大仏開眼
新造の大仏に眼を入れて魂を迎える法会。奈良東大寺盧舎那仏の供養が代表的
大仏開眼供養の略。この大仏供養は新造の仏像・仏画に眼を入れて魂を迎え入れる法会であり、大仏は一般に丈六(約4.8メートル)以上の巨像をいう。とくに天平勝宝4年(752)孝謙天皇および聖武(しょうむ)上皇・光明(こうみょう)皇后らが臨席して行なわれた、奈良東大寺廬舎那仏(るしゃなぶつ)の開眼供養の儀式をさすことが多い。開眼導師はインド僧の菩提僊那(ぼだいせんな)で、文武百官、僧1万人が参列し、大歌女(おおうため)・大御舞(おおみまい)・久米・楯伏(たてふし)・踏歌(とうか)などの歌舞があり、仏法東帰以来初めての盛大な斎会(さいえ)といわれた。大仏の最終的な完成は宝亀2年(771)であるが、斎会で用いられた開眼筆などの遺品は正倉院に多く残る。東大寺の大仏開眼供養は数回行われている。治承4年(1180)平重衡(しげひら)による焼打ちで大破したため、重源(ちょうげん)が源頼朝らの支援で復興、文治元年(1185)後白河法皇により供養が営まれた。戦国期にいたって永禄10年(1567)、松永久秀により大仏殿が焼亡し露仏(ろぶつ)となるが、その大仏尊像の修理鋳造はようやく江戸時代に入ってなされ、開眼供養が営まれたのは実に元禄5年(1692)のことであった。
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源平の争乱で焼打ちされた東大寺、その復興に重源(ちょうげん、東大寺大勧進職)が源頼朝らの支援で復興する話。「春乗房重源東大寺やうやく勧めつくりて入唐す」と始まる。「南都大仏供養」とも記され、文明17年(1485)筆記とある。
室町物語。聖武天皇は后を迎えたが、子宝に恵まれない。春日の神に祈願すると、后は前世に蛇であって鳥の子を食べた因縁で子を授かれないと告げられる。后は嘆き死んで地獄に堕ちる。天皇はこれを悲しみ、后のために大仏を建立し、その開眼供養の功徳で后は生き返り、地獄の苦患を語る。掲出は、慶応義塾図書館所蔵の室町末期の写本。
『大和名所図会』巻一の「大仏殿」図。『大和名所図会』は、大和の名所についての絵入りの地誌。京都の文人秋里籬島の撰。6巻7冊。寛政3年(1791)刊。
観世流謡本。能の「大仏供養」は、東大寺大仏の供養に参詣する将軍源頼朝を暗殺しようと企てる平家の武将悪七兵衛景清を描いた作品。
音曲。半紙本、1冊合本、13丁、6行。都要集 (帙題)。
明治43年(1910 )刊、東京。「大仏開眼供養会前後の備品」「聖武天皇御一周忌の遺品 」など(目次より)。
大正10年(1921)刊、東京。長編文化史劇。長田秀雄(1885 - 1949)は、詩人、小説家、劇作家。
「東大寺大仏開眼供養」「東大寺大仏開眼式」「東大寺供養日時僧名行事官等之事」「東大寺供養式」「良弁僧正御影堂供養事」「行基菩薩舎利供養」など(目次より)。
「東大寺大仏堂縁起碑文」「東大寺大仏開眼供養記一巻」など(目次より)。
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正面観の大仏殿を中心とした画面構成で、上方には霞の合間にのぞく寺内の堂塔を描く。大仏殿の左右には東西両塔、大仏殿後方の屋根は講堂、その右手は方形造(ほうぎょうづくり)の浄土堂と鐘楼(しょうろう)である。大仏殿には法要を行う僧や参列する貴人、楽人らが参集し、周囲にも尼僧や参詣の男女らが集まっており、基本的には大仏開眼会(かいげんえ)の盛儀を描くものと考えられる。
室町時代、16世紀。この曼荼羅に描かれた大仏殿は、江戸時代の再建時(現建築)とは異なって、裳階の切上げを配した古様な形式を示しており、鎌倉時代再興の大仏殿(永禄10年焼失)の姿を伝えるものとされる。
断簡ながら、大仏造立と大仏開眼の主役行基と婆羅門僧正の説話が記されており、注目される。
「すいこじゅう」。奈良時代、8世紀。本作は大仏の開眼供養会で用いられた可能性がある。古代の仮面芸能に使われた伎楽面のうち、ペルシア人の王とこれに仕える従者が酒に酔うという演目で用いられた。現存する古代の伎楽面には法隆寺と東大寺に伝わるものがある。
迦楼羅はガルダというインドの聖なる鳥で、かの地ではヴィシュヌ神の乗り物とされる。それが仏教に取り入れられ、守護神となった。本来は毒蛇を食べて退治するのだが、伎楽の中ではミミズを啄ばむ、やや滑稽な役を演じる。面裏に「上牛甘」かとよめる墨書がある。正倉院伝来の面袋に同人の名前が記されており、本面も東大寺の大仏開眼会で用いられた仮面とみられる。上牛甘は上牛養とも記され、奈良時代中頃に活躍した画工。東大寺大仏殿の天井の彩色にも携わったことで知られる。面裏の墨書に「綱封蔵/華厳□」ともあることから、大仏開眼会の後は綱封蔵に移され、華厳会のための仮面として転用されたことがわかる。
『南都十大寺大鏡 第22輯』の「唐招提寺大鏡」所収の行基菩薩像。奈良市の唐招提寺蔵。もとは生駒竹林寺蔵で、鎌倉時代中期を下らないであろうとされる。
江戸時代。東京国立博物館 研究情報アーカイブズ「画像検索」では「五海道其外延絵図 加太越奈良道見取絵図」(文化3年、2巻、重要文化財)をみることができる。
撮影明治5年(1872)。東京国立博物館研究情報アーカイブズの「古写真データベース」 は、江戸時代末から大正時代にかけて撮影された写真資料の画像データベース(随時更新予定)。
撮影明治5年(1872)。東京国立博物館研究情報アーカイブズの「古写真データベース」より。 東京国立博物館 研究情報アーカイブズ
明治33年(1900)刊、東京。能「大仏供養」は、東大寺大仏供養に参詣する将軍源頼朝を狙う平家の武将悪七兵衛景清を描いた作品。月岡耕漁(こうぎょ、1869 - 1927)は明治・大正時代の日本画家で、木版の能楽絵を得意とした。
大正8年(1919)、大阪。能「大仏供養」は、東大寺大仏供養に参詣する将軍源頼朝の暗殺を企てる平家の武将悪七兵衛景清を描いた作品。当日、景清は警護のなか箒で庭を清めるさまで頼朝に近づく。
「大日本歴史錦繪」に橋本貞秀画の「頼朝東大寺大佛供養景清乱暴之図」がみえる。 貞秀こと歌川貞秀(1807 - 79)は江戸時代後期から明治時代にかけての浮世絵師。
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