の自筆と考えられるものであり、本図が寿像(じゅぞう、生前に作成する肖像のこと)であることを示している。 室町期の優れた似絵で、簡潔な表現でありながら顔は生気があふれている。 真慧(1434~1512)は伊勢専修寺10世で、浄土真宗の僧。真宗高田派中興の祖である。真慧は伊勢、北陸を巡化し教えを広め、一身田に無量寿院(のちに専修寺)を建てている。
大樹寺
室町時代。縦96.3㎝、横49.3㎝、掛幅装。盛装に威厳を正し、払子を持ち、曲彔(きょくろく、椅子の名称)に座す頂相(ちんぞう、禅僧の肖像のこと)の一般的形式に基づいている。筆法は緻密で丁寧であり、面相は粉地に輪郭面皺等を細線で描き起している。 「禅源大済禅師」は日峯宗舜(にっぽうそうしゅん)の諡号(しごう、死後に朝廷から送られた名)である。日峯は京都の生まれ、妙心寺中興の祖と讃えられる高僧である。大樹寺は室町期に栄えた寺院で、願主の朝倉備前守が桃隠玄朔を開山に迎えたが、さらに桃隠は、その師である日峯を開山として勧請したのである。本図の伝来はそれを物語る。賛の文面から、文安4(1447)年には日峯が自賛した頂相があり、本図はそれを写したものと推測される。賛を写したのは、妙心寺第30世の珠栄(永禄5、1562年没)である。したがって、本図は室町時代後期の作と思われる。 室町時代の地方寺院における臨済法統の継承と意識を知るうえで、本図は欠かせない資料といえる。
宗教法人 土呂山本宗寺
室町時代。絹本著色、縦87.3㎝、横38.5㎝、掛幅装。蓮如を左後方部に、如光をその斜め前に配した画像である。 蓮如は浄土真宗本願寺第八代で、室町時代に山科(京都府)・石山(大阪府)を拠点に、一向宗(浄土真宗)の教線拡大を推進した人物として知られている。如光は蓮如の門弟で、三河(愛知県)一向宗団の指導的地位にあった人物である。 裏貼の墨書には「釋蓮如(花押)/応仁二歳十一月一日/願主釋寿徳/祐慶門徒吉野郷川頬庄飯貝/伊勢国飯野郡/中万郷射和/明応八年未己八月十一日/願主釋寿正」とある。応仁2(1468)年11月1日は、如光の命日である。「釋蓮如(花押)」は蓮如の直筆と考えられる。 松阪市の本宗寺は、三河一向一揆の中心であった本宗寺(岡崎市)が移転してきたものとされるが、それはこの裏書墨書からも窺うことができる。なお、蓮如・如光の連坐像は、現在ではこの2つの寺にのみ残されている。 当画像は、室町時代中期の宗教肖像画の貴重な作例である。
雪舟 : セッシュウ
安土桃山時代。益田兼堯は益田家第15代当主。大内氏と常に行動をともにし、勲功のあった武将。図上に益田東光寺憎・竹心周鼎の文明11年の賛があることから、その頃雪舟が益田を訪れ、兼堯の品格の高い容貌をリアルに描いたことが知られる。雪舟肖像画の最高傑作といわれ、雪舟と兼堯との好ましい交友関係がうかがわれる。
長谷川等伯筆,By Hasegawa Tōhaku (1539–1610),東京国立博物館,Tokyo National Museum
【重要文化財】 安土桃山時代。本図は南北朝時代の武将、名和長年の肖像画と伝わる。しかし、近年は能登畠山(はたけやま)氏に関係する人物、あるいは馬術家で知られる武将、斎藤好玄(さいとうよしはる)(1500-1572)とも考えられている。編み込まれたたてがみの描写が細やかな暴れ馬は、像主の愛馬であろう。
安土桃山時代。臣秀吉〈とよとみひでよし・1536-98〉は、尾張国の片田舎の小身から出世、はじめ木下藤吉郎を名乗る。織田信長〈おだのぶなが・1534-82〉に仕え、のち羽柴姓に改めた。「本能寺の変」の後、明智光秀〈あけちみつひで・1528?-82〉を討って、織田家臣団のなかで急速に擡頭、その破天荒の勢いを駆って、ついに天下一統を成し遂げた。未曾有の栄進を重ね、従一位をきわめ、関白・太政大臣に任じた。秀吉51歳、まさに位人臣をきわめた。この画像は、この絶頂期の秀吉を描かせたものではなかったか。今日に伝存する秀吉像の多くは、神殿が背景に描かれており、慶長3年〈1598〉8月18日、63歳をもって死去した後に、正一位豊国大明神を贈られて神格化された肖像である。が、この画像にはそれがなく、容貌もいくぶん若く見える。上畳を縁取る繧繝縁は、当時、天皇・院・東宮・諸親王・摂関家などの所用と定められていた。とすれば、これは天正14年〈1586〉12月19日、51歳で太政大臣に任じられた直後の画像、すなわち寿像(生存中に描く肖像画)であった。冠をいただき、雲形をあらわした束帯の袍、平緒を結び、腰には黄金造飾太刀を佩き、手には笏をとる。得意絶頂の秀吉の面貌が、見事に描き出されている。
日本(江戸時代)の肖像画
渡辺崋山筆,By Watanabe Kazan (1793-1841),東京国立博物館,Tokyo National Museum
【国宝】 江戸時代(19世紀)。渡辺崋山は田原藩の江戸詰め家老。幕末の藩政改革に尽力する一方、苦しい家計を助けるため画業にも精進した。この肖像画は、崋山にとって蘭学の先輩というべき古河藩家老の鷹見泉石を描いたもの。崋山の肖像画作品中の傑作である。 武士の正装に身をつつんだ男が、眼光鋭く正面を見据えています。鷹見泉石は武士であるとともに西洋の学問を研究する蘭学者でした。これは自らが仕える藩主の使いとして寺院に参拝した折、その正装した姿を、学問上の弟子でもあった渡辺崋山が描いた作品です。 崋山もまた武士でしたが、絵画の製作にとても優れ、西洋画の遠近法や陰影法を採り入れた独自の画風を確立しました。崋山は肖像画に多くの名作を残していますが、この作品はなかでも最高の傑作として知られています。あっさりとした線描と色彩のなかにも細やかな技術が駆使され、人物の高い教養と、強い意思が伝わってくるかのようです。 どうぞ、武士の生きざままでも感じさせる高度な絵画世界をご堪能ください。
渡辺崋山,Watanabe Kazan,京都国立博物館 Kyoto National Museum,Kyoto National Museum
【重要文化財】 江戸時代(19世紀)。渡辺崋山筆。江戸時代後期の書家として著名な市河米庵の寿像。米庵の父は、儒家または漢詩人として声名を博した市河寛斎である。図上の米庵自身の賛文によれば、本図は天保9年の米庵の還暦のための像ということになるが、他の記録によって肖像自体はその前年に完成していたことが判明している。この時、渡辺崋山は45歳、円熟期の肖像画であり、附(つけたり)の同像画稿とともに崋山画の一極北を示す作品といえよう。また、画稿と正体ではやや相貌に違いがある。当時の画論類を見ると、肖像画は単にその人物に似ていることよりも、その人物の徳を表現することが肝要と論じられている。崋山もまたその伝統に随ったのである。
伝桃田柳栄,Attributed to Momota Ryuei,京都国立博物館 Kyoto National Museum,Kyoto National Museum
【重要文化財】 江戸時代。狩野探幽(1602~74)は永徳の孫。はじめて江戸幕府の御用絵師となった人。この肖像は、探幽の門人桃田柳栄の筆と伝え、江戸鍛冶橋狩野(かじばしかのう)に伝来し、文化三年(1806)に焼失した探幽像の草稿といわれている。
円山応挙筆,By Maruyama Ōkyo (1733–1795),東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(18世紀)。応挙は西洋銅版画に由来する眼鏡絵や中国絵画を学び、現実味のあるリアルな表現を追求した。人物表現は、相学を参考にし、顔を類型化して描くことで知られるが、本作のように像主が実在する肖像画の場合、相貌の特徴を写実的に描く制作態度がみられる。
椿椿山筆,By Tsubaki Chinzan (1801–54),河田燕氏寄贈,Gift of Mr. Kawada Yasushi,東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(19世紀)幕末の儒学者として名高い佐藤一斎とその妻を描く。西洋画法を取り入れた繊細な筆遣い、陰影法による顔の描写など、師である渡辺崋山の画風を受け継ぎつつも、線描は柔らかになり、彩色も温和な表現となっている。椿山の独自性を示す肖像画の1つである。
谷文晁 絵,蘭山 [賛]
江戸時代(19世紀)。小野蘭山は享保14年(1729)に京都で生まれ、松岡玄達に本草を学び、宝暦3年(1753)に私塾衆芳軒を開いた。やがて名声が高まり、幕府の要請で寛政11年(1799)に江戸へ出て幕府医学館で教え、文化7年(1810)、82歳のときに江戸で没した。この肖像画は、没する前年、門下の谷文晁(1763〜1840 当時47歳)に描かせたもの。初め右側から写生したが、蘭山の気に入らず、また左肩にある瘤は寿瘤だから画に入れてほしいとの蘭山の希望もあって、左側から描き直した。上部に蘭山自筆の賛が貼付されている。蘭山は子息長谷川有義にこの絵を与えたが、有義の没後、門下の平井宗七郎、ついで同じく弟子の福井近江守棣園の手に渡り、時期はわからないが、やがて小野家に戻された。そして先年、同家に残っていた蔵書とともに当館に寄贈されたのである。当館は、この原画を博物画家の服部雪斎が模写した『蘭山先生肖像』(特1−3285)も所蔵している。(磯野直秀)
伝谷文晁筆,Attributed to Tani Buncho (1763 - 1840),東京国立博物館,Tokyo National Museum
