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「徳川家康」 / ARC浮世絵ポータルデータベース

戦乱を生き抜く

【家康の誕生】

天文11年(1542)12月26日寅の刻(午前4時頃)岡崎城内で一人の男児が産声をあげました。幼名は竹千代、後の徳川家康です。父は三河国岡崎城主松平広忠(ひろただ、17歳)、母は三河国刈谷城主水野忠政の娘で於大(おだい、15歳)です。


天文16年(1547)9月、尾張の織田信秀が三河国へ侵攻してきたため、広忠は降伏。竹千代は織田家へ人質として差し出されました。ここから、長い人質生活が始まります。


天文18年(1549)3月、父広忠が家臣に殺害された報がもたらされると、今川義元はすぐさま家臣を派遣して織田方の拠点である安祥城へ攻め込み、織田信秀の子息で信長の庶兄(正室の子でない兄)にあたる織田信広を捕虜としました。ここで織田信広と竹千代の人質交換が行われ、竹千代は今川家の人質となりました。

幕臣21名が24年間の歳月をかけて天保13 年(1842) に完成させたもので、徳川氏創業の事績を叙述し、その関係史料を集大成した、徳川氏及び家康の事績録。資料には、家康について、「天文十一年壬寅十二月二十六日壬寅、三河国岡崎に誕生したまふ、御名を竹千代君と申奉る」とあります。

【桶狭間の戦い】

永禄3年(1560)5月、今川義元は2万5千もの兵を率いて尾張国へ侵攻を開始します。この中で起きたのが、いわゆる桶狭間(おけはざま)の戦いです。織田・今川両軍本隊が桶狭間において争い、義元は討死しました。


一方、元服していた竹千代は元康と改名していました。元康は今川方の大高城(名古屋市緑区)へ兵粮入れを成功させ、休息を取っていました。義元討死の報は、その日の夕方、伯父水野信元よりもたらされました。元康はその情報を確認した後、大高城を出て、菩提寺である三河国岡崎の大樹寺(たいじゅじ)へ入ります。さらに今川勢が岡崎城を捨てて、駿河へ退去したため、同月23日、およそ11年ぶりに岡崎城へ入城しました。この岡崎城を拠点として松平一族・家臣の再結集を図り、永禄3年から同4年にかけて、西三河を自身の勢力下に置きました。


永禄4年、元康は氏真を見限り、織田信長と和解し、同盟を結びました。

徳川氏創業の事績を記した資料の一つ。天文4年(1535)~天正7年(1579)までを対象とし、家康の祖父松平清康の死から、築山殿および嫡男信康の死までを記しています。資料には、義元討死の知らせ、及び岡崎城への入城について記されています。全2冊。太政官正院歴史課・修史局・修史館・内閣臨時修史局旧蔵。

【本能寺の変】

永禄6年(1563)3月、元康の嫡子竹千代(信康)と信長の娘徳姫の婚約が成立し、織田家との同盟関係がさらに強化されました。一方、元康は同年6月から10月の間に、名を家康と改名しました。永禄9年(1566)5月、家康は念願だった三河一国の平定を成し遂げます。そして同年末、朝廷より徳川への改姓と従五位下三河守への叙位・任官の勅許を受けました。


天正10年(1582)、武田家の滅亡により、家康は信長から駿河一国を与えられ、三河・遠江・駿河の三国を領有することになりました。しかし、同年6月2日、京都本能寺で信長は明智光秀によって討たれます。当時家康は武田戦の戦勝を賀するため、安土城を訪れ、その後信長の勧めで上方を遊覧し、本能寺の変当時は和泉国堺にあり、そこで信長死去の報せを受けました。


家康は、早急に岡崎城へ帰るため、伊賀経由での帰国を試み、6月4日には岡崎城へ到着しました。いわゆる家康の「伊賀越え」です。


信長死去により、家康は北条氏らとの抗争に入ります。戦線は謬着(こうちゃく)状態となりますが、同年10月、信長の子息である信雄・信孝兄弟の勧めで、両軍の和議が成立。家康は三河・遠江・駿河の三国に加え、甲斐・南信濃を手中とし、五国を領有する大大名へと成長しました。

徳川家家臣松平家忠(1555~1600)の日記。資料には、「酉刻、京都にて上様ニ明知日向守・小田七兵衛別心にて、御生かい候よし」とあり、明智光秀の謀反により、信長死去の報が到来したことが記されています。
幕臣木村高敦(きむらたかあつ、1681~1742)著。資料には、「堺乃津御遊覧之処、京本能寺にて信長生害と云々、依之、即日堺を立せ給ひ、御家人等か諫言に随ひ、長谷川竹丸を郷(嚮)導として伊賀・伊勢を経て岡崎へ還入あるへしとて…」とあり、信長死去の報を受けて、伊賀・伊勢を経由して岡崎へ帰国を試みたことが記されています。全 6 冊。和学講談所旧蔵。

【描かれた本能寺の変】