1565-1614(永禄8-慶長19)
安土桃山時代の公家。摂関家筆頭の近衛家第17代当主。父は近衛前久(このえさきひさ)。初名信基(のぶもと)、信輔(のぶすけ)。法号三藐院(さんみゃくいん)。天正5年(1575)織田信長の加冠(かかん)により元服。諱(いみな)の「信」は信長の名から一字を譲り受けたもの。天正8年(1578)内大臣、13年(1583)左大臣となるが、関白就任をめぐって現職の関白であった二条昭実(にじょうあきざね)と争論して豊臣秀吉の介入を招き、秀吉の関白就任を導く結果となった。天正19年(1591)関白の職が秀吉から豊臣秀次に譲られた頃から精神の平衡を欠いた振舞いが取沙汰され、文禄元年(1592)正月に左大臣を辞職。さらに同年12月には朝鮮に渡ると称して文禄の役の最前線である肥前名護屋に独断で赴くなど、摂関家の当主にあるまじき行動をとがめられて勅勘(ちょっかん)を蒙り、文禄3年(1594)4月に薩摩国坊津(ぼうのつ)に配流(はいる)された。坊津に配流された期間は2年ほどで、慶長元年(1596)9月に許されて帰京。帰京後はふたたび順調に昇進を重ね、慶長6年(1601)左大臣に再任、10年(1605)に関白・氏長者(うじのちょうじゃ)・准三宮(じゅさんぐう)となった。この間、男子に恵まれなかったため、後陽成天皇の皇子(母は信尹妹)であった二宮(にのみや)を養子に迎えて嗣子とし、二宮はのちに近衛信尋(このえのぶひろ)として近衛家を継いでいる。
薩摩からの帰京以後、関ヶ原の戦いから大坂の陣にいたる、幕府と豊臣家の対立がエスカレートする複雑な政治情勢の渦中において、朝廷の中心人物として難局に対応するが、大坂冬の陣の最中の慶長19年(1614)11月25日に50歳で病死、東福寺に葬られた。法名は三藐院同徹大初。禅を大徳寺の春屋宗園(しゅんのくそうえん)・古渓宗陳(こけいそうちん)両和尚に学び、沢庵宗彭にも参じたほか、和歌・連歌・絵画にすぐれた。また、書道においては力強く豪快な書風で一派を成し、三藐院流、あるいは近衛流と呼ばれたその書流は、嗣子信尋をはじめとする公家階層、武家や町人層にまで広く行われた。本阿弥光悦、松花堂昭乗ととともに「寛永の三筆」とも称されるが、この名称ははるか後年に生じたものである。日記に『三藐院記』があり、文禄元年(1592)から慶長15年(1610)までの分が断続的に残されている。
関連するひと・もの・こと
戦国時代・安土桃山時代の武将。近衛信尹の加冠の役をつとめ、諱の「信」の字を信尹に与えた。
書画、漆芸、陶芸に通じた桃山・江戸初期を代表する芸術家。後世、信尹とともに「寛永の三筆」の一人に数えられる。
若き日に近衛家に仕え、近衛信尹に書を学んだとされる。後世、信尹とともに「寛永の三筆」の一人に数えられる。
安土桃山時代の武将。近衛前久(信尹父)の猶子となり、藤原秀吉として関白の座についた。また、信尹の妹近衛前子(さきこ)を猶子として後陽成天皇に入内した。
江戸幕府初代将軍。
平安時代中期の悲運の学者・政治家。天神様として親しまれた。近衛信尹が好んで描いた画題に「渡唐天神図」がある。
平安初期の3人の書道の達人。空海、嵯峨天皇、橘逸勢。後世、本阿弥光悦、近衛信尹、松花堂昭乗を「寛永の三筆」と称した。
平安時代前期に成立した、日本最初の勅撰和歌集。中世以降、『古今和歌集』の難解な語句の解釈などが秘伝として相伝されたが(古今伝授)、近衛信尹も宗祇流の伝授を受けている。
本で知る
陽明文庫 編,陽明文庫
近衛信尹(三藐院)の日記『三藐院記』。自筆原本19冊が公益財団法人・陽明文庫に所蔵される。文禄元年(1592)12月から慶長11年(1598)4月までの日記にあたる本記と、「羽柴秀吉関白宣下次第」以下11点の別記からなる。欠年、欠月が多く、記事も簡潔であるが、天正期から慶長期にかけての好史料である。本記では、文禄3年(1594)4月に勅勘を蒙って薩摩坊津に配流されてから文禄5年(1596)8月に帰京するまでの詳細な記事がある。別記では、天正13年(1585)の、二条昭実と信尹の関白の座をめぐる相論に乗じて豊臣秀吉が関白の座についた顛末や、前出の後陽成天の譲位をめぐる状況を記した部分などは史料として特に重要である。 掲出は、慶長15年(1610)3月11日の記述。『陽明文庫図』に収録された写真版だが、後陽成天皇が示した突然の譲位の意向に対する徳川家康の反応を記す。緊迫した状況で倉卒の間に記されながらも、安定した筆致で、1行目の「慶長」の「慶」、「三月」の「月」、「勅使」、2行目の「家康」、「申入」、最終行の「親王御方」「御元服」「當年」などをはじめとして、特徴的な三藐院が随所に見られる
[御, 照高院宮道勝法親王, 西咲承兌, 近衛信尹, 有節瑞保] [ほか著]
慶長10年(1605)9月27日に禁中で行われた和漢連句。巻末の寛文2年(1662)清原(舟橋)相賢の識語によれば、祖父清原秀賢の筆である。秀賢の日記『慶長日件録』当日の条にも、自身執筆に当たったことが記されている。作者は後陽成天皇(無署名)はじめ、照高院准后(興意親王)、有節瑞保など、執筆清原秀賢(1句のみ)を含め11名で、このうち「関白」と記されているのが近衛信尹の作で十二首を数えている。和漢聯句は、連歌と漢詩の句を交えて付けていくもので、鎌倉時代後期から江戸時代初期に盛行した。
著者:玄与