江戸時代(19世紀)。松平定信が谷文晁に命じて描かせ、座右に備えたものと伝えられ、当時の名士46人の肖像が集められている。その画稿の大半は文晁自筆とみられるが、顔貌の描写はやや精彩を欠き、実際には文晁の指示の下、その門人たちが制作したと考えられる。
歌川豊国
江戸時代(19世紀)。京伝(1761~1816)は江戸時代後期の戯作者、浮世絵師で、画号は北尾政演。羽織袴で端座する姿のこの画像は京伝の家に伝来したもので、おそらく没後の遺像であろう。図上に貼られた色紙形は京伝自筆の俳句「墨水吟 水や空月の中なる都鳥」である。
堀川敬周筆,西村十丈園賛
江戸後期。高岡初の町絵師で俳諧にも造詣の深い堀川敬周(1789頃~1858)が俳聖・芭蕉を描き、現三重県出身の画家で俳人の西村十丈園(?~1830)が芭蕉の句を書いた合作。「朝夜さを誰松島ぞ片心」とある。 芭蕉の日本三景の松島への憧れを女性への思いになぞらえ詠んだ句とされていたが、近年この「誰」は平安後~鎌倉初期の僧・見仏上人と解釈されている。
国周,平のや ,〈3〉歌川 豊国
江戸時代(19世紀)。歌川国周筆による、78歳の三代歌川豊国(歌川国貞)の肖像画。本図は文久3年(1863)に描かれたもので、翌年の元治元年(1865)に三代豊国は79歳で死去している。国周は幕末から明治時代に活躍した浮世絵師。三代豊国らに師事し、役者絵や美人画にすぐれた。
芳幾,有人、魯文、玄魚,広幸板 広岡屋 幸助
江戸時代(19世紀)。落合芳幾筆による、師・歌川国芳の肖像画。本図は国芳が亡くなったた文久元年(1861)に描かれた死絵。芳幾は幕末から明治時代の浮世絵師。国芳に師事し、美人画や役者絵を得意とし、明治時代には「東京日日新聞」「東京絵新聞」など絵入り新聞の挿絵を手掛けた。
よし国,(死絵),本清 正本屋 清七 泉理
日本(近現代)の肖像画
和田英作筆,By Wada Eisaku (1874–1959),波多野元武氏寄贈,Gift of Mr. Hatano Mototake,東京国立博物館,Tokyo National Museum
明治時代。和田は、曾山幸彦(そやまさちひこ)、原田直次郎(はらだなおじろう)らに指導を受け、その後、黒田清輝(くろだせいき)の天真道場に学び、さらに渡欧しコランに師事した。東京美術学校教授や文展審査員となって日本洋画のアカデミズムの確立に貢献した。肖像画を数多く残すが、本作のモデルは、寄贈者の御母堂。 髪を丸く結い和服をきて椅子に座る女性の姿を油彩で描いた作品です。画面向かって右の窓から入ってくる光は、女性の左半身や、椅子の背もたれを明るく照らしています。これに対して陰となる部分はトーンを落とし、明暗が対比をなしています。19世紀のヨーロッパ絵画界を中心に、自然光のもとでの事物や風景の色調を表現しようとする「外光派」(がいこうは)の画家たちが活躍しました。この作品の柔らかく明るい色づかいや明暗の対比にも、外光派の画風の特色が見てとれます。また女性の髪形や装いは、当時は一般的であった和装ですが、カーテンや椅子の布素地の模様は洋風です。こうした情景も、当時の世相をよく示しているといえるでしょう。 作者の和田英作は1874年生まれ。原田直次郎(はらだなおじろう)、曽山幸彦(そやまさちひこ)らに指導を受け、黒田清輝(くろだせいき)、久米圭一郎(くめけいいちろう)など外光派の画家のもとで学びました。さらにはフランス・パリに留学し、外光派の画家ラファエル・コランに師事しました。帰国ののちは、旺盛な作画活動と展覧会への出品を行う一方、東京美術学校の教授や校長、数々の美術展覧会の審査員をつとめ、日本洋画の発展に大きな功績を残しました。和田は肖像画を数多く描きましたが、この作品は、寄贈者である波多野元武(はたのもとたけ)氏の母親がモデルとなっています。
岡田三郎助
明治時代。あどけない表情の少女が、ほおづえをついてこちらを見つめている。少女の髪型は髷の不便さを解消するために提案された新しいスタイル「束髪」である。また、着物に宝飾品をつけるということも新しく、少女の赤いルビーの指輪から、おしゃれに敏感な暮らしぶりがうかがえる。 本作品と同じ構図で、やはり指輪が重要なモティーフとなっている《ダイヤモンドの女》(個人蔵)という肖像画があり、その石版画の複製が1908年(明治41)に『時事新報』に掲載されていたことが判明してから、この2点の作品の背景が浮かび上がってきた。岡田は、1907年(明治40)に時事新報社が主催となり開かれた日本初の美人コンテストの審査員をつとめており、その地方審査の一等には18金にルビーをあしらった指輪、全国一位にはダイヤモンドの指輪が送られたという。順位の差を明らかにするかのように、本作品の少女に比べ《ダイヤモンドの女》はより華やかで豪奢な身なりをしている。おそらく岡田の肖像画は、賞品の宝石の宣伝でもあり、美人コンテストへの応募をすすめる告知でもある新聞紙面の下絵を意識したものであったのだろう。
川端玉章筆,By Kawabata Gyokusho (1842-1913),村井源七氏寄贈,Gift of Mr. Murai Genshichi,東京国立博物館,Tokyo National Museum
明治時代。珍しい玉章筆の油彩画。村井茂兵衛教成は盛岡の豪商鍵屋の当主であったが、明治初年の尾去沢鉱山をめぐる疑獄事件に巻き込まれ、不遇のうちに死去した。肖像画は家族が当時東京在住の玉章に依頼し、写真をもとに描かれたものと伝える。川端玉章は京都の生まれ。一時洋画を学んだが、後に円山派の伝統を継ぎ、明治の日本画壇を代表する画家となった。明治宮殿の障壁画を担当し帝室技芸員に任じられた他、東京美術学校創設時には教員となり後進の育成に力を尽くした。
松原三五郎筆
明治15年、五姓田芳柳の弟子・松原三五郎によって、土方歳三を元に描かれた。
土方力三郎作
明治時代。小島鹿之助は、明治八年に東京で近藤勇の写真を買った。この写真をもとに、鹿之助は土方歳三の甥の力三郎に、近藤勇肖像画(油絵)の作成を依頼した。油絵は明治十八年に完成した。近藤の写真は二枚あったが小島家で入手したものは、腕を前に組んだものだった。そのため近藤家の家紋が見えない。力三郎は、葵の紋を崩したような家紋を描き、絨毯に座っていた近藤を座布団に座らせている。力三郎は嘉永六年生まれであるから、明治十八年には三十三歳であった。力三郎は、横浜で活躍していた五姓田義松から洋画を学んだ。五姓田の師は、英人のチャールズ・ワーグマンである。力三郎は写真画家として活躍したらしいが、その詳細はほとんど不明で、画家としても名前が残っていない。日野の佐藤家や土方家にある肖像画は、鉛筆で描いたもので、油絵は小島資料館蔵、一点のみである。小野路の橋本家には力三郎の描いた土方歳三が椅子に腰かけた全身像の油絵があったが、昭和二十年五月の空襲で焼失した。力三郎は大正五年十月一日に没した。
青木繁,あおきしげる,AOKI Shigeru
明治時代。明治三十六年、東京美術学校に在学中の青木繁は、黒田清輝率いる白馬会で白馬会賞を受賞、華々しいデビューを飾った。『古事記』に着想を得たという受賞作「黄泉比良坂(よもつひらさか)」は、パステルや水彩で描かれた幻想的な作品だった。画家としての成功を手中に収めたのもつかのま、沸きたつ想像力を画面にぶつけたかのような未完を思わせる作風のせいか、早くも二年後には青木と白馬会の間にズレが生じてしまう。以後、元に戻ることのないズレだった。この自画像はそのころに制作された。画業だけでなく貧困、恋人との関係など、いくつものことが彼の精神に緊張を強いた時期だった。ロマン主義的な苦悩の表情は、フランスの画家ドラクロワを連想させるが「激しい情熱」に対する二人の処し方は根本的に異なっている。禁欲的な生活をし、情熱を内に秘めたまま制作に没頭したドラクロワ。一方、青木は情熱を御しきれず、夢破れて二十八歳の若さで砕け散っていった。
岸田劉生 (1891 - 1929),KISHIDA, Ryusei (1891 - 1929)
大正時代。モデルは、医者で作家であった、古屋芳雄(こやよしお)。劉生と古屋は、劉生が肺結核の療養のため、東京府荏原郡玉川村(現在の東京都世田谷区深沢)に居住していた時期に隣家に住んでいたことから交友を深めた。当時、古屋は東京帝国大医学部を卒業していたが文芸の方に関心があり、大正5年(1916年)に劉生、武者小路実篤らと同人誌『青空』を創刊し、小説「地を嗣ぐ者」などを発表。後に、公衆衛生の研究に携わり、金沢医大教授、国立公衆衛生院長、日本医大教授などを歴任。本図は、劉生が肺結核の療養を行っていた時期の作品。この頃、劉生はドイツ・ルネサンス期の画家アルブレヒト・デューラーに傾倒しており、デューラーからの影響が指摘されている。
岸田劉生
