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日本の名所、旅の風景(教育・商用利用可)

日本の名所、旅行の絵画

富士山の見える風景

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「元吉原之朝」は、昭和6年(1931)から同22年(1947)にかけて制作された「東海道風景選集」シリーズ26枚のうちの一枚。元吉原は現在の富士市南西部の海沿いに位置する場所で、もともと東海道の吉原宿はこの地にあったが江戸時代に高潮の影響を避けて内陸部に移動したため、もともと吉原宿があったこの地は元吉原と呼ばれるようになった。本図では、視点をやや高い位置に取ることによって、元吉原の家々に視線を遮られずに、白雪をかぶる堂々たる富士山を描き出している。眼前の家並みを強い線で描き出す一方で、遠景の富士は薄く淡い色調で表現することによって、画面に遠近感を生み出すとともに、霊峰富士の神々しさを見事に表現している。

静岡県富士市西部を流れる富士川河岸から眺めた富士山が描かれている。現在の富士川サービスエリアあたりであろう。画面手前には、柔らかい光を反射しながら悠然と流れる富士川が、そして画面奥には堂々とした富士の泰然自若とした姿が描き出されている。中景の左側から延びる緑の丘は梅や桜の名所として有名な岩本山で、山頂には雄大な富士を眼前に仰ぐことができる岩本山公園がある。この「富士川」には2種類の擦りがあり、本図とは別のバージョンでは、雲を従え、赤く照らされた富士の姿が描かれる。印象派の画家クロード・モネ(1840-1926)が《積みわら》や《ルーアン大聖堂》で試みたように、巴水はたびたび、全く同じモチーフと構図で、いくつかの色や版木を変更することによって、移ろいゆく時間の経過を、異なる大気、異なる光の効果によって連作として描き出したのである。

五百羅漢寺は当時、深川(現在の江東区大島)にあり、境内にあった三匝堂は三階建ての高層建築で、らせん状の回廊がサザエのようであるため、さざえ堂とも呼ばれた。ここから隅田川を隔てて富士が良く見えたという。遠近法を駆使した安定的な構図が清澄な雰囲気を演出している。欄干にもたれた人々の姿態描写も巧みで、富士を見ながらくつろぐ人々のリラックスしたムードを伝えてくれる。

当時、甲斐国側いわゆる西側から見た富士を「裏富士」と呼んでいた。また身延川は富士川を指すとの説があったが、現在は日蓮宗の総本山久遠寺周辺の川であるとの説もある。旅人が行き交う山道の脇を流れる急流とわき上がる雲、そしてその先に競り立つ山々の間から顔を見せる富士の姿は、他の図にはない険しい表情をもつ。また富士とそれを挟む山々、画面右側に伸びた樹木のシルエットがリズムよく並んでいるのも面白い。

「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と詠われた東海道最大の難所である大井川。金谷は現在の静岡県島田市に位置する。江戸時代、架橋、渡船が禁じられていた大井川では川越しの人足や馬の背に荷駄や人を乗せる徒渡しが行われていた。まるで、海のように波打つ川を、金谷宿と島田宿の双方から徒渡しで往きかう旅人や荷駄が描かれている。向こう岸には堤防が波のうねりと呼応するような形で描かれている。

江戸の風景

<p>「東都名所」は広重の作品中、人気の高かったシリーズもの。「東海道五拾三次」出版後の制作と考えられ、柔らかで色彩豊かな表現がとられた優品が多く、広重の江戸名所絵の代表作である。本作は吉原のメインストリートである仲之町の夜桜を描いたもの。<br /></p>

<p>隅田川では、飢饉や疫病による死者供養や疫病除けとして、川開きの日などに幾度か花火が打ち上げられたといいます。本図は、隅田川上流の上空から、両国橋を越えて上がる花火を描きます。華やかな花火と、シルエットによる提灯や人物たちの対比が印象的です。<br /></p>

両国橋は、江戸の下町を流れる隅田川にかかり、当時橋をはさんで見世物小屋など各種の店が連なり、江戸最大の賑わいをみせる場所であった。画面は夏の花火の光景で、橋の上は無数の見物人であふれ、川面は数え切れないほどの屋形舟でごったがえし、舟上では花火に浮かれる男女が思い思いの姿で夏の夜を楽しんでいる。大きくアーチを描く橋を中景として両岸の家並みがやや極端な遠近法で処理され、あの下にはさらに下流の橋が小さく描かれていて、雄大で臨場感に富んだ一大パノラマとなっている。