近世初期の紀行文。玄与黒斎著。一巻。著者は阿蘇大宮司家の出身で、名は惟賢(あそこれかた)。出家して玄与黒斎と号した。文禄5年7月(1596)、近衛信輔(信尹)が配流地の薩摩から許されて帰洛するのに従って京に滞在し、翌春、帰途について3月23日に都之城につくまで記された日記が「玄与日記」である。紀行文としても貴重な文献であり、日記中の和歌や連歌も近世初期文学史上注目される。掲出は、文禄5年の7月11日、島津龍伯(義久)をはじめとする見送りの人々を従えながら都に帰る信輔が姶良郡浜之市の龍伯の館で歌会を開いたことを記す部分。歌会の題は「松蔭新涼」で、三十首。題の下に書かれた「杦」は信尹の一字名(和歌、連歌の懐紙・短冊などに、実名の代わりに用いる一字の名。雅号の一種)。この歌会のことは、信尹の日記「三藐院記」にも記されている。
[藤原顕輔] [撰]
関白・二条昭実(1556-1619)が天正13年(1585)に書写した『詩歌集』の外題。この外題の染筆者を三藐院・近衛信尹とする、烏丸光広(1579-1638)の署名のある極め書きが附属している。『詩歌集』は、第6番目の勅撰和歌集。崇徳天皇(1119-64)の院宣により藤原顕輔(1090-1155)が仁平元年(1151)に撰集した。
刊
江戸初期の笑話集。作者は不明。版によって話の増減があるが約70話を収録する。掲出は、近衛信尹の坊津配流を扱った話で、「近衛殿」が薩摩の坊津へ流され、鹿児島へ移るときに駕籠にのせられたので、「大臣の車にはあらであはれにも のするかごしまになふほうのつ」という狂歌を詠んだという話。鹿児島、坊津を駕籠と担い棒にかけている。本書の成立は、大坂浪人の咄があるので元和元年以降。主要な伝本として元和寛永初年の古活字本、5、6種と整版本3種、写本2種が知られるが、ここに示す国会図書館本は8行整版本で、上巻のみの端本。
仮名草子の『昨日は今日の物語』に登場する「近衛殿の御手蹟」。当時の手鑑(有名な古人の筆跡を集めた名筆帖)の流行を背景に、その中でも「この衛殿の御しゆせき(手蹟)ほと見事なるはあるまい」とする。近衛信尹の没年である慶長17年(1612)からそう遠くない元和頃の信尹の書の評価の高さをうかがわせる。掲出は群書類従本。
近松門左衛門 [作],山本九右衛門,山本九兵衛
近松門左衛門作、享保5年(1720)初演の浄瑠璃『心中天網島』の道行「名残りの橋づくし」の冒頭部分。「うたひ本はこのへりう、やらうぼうしはわかむらさき(謡本は近衛流、野郎帽子は若紫)」とあるように、この時代、近衛流の筆蹟が一般に広く知られ、また、謡本などを通じても広まっていたことがわかる。「野郎帽子」は、歌舞伎の女方が剃った月代を隠すために被った、紫の縮緬の帽子のことで、ここでは、「近衛流の書」と「紫色の野郎帽子」が、ともに定番の決まりきったことのたとえてして用いられている。
朝岡興禎 編,写
古代から江戸時代末期までの絵画の作者に関する資料を集めた伝記資料。朝岡興禎 (あさおかおきさだ)著。興禎は狩野栄信 (かのうながのぶ) の次男で、若年の頃から鑑定を頼まれた絵画を臨模し、落款印章も写して余白に作者の略伝を付すことを常としていたが、本書は後年それをもとにまとめたもの。帝室、廷臣、武家、釈門、松花堂流、詩人、和歌、連俳などの分野ごとにまとめ、付録に長崎渡来の中国画家および朝鮮画家を収めた。古画の作品研究には欠かせない重要な資料。掲出は、「近衛信尹」の記事。信尹筆の「渡唐天神図」自画賛と、花押、落款の模写をのせる。
堀直格,写
江戸後期に編纂された日本画家の総合的辞典。堀真格 (ほりなおただ)著。画家の身分・属性によって「帝王親王部」「摂関准后部」「大臣部」「納言参議部」などにに分類し、それぞれに伝記資料の充実を図っている。日本美術史の基本資料として、現在でもその価値はきわめて高い。掲出はその「三藐院関白近衛信尹公」の部分。
江戸時代の出版物に見る三藐院流
『本朝名公墨宝』に収録された近衛信基の筆跡。同書は、近世前期に上梓された名筆摸刻集で、日本の能筆家の書を収録・印行した最初のもの。正保2年(1645)に刊行され、以後も多数の版が流通した。掲出は、国立公文書館所蔵の正保3年(1646)版。
観世流謡本の「清経」。本文が近衛流の書体で書かれ、美術的にも珍重される。各冊巻末に元和6年(1620)卯月(4月)の観世左近大夫暮閑の奥書があることから、「元和卯月本」と通称される100冊揃いのうちの一冊。年月の明記された版行謡本としては最も古いもので、観世大夫公認の謡本として権威を持った。元来は装訂は綴葉装(列帖装)で両面印刷。各冊の表紙には曲に因んだ絵が金銀泥で描かれる。実際に刊行されたのは元和9年(1623)頃と考えられている。
茶書。寛永3年(1626)刊行。刊本ではあるが、版下は全編近衛流の筆跡で書かれている。「茶」の文字が艸・人・木で構成されているところからの書名で、刊行された茶書としては最初のものとされる。
斎藤徳元 [著],藤井吉兵衛
仮名草子。斎藤徳元作とされる。『枕草子』の「ものは尽くし」の形式にならった80項目からなる随筆風の作品で、『犬枕』などとともに、近世初期に流行したパロディー文学の一つ。本書の版下も近衛流で書かれている。寛永9年(1632))刊。掲出本は、慶安2年(1649)刊の藤井吉兵衛版。
もっと知りたい
土佐光吉,Tosa Mitsuyoshi,京都国立博物館 Kyoto National Museum,Kyoto National Museum
「源氏物語絵色紙帖」は『源氏物語』の場面を描いた「源氏絵」の一種。重要文化財。総数五十四枚からなる。「桐壺」から「柏木」までの色紙の裏に「久翌」の墨印があり、土佐光吉の作と知られる。桃山期源氏画帖のうちで最も代表的な作品である。 「横笛」以降は「長次郎」なる土佐派の絵師の作。詞書は後陽成天皇を始めとする貴紳たちがそれぞれ書している。掲出は、近衛信尹による「玉鬘 」の詞書。「風のうちふきたるゆふ/くれに御はこのふたにろいろの花なもみちをこき/ませてこなたにたて/まつらせ給へり」。