大正時代。岸田劉生の画家としての活動は、1908年(明治41)の白馬会洋画研究所入門からはじまる。この研究所の主宰は、外光派の中心人物、黒田清輝であった。劉生は外光派の画風をすばやく吸収し、早くも1910年(明治43)秋の第4回文展には風景画2点が入選するという早熟ぶりをみせたが、徐々に外光派のアカデミズムに不満を抱いていく。 高村光太郎が論文「緑色の太陽」を発表し、個性の時代の到来を告げて間もない頃、劉生は文芸雑誌『白樺』(1910年4月創刊)と出会う。ゴッホやセザンヌらの芸術を積極的に紹介していた同誌の影響のもと、高村光太郎、斎藤与里らとともにフュウザン会を結成し、油絵展覧会を開催して大成功をおさめると、劉生の名は一躍人の知るところとなった。 劉生は、生涯を通じて肖像画の制作に取り組んでいる。《斎藤与里氏像》(1913年、愛知県美術館)のようなゴッホやセザンヌの感化のもとに描かれた作品や、写実にもとづく表現への移行期に制作された《武者小路実篤像》(1914年、東京都現代美術館)など、友人の肖像が短時間につぎつぎと仕上げられ、「岸田の首狩り」と恐れられることもあった。しかし友人や職業モデルでは劉生の厳しい要望にこたえられなかったため、しだいに自画像または妻をモデルにして描くことが多くなっていった。そして愛娘麗子を描いた《麗子五歳之像》(1918年、東京国立近代美術館)以後、彼女をモデルにした作品が劉生の画題の中心を占めるようになる。本作品は、娘麗子に対する愛情をこめて、約2カ月かけて描かれた。執拗に制作に取り組む劉生の姿は、麗子とのあいだに張りつめた空気をもたらし、その面持ちは硬くこわばっている。絞りの着物の質感は克明に描かれ、暗闇に浮かび上がる赤と黄の対比が画面を引き締めている。
木村荘八 : キムラ ショウハチ
大正時代。白馬会の研究所時代から岸田劉生と行動を共にした木村荘八は、劉生同様多くの自画像に取り組んだ。本作は1916年4月の草土社第2回展に出品された未完成作と推定される(この年11月の3回展にも未完成作が出品されている)。帽子は当初大きく輪郭がとられていたようで、背後のカーテンにその跡が残る。
中村彝,なかむらつね,NAKAMURA Tsune
大正時代。芸術家は、先人や同時代作家からさまざまな影響を受けて自己の個性を確立していくものですが、その影響の度合いが強くあらわれた作品に出会うことがあります。この中村彝(つね)の「婦人像」もそのひとつです。大正時代を駆け抜けた中村は、当時日本に紹介されたヨーロッパの画家たちのなかでも、とりわけレンブラントやルノワール、セザンヌなどの作品に注目しました。この作品を描いた十年ほど前より、喀血(かっけつ)に苦しみしばしば病床に伏す生活を送っていた彼は、かなり病状が悪化していたのか、この肖像画は写真をもとに描かれています。そのため少し表現の固さを感じるものの、この女性のみずみずしさと、内面までもが伝わってくるかのような描写力には驚かされます。ルノワールの表現技法を積極的にとりこんだのは、病弱だった彼が、健康的な女性美にあこがれ表現したいという欲求のあらわれだったともいえます。
安井曽太郎 (1888 - 1955),YASUI, Sotaro (1888 - 1955)
昭和時代。肖像画を得意とした安井曽太郎の代表作の一つ。第21回二科展出品作。
松岡寿筆,By Matsuoka Hisashi (1862-1943),西川浩氏寄贈,Gift of Mr. Nishikawa Hiroshi,東京国立博物館,Tokyo National Museum
昭和時代。松岡は明治期を代表する日本の洋画家の一人。明治期に来日したイタリア人画家フォンタネージに学んだ後、留学して国立ローマ美術学校を卒業した。また大正10年設立の東京高等工芸学校の初代校長に就任し、日本のデザイン振興にも大きな業績を残した。
恩地孝四郎,おんちこうしろう,ONCHI Koshiro
昭和時代。創作版画の草分けとして知られる恩地孝四郎(一八九一-一九五五年)は、その最も多感な時代に、二人の詩人から大きな影響を受けた。荻原朔太郎と北原白秋である。日本を代表する詩人となった二人は、ともに一九四二年に亡くなったが、その翌年、二人への追悼の意味を込めてか、恩地は2点の肖像画を制作した。その一つが、この作品である。ほとんどモノクロームに近い色調でまとめられ、深く刻み込まれた皺(しわ)と厳しい表情が印象的な「近代詩人」の肖像であり、恩地の代表作の一つである。恩地は朔太郎の死の直後に「初めて会ったときに、なんて皺の深い人だろうと思った。きゃしゃなつくりの中に刻まれた深い皺と彼の心のなかの苦悩をよく現して寂しい気持ちをさせられた」と回想している。
浅井忠筆,By Asai Chū (1856–1907),高野時次氏寄贈,Gift of Mr. Takano Tokiji,東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p>渡欧時代の浅井は、風景画と比べ、人物像は多くは制作しませんでしたが、数少ない人物像のなかで、様々な描き方を試しました。そのなかでも本作は、オーソドックスな油彩人物画として評価されるものです。</p>
小出楢重 KOIDE Narashige,Portrait of Mrs. N,oil on canvas
古賀春江 (1895 - 1933),KOGA, Harue (1895 - 1933)
佐伯祐三,さえきゆうぞう,SAEKI Yuzo
松本竣介,まつもとしゅんすけ,MATSUMOTO Shunsuke
海外(15~16世紀)の肖像画
ウェイデン、ロヒール・ファン・デル(派) (c. 1399 - 1464),WEYDEN, Rogier van der (follower of) (c. 1399 - 1464)
ネーデルラント/15世紀。ロヒール・ファン・デル・ウェイデンは、ヤン・ファン・エイクとともに初期フランドル派を代表する画家。現在のベルギーに生まれ、ブリュッセル市の市庁舎の黄金の間に『正義図』を描いた。宗教画を多く手掛けたが、非宗教的な題材の絵画や肖像画ものこしている。代表作は、『キリストの降架』 (マドリード・プラド美術館蔵)など。
ジョヴァンニ・ベッリーニ,Giovanni Bellini
イタリア/16世紀。「聖母の画家」と呼ばれたヴェネツィア派の巨匠ジョヴァンニ・ベッリーニは、「聖母子」を主題として、大画面の祭壇画から家庭における礼拝用の小品にいたるまで宗教画を数多く描いた。その一方で本作のような肖像画も少なからず描いている。これらの肖像画は、特定のモデルがいる人物画でありながら、同時にヴェネツィアの当時の雰囲気を反映し、彼が所属する社会や時代背景をもよく伝えている。その点で肖像画のもつ本質的な意義と特質を備えているといえよう。本作は、黒い帽子と濃紺のダマスク織りの上衣を身につけ、官職にあることを示す赤い綬を佩びて正装する行政長官の肖像画で、斜め右側から捉えた「四分の三正面」の胸像として描かれている。ベッリーニは、おそらく1480年代にはハンス・メムリンクなどの作品を知り、空あるいは無地を背景に胸の高さで切り取った胸像形式を自らのものとし、古典的な静謐さをもつ美しい小品を生み出した。1501年頃に描かれた《統領レオナルド・ロレダーノ》(ロンドン、ナショナルギャラリー)をはじめとする男性の肖像画などはその典型である。この絵はそれからなお数年を経た時期の作品で、ベッリーニの祭壇画芸術の到達点ともいうべき《サン・ザッカリーア祭壇画》を完成させた直後にあたる。この頃デューラーがある手紙の中で「きわめて高齢だが、・・・ヴェネツィアで唯一最高の画家はベッリーニだ」と綴っているように、75歳を超えてなお若々しい巨匠の健筆ぶりを伝える佳品といえよう。
バッキアッカ(フランチェスコ・ウベルティーニ),Bachiacca (Francesco Ubertini)
イタリア/16世紀。ウベルティーニは、ミケランジェロの研究に没頭し、その多大な影響をうけたルネサンスの画家のひとり。本作は、ミケランジェロが数多く遺したチョークによる人体頭部の素描のひとつをもとにして描かれたもの。ウベルティーニの作品の中でも、最も洗練された作者のテクニックが光っている。ヴィットリア・コロンナは、ミケランジェロが《最後の審判》を制作中に知的交友をもった女性で、詩作の才に秀でた貴婦人であったと伝えられている。
ベルンハルト・ストリーゲル,Bernhard Strigel
ドイツ/16世紀。緑を背景に黒のベレット帽を斜めにかぶった若い男性は、左手でマントの胸元をかたく握りしめている。ほとんど正面を向いた顔は写実的かつ立体的に描かれ、その巧みな細密描写によって、この紳士の精悍な性格までもが浮き彫りにされている。全体にゴシック的な生硬さを残すものの、ドイツ・ルネサンスの新たな芳香を感じさせる優れた肖像画の小品となっている。
ルーカス・クラーナハ(父),Lucas Cranach the Elder
ドイツ/16世紀。クラーナハはアルトドルファーらと並ぶドナウ派の巨匠で、1505年にザクセン選帝侯フリードリヒ賢侯に招かれてヴィッテンベルクの宮廷画家となり、肖像画や祭壇画を制作している。3代にわたるザクセン選帝侯に仕え絵を描いたが、ここに描かれたのはクラーナハが最後まで忠誠を誓った3代目のヨハン・フリードリヒ豪胆公(在位1532—47年)の若き日の気力に満ちた肖像である。作者の高い写実の技術、深い心理描写など、鋭い眼によって、モデルの男性的で特異な風貌や豪放な性格がよく映し出されている。この右向きの半身像は、もと二連式絵画(ディプティク)の左側の一部分であったと思われる。
フランソワ・クルーエの工房,Workshop of François Clouet