日本各地の名所、風景

<p>歌川広重は風景画を得意とし実景スケッチも残しているが、『六十余州名所図会』シリーズでは淵上旭江の『山水奇観』など先行する諸国の名所図が利用されている。景観の広がりを表現しにくい縦長の画面に、大小の対比を強調した名所がクローズアップされている。(A-10569-7616,7608,7605と同様)(20131029_h21・22)<br /></p>

風景版画での名声が確立するにつれ、巴水は歌川広重と比較されるようになり、「広重の再来」「昭和の広重」などと称されるようになる。ただ巴水自身は、それを必ずしも名誉とは考えておらず、むしろ広重との違いを主張していた。やがて巴水は、広重の「東海道五拾三次」を意識するように、昭和6年(1931)「東海道風景選集」シリーズに着手する。広重が東海道の賑やかな宿場町を描いたのに対し、巴水は東海道を独自の視点で捉え直し、心地よさを与えてくれる場所を選んで描き出したのである。半田は愛知県南部、知多半島の東岸に位置する。知多湾に面する天然の良港として、江戸時代から海運業で栄え、酒や酢、醤油などの醸造業も盛んであった。そのため街中を通る運河沿いには、黒板囲いの蔵が建ち並んでいた。しんしんと雪が降る運河沿いの道を、傘を差した人物が犬を連れて歩いている。白を基調とした雪景色の中に、人物と犬の黒いシルエットが浮かび上がり、印象的な画面となっている。

52歳になる昭和3年(1928)、吉田博は「日本南アルプス集」と題して6点の版画を制作した。この年はその他に、「冨士拾景」の残りの7点、「東京拾二題」の中の5点、欧米の風景や富士、瀬戸内海を題材とした初めての小型木版画10点、日本の風景版画7点、合計35点を発表している。博は「登山と画とは、今では私の生活から切離すことのできないものとなってゐる。画は私の本業であるが、その題材として、山の様々な風景ほど、私の心を惹きつけるものはない。味はへば味はふほど、山の風景には深い美が潜められてゐる。」(吉田博『高山の美を語る』、実業之日本社、昭和6年)と語ったように、人々を感動させる山岳風景を描くために、何日も何週間も山に籠って野営をしながら、山に溶け込み、山と一体となって、千変万化する一瞬の美を捉えようとしたのである。本作では、駒ヶ岳山頂から見渡す美しい景色が、木版画で見事に表現されている。雲を縁取る輪郭線(墨線)の効果によって、瞬時に移り変わる雲海の動きが、躍動感を持って伝わってくる。

大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災で被災した巴水は、それまで描き貯めてきた190冊近くともいわれる写生帖や家財を焼失してしまう。そんな失意の巴水を励まし、再び絵筆を握らせ、日本全国を巡る写生の旅に送り出したのは、自らも被災していた版元の渡邊庄三郎だった。この写生旅行は102日間に及び、以後の巴水の画風の転機ともなった。「旅みやげ第三集」は、写生旅行の成果を発表した最初のシリーズともなった。画風は震災前と比べてより写実的になり、全体的に明るく鮮やかな色調へと変化して行く。ここに描かれている松江は、宍道湖の東岸にある松江城の城下町で、堀を中心に街中を水路が縦横に走り、水の都とも呼ばれている。巴水はこの年の12月に松江を訪れ、同じ構図で「曇り日」「おぼろ月」「三日月」と題した3つの作品を制作した。ここでは、冬の曇り空を背景に、印象的な土蔵の白壁が描き出されている。建ち並ぶ白壁が、緩やかに流れる川面に反射して美しい。

吉田博が本格的に私家版木版画の制作に着手したのは、三度目の欧米旅行から帰国した大正14年(1925)。その翌年には早くも41点もの作品を精力的に生み出したが、その中には博の木版画を代表する「日本アルプス十二題」「瀬戸内海集」シリーズも含まれている。この作品は、博の海景を代表するシリーズ「瀬戸内海集」(全9点)の第一作目である。時刻は日暮れであろうか。凪の海に二艘の帆船が静かに浮かぶ。水平線に沈みゆく夕陽が、空をほんのり紅く染め、海原に美しい光の道をつくりだしている。波間に反射する光彩が、丸ノミによる彫り跡によって見事に表現されており、博の木版画表現に対する卓越した理解と技術を見ることができる。本図は、故ダイアナ元英国皇太子妃が、ロンドンにあるケンジントン宮殿の執務室に飾っていたことでも知られている。