土佐光吉,Tosa Mitsuyoshi,京都国立博物館 Kyoto National Museum,Kyoto National Museum
「玉鬘 」の詞書に対応する土佐光吉の絵。
近衛信尹
藤原公任撰になる『三十六人撰』を左右各18人の群像に描き分け、6曲1双の屏風に仕立てたもの。歌仙像を屏風に直に描いた上に和歌をも添書した遺例はきわめて珍しい。柿本人麿を筆頭に、紀貫之・凡河内躬恒・伊勢と続き、最後の36番目が中務。これを右・左に割り振って18人ずつに分けている。掲出の右隻では、人麿のグループを右隻に集めて画面左から順次配列、画像はすべて左向きに描いている。歌仙像は下方に描かれ、上部の空間に近衛信尹がそれぞれに対応する代表和歌をしたためる。縦横無尽の躍動的な健筆は信尹の真骨頂。墨の濃淡自在、連綿や墨継ぎ、一気呵成の運筆、眼にもとまらぬ筆跡の跡が、関白近衛信尹の生得の威厳を示してあまりある。
近衛信尹
左隻には紀貫之から中務まで、画面右から配列している。
近衛信尹
近衛信尹の賛が記された屛風。金地の上に濃彩に描かれる三笠山を情景に、『古今和歌集』(巻4・秋上)と『後拾遺和歌集』(巻14・恋4)所収の2首を大字で散らし書きに書かれている。画は、なだらかな稜線に桧の若木の垂直線をからませ、画面の右に丈高い薄、その上方に月、彼方に遠山が描かれている。筆者は不明。右に古今和歌集歌「尾久山爾赤葉布美倭計□□之□□聲□□秋婆悲気(奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき)」、左に後拾遺集歌「しら露も夢も此世もまぼろしもたとへていへばひさしかりけり」が書かれている。
近衞信尹筆,By Konoe Nobutada (1565–1614),長谷川巳之吉氏寄贈,Gift of Mr. Hasegawa Minokichi,東京国立博物館,Tokyo National Museum
近衛信尹筆の「源氏物語抄」の「夕霧」の一節。「日いりかたになり行に/そらのけしきもあはれに/霧わたりてやまのかけハ/をくらき心ちするにひくらし/なきしきりてかきほに/おふるなてしこのうち」。「日いりかた」の「た」、「なり行」の「な」。「やまの」の「や」、「おふる」の「ふ」などに、信尹独特の仮名の字体が散見する。美しい料紙に書かれたもので、書状などの卒意の筆致は見られないが、丁寧に書写された仮名の美しさは独特である。慶長期のものか。
近衛信尹筆,By Konoe Nobutada (1565–1614),東京国立博物館,Tokyo National Museum
近衛信尹の書状を集めて一巻としたもの。信尹は、家蔵の平安古筆や藤原定家の書法に学んで独自の美学を培い、書法に結実させた。その表現性に、中世から近世へ脱皮した書の姿を見ることができる。掲出は、信尹晩年と思われる書状。「不例は平癒候、不可有気遣候、指柿令祝着候、先日は一冊令祝着候 卯月五日」。宛名の「式部卿」は、松花堂昭乗か。「(平)癒」や「令」の左右の払い、「(気)遣」、「柿」の縦の線に、思い切った筆勢が見てとれる。
近衛信尹筆,By Konoe Nobutada (1565–1614),東京国立博物館,Tokyo National Museum
同じく「書状巻」からの一通。宛名の「果法院」は、安土桃山時代の武将で茶人でもあった桑山重晴。重晴は慶長11年(1606)に死去しているので、それ以前の筆跡。全体にすっきりした筆致で、横線は水平で縦画は紡錘形にふっくらする三藐院流の特徴は顕著ではないが、上段1行目の「菊一桶」、2行目の「禁裏」、下段1行目の「是非」、3行目の「此奉書」のあたりにその片鱗が見られる。また、上段1行目の「手洗一」の「洗」、4行目の「花并」の「花」、5行目の「怡悦候」の「怡悦」、7行目の「何とてよきを」の「何」、下段最終行の「上洛」の「洛」などでも、文字幅が広がって書かれる三藐院流の特徴が見てとれる。
後伏見天皇筆,By Emperor Gofushimi (1288-1336),東京国立博物館,Tokyo National Museum
後伏見天皇が、書写した「古今和歌集」に対する近衛信尹の添状。後伏見天皇の宸翰と鑑定している。本書は、元亨2年(1322)4月の巻末奥書により、藤原定家の貞応本の系統になる『古今和歌集』として知られる。
近衛信尹筆,By Konoe Nobutada (1565–1614),東京国立博物館,Tokyo National Museum
三藐院流で書かれた「中古三十六歌仙」の色紙帖。紡錘形とも言われる太い筆線を縦、横に駆使して書かれた36枚はいずれも三藐院流の特徴がわかりやすく表れている。掲出は式子内親王の歌で、「なかむれはころもて/すゝし久かたの/あまの河原の秋/のゆふくれ」。冒頭一字目の「な」、その下の「む」「れ」「は」、最終行の「ゆ」「ふ」など、この色紙帖でもしばしば用いられる用いる字形である。「中古三十六歌仙」は、藤原範兼が『後六々撰』で選んだ、36人のすぐれた歌人。
近衛信尹筆,By Konoe Nobutada,東京国立博物館,Tokyo National Museum
「古今和歌集」や「伊勢物語」に取材した平安の古歌をダイナミックに揮毫する。屏風の特性を踏まえて各扇ごとに書風に変化がつけられている。