フランス/16世紀後半。アンリ2世(1519—59)は、父フランソワ1世のあとを受けて1547年に王位についた。父の政策を引き継ぎ、イタリアの支配権をめぐって、ハプスブルク家を相手にイタリア戦争を続けたが、1559年和約を結んだ。芸術の面では、外国人芸術家の主導によるフォンテーヌブロー派を育成した前王のあと、イタリア・ルネサンスを指向するフランス独自の典雅な様式を育んでいる。これはアンリ2世様式と呼ばれ、絵画ではクルーエ父子が大きな役割を担った。フランソワ・クルーエは、父であるジャン・クルーエのもとで修行し、父の死後、その跡を継いで1541年に宮廷画家となっている。本作のように、精緻で端麗な描写の肖像画を残した。
ティントレット(ヤコポ・ロブスティ),Tintoretto (Jacopo Robusti)
イタリア/16世紀。繊細な光を反射する緞帳を背景に、椅子に座った男性が、威厳と気品に満ちた眼差しでこちらを見つめている。この男性の洗練された趣味を示すように、窓際に金の機械時計、男性の隣にゴリアテの首に片足をかけるダヴィデの彫刻が置かれている。開け放たれた窓の向こうには、古代ローマ帝国時代に皇帝の霊廟として建設され、当時は教皇のための要塞として使用されていたサン・タンジェロ城が描かれている。このことは、この人物とヴァチカンとのつながりを象徴しており、おそらく同地に滞在していたヴェネツィアの外交官だと推測される。
フランソワ・クルーエの工房,Workshop of François Clouet
フランス/16世紀。耳飾りを付け、赤い羽根飾りの付いたベレット帽をかぶっている男性の肖像である。全体の色感としては、落ち着いた緑と赤の補色関係をよそに、格調高い黒が優位を占めている。形ばかりに生やした髭や少年っぽい口許は、顔の骨格の繊細さと相まって、宮廷的な気品とともに、ひ弱そうな印象をも与えている。クルーエは、フランス・ルネサンスの香気あふれる感性と卓抜な描写力で、憂愁に満ちた若い騎士の内面を見事に表現している。
アレッサンドロ・アッローリの工房,Workshop of Alessandro Allori
イタリア/16世紀後半。豪奢な金の刺繍が施された黒と白の衣装と、宝石で飾られた頭飾りを着け、右手の薬指に赤い大きな宝石の指輪をして本を持つ女性は、トスカーナ大公妃のビアンカ・カペッロ(1548—1587)である。彼女はメディチ家の8代目当主であったフランチェスコ大公の熱愛を受け、1578年に結婚して彼の二番目の夫人となり、その翌年に大公妃となった。この肖像画はおそらく、彼女が結婚し、亡くなるまでの10年間のあいだに描かれたものであろう。作者のアレッサンドロ・アッローリは5歳のとき孤児となり、マニエリスムの大画家として知られる伯父のアーニョロ・ブロンズィーノに引き取られ養子となった。フィレンツェで彼は、メディチ家がブロンズィーノに対して行ったのと同じように庇護を受け、教会その他の公共建築物の装飾を委嘱された。またアッローリは、本作に見るようにトスカーナ地方の著名人を描いた肖像画で大きな成功を収めた。アッローリは、師匠ブロンズィーノの理想化された形体上の純粋性を引き継ぎながら、ミケランジェロを源泉とする形体の増幅、ラファエロに影響を受けたリズム感などの個人的な趣向を両立させようと試みた。本作は工房の制作ではあるが、このアッローリの様式を良く表わしており、とりわけ真珠をはじめとした宝飾品や金刺繍などの材質感の再現性などにその特徴を見せている。なお、アッローリが描いたビアンカ・カペッロの肖像画は複数存在し、フィレンツェのウフィーツィ美術館に代表作がある。
海外(17~18世紀)の肖像画
アントニー・ヴァン・ダイク,Anthony van Dyck
オランダ/17世紀前半。フランドルの出身で、16歳のときには工房を構え弟子をもっていたと伝えられるヴァン・ダイクは、若くして華やかな活動を展開し、21歳で英国ジェームス1世の宮廷画家となった。22歳からの6年間はイタリアで過ごし、ヴェネツィア派とりわけティツィアーノの作風を吸収しつつ、貴族の肖像画を数多く手がけ大成功を収めた。そして確固たる名声と実力とともに、28歳で故郷アントウェルペンに戻る。以後、再び英国に渡るまでの5年間は、肖像画の注文が絶えることなく多忙を極めたが、その間オランダに2度赴き、そこでオランダ総督オラニエ公フレデリック・ヘンドリックとその妻アマリア・フォン・ソルムスの肖像画を数点描いた。本作はそのうちの最も出来映えの良い作品で、滑るような白い肌をもつ貴婦人のからだが、高雅な黒のドレスに包まれ、茶系色の錦織の掛け物を背景にしてシックな色調の中に凜然と輝きを放っている。ここに描かれた女性の夫フレデリック・ヘンドリック(1584ー1647)は、1625年から没年までオランダの総督を務めたオラニエ=ナッサウ家の公爵で、現オランダ王室の遠い源流に位置する人物である。この夫妻の肖像を描いた対作品は2組あり、本作はもとオラニエ=ナッサウ家に伝わる完成度の高い方の組の妻の絵で、これと対をなす夫の肖像画は現在アメリカのバルティモア美術館に収蔵されている。またもう1組はマドリードのプラド美術館の所蔵となっている。この絵についてはエリック・ラールセンがカタログ・レゾネの中で次のように評価を下している。「妻の肖像の出来映えは、夫のそれより上質と思われる。どちらも間違いなくオリジナル作品である。この夫人の肖像画は、念入りに技法を駆使した素晴しい仕上がりである」(『ヴァン・ダイク』)
フランス・ハルス,Frans Hals
オランダ/17世紀前半。粗く素早い筆さばきを用いた大胆で個性的な画風で知られるハルスは、何人かの人物の特徴を一瞬のうちに捉える集団肖像画を得意としたが、1620〜30年代にかけては、風俗画も盛んに手がけた。多くは単身の人物を扱ったもので、《陽気な酒飲み》(1628/30年頃、アムステルダム国立美術館)に代表されるように、画面の中から見る者に気さくに話かけるような表情・身振りや、くつろいだ自由なポーズなど、従来の肖像画にはない新しい要素が導入されている。そして1630年代も末頃になると、内省的な趣を強め、色彩も抑制された地味なものへと変化していく。このようなハルスの最盛期に描かれた本作は、説教師の威厳ある風貌が的確に捉えられており、この時期の表現に特徴的なプリマ画と呼ばれる直描きの技法による自由な筆致を彷彿とさせるような伸びやかな筆遣いも見られる。同時代に活躍したレンブラントの、重厚で格調高い趣をみせる肖像画と比較すると、ハルスの作品には実際にモデルの息づかいが感じられるような庶民的な実在感があり、モデルの心理と人間性を巧みに描出することに成功している。右側の背景の上方に記された銘には、モデルの年齢と制作年が書き込まれているが、これはハルスの肖像画に見られる記述で、このモデルが73歳であることが分かる。17世紀のオランダで創造された黒を基調色とする色彩感、自由で伸び伸びとした筆さばきは、はるか2世紀後のフランスにおける印象派の父マネの芸術を予見させるかのようである。
アントニー・ヴァン・ダイクに帰属,Attributed to Anthony van Dyck (1599-1641)
イギリス/17世紀前半。エドワード・サックヴィルは、イギリス・ピューリタン革命期にチャールズ1世を支持した騎士党の一員。宮廷を中心に活躍した叙情詩人としても知られる。本作は、サックヴィルの肖像画のなかでも代表的な作品で、肖像画家として名声を博したヴァン・ダイク特有の堂々たる風格と気品を伝えている。鎧と鉄兜は騎士の誇りと忠誠心を、赤と金の豪華な衣服は貴族の華やかな暮らしぶりを表している。
アントニー・ヴァン・ダイク,Anthony van Dyck
イギリス/17世紀前半。フランドルの出身で、イギリス国王チャールズ1世の首席宮廷画家として知られるヴァン・ダイクは、ルーベンスの工房で修業を積み、10代後半の若さで工房の筆頭助手を務めたといわれる。20歳になってまもない1620年に初めてイギリスに渡り、その後6年間イタリアに滞在したのち、1627年にアントウェルペンに帰ってくるが、1632年に再びイギリスを訪れると、そこで約10年間制作を続け、そのまま故郷に戻ることなく42歳で早世した。肖像画家としてのヴァン・ダイクの才能は初期のアントウェルペン時代から開花していたが、晩年のイギリス時代になると、その様式はいっそう洗練の度を加え、多彩な人物の容貌と個性が、高雅で繊細な美しさをたたえた流麗な筆で見事に描きわけられている。彼の高度に完成された王侯貴族の肖像は、以後のヨーロッパ絵画における肖像画様式の手本の役割をも果たしたのである。モデルのアン・カー(1615ー1684)は、サマセット伯ロバート・カーとその妻フランセスの娘として生まれ、1637年にベッドフォード伯と結婚、7人の息子と3人の娘を産んだ。母のフランセスは殺人罪で死刑を宣告されていたが、後に恩赦の身となった人物で、アンはその服役中にロンドン塔で生まれたのであった。アンが自分の母親に関するスキャンダルを知ったのは結婚のあとで、真実を聞かされたとき、ひどく動揺し気を失って卒倒したと伝えられている。しかしながら二人の結婚生活は順調で、夫の父の死後、彼の遺志を継ぎ夫妻で沼沢地の干拓事業に情熱を傾けた。さて本作と同じモデルの肖像画が他に3点知られている。1点はベッドフォード伯の邸宅であったウォーバーン・アビー公爵家に今も伝わる全身像、あとの2点は本作とよく似た構図の七分身像(ペットワース・ハウス蔵およびアメリカ個人蔵)で、後者はいずれも本作に基づく第2バージョンと見なされているものである。20代なかば、結婚して2〜3年経った頃であろうか、上品にカールした金髪のヘアスタイルに張りのある白い肌が印象的な、若々しい美貌の英国貴婦人が黒褐色の背景から浮かび上がる。着衣と宝飾品、肌や髪など質感の表現には熟練の技術があり、目もとや口もと、組んだ手の指先ひとつにもヴァン・ダイク調の高貴な表情が宿っている。肖像画の世界に他の追随を許さぬ表現を確立したヴァン・ダイク様式の一つの典型をここに見ることができる。
レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン (1606 - 1669),REMBRANDT Harmensz. van Rijn (1606 - 1669)
17世紀前半。エッチング。レンブラントは、油彩、素描、版画などの多くの自画像を残しており、さまざまな衣装を身にまとい、色々な表情をした画家の姿を見ることができる。
イアサント・リゴー,Hyacinthe Rigaud
オランダ/17世紀後半。ふくよかな初老の貴婦人。華やかさはないが、充実した内面の輝きが滲み出ている。ドレスのオレンジ色と外套の深い青が落ちついた補色のコントラストを生み出し、画面が地味な雰囲気に支配されないよう計算された色使いも見られる。レンブラントやヴァン・ダイクの影響を受けた作者の、内面描写に優れた写実的な表現力と画中に堂々と人物を位置づける構成力が本作には示されている。ルイ王朝の宮廷画家をつとめたリゴーの優品。
ニコラ・ド・ラルジリエール,Nicolas de Largillière
フランス/17世紀末~18世紀前半。同世代の宮廷画家イアサント・リゴーが王侯貴族の肖像画を手がけたのに対し、ラルジリエールは役人や富裕な市民階級の人々からの注文を受けて仕事をした。本作で描かれた女性もそうした富裕層の一人であったと考えられる。褐色の色調で簡略化された背景に、ショールの赤や唇と頬の紅の色彩が華やかさを添えている。本作のような軽妙な女性肖像画のもつ優美で女性らしい雰囲気は、ロココ絵画の到来を予告している。彼女のドレスは、17世紀末頃に流行していたローブと見られ、同じく当時流行していた、額に巻き毛を遊ばせる特徴的な髪型をしている。
ラルジリエール、ニコラ・ド (1656 - 1746),LARGILLIÈRE, Nicolas de (1656 - 1746)
フランス/18世紀前半。本作品は、ラルジリエールの円熟期の作品と考えられる。左足を前に、右足を後方にひき、上半身をこれとは逆方向によじるようにして岩の上に坐るモデルのポーズには、バロック美術の伝統が窺われ、また、モデルを自然の中におき、そのまわりに花や動物を配するという方法も、当時の貴族的な肖像画芸術の流行であるが、色白のモデルの赤い唇やバラ色に輝く頬、肩からはおった衣などに新しい時代の到来を告げるロココ的な優美な色彩感覚を窺うことができる。画面左には羽を広げたごしきひわが描かれており、これらが何らかの意味を持っていたことは、右側の犬と幼い貴族の視線がこの小鳥に向けられていることからも推測される。ごしきひわは、キリスト教芸術において、キリストの受難と死、また、その復活を象徴するものであるが、もし、ここに描かれている幼い貴族が、伝統的に言われてきたように幼年時のルイ15世(1710-74)であるならば、その点からこの作品の隠された主題を明らかにすることができよう。すなわち、1712年に、彼の両親は相次いで病死しているが、その悲劇的事実を踏まえると同時に、幼児ルイ15世とブルボン王朝の繁栄を祈念するためにこの作品が制作されたという推定が成立しうるからである。もし、この仮説が正しいものならば、本作品の制作年代は1714年頃と考えられる。なお本作品には寸法を縦横およそ2倍にした異作がある(ポール・ゲッティ美術館)。(出典: 国立西洋美術館名作選. 東京, 国立西洋美術館, 2006. cat. no. 50)
イアサント・リゴー,Hyacinthe Rigaud
フランス/18世紀前半。モデルの男性は、大きな袖の折り返しが特徴的な「ジュストコール」といわれる上着をまとい、白の髪粉を振り、整えられた髪を背中に垂らしている。この男性は、軍人であり外交官であった兄のクロード=ルイ=エクトール・ド・ヴィラールとともに、リゴーに肖像画を描かせている。リゴーは、モデルの外見のみならず、高貴な身のこなしや表情に富んだ仕草によって、その人物の内面に迫ることを試みたが、本作の男性の気品に満ちた誇らしげな表情からもその絵画的特徴を窺うことができる。
ナティエ、ジャン=マルク (1685 - 1766),NATTIER, Jean-Marc (1685 - 1766)
フランス/18世紀前半。ナティエはニコラ・ド・ラルジリエールの影響を受けて、宮廷の貴婦人たちを神話の中の人物の姿を借りて描くというフォンテーヌブロー派の伝統を復活させた。彼はこの種の肖像画を多数制作したが、それはその典型的な作例の一つであり、ここではモデルを川ないし泉の精に擬して描いている。こうした優美な描写は、その銀灰色に煙るような色彩とあいまって、女性の肖像画家としてのナティエの資質を垣間見せているが、一方では行き過ぎた理想化に対して当時から批判もあり、彼の晩年には既に、時代の趣味とはかけ離れたものとなっていた。(出典: 国立西洋美術館名作選. 東京, 国立西洋美術館, 2006. cat. no. 51)
羅聘,Luo Ping,京都国立博物館 Kyoto National Museum,Kyoto National Museum
中国/18世紀。羅聘(一七三三ー九九、号は両峯、江蘇揚州の人)は、金農の高弟で、師の画風を発展させ、花卉・人物・道釈の分野で特異な作風を展開した。揚州八怪の一人に数えられる。本図は、当時の文壇の巨匠、袁枚の姿を写したもの。その毒々しいまでに怪異な人物描写は、彼の名を高めた妖怪画、鬼趣図に一脈通じ、現代の風刺的似顔絵にも負けない迫力を持つ。図上の袁枚の題によれば、かまたきや物売りの老人に似たみすぼらしい姿のこの画像を、袁枚の家族は喜ばず、ついに羅聘が引き取ることになったという。羅聘の代表作であるばかりか、中国肖像画の展開の上でもきわめて重要な作品である。
法藻筆,By Fa Zao (dates unknown),林宗毅氏寄贈,Gift of Dr. Hayashi Munetake,東京国立博物館,Tokyo National Museum
中国/18世紀。桂馥(1736~1805)(字未谷)は曲阜(山東省)の人。乾隆55年(1790)の進士で、文字学の大家として知られています。これはその肖像画で、「丙己図」と名付けた本人の題に加え、その人格と学問を慕う、翁方綱(1733~1818)、宋葆淳(1748~?)らの題記が寄せられています。
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン,Elisabeth-Louise Vigée-Le Brun
フランス/18世紀後半。作者は18世紀最も名をなした女流画家。フランス王妃マリー=アントワネットに気に入られ、王妃付きの画家としてヴェルサイユ宮殿に迎えられた。フランス革命が起こると余波を逃れ、ポーランドやロシアなど、ヨーロッパ各国を遍歴し各地の宮廷で歓迎され、肖像画制作を行った。師ジャン=バティスト・グルーズの描く感傷的な女性像から大きな影響を受け、美しさと愛らしさに満ちた肖像画を数多く描いた。フランスのロココ趣味がヨーロッパ各国に広まったのは、彼女の絵によるところが大きい。
カペ、マリー=ガブリエル (1761 - 1818),CAPET, Marie-Gabrielle (1761 - 1818)
フランス/18世紀後半。18世紀のフランスは、女性たちが社会のさまざまな場所で活躍し始めた、いわば女性の時代であった。 美術においてもそれは例外ではなく、18世紀の末にはエリザベート・ヴィジェ=ルブラン、アデライード・ラビーユ=ギアールという二人の傑出した画家が女性として初めて王立絵画・彫刻アカデミーの会員となったのを皮切りに、女性芸術家が相次いで社会に進出した。 リヨン出身で、パリでラビーユ=ギアールのアトリエで学んだカペは、こうした当時の新進女性作家のひとりで、フランス大革命直後の1791年のサロンでは、そこに出品した21人の女性画家に名を連ねている。 ホルダーにはさんだデッサン用のチョークを片手に画架の前に立つこの自画像には、溌剌とした22歳の若い作者の初々しい面影が見事に捉えられている。胸元の大胆に開いた青いサテンのドレスは当時の流行の衣装で、共地の青いリボンと相まって18世紀の華やぎを伝えている。しかし同時にここには、ロココ風の官能性と共に、新時代を予告するような簡素で直截な表現が現れている。すでにフランス大革命の嵐は目前に迫り、美術の世界でも、偉大な過去の古代文明であるギリシャ・ローマ美術への理想主義的関心や、台頭する新しい市民階層に相応しいレアリスムへの志向が高まっていたのである。画架に載ったカンヴァスの上にはうっすらと下書きが描かれているのが見える。 (出典: 国立西洋美術館名作選. 東京, 国立西洋美術館, 2006. cat. no. 56)
海外(19世紀)の肖像画
ジャック=ルイ・ダヴィッドの工房,Workshop of Jacques-Louis David
