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乗り物の歴史(教育・商用利用可)
日本における乗り物の歴史(馬、船、人力車など)
『源氏物語』第9巻「葵」を代表する場面である「車争い」のワンシーンを描く。本作は土佐光茂筆と伝わる《車争図》(京都・仁和寺蔵)の写しと考えられる。賀茂祭(葵祭)の当日、女三の宮が賀茂の新斎院になる御禊の行列に源氏の君も加わることになったため、その行列を見ようとする人々で一条大路は混雑していた。源氏の君の愛人六条御息所もひそかに見物していたが、そこへ源氏の君の正妻葵の上も見物に行き、その従者たちが六条御息所の車を喧嘩ごしで押し退けてしまうという場面。右隻には御禊の行列が描かれ、左隻には六条御息所と葵の上の一行が争う場面が描かれている。屛風の大画面いっぱいに物語のハイライトを大きく描くとともに、賀茂祭の喧噪を今に伝える屏風絵となっている。
<p>神社や宮家などに伝わって現存していた輿車の図を広く集め、また、絵巻などからも図様を採取して主にその構造や形について、有職の観点から図解したもの。後に、『輿車図考』として『故実叢書』に収録されたものの原本4巻と草稿本7巻からなる。(旧題箋)<br /></p>
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現在の静岡県磐田市にあたる。天竜川の渡舟の様子が描かれている。天竜川の水は川瀬を2つに分け、東を大天竜、西を小天竜と呼んだ。画面手前が小天竜、奥が大天竜である。朝のまだ早い時間帯であろうか。遠景にはぼかしの技法を使い、朝霧にむせぶ天竜川の叙情をよく表現している。中州の向こうでは大名行列が何艘かの舟に乗り分けて、大天竜を渡り始めている。手前では渡舟を終えた船頭たちが一息つきながらその様子を眺めている。
現在の三重県桑名市にあたる。宮から桑名までは海路で7里(約28キロメートル)の距離があり、そこを渡す船は「七里の渡し」と呼ばれた。海に大きく突き出た城は桑名城である。2艘の船は帆を降ろし、右下に見える陸地へ今まさに着岸せんとしている。船の帆柱の縦のラインと水平線および城の石垣による横のラインを軸に、手前に波に揺れ動く船、奥に整然とした海と堅牢な城を配して、全体的に調和のとれた構図が作り上げられている。
現在の静岡県湖西市にあたる。舞坂の渡し船「今切の渡し」を描いたもの。先を行く幔幕が張られた船は大名行列の一行を乗せた御座船である。時刻は夕刻頃と見られ、西の空が暮れようとしている。後続の舟には中間と呼ばれるお供たちが欠伸をしたり、身体を丸めて寝入る姿が見える。舟が向かう先に見えるのは新居の関所。この関所は幕府の直轄下にあり、取り調べが特に厳しいことで知られ、船着き場はこの関所の中に置かれていた。
大正11年(1920)、渡邊版画店より出版された《帆船》(3部作)に連なる作品で、「瀬戸内海集1」に収録されたもの。本シリーズ制作の翌年、第8回帝展には《帆船》(4部作)を発表している。日本アルプスなどを描いた山のシリーズと対照をなす水のシリーズの代表作。同じ版木を使い、異なった色を用いて帆船が浮かぶ海の情景を6種の時間帯に分けて描いている。こうした試みを作家自ら「別刷」と称した。
吉田博が本格的に私家版木版画の制作に着手したのは、三度目の欧米旅行から帰国した大正14年(1925)。その翌年には早くも41点もの作品を精力的に生み出したが、その中には博の木版画を代表する「日本アルプス十二題」「瀬戸内海集」シリーズも含まれている。この作品は、博の海景を代表するシリーズ「瀬戸内海集」(全9点)の第一作目である。時刻は日暮れであろうか。凪の海に二艘の帆船が静かに浮かぶ。水平線に沈みゆく夕陽が、空をほんのり紅く染め、海原に美しい光の道をつくりだしている。波間に反射する光彩が、丸ノミによる彫り跡によって見事に表現されており、博の木版画表現に対する卓越した理解と技術を見ることができる。本図は、故ダイアナ元英国皇太子妃が、ロンドンにあるケンジントン宮殿の執務室に飾っていたことでも知られている。
【1】高岡御車山守山町
【2】高岡御車山御馬出町
【3】高岡御車山一番町通リ
【4】高岡御車山二番町
【5】高岡御車山小馬出町
【6】高岡御車山通リ町
【7】高岡公園ニ於ケル皇太子殿下御車山御台覧ノ光景(明治四十二年)
高岡御車山祭の各町の山車の彩色絵葉書。【7】は明治42年(1909)の嘉仁親王(後の大正天皇)高岡行啓の様子。古城公園本丸広場に7台の御車山の山車が勢揃いし、羽織・袴を身に付けた人々が写っている。すべて未使用。
付属品のタトウには「高岡みやげ/高岡名勝」「発行所/高岡市駅構内/有馬売店」と記されている。
【嘉仁親王北陸行啓】
明治22年(1889)立太子式を挙げた嘉仁親王(後の大正天皇)は、御成人以来、近畿・東海をはじめ奥羽・九州に至るまで、全国各地を行啓した。同41年、北陸三県の県知事が上京したことで北陸行啓が内示された。
高岡では奉迎事務臨時委員規定を設けて、市参事会員・市会議員・市公民中から39名を委嘱した。御座所・庭園の新築、物産陳列所の新設、高岡古城公園の修築並びに献上品調製の準備の他、高岡史料の編纂、高岡商業学校講堂の新築、道路修繕が進められた。
嘉仁親王は、明治42年(1909)9月15日に東京発駕、岐阜・福井・石川各県を行啓した後、同月29日に高岡駅に到着し、伏木へ向かった。
初日は、伏木で埠頭の御野立所から港内外の景観を望見した後、公会堂に入り、勝興寺出品の文化財や学童の体操、二上村の獅子舞などを台覧した。伏木から福野の福野農学校を視察して、富山の県会議事堂で宿泊した。
2日目は、藤井能三・堀二作・鳥山敬二郎・塩崎利平などが県の功労者として御座所に招かれた。
3日目は富山・魚津を視察した。
4日目の10月2日が高岡行啓の日となり、高岡中学・工芸学校を視察し、御野立所の古城公園本丸広場にて7台の御車山や学童の手信号体操を台覧した。桜馬場の御座所での昼食の後、物産陳列所・市立高岡商業・県立高岡高女・瑞龍寺も視察し、富山の宿泊所へ戻った。翌日早朝、帰路の途に就いた。
嘉仁親王の北陸行啓は、高岡開町300年の節目の年だった。
(高岡市史編纂委員会編『高岡市史』下巻,青竹書院新社,1969)