近衛信尹筆,九州国立博物館
自筆書状
近衛信尹筆,By Konoe Nobutada (1565–1614),東京国立博物館,Tokyo National Museum
近衛家十七当主信尹の書状を集めて一巻としたもの。信尹は、家蔵の平安古筆や藤原定家の書法に学んで独自の美学を培い、書法に結実させた。その表現性に、中世から近世へ脱皮した書の姿を見ることができる。
近衛信尹
近衛信尹が同年代の大名茶人、古田織部に宛てた書状。信尹の使いの者が、織部のもとへ真夜中に参上したことの無礼を詫びる内容。略儀に用いられる「杉」の一字名が記されていることから、両者がきわめて親しい間柄であったことがうかがえる。 「返札披閲、使にまいらせ候者、よひともあかつきともしれぬ時分に参候事、先剋聞申驚入候、うつけのぬからすたても却而物之邪魔に成事無了簡候、かしく 廿日 古織部殿(花押「杉」)」「ぬからすたて」は、「抜からず立て」で、「いかにも抜かりの無いような様子を見せる」さま。
近衛信尹
近衛信尹の日常生活の一端が窺われる興味深い内容の手紙。信尹が病状を訴えており、鳳仙花(ホウセンカ)の実の効能は抜群なのですぐに調合してほしい、熊胃の薬も急いでほしい、痛みは相変らずで、夜も眠れず衰弱している、と諸症状を述べて、早々に来てくれるよう懇願している。鳳仙花は、その種子が魚肉による食中毒に効き目があるとされていた。また「熊胃の薬」とは「熊の胆(くまのい)」のこと。これは熊の胆嚢を天に干したもので、大変苦く、胃腸薬として用いられた。宛名の「正意」は、医師堀杏庵(ほりきょうあん)のこと。医術を曲直瀬正純(まなせまさずみ)に学び、当時、「医正意」と呼ばれた。儒学者としても名高く、藤原惺窩の高弟であった。また古典にも通じ、尾張藩主徳川義直に仕えた人物である。 「(返し書き)隙候ハゝ早々待入候、用之事候、九月十七日、 一、ホウセンクハノ実ノシルシきとくに候、追付あはせたて度候 一、熊胃之薬是又いそき度候 一、いたミ同前に候て夜をねす、難義千万つかれよハり候、かしく 正意(花押)」
近衛信尹
この手紙の文中に「女御」とあるのは、信尹の11歳年下の妹・前子(さきこ)のことで、天正14年〈1586〉12月、後陽成天皇の女御として入内した。文中の「吉田書物」とは、京都・吉田社(この時の吉田社祠官は吉田兼見〈1535-1610〉)にさしおかれる皇統系図のこと。手紙の宛名の「主膳正」は不明ながら、信尹に恩借の仲介の労をとった人。また、文中の「三右衛門尉」も明らかでない。この手紙の書風から、信尹の晩年期に近いものと考えられる。おそらく40代後半の執筆か。 「尊札辱候、三右衛門尉ニ即致対面候、兼又女御を以被見候吉田書物閑覧仕候、所詮神武より今日迄者人代にて相済事候、御詠昔や神のトなをり尤に存候つる、かしく十日[封] 主膳正殿 信尹」
近衛信尹
宛名の「再六老」は、六六山人(ろくろくさんじん)を号した石川丈山(1583-1672)のこと。かれは、藤原惺窩(ふじわらせいか・1561-1619)に学んだ漢詩人・書家として有名。これは、信尹自作の七言絶句の狂詩「念仏無間無釈文……」の添削を申し入れたもの。この詩以外にも何篇かを送っていたらしく、それらについても宜しき指導を乞うている。その中の一つに「ショウ強」の字句があったのであろう。その「ショウ」の字につき、「情」「性」いずれが適当か、返事を望んでいる。信尹と丈山の交流、また、信尹の漢詩趣味の一面が垣間見える貴重な資料である。 「一昨日者昼夜申承、本懐殊更仕合よく候て御帰寺珍重/念仏無間無釈文 日蓮宗(師)所立無紛 辞連署各企(起)兵乱 坊主武邊奈敗軍/餘人之異見をきゝ候ハぬまゝ狂詩を遣度候而右之外も被直候て可給候、シヤウ強ノシヤウハ情歟性歟、又啓札此者ニ可給候事所望候かしく[封]再六老 三木」
近衛信尹
宛名の「円門主」は、天台宗寺門派の園城寺(三井寺)の本坊・円満院の門跡のこと。信尹は、手紙を受け取りながら、院(後陽成上皇仙洞御所)に出仕していたためにすぐに返事ができなかった。依頼の「八景」(瀟湘八景=中国湖南省の洞庭湖の南、瀟水・湘水の合流するあたりの八つの地の景勝を詠じた詩、あるいは、それに倣って信尹が創案したという「近江八景」をいうか)の揮毫は近日中に、と返答。さらに、十分に熟したりっぱな柿一折を拝領。しかもそれは、円満院の庭先で取れたものという。その格別の配慮に謝意を申し述べている。典型的な近衛流(三藐院流)の書風である。晩年、40代後半の筆であろう。 「昨日者預芳札候へとも令院参不能即答候、八景之事やかて可染筆候、先以見事之紅柿一折殊更御庭前之由別而祝着之事ニ候、猶期貴面之時候、かしく十二日[封] 円門主 信尹」
近衛信尹
これは、「あの一件以来、無沙汰しているうちに、うかつにも体調を崩してしまい、迷惑に存じます。一度、御出会いして、面談いたしたく存じています。この御返事に都合を伺いたく存じます。そのうち寺にお帰りの事でしょう。が、一刻も早く御目にかかりたいものです」と申し送る。親交のあった某寺の僧に宛てた手紙であろう。典型的な近衛流の筆致から、信尹晩年期の執筆と推定される。 「彼申事之後終に不遂面話候、併油断数々候て迷惑候、ちと以面申度候まゝ此御返事に内証可被申越候、やかて可為帰寺候へとも然共片時もとく面語申度候、かしく二月二日」
短冊・詠草・懐紙など
近衛信尹