旅する人々

大正14年(1925)、三度目の外遊から帰国した吉田博は、自身の監修による木版画の制作を開始した。その翌年大正15年(1926)には早くも、博の代表作となる「日本アルプス十二題」「瀬戸内海集」シリーズを含む、実に41点もの作品を意欲的に発表した。本作に描かれている「針ノ木雪渓」は、飛騨山脈の後立山連峰に属する標高2,821メートルの「針ノ木岳」の東面に位置し、白馬、剱沢とともに日本三大雪渓のひとつに数えられている。「登山と絵とは切り離せないもの」と語った博は、毎年夏の時期は一ヶ月から三ヶ月、山に籠るのが年中行事で、30日あまりかけて日本アルプスを縦走するほどであった。その際には登山の案内人とともに登るのが常で、この絵の左から2番目に描かれた人物も、「山に対しては、一種不思議な、動物のように鋭い感覚を持っていた」と、博が全幅の信頼をおいていた小林喜作といわれている。小林は、博がこの「日本アルプス十二題」シリーズを発表する三年前の大正12年(1923)に雪崩に遭い亡くなっている。博は彼との懐かしい記憶をここに刻んだのかもしれない。

現在の三重県鈴鹿市にあたる。本シリーズの白眉の一枚。「白雨」とは夕立のこと。手前に置かれた急勾配の坂を必死に駆け登る駕籠かきと、転がり落ちるように下る旅人と農夫が描かれる。坂と直角に交差して降り注ぐ雨脚の描写、どす黒い雨雲を思わせる空のぼかし、雨の飛沫に煙る竹林の濃淡のシルエット、全てが激しい夕立の場面を見事に演出している。旅人の番傘に版元を示す「竹のうち」や「五十三次」とデザインされているのも面白い。

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現在の静岡県三島市にあたる。早朝に宿を発つ旅人に光をあて、朝霧が立ちこめる情景を描き出している。奥に見える鳥居は三島明神(現在の三島大社)のもの。手前の駕篭の一行は三島から箱根方面へ、左側の3人の人影は沼津方面へと向かっている。背景描写には、あえて輪郭線を用いず、シルエットのみを捉えて描くことで、霧による湿潤な空気感、駕篭の一行を取り巻く空間の広がり、夜明け前の静寂さまでもが見事に表現されている。

店から漏れる灯りや街灯が、雨上がりの湿気を含んだ空気のなかで淡く暖かい光を放っている。濡れた夜の神楽坂通りの路が、室内の光や軒灯、街灯を美しく反映する様は、幻想的ですらある。東京都新宿区にある神楽坂は、江戸時代に牛込見附から小浜藩酒井家を結ぶ通りとして整備され、武家屋敷が建ち並んでいたが、寛政4年(1792)に「毘沙門天善國寺」が移転してくると、参拝客で賑わいを見せるようになった。明治時代以降は町人の街へと移り変わるなかで花街も誕生し、赤坂や浅草、向島などと並ぶ「東京六花街」のひとつとして、東京でも指折りの繁華街に数えられるようになった。この「夜」「雨」「光」という魅力的な画題の組み合わせは、吉田博の心に強い印象として残っていたのだろう。本作の4年後に制作した『関西』シリーズ《京都之夜》においても、本作品とほぼ同じ構図で雨の夜の景色を描いている。

多色摺木版、紙

多色摺木版、紙

昭和5年(1930)、巴水は馬込町(現在の大田区南馬込)に洋館を新築して移り住んだ。この一帯は江戸時代までは郊外の農村地帯だったが、明治9年(1876)に大森駅が開通したことから、別荘地としての開発が進み、多くの文士、芸術家が移り住み、「馬込文士村」とも呼ばれていた。煌々と輝く満月を背景に、三本の松が美しいシルエットを形作っている。農家の窓からもれる灯りが、夜の帳が下りた田園風景に、人の温もりを添えてくれる。ここに描かれた三本松は馬込のランドマークとして親しまれていた松の木で、昭和初期に失われてしまったが、現在も「三本松塚」や「三本松」バス停、「三本松交番」などにその名を留めている。この絵は、巴水の作品の中でも《芝増上寺》に次ぐ人気を誇り、巴水の代表作の一点として知られている。