フランス/19世紀前半。ナポレオンは1800年の第2次イタリア遠征で、このアルプスの要衝を越えて勝利を収める。ダヴィッドの描いた数あるナポレオンの肖像画の中で、英雄としてのナポレオンの視覚的イメージが最も強く表現された作品。原作はマルメゾン博物館にあり、大型のヴァージョンがヴェルサイユ(フランス)、シャルロッテンブルグ(ドイツ)、ベルヴェデーレ(オーストリア)など、ヨーロッパの主要宮殿に保存されている。
ロベール・ルフェーヴル,Robert Lefèvre
フランス/19世紀。やや斜めを向いた皇帝ナポレオン。彼の射るような視線と引き締まった口元は、今まさに画面の外の人物に向かって、命令を伝えようとしているような印象を受ける。自信に満ちたその表情には、フランス皇帝としての威厳が備わっている。このような皇帝の肖像画は、各宮殿を飾るため複製画が多数制作されたが、本作もその1点と思われる。本作のオリジナルは現在ヴェルサイユ宮国立美術館に所蔵されている。
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランの作品による,After Elisabeth-Louise Vigée-Le Brun
フランス/19世紀。マリー=アントワネットの母、マリア・テレジアは、ハプスブルグ家の当主として40年にわたりオーストリア・ハンガリーに君臨した女帝。彼女の第15子として、1755年11月2日誕生し、マリア・アントニア・ヨゼファと名付けられたが、のちにフランス風にマリー=アントワネットと変えた。マリア・テレジアは、その生涯で16人の子を産んだ愛情深い母親だったが、中でも、末娘のマリー=アントワネットを一番可愛がっていたと言われている。そしてこの末娘のために、ヨーロッパで最も美しく強大な王国の王妃の座を確保するために、フランス王太子ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)と結婚させた。しかし、彼女の幸福は長くは続かず、フランス革命の勃発により国王や家族とともに幽閉され、1793年10月16日、コンコルド広場において、38歳の悲運の生涯を閉じることとなる。マリー=アントワネットの宮廷画家として彼女の肖像画を多数手がけていたヴィジェ=ルブランは、王妃の歿後も幾度かその肖像画を描くように依頼を受けている。本作について、ヴィジェ=ルブランの研究者ジョゼフ・バイヨーは、ヴィジェ=ルブランの原作をもとに、ヴィジェ・ルブランの夫の姪であったウジェニー・トリピエ・ル・フラン(1797-1872)が模写したものと推測している。本作の原作とされる作品は、マントと赤いビロードの縁なし帽を被り、黒真珠の見事な首飾りを身につけた王妃の半身像で、1820年代に制作されたとされ、ヴィジェ=ルブランは亡くなるまでその作品を手放さずに手元に置いていたという。
アントワーヌ=ジャン・グロ,Antoine-Jean Gros
フランス/19世紀前半。フランス騎兵隊将校の制服を着用したルイ=ウジェーヌ・デチュゴワヤンは、スペイン王子ジョゼフ(ナポレオンの長兄)の護衛官。ナポレオンの時代には、皇帝の勇姿を描く戦争画や肖像画が多く描かれたが、このようにナポレオン軍の将校や士官の肖像も動乱期の新しい絵画のテーマとなった。作者グロは、ダヴィッドのアトリエに学び、皇帝ナポレオンの肖像画、戦争画を数多く描いて評価を得た画家で、ロマン主義的な傾向をもつ。
フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス,Francisco de Goya y Lucientes
スペイン/19世紀前半。この肖像画のモデルとなっている少年は、スペインの国王カルロス3世(在位1759-1788)の曾孫にあたるドン・セバスティアン・マリー・ガブリエル(1811-1875)である。父のドン・ペドロは、ポルトガルの王女マリー=テレーズと結婚し、1811年にスペインのブルボン家とポルトガルのブラガンサ家の両家の血筋をひく最後の一人息子をもった。ホセ・グディオルは、モデルが5歳ぐらいに見えるという推定から出発して、この肖像画が1815年から16年頃に描かれたと主張しているが、モデルはもう少し年上にも見える。しかし、もしもこの絵を注文したのがマドリッドの宮廷だとすると、本作の制作年代は1820年以降にはならないはずでなる。なぜならば、1819年までの間にゴヤと王室との関係は終わっていたからである。また少年の服装について、ホセ・グディオルは、1814年以降に採用されたスペイン近衛騎兵の制服を着用していると考える。したがって、この絵の成立は、早くて1815年頃、遅くて1820年頃の時期に絞られるわけで、ゴヤが宮廷の仕事についていた最後の数年間に描かれたものと考えるのが自然であろう。この親王は、長じてからは大変に教養の高い人物としてその名を知られた。アカデミーの重要なメンバーであり、具象芸術の目ききであり、音楽の愛好家であり、有名な物理学者であった。また豊かな美術品の蒐集でも知られている。この絵の中で少年は右手で背景の風景を指し示しているかに見える。ある学者は、グアダラマ山脈とラ・グランハの王宮がそびえるセコビア近くのサン・イルデフォンソに通じる道を推測するが、このモデルとは関係性が薄い。その一方で、旧カスティリヤからアラゴンへ向かうルートの途中に、タルディエンタ山脈、ナポレオン占領下でのスペインのレジスタンスの戦域を望むことができるが、もしもこの場所だとすれば、画家の愛国的な意図を想像することが可能になる。ところでホセ・グディオルは、この絵の中に子供の肖像を描くときに用いたいつものアプローチを認めている。すなわち、身につけた付属品で示される「力強さ」とは対照的に、顔や着衣を表現するのに「単純さ」を志向している点である。アクセサリーや道具は賑やかで微細に描き、人体や服は単純な技法で処理するという対比の手法は、背景の描写にも見られる。前景の確固とした自然主義と遠景の軽やかな優雅さとは、絶妙なコントラストの対話を生んでいる。ゴヤ芸術の特徴ある絵画法によって描かれた本作は、宮廷肖像画の名手ゴヤならではの「愛想のよい高貴な子供の肖像」の一典型を示している。
ロベール・ルフェーヴル,Robert Lefèvre
フランス/19世紀前半。ベシエール元帥は、フランスの帝国騎兵隊の最高司令官として活躍し、この絵が描かれた前年の1813年に名誉の戦死を遂げた人物。ナポレオンもその栄誉ある死を讃えている。亡き夫を偲んで黒いドレスに身を包み、城館の庭の夫の胸像を見つめるベシエール夫人。夫人の右手首のブレスレットには夫の肖像画が見え、若く美しい未亡人の悲しみと、深い愛情が伝わってくる。肖像画の名手ルフェーヴルの技が冴える名品。モデルのドレスを見ると、喪に服すためのものであるが、当時の流行であるハイウエストのスタイルが取り入れられていることが分かる。
トマス・ローレンス,Thomas Lawrence
イギリス/19世紀前半。イギリス最高位のガーター勲章を佩用する、摂政皇太子時代のジョージ4世の華麗で威厳に満ちたポーズ。ローレンスは、レノルズ、ゲインズボロなど18世紀イギリスの巨匠に続いて、上流社会の人々の肖像画を描いた。ロマン主義に近い感性を発揮し、彼の描く肖像画は自己の主張を抑え、あくまでも華やかな筆致で、優雅に雄々しく高貴に描くのを特徴とした。この肖像画にもそうした表現が認められる。
ジャン=フランソワ・ミレー,Jean-François Millet
フランス/19世紀前半。幼い頃から絵の世界に興味を示したミレーは、1833年にシェルブールに赴き、ダヴィッド派の肖像画家ムシェルについて初めて絵を学んだ。2年後には、同じシェルブールの画家でグロの弟子ラングロワに師事。翌年には、シェルブール市の奨学金を得てパリに行き、アカデミズムの画家ドラローシュのアトリエに入門した。しかし、ミレーはこうした教室での修業には馴染めず、もっぱらルーヴル美術館に通って模写をするという日々が続いたが、1840年、《ルフラン氏の肖像》でサロンに初入選を果たし、画家としてスタートをきることができた。26歳のときである。彼は肖像画家として身を立てるためにシェルブールに戻り、さっそく同市から依頼された前市長の肖像画を仕上げるものの、モデルの理想化を排したその作品のリアリズムに、市議会は受取りを拒否するという出来事もあった。職業画家としての成功と失敗の因子が交錯するなかで、1841年秋、最初の妻ポーリーヌ・ヴィルジニー・オノと結婚。二人はパリに出て新出発を期すが、その成功はおぼつかないものであった。このような時期に描かれたと推測されるこの肖像画は、鼻の下と顎にかすかに薄い髭を生やした長髪の男性を、限られた色数と簡潔なタッチで、冷徹にして虚飾のない表現で描き出している。同じ頃に制作された肖像画で良く知られたものに《自画像》(1841年、シェルブール、トマ・アンリ美術館蔵)があり、その作風は本作と良く似た特徴を示している。画面左下に大きな文字で記された署名は《ウィトル氏の肖像》(1845年、日本・個人蔵)にあるのと同じタイプのもので、はっきりと力強く書かれた筆跡には、まだ初々しさが感じられる。後にバルビゾン派を代表する農民画家として有名となるミレーの最初期の肖像画の一つである。
ピエール=ポール・アモン,Pierre-Paul Hamon