夢想連歌は、夢に現れた神仏が示現した句を発句として詠む連歌。これは、その夢想連歌を近衛信尹が清書したもの。3句目の「杦(杉)」は、信尹の一字名である。この他に、西洞院時慶、滋野井冬隆、北野社の松梅院禅昌、西洞院時直、連歌師里村昌琢らの名前がみられる。執筆(しゅひつ=書記)役を務める信尹の、のびやかな筆致、見事な行配りが真骨頂を示す。 「夢想 来二十三日 みどりあらそふ友鶴のこゑ(後陽成天皇)/ 霜をふる年もいく木の庭の松 瑞久 冬より梅の日かげそふ宿 杦 朝附日軒のつま/\うつろひて 時慶 月かすかなるおくの谷かげ 冬隆 うき霧をはらひははてぬ山颪 禅昌 あたりの原はふかき夕露 時直 村草の中にうづらの入臥て 昌琢 田づらのつゞき人かよふらし 宗全」
近衛信尹
「信輔」時代の、18歳から36歳の間の執筆である。二句を記し、そのいずれか一方を選択すべく送ったもの。左に合装されるのは別紙である。福島正則の一句と考えられる。署名の「羽左太」は、「羽柴左衛門大夫」で、福島正則の左衛門大夫の在任期間は天正13年(1585)から元和3年(1617)。信尹の「信輔」期とほぼ一致する。 「信輔/卯花も八重垣つくる砌哉/かつ咲や友待雪の花卯木/ふたつの内被相定、其方にて被書付可給候/夏の月明行かたや郭公/正則 羽左太」
近衛信尹ほか
この連歌懐紙は、「来廿一日(来たる二十一日)」に予定されている北野社での祈念連歌のために、予め準備された草稿(下書き)と考えられる。執筆(書き役)の近衛信尹が、参加する各々の詠句を一行ずつ書き付けたもの。本番の連歌会での清書のために注記を施し、幾度かに分けて詠句を書き記したため、行取りの配置が不揃いになっている。発句は一字名「杦(杉)」の近衛信尹。次の脇句(二句目)は願主。第三は「梧」の近衛信尋、以下、阿野実顕、松梅院禅昌、猪苗代兼与、佐野(灰野)紹由らの名前がみられる。これら連衆の顔ぶれから推して、書写年代は慶長16~7年(1611-129)頃、脇句の願主は、後陽成院と考えられる。
近衛信尹
これは、信尹が西洞院時慶(にしのとういんときよし。通称平宰相)に送った自詠の詠草である。かつて時慶から恵贈を受けた庭前の梨に、実がなり始めたと告げる歌。寅年は慶長7年〈1602〉、信尹38歳、時慶は51歳。『慶長日件録』や『時慶卿記』に、両者の親交ぶりが記録されている。この懐紙には、信尹の一字名「杉」の偏と旁とを離して「三木」と署名しており、かれの洒脱な性格がうかがわれる。 「いのちあれば手にこそふるれわが園に君がつぎ梨みなりそめしも/慶長寅七月八日 /三木/平宰相殿」
近衛信尹
二句の詠草。託するために加えた末尾の文面が途中で切れている。結局、送達されなかったもの。36歳で信尹に改名してから、50歳で没するまでの間に書かれたものである。 「信尹/萩が花散透枝に雨落て/わさぼいづる稲葉の雲に雨みえて/被伺候て可示預候透は」
近衛信尹
『後拾遺和歌集』(巻第15・雑一)に収められる歌を、信尹が興の赴くままに、淡墨を駆って豪快に書き流したもの。ここには自署は無いが、書風・筆致から信尹自筆に疑いなきものである。奔放自在、信尹の面目躍如たるものがある。大字の遺品としてとくに貴重な存在といえる。
近衛信尹筆「渡唐天神像」
流水道人、近衛信尹
流水道人の「渡唐天神像」に付された近衛信尹の賛。仙冠・道服を着け、梅の一枝をたずさえて立つ、正面向きの渡唐天神像の図上に「梅はとび桜はかるゝ世の中に何とて松の難面かるらん」とある。歌意から飛梅伝説を思わせるが、通行の歌集には見えない歌。また、現存の天神画にもあまりみられない。が、『天神本地』(慶安元年〈1648〉)や『菅原伝授手習鑑』に道真の詠歌として収録されていることから、当時すでに道真作という認識があったことを知る。画の筆者、流水道人については不詳。
近衛信尹
近衛信尹による渡唐天神像。渡唐天神は、天神にまつられた菅原道真が渡唐して参禅したという伝説に基づいて作られた絵や彫像のことで、仙冠をかぶり、道服を着て梅花の枝を持つのをモチーフとする。掲出は、帽をかぶり、道服を身につけた道真像を、文字絵にあらわした略画で、頭から顔にかけて、太い墨線が「天」の字、それに目鼻を加えて、道真の顔容をつくる。首から下の体躯には、草書体の「神」の字にあらわし、大きな構えで両袖や裾を絵様化している。画・賛(「唐衣折らで北野の神ぞとは袖に持ちたる梅にても知れ」)ともに近衛信尹の筆で、歌の末尾に信尹みずからの花押を加える。信尹は、しばしば京都・北野社(菅原道真を祭神とする日本總社)で連歌をしばしば興行している。また信尹は敬神のため、「百幅天神像」を描いたという(『古画備考』)。日課として1図ずつを完成して、満願に達したのであろう。今日、同様の遺墨が多く伝存、中には年紀をともなうものもあり、いずれもが慶長14年〈1609〉から同15年であることから、そのころに集中的に描いたものと思われる。
近衛信尹
近衛信尹が描いた渡唐天神像の1つ。帽をかぶり道服(中国の道家たちの日常の衣装)を身につけた道真像を文字絵にあらわした略画である。頭から顔にかけて、太い墨線が「天」の字、それに目鼻を加えて、道真の顔容をつくる。首から下の体躯には、草書体の「神」の字にあらわし、大きな構えで両袖や裾を絵様化している。 画・賛ともに近衛信尹の筆。この賛歌は、通常の天神画には見られない歌であるが、天神信仰の広まりを思わせる歌意である。「梅あらばいやしき賤が伏屋まで我立ち寄らん悪魔しりぞけ」
近衛信尹
渡唐天神図。画・賛ともに近衛信尹尹の筆。賛の和歌は、中世以来、北野神社の御神詠として広く知られる和歌で、天神像の賛にしばしば用いられる。 「心だに真(まこと)の道に叶ひなば祈らずとても神や守らん」
近衛信尹