描かれた場所の詳細は不明であるが、埼玉県の竹林を描いたと伝わる作品。地面から勢いよく伸びた緑竹が、画面全体を覆う。光が遮られ薄暗い竹林とは対照的に、竹の間から透かし見える遠景は陽光を浴びて輝いている。この明暗の対比が、画面に奥行きを与える効果を生んでいる。また画面下に添えられた鶏と雛たちが、静謐な画面に動きを与え、丁度良いアクセントとなっている。

現在の静岡県沼津市にあたる。街道沿いを流れる狩野川に沿って橋を渡った向こうは沼津宿である。本図で注目すべきは中央の男が背負う大きな天狗の面であろう。この男は讃岐の金毘羅参りへの途上で、天狗の面は金毘羅大権現への奉納品とみられる。その前を行く2人連れは比丘尼とその従者。手には布施を受けるための柄杓を持っている。夕闇が迫る黄昏の時間帯。宿場へと急ぐ人々を、皓々と照った月の光がやさしく包み込んでいる。

現在の神奈川県横浜市戸塚区にあたる。橋のたもとには「左かまくら道」との道標が立っている。橋を渡り左へ曲がると鎌倉へ向かう別道があった。「こめや」と書かれた大きな看板を掲げる旅籠が見える。軒先には「大山講中」や「月参講中」など様々な神仏参詣の団体の名前が掛けられており、ここがこれら講中の指定休憩所だったことが分かる。旅人がまさに旅籠に到着した場面。不器用そうに馬から飛び降りる仕草は滑稽味を帯びている。

現在の三重県亀山市にあたる。画面左に見えるのは岩根山で奇岩や松、滝などで知られていた。山肌には流れ出す2条の滝が見える。室町時代、狩野元信がこの山を描こうとしたが描き切れず、山間に筆を捨てたという謂れから筆捨山と呼ばれている。山と街道の間の窪みには鈴鹿川が流れているとみられる。街道沿いは茶店があり、山の見物に勤しむ客で賑わっている。遠景のなだらかな山のシルエットが筆捨山の奇抜さをより際立たせている。

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<p> 紅葉の名所として名高い京都洛北の高雄、清滝川のほとりで紅葉狩りを楽しむ人々を描いた屏風です。画面の向かって右側、川の手前では子供連れの女性が茶売りの茶や酒を飲んで紅葉をめでながら楽しいときを過ごしています。橋の上では一組の男性が笛を吹き、童子を伴った僧が、語らいながら橋を渡ろうとしています。左の輪になった男性の一群は、拍子をとりながら舞を舞い、酒宴に興じています。そして、画面中ほどにかかった雲の奥には、画面右に宝塔のある神護寺、左に冬の到来を告げる雪景色の愛宕社の鳥居と参道が描かれています。 <br /> 当時の人々の衣食や芸能の様子を生き生きと描写した観楓図屏風。紅葉の美しさとともに、人々の楽しげな遊楽の様子をご覧ください。</p>

登戸浦は現在の千葉県千葉市中央区に位置する。地名は「のぼと」又は「のぶと」と呼ばれ、浅瀬に立った鳥居は登渡神社のものとされる。鳥居の周辺には潮干狩りを楽しむ人々が描かれ、画面左側にははしゃぎ回る子どもたちの姿も見える。中央に大きく描かれた鳥居の中に富士が描かれるが、鳥居の大きさや角度、海面と陸地の配分など、全て計算されたかのような構図は極めて精巧といえる。

現在の愛知県豊川市にあたる。御油の宿では日暮れになると「留女」と呼ばれた女たちの旅籠への客引きが盛んで、画中のような光景も大げさではなかった。『東海道中膝栗毛』には「両がはより出くる留女、いずれもめんをかぶりたるごとくぬりたてるが…」とあるが、その情景そのままの図といえる。手前の男は風呂敷を引っ張られ苦しむ顔がいかにも滑稽で、後ろの男も袖を引っ張られ困惑している様子が窺える。画面右の旅籠の中の様子も面白く、留女に観念したのか、草鞋を脱ぐ旅客に足洗い用の盥を差し出す老女も見える。