フランス/19世紀後半。フランスの皇帝ナポレオン3世(在位:1852-70)を描いた肖像画。ナポレオン3世はオランダ王ルイ・ボナパルト(ナポレオン1世の弟)とナポレオン1世の義理の娘オルタンスの第三子で、ナポレオン1世の没後、彼の名声を利用して1852年に国民投票で帝位に就き、ナポレオン3世と称した。即位の翌年、スペイン貴族の娘ウジェニーと結婚。ナポレオン3世の統治時代、フランスの工業生産は飛躍的に発展し、中でも1855年、67年に開催された万国博覧会に合わせ、セーヌ県知事のオスマン男爵に命じて実行した大改造計画により、パリを美しい近代都市へ生まれ変わらせるなど、多くの功績を残した。
呉熙載筆,By Wu Xizai (1799–1870),高島菊次郎氏寄贈,Gift of Mr. Takashima Kikujirō,東京国立博物館,Tokyo National Museum
中国/19世紀後半。呉熙載(字譲之)が、師と仰ぐ包世臣(1775~1855)の没後、その肖像を描き、篆書で「安呉包先生遺像」と題した作品。呉熙載は書画篆刻の三絶をたたえられ、画は淡彩の花卉図をよくしました。繊細な筆致で、謹厳に容貌を写しとどめようという描写態度には、師への敬愛の念がうかがえます。
マネ、エドゥアール (1832 - 1883),MANET, Edouard (1832 - 1883)
フランス/19世紀後半。19世紀フランスの画家マネは、同時代のパリに生きる人々の「今」を描き、近代絵画の道を切り拓きました。印象派の画家たちは彼を範と仰ぎました。グレーのシルクハットに青紫の夏服を粋に着こなし、小道でポーズをとるブラン氏。マネらしい現代性にあふれた作品で、晩年に印象派の画家たちから影響を受けた明るい自然光の表現が顕著です。この肖像画は結局、ブラン氏の手元には渡らず、マネの死後、ドガが入手しています。(出典: 展示室作品解説パネル)
ピエール・オーギュスト・ルノワール
フランス/19世紀後半。1880年代末頃からルノワールは古典様式の輪郭線と立体感による描写から離れ、18世紀の巨匠たちの作品を研究するなかで新たな様式を模索し、溶け合うようなやわらかなタッチと色彩の表現へと向かう。この時代はしばしば「真珠色の時代」と称されるが、ルノワールはこの時期、当時流行の衣服を着た人物像や、優雅な、ときとして奇抜な帽子をかぶる若い娘の肖像画を多く描いた。そのような肖像画はデュラン=リュエル画廊を介してよく売れた。当館所蔵の《レースの帽子の少女》も肖像画のひとつであるが、可憐な少女の透明感のある肌、溌剌とした薔薇色の頬、青い瞳、ふっくらとした唇、そして夢見るような愛らしい表情は、ルノワールの卓越した描写によって永遠に変わらぬ美へと昇華し、描き止められている。 仕立屋の父、お針子の母をもつルノワールは、幼い頃から女性の衣服に囲まれて育った。そのためか、女性を描くときのルノワールは衣服にも注意を払っており、質感を巧みに描き分けている。とくに、変化に富んだ形とさまざまな素材や装飾物がついている帽子は、ルノワールにとって格好のモティーフであったに違いない。本作品で彼は、華やかなレースの帽子を、勢いのある大胆なタッチを繊細に重ねることで見事に描き出している。このレースの帽子は、《花を飾る少女》(1890年、メトロポリタン美術館)や《花を摘む少女たち》(1891年、ボストン美術館)をはじめとするいくつかの作品にも描かれている。 帽子は、当時の女性にとっては身だしなみの一部であり必需品であったが、日よけや装飾という機能だけでなく、当時の女性が置かれた立場を示すものでもあった。キリスト教では女性の髪は性的な意味をもち、寝室以外では結い上げた髪に飾りをつけ、外出するときはかならず帽子をかぶっていたという。
ジョン・シンガー・サージェント,John Singer Sargent
イギリス/19世紀後半。サージェントは洗練されたスタイルと性格描写をもって、アメリカやイギリスの上流階級の人々のポートレートを描き続けた。モデルの女性は当時、女性のための実用服として定着しつつあった「ブラウス」に紫色のベルト、そして簡素なスカートを履き、上着として毛皮のあしらわれたケープを羽織っている。19世紀末にはアール・ヌーヴォーが流行し、コルセット を使用し、腰の部分を締めつつ、自然な曲線を意識したフォルムが愛好された。サージェントはクロード・モネとも親交をもち、印象主義をよく理解していた画家でもあるが、本作のように静的でアカデミックな要素の強い絵画を主とした。
海外(20~21世紀)の肖像画
エドガー・ドガ
フランス/20世紀前半。本作品では、ドガの学生時代からの友人で普仏戦争従軍の時も同じ砲兵隊に属し、アマチュア画家として印象派展にも出品していたアンリ・ルアールの4番目の息子、美術評論家のルイ・ルアール(1875-1964)とその妻クリスティーヌ(1879-1941)を描いている。ルアール夫人のクリティーヌは、ドガの友人の画家アンリ・ルロルの娘であり、幼い頃からこの二人を知っていた。 庭、または公園のような緑のある場所を背景に、夫婦のくつろいだ表情がとらえられている。肘掛にもたれてゆったりと椅子に座り、夫のほうに振り返る妻と、椅子の背もたれに腕を置き、脚を交差させて座る夫は、会話しているような、ごく自然な様子で描かれている。このように何気ない日常的な場面のなかで人物を描く手法を、ドガは肖像画でしばしば用いた。この二人を描いた作品は、ほかに数点残されているが、すべてパステルで描かれている。(「肖像の100年」図録、2009)
アメデオ・モディリアーニ
フランス/20世紀前半。イタリアのトスカーナ地方のユダヤ系の家庭に生まれたモディリアーニは、1906年にパリにやって来た。彼はパリで、セザンヌとピカソの絵画に触れる。また、彫刻家ブランクーシと出会い、彼のアトリエがあるモンパルナスに移り住んで彫刻に取り組んだ。彼は1909年から1916年まで、ギリシアのアルカイク彫刻や、アフリカの仮面に影響を受けた彫刻を制作するが、石彫による粉塵や過労で健康を害し、彫刻制作から遠ざかった。1916年以降は絵画に専念し、それまでの彫刻制作の影響がうかがえる、丸みを帯びた幾何学的な形態と輪郭線によって、モンパルナスの友人たちの肖像や裸婦を描いた。 本作品のモデルは、「C.D.夫人」としか伝えられておらず、詳細は明らかにされていない。前髪を垂らした女性像を、モディリアーニはほかにも描いており、当時の流行の髪型だっことがうかがえる。この女性の身体は少し右側に傾き、丸い肩、細長い首、卵型の顔にアーモンド形の眼など、モディリアーニの女性の肖像画の特徴を明確に示している。その中でも大きな黒い瞳が、この女性の個性を際立たせている。背景の灰色は、女性の顔の側面や鼻筋の影にも使われており、人物像と背景が乖離することなく、画面全体が調和するよう配慮されている。
ジュール・パスキン
フランス/20世紀前半。18歳でミュンヘンに渡り、当時人気を博していた諷刺雑誌『ジンプリツィシムス』の挿絵画家として契約したころから、パスキンの素描家としての才能が開花する。軽妙な線描を駆使し、対象となる人物の姿を生き生きと表わしたが、その表情の描写からは人物の内面にまで肉迫するかのような画家の鋭い観察眼をうかがうことができる。しかし、彼の天性の観察力と素描力、その表現の自在さが、そのまま油彩によって再現されるにはかなりの年月を要した。薄塗りの淡い色彩による明暗表現と、震えるような細い輪郭線で裸婦や少女の姿を優しく描き出すといった彼独特の油彩画は、晩年になってようやく確立されたのである。 本作品は、画面左上の書き込みからパスキンが40歳のとき、旅行先の南仏の町カシスで描かれたことがわかる。ここに描かれている詩人であり美術評論家であったマルセル・ソヴァージュは、『ヴラマンク その生涯とメッセージ』(1956年)の著者としても知られるが、パスキンとの関係については詳らかではない。マルセルとその妻ルネは、ときどき仮面舞踏会を開いて友人たちを招待したという。よほど親しかったのか、パスキンはこの夫妻の肖像画を数点残している。
キスリング
フランス/20世紀前半。華やかな赤いドレスを纏い、花束を抱えて座る本作品のモデルのルネ・ファルコネッティ(1892-1946)は、パリの大衆演劇の舞台女優であり、デンマーク生まれの映画監督カール・T.ドライエルの映画『裁かるるジャンヌ』(1928年)の主演女優である。ドライエルは、偶然、軽喜劇に出演中の彼女を目にし、この映画の主役に抜擢したという。この映画は、ジャンヌ・ダルクが裁判を受け、異端として裁かれるまでの1日を追ったものであり、人物のクローズ・アップによる心理描写を特徴としている。この作品には若い司祭役で詩人アントナン・アルトーも出演、撮影は18ヵ月かけて行なわれ、1928年に封切られたが、興行的には失敗に終わった。 キスリングはパリの社交界の人々と交遊し、肖像画を数多く制作している。本作品にみられる、透明な、そして憂いを湛えた眼はキスリングの描く女性に特徴的な表現であるが、尖った顎、黒い髪、高い鼻に曲線を描いた眉などは、ファルコネッティの容貌の特徴をよくとらえている。
シャイム・スーティン