近衛信尹による渡唐天神像の1つ。頭から顔にかけて、太い墨線が「天」の字、それに目鼻を加えて、道真の顔容をつくる。首から下の体躯には、草書体の「神」の字にあらわし、大きな構えで両袖や裾を絵様化している。画・賛ともに近衛信尹の筆。上部に書かれた賛は『菅神宋授衣記』にみえる「唐衣、不織而北野之神也、袖爾為持梅一枝」に倣うもの。歌の末尾に信尹みずからの花押を加える。慶長14年(1609)から同15年にかけての作。「唐衣折らで北野の神ぞとは 袖に持ちたる梅にても知れ」
近衛信尹筆,By Konoe Nobutada (1565–1614),東京国立博物館,Tokyo National Museum
信尹は達磨あるいは渡唐天神像(ととうてんじんぞう)を描き、みずから賛を加えることをよくした。これらはいずれも、信仰にもとづく作ではあるが、瞬時に描かれる略画は一種のユーモアさえ溢(あふ)れ、颯爽(さっそう)とした趣がうかがえる。筆と墨の濃淡を利用して描いた信伊の技量がうかがわれて面白い。
近衛信尹筆,By Konoe Nobutada (1565-1614),服部禮次郎・悦子氏寄贈,Gift of Mr. Hattori Reijiro and Mrs. Hattori Etsuko,東京国立博物館,Tokyo National Museum
近衛信尹による渡唐天神像の一つ。冠の部分を「天」で、身体を「神」の草書体で表した文字絵の天神像である。信尹は墨画の渡唐天神像を百幅描いたといわれる。
近衛信尹 KONOE Nobutada,Tenjin visiting China,sumi on paper,木村定三コレクション / Kimura Teizo Collection
By Konoe Nobutada,奈良国立博物館,Nara National Museum
近衛信尹筆「柿本人麻呂像」
近衛信尹
これは、画・賛ともに信尹自筆の柿本人麿自画賛である。歌仙信仰の長い歴史の中で、柿本人麿は歌道の聖として崇められ、人々からひときわ高い信仰を集めてきた。以来、人麿を祀る人麿影供(人麿供とも)が生まれた。これは、歌会において、床に人麿の画像を掛け、歌聖柿本人麿を供養する儀礼で、歌道の向上を願い、あるいは歌会の成功を祈ったのである。平安時代・12世紀から起こった風習である。この画像も、こうした影響下で描かれたもの。ふつうは、大和絵の手法による極彩色の画像が好まれた。が、この画像は、柿本人麿(丸)像を文字絵に描いた略画。烏帽子と線描の顔貌に、狩衣姿の肩のあたりから胸にかけて「柿」の字。筆を持つ右手を「本」の草書体。右足と左足、指貫(袴)の姿を「人」字と「丸」字をもってあらわしている。あわせて柿本人麿の坐像に完成させている。 賛の和歌は、『古今和歌集』(巻第四・秋歌上)には「題しらず読み人しらず」として所収する。初句と第二句を万葉仮名、第三句以下を平仮名と書き分けている。また、珍しく「文禄五年八月廿五烏(=日)」の年記が加えられている。信尹は前左大臣、薩摩国防の津に流謫中、時に32歳であった。望郷の念やみがたく、卒然と筆を執ったものと思われる。 「わがかどに/いなおほせ/どりのなくなへに/けさふくかぜに/かりはきに/けり/文禄五年八月廿五烏(わが門にいなおほせ鳥の鳴くなへに今朝吹く風に雁は来にけり)」
近衞信尹筆,By Konoe Nobutada (1565–1614),東京国立博物館,Tokyo National Museum
柿本人麿の四文字をくずして簡略に人麿像を描き、左上に賛「ます鏡手にとりもちて朝な々々見れどもあかぬ君にもあるかな(花押)」を加えたもの。近衛信尹は、このような文字を使った絵画を、好んでよく描いていた。
近衛信尹
三十六歌仙を左右に番えた歌合の形式につくられた色紙帖から剥離されて、掛幅に仕立てられたもの。像主・柿本人麿は、『古今和歌集』に「歌の聖」と賞賛されて以来、歌道における歌聖と崇められ、人々から特別の信仰を集め、人麿を祀る人麿影供も生まれた。色紙帖や歌仙絵巻においては、巻頭を飾る人物であった。賛は、近衛信尹の筆。この賛の渇筆を交えた豪胆な筆跡もその典型を示すものである。画の筆者は不明ながら、顔貌の表情も豊かで、専門絵師の筆によるものと思われる。「ほのぼのと明石の浦の朝霧に嶋かくれ行く舟をしぞ思ふ」
近衛信尹
これは、三十六歌仙の画像(36枚)と、その賛歌を揮毫した色紙(36枚)が各々別誂えに作られていたものを合わせて大きな横長折帖(縦38.1、横56.3㎝)に調製されたものである。歌仙像を描いた絵師については未詳ながら、賛は近衛信尹の手にまぎれもない。色とりどりの染め紙に金銀泥で下絵の描かれた華麗な料紙に書写される。幼少期に習熟した青蓮院流の書法を骨格に、のちに学んだ定家流も加味しながら、名門に生まれた闊達剛毅な人柄から生ずる、筆力の強い豪快な書風が発揮されている。歌仙図の画風は信尹筆の色紙よりもやや時代が下がると思われ、歌仙図と賛の色紙の大きさが異なることなどからみて、たまたま伝存した色紙に合わせ、絵師に歌仙図の調進を依頼して歌仙画帖を作成したものと考えられる。歌仙図は鎌倉時代以来の類型を踏襲しながらも、構図・線描・彩色などに非凡の才を発揮しており、江戸時代初期に活躍した土佐派の名だたる絵師の作品と推定される。あらかじめ規格を統一して調製された歌仙色紙帖は、室町・桃山から江戸時代にかけて貴族や武家社会で広く珍賞された。
近衛信尹
本図は、画像・賛ともに近衛信尹自筆の柿本人麿自画賛である。歌仙信仰の長い歴史の中で、柿本人麿は歌道の聖として崇められ、人々からひときわ高い信仰を集めてきた。以来、人麿を祀る人麿影供(人麿供とも)が生まれた。これは、歌会において、床に人麿の画像を掛け、歌聖柿本人麿を供養する儀礼で、歌道の向上を願い、あるいは歌会の成功を祈ったのである。平安時代・12世紀から起こった風習である。この画像も、こうした影響下で描かれたもの。ふつうは、大和絵の手法による極彩色の画像が好まれた。が、この画像は、柿本人麿(丸)像を文字絵に描いた略画。烏帽子と線描の顔貌に、狩衣姿の肩のあたりから胸にかけて「柿」の字。筆を持つ右手を「本」の草書体。右足と左足、指貫(袴)の姿を「人」字と「丸」字をもってあらわしている。あわせて柿本人麿の坐像に完成させている。図上の賛は、柿本人麿の代表的詠歌とされている歌で、『古今和歌集』(巻第九・羇旅歌)に収められる。花押に加えて「図書之」(これを図書す)は、画も賛も信尹の自筆を示すもの。花押の上に捺された印の字様は不明。
近衛信尹
本図は、画像・賛ともに信尹自筆の柿本人麿自画賛である。歌仙信仰の長い歴史の中で、柿本人麿は歌道の聖として崇められ、人々からひときわ高い信仰を集めてきた。以来、人麿を祀る人麿影供(人麿供とも)が生まれた。これは、歌会において、床に人麿の画像を掛け、歌聖柿本人麿を供養する儀礼で、歌道の向上を願い、あるいは歌会の成功を祈ったのである。平安時代・12世紀から起こった風習である。この画像も、こうした影響下で描かれたもの。ふつうは、大和絵の手法による極彩色の画像が好まれた。が、この画像は、柿本人麿(丸)像を文字絵に描いた略画である。烏帽子と線描の顔貌に、狩衣姿の肩のあたりから胸にかけて「柿」の字。筆を持つ右手を「本」の草書体。右足と左足、指貫(袴)の姿を「人」字と「丸」字をもってあらわしている。あわせて柿本人麿の坐像に完成させている。図上の賛は、『古今和歌集』(巻第17・雑歌上)に収められ、柿本人麿の詠歌とされる歌。「梓弓磯辺の小松たが世にか万世かねて種をまきけむ」
三藐院流を継承した人々
近衛信尋
近衛信尋(このえのぶひろ・1599-1649)は、江戸時代初期の公卿。後陽成天皇の第四皇子で、母は中和門院前子で近衛信尹の妹。後水尾天皇は同母兄。慶長10年(1605)8月27日、伯父近衛信尹の養嗣子となり、翌日、元服して信尋と名乗る。洒脱な人となりで茶道を学んで能くし、画にも巧みな風流人であった。また、書において養父信尹の薫陶をうけ、筆跡が酷似するに至った。。一字名は、梧(きり)、桐。 この書状のように、署名を「のふ尋」と、名前の上一字を仮名で表記するのは、女性宛の消息の故実。宛名の「菅式部」は、後陽成天皇近侍の女房。彼女を介して天皇に申し送ったものである。文中「七条(殿)」は、後陽成天皇の第二子で、信尋の兄にあたる承快入道親王(1591-1609)であろう。慶長3年(1598)8歳で仁和寺に入室、得度。その兄の許へ、五十集屋(いさばや。干物・塩物を取り扱う商人)が遣わされて贈り物がなされたのであろう。その礼を述べ、さらには、自分のところに届けられた牡丹の花を所望なれば進呈したい旨を申し送っている。承快入道親王は、慶長14年にわずか19歳の若さで死去している。となると、この筆跡は、信尋10歳ころのものとなる。現存する信尋の最も若い筆跡として貴重な遺墨である。すでに養父信尹の近衛流の掌中、面目躍如。能書の才を流露する1通である。 「昨日のいさはや、七條へつかハし候へは、あさからすかたしけなかられ候、、此ほたん、たゝ今持てまいられ候て、もし御ように候ハゝ、進上いたし候ハんよし候、此よし御披露候へく候、けふは御きやく人御さ候よし候まゝ、明日わたり、しこういたし申候へく候、 菅式部とのへ のふ尋」
近衛信尋
この書状は、寛永9年(1632)8月、将軍家光の下命による乳母春日局の上洛中に書かれたもの。同19日、春日局が入京。29日、後水尾院の仙洞御所で操り人形が催されたという記録(『史料綜覧』)から、これはその誘いの手紙と思われる。この時、信尋は34歳、後水尾上皇は37歳、春日局は54歳。短い一通の手紙ながら、歴史の一齣を的確にとらえるものとして、きわめて貴重である。 「(返し書き)返々、廿九日午剋計可参候 廿九日之事、過分候、隙に候間、必可参候、春日局院参之由候へとも、我等者不参候、かしく 即辰(花押) 御報」
近衛信尋
この懐紙は、「初春祝」の歌題により、元和3年(1617)正月19日の禁中御会始の時のものと知る。当時、信尋は19歳。すでに、信尹の近衛流を掌中にしていたことがわかる。「春日詠初春祝/倭歌/右大臣信尋/松かぜも條をなら/さでおさまれると/きをあらはす千代の/はつ春」
近衛信尋
この手紙は、明日、丸山(京都市東山区円山)へ出かける時刻を返答。末尾に狂歌一首を添える。宛名は不明ながら、日頃昵懇の相手と思われる。が、詳しい事情は両者にしかわからない。「回鯉(かいり)」とあるのは、中国の古典『文選』の中に見える故事から、「回鯉」は、鯉魚を回す(返す)の意味、つまり返信のことである。 「(返し書き)自是可申を例之御返事に成候、返々何事も、明日可申談候、 明日丸山への事、辰下剋斗と存候、四国への事も申楽の事も、明日終日可申談候、かしく 廿四日/花おそき庭の梢ハ猶さへて春さへ友をまつのしら雪 回鯉 尋」
近衛信尋
宛名は不明。まず、燭台を受け取ったことを告げる。そして、先方は色紙・短冊の張交(いろいろの書画などを交ぜ合わせて張りつけた屏風・襖など)あるいは手鑑を調進するのであろうか、ぜひ、信尋にもそのうちの1枚をぜひ執筆してほしいとの再三の依頼に対して、信尋は、控えめな態度ながら、このたびばかりは引き受けるが、以後の執筆依頼は遠慮申し上げると体よく断っている。 「燭臺請取了、色紙短冊之事、悪筆をよく乍被知、度々被仰下候事、近比遺恨存候、此度計者応来命候、重而者、可令辞退候、謹言 五日 御返事 信尋」