フランス/20世紀前半。パリのルーヴル美術館で、レンブラントやクールベの芸術に触れて以来、スーティンはすっかり過去の偉大な巨匠たちの絵画の虜になった。この少女像の絵具をいく重にも塗り重ねて肉付けする描法と、スカートをたくし上げるポーズも、レンブラントの《水浴の女》(1665年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー)に倣っている。並外れた色彩感覚をもつスーティンは、あざやかな肌色と暗い背景色、赤と青の対比が、彼の人物画に強烈な輝きと存在感をもたらすことに気がついたのであろう。1920年代末に画家はおなじ描き方で、ホテルの支配人や支援者の一人マドレーヌ・カスタン夫人の肖像など、卓越した人物画を制作している。スーティンのモデルの多くは、子どもや労働者階級の無名の人物であるが、堂々と正面を見据えるこの幼い少女の姿勢とまなざしは、怯えと挑発の相反する感情をたたえ、迫真の人物描写となっている。
パブロ・ピカソ
フランス/20世紀前半。本作品は1929年7月、ピカソとオルガとの間に生まれた長男パウロが、8歳の頃に制作された肖像画である。ピカソ一家はラ・ボエシー通りにある高級アパルトマンで暮らし、社交界にも出入りする華やかな生活を享受していた。この絵画は、画家の家に残された愛息の大切な肖像画であった。本作品の6年前、ピカソはアルルカンに扮した2歳の頃のパウロを描いたもう一つの作品《花束を持つアルルカンに扮したパウロ》(1923年、個人蔵)を描いた。この作品は知人の手に渡り、本作品はその代替として、ピカソがパウロの幼少期の姿を絵筆でとどめるべく、現実よりも幼い4歳の息子として描いたものである。 絵のなかのパウロは、一般的にピエロが持つことのない権力の象徴である杖を手にし、威厳に満ちた白い顔を正面に向け、流麗な色の濃淡で覆われた背景の中に立っている。この杖は絵筆を、もう片方の手に持つ花束は色とりどりの絵具を載せたパレットを連想させ、パウロを画家の姿にも見せている。ピエロの肖像画は、フランスのロココ時代を代表する画家ヴァトーの作品が有名であるが、本作品におけるパウロの堂々とした立ち姿は、画家が尊敬するスペインの黄金時代の画家ベラスケスやゴヤの描く宮廷肖像画の形式を受け継いでいるといえよう。ピカソがパウロに好んで着せた衣裳には、ピエロのほか、スペインの伝統衣裳である闘牛士の装束があった。(『ピカソ 5つのテーマ』図録、2006)
マリー・ローランサン
20世紀前半。ローランサンは、画塾アカデミー・アンベールでブラックと出会い、ピカソをはじめとする「バトー=ラヴォワール」(洗濯船)に住む画家たちと親交を結んだ。1907年、ピカソの紹介によりキュビスムの理論家だった詩人ギョーム・アポリネールと知り合い、恋愛関係となる。この頃、ローランサンはキュビスムの影響を受けた平面的な色面構成や先史美術とのかかわりをうかがわせる作品を制作し、キュビストの展覧会に参加している。1912年にアポリネールと別れ、1914年にドイツ人のヴェッチェン男爵と結婚し、第一次大戦勃発時には戦禍を逃れてスペイン、ドイツで生活を送った。しかし夫のアルコール依存症が原因で離婚した後、1921年にパリに戻り、淡い色彩とやわらかいタッチによる甘美な情緒を湛えた幻想的な画風を確立し、夢見るような表情の少女たちを描き続けた。また、彼女は肖像画家としても成功し、パリの社交界の人々を描いた肖像画も数多く手がけている。 本作品は、女優ヴァランティーヌ・テシエ(1892-1981)の全身像を描いた肖像画である。彼女は気品のある薄紫色のドレスと、ローランサンの後期の作品によく見受けられる真珠のアクセサリーを身に着け、舞台上で演技をしているかのような優美なポーズで描かれている。テシエは、1920年代には有名な舞台女優となり、数々の舞台やジャン・ルノワール監督の「ボヴァリー夫人」(1934年)などの映画に出演した。1960年以来、歿するまで住み続けたポワティエ近郊リグジェには1999年6月25日、彼女の名を冠した通りが開通した。 晩年は愛人シュザンヌ・モローとひっそりと暮らしていたローランサンだが、遺言によりアポリネールからの手紙を胸に彼と同じ墓地に葬られた。
ピエール・ボナール
フランス/20世紀前半。この肖像画には、書斎あるいはサロンで椅子に座る、夏のドレスを着た10代の少女が描かれている。少女の背筋を伸ばした姿勢と固い表情は、大人びた雰囲気を醸し出しているが、広い額と丸い顔が、わずかに幼さを残している。ボナールは、絵画を本格的に制作し始めた1890年代から、食卓のまわりや庭で憩う子どもを好んで主題に選び、室内画と風景画に登場させた。ボナールの絵画のなかで、子どもたちの姿は構図の中心から外されて描かれるのが常であり、子どもを正面からとらえた肖像画は稀である。 本作品が制作された1940年、戦争により画家の生活が一変し、描く対象にも変化が生じた。ボナールはこの年から、戦火を避けて南仏の小村ル・カネの別荘「ル・ボスケ」にこもり、不安に満ちた暮らしを送っている。それまでときおり制作していた女性の肖像画は、1940年代にはほとんど見られなくなり、かわりに孤独と悲壮感を湛えた自画像を手がけるようになっていた。 本作品には、画家が晩年に到達した肖像画のスタイルがみられる。肩や腕の線を大胆にデフォルメし、人物像を背景とともに柔らかな線で表わし、全体の調和に心を砕いている。また彼女の顔の細部は、橙色と青色で調節される一方で、それらふたつの色彩の斑紋は、壁紙や少女の背にあるクッションなど画面全体に点在しており、人物像と周囲の色彩が反映しあう、「色彩の相互照応(コレスポンダンス)」ともいうべき効果が発揮されている。
パブロ・ピカソ
フランス/20世紀後半。ピカソは陶芸で有名な町ヴァロリスで、ジャクリーヌ・ロック(1927-1986)と1953年頃に出会い、以来、彼女は最後のパートナーとして晩年のモデルを務めた。南仏の女性特有の大きな黒い瞳、高い鼻筋、長い首を持つジャクリーヌは、ピカソが理想とした彫刻的な容貌の女性であった。1961年に彼女と正式に再婚し、翌年には終の棲家となるムージャンのノートル=ダム=ド=ヴィにある古い別荘に移り住み、本作品を含む70点以上のジャクリーヌの肖像画を制作している。 帽子を被り、女王のように堂々と椅子に坐るのは紛れもなくジャクリーヌである。ピカソはこの帽子の女性像を、モノトーンの作品や、赤、黄、緑といった原色を平面的に塗り分けた作品などで、数度制作している。なかでも本作品は同時代にアメリカを席捲した抽象表現主義を髣髴とさせる流動的なタッチで、80歳を過ぎた現代画家の健在ぶりと若さを印象づけている。ピカソは晩年に老若男女を奔放に描きつつ、老いた自分自身を厳しく注視した。これらの人物像の多くは、ピカソの自画像であれ、モデルを描いた人物像であれ、正面を決然と見据える黒々とした眼を備えている。 本作品の女性像は、両目を見開き、長い髪をなびかせた横顔と、正面を向き瞑想する顔が結合されている。この顔の二面性は、ジャクリーヌの存在とともに、彼女を凝視する画家ピカソの存在を強く意識させる。ノートル=ダム=ド=ヴィを訪れた友人エレーヌ・パルムランは、次のようにジャクリーヌのポートレート群いついて語っている。「彼女は、自分自身の多様さを秘めている。彼女は、自分の無数の可能性をもって、ノートル=ダム=ド=ヴィを満たす。彼女は無限に拡がる。彼女はすべてを覆い尽くす。彼女は、あらゆる人物になる。彼女はすべての絵において、すべてのモデル、すべての画家の位置を占める」(パルムラン『ピカソは語る』瀬木慎一、松尾国彦訳、1977年、97頁)。この肖像画は、ジャクリーヌの像であるとともに、ピカソとジャクリーヌ、画家とモデルの結合体と見るべきであろう。(『ピカソ 5つのテーマ』図録、2006)
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2002年9月、「箱根の自然と美術の共生」のコンセプトのもとに、富士箱根伊豆国立公園内の豊かな自然に恵まれた箱根仙石原に開館した美術館。ポーラ美術館のコレクションは、西洋絵画、日本の洋画、日本画、版画、彫刻、東洋陶磁、日本の近現代陶芸、ガラス工芸、化粧道具など多岐にわたり、総数は約1万点におよびます。
東京富士美術館は、1983年11月3日に東京西郊の学園都市・八王子にオープンしました。「世界市民を育む美術館」をモットーに、世界31カ国・1地域の美術館や文化機関との友好関係を築きながら、各国の優れた芸術を紹介する海外文化交流特別展を企画・開催しています。収蔵品は日本・東洋・西洋の各国、各時代の絵画・版画・写真・彫刻・陶磁・漆工・武具・刀剣・メダルなど約3万点に及び、とりわけルネサンス、バロック、ロココ、ロマン主義、印象派、現代にいたる西洋絵画500年の流れを一望できる油彩画コレクションと、写真の誕生から現代までの写真史を概観できる写真コレクションは国内有数のコレクションとして知られています。
フランス政府から寄贈返還された松方コレクション(印象派の絵画およびロダンの彫刻を中心とするフランス美術コレクション)を基礎に、西洋美術に関する作品を広く公衆の観覧に供する機関として、1959(昭和34)年4月に発足。幅広い時代の西洋の肖像画を収蔵し、企画展にあわせて展示している。
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参考文献
- 日立デジタル平凡社,平凡社
- 宮島新一 著,吉川弘文館
- 木村泰司 著,光文社
- 青柳正規, 木島俊介, 中野京子 監修,集英社
- 責任表示
- 国立国会図書館
- 二次利用について
ただし、画像は個々の権利表示による
- 最終更新日
- 2024/07/31