近衛信尋
この書状は、京都・北野天満宮にての連歌興行に出座するように促され、それに有難く列座する旨を申し送ったもの。「御意」の語から、後水尾天皇主催の連歌会であったかと思われる。その時期を明確にする手がかりがないのは残念である。が、差出・宛所を略しているあたり、卒然と筆を執って、神宮寺たる北野社松梅院の禅昌(生没年未詳)に宛てたものか。 「来廿五日、北野にて連歌御興行と承候、即我等にも出座仕との御意、祝着事、いか様やかてそれへ参り可申候、かしく」
近衛信尋
この色紙は、布目打ちの茶の染紙に金泥で松竹梅を描いたきらびやかな装飾料紙に、『新古今和歌集』(巻第一・春歌上)からの一首を書いたもの。養父信尹の筆跡と見紛うほどのその書は、近衛流の単なる後継者にとどまらず、まさにその真髄に迫っているといえよう。
近衛太郎君
近衛太郎君は、「信尹公息女」(『古筆流儀分』)「三藐院公ノ長女」(『皇朝名画拾彙』)とあるように、近衛信尹の娘で、筆跡は三藐院流(信尹の書風)の書き手と知られ、さらに画技では、父信尹が得意とした達磨・布袋・人麿の画賛に傑出した画才を発揮したという。歌仙色紙、書状、画賛等々、いくつもの遺例が現存するが、「太郎」という名前や花押の存在に加えて、信尹そっくりのいかにも男性的な書風を勘案して、太郎君が男性であったとも説もあり、いずれを決する確固たる証明もなく、謎につつまれている。 本図は、中国・唐代の人、倶胝和尚を描いたもの。この倶胝和尚、小院の住持に収まっていた若いころ、ひとりの尼(実際尼)が訪ね来て、「速やかに一句を」との問いに、倶胝は何も答えることができなかった。その悔しさで、寺を棄てて諸方遊歴を決意。そのうち馬祖道一の法孫・天竜智洪に参じ、この事を尋ねた。すると天竜は、何もいわずにただ1本の指を突き出して見せた。その瞬間、倶胝は大悟を得たという。これが、一指頭禅(倶胝指頭の禅・倶胝の一指・倶胝竪指とも)と言われる禅の公案。倶胝は以後生涯にわたって禅旨を問う者あればいつも指を1本立てて示したという。 本図は、倶胝が指を1本立てた姿を略画したもの。上部の賛の書風がいかにも信尹の書そのものを彷彿とさせるほど酷似する。賛の最後に見える花押は、近衛太郎君のもの。おそらくは、画・賛ともに、信尹の手本の存在を思わせる。 「うつしゑハなにとてものをいはさらむさゝくるゆひのものをいふとて (花押)」
和久半左衛門(是安)
和久半左衛門(わくはんざえもん・1578-1638)は、江戸時代前期の書家。名は俊英(としひで)、字は宗友(そうゆう)、号を是安(ぜあん)という。半左衛門は通称。幼少より書道に秀で、近衛信尹に書を学ぶ。早くから豊臣秀頼に仕えていたが、能書の才により右筆に抜擢登用され、優遇をうけた。一方、父・宗是(そうぜ)はのちに伊達政宗の傘下に寓したが、元和元年(1615)5月の大坂の陣において戦死。政宗はこれを哀れみ、そのとき大坂に在った子息・半左衛門を仙台に招いた。以後は政宗の庇護のもと書法伝授につとめて、数多くの弟子を育成した。 『千載和歌集』(巻第四・秋歌上)の寂然法師の歌を書写したこの色紙には、全面に微塵の砂子が撒かれ、さらに上部分には蠟箋がほどこされ、龍の文様があらわされる。近衛信尹の近衛流の影響が顕著に認められる半左衛門の奔放闊達な筆さばきに、並々ならぬ力量のほどがうかがえる。 「秋はきぬとしも/なかばにすぎぬとや/荻ふく風のお/どろかすらん」
和久半左衛門(是安)
『続古今和歌集』所収の、後嵯峨院の詠歌。半左衛門の自詠歌ではないゆえに、署名を欠いている。 「城鳥 みやこ鳥なに事とはん思ふ人/ありやなしやは心こそしれ」
和久是安筆,By Waku Ze'an (1578–1638),後藤ゆき氏寄贈,Gift of Mrs. Goto Yuki,東京国立博物館,Tokyo National Museum
紅葉狩を話題とした和久是安の書状。江戸時代・17世紀のもの。「先月二十一日に出かけた北山の紅葉が非常に見事で、供の女性たちは茸狩にいそしみ、皆々手に余るほどのものとったので、御前をはじめ供の衆が臍を抱えて笑い、鬱を散じました。あなたがお供に来なかったのは残念でした」という内容。この御前様が誰かは不詳。宛先の斎雲も不明だが、本状も見事な三藐院で書かれている。
鷹司教平
鷹司教平(たかつかさのりひら・1609-68)は、江戸初期の公卿。関白鷹司信尚の子で、母は後陽成天皇の皇女清子内親王で。この懐紙は、「霞添山気色」の歌題から、寛永13年(1636)1月9日、後水尾院の御会始の時のものと知る。荒々しいまでに豪快、かつ大胆な筆致であるが、その書風には、明らかに近衛流が見てとれる。 「春日同詠霞添山気色/倭歌/教平/佐保姫の霞の/ころも色はへて早/たちそむるよもの/山の端」
花山院忠長
花山院忠長(かざんいんただなが・1588-1662)は、江戸時代前期の公家。慶長14年(1609)7月、勅勘を蒙り、遠く蝦夷松前へ流罪となる。これは、烏丸光広らとともに宮廷の女官と密通したことが発覚して、後陽成天皇の逆鱗に触れたためである。のち寛永13年(1636)ようやく勅免を受け、落飾。浄屋(じょうおく)と号した。この色紙は、朱の染め紙に群青と銀泥で秋草を描いた華麗な装飾料紙に、『古今和歌集』(巻第五・秋歌下)所収の紀貫之の詠歌を書写したもの。骨力ある線を緩急自在に書くその書風は、近衛流(三藐院流)の影響を受けている。
禅昌(北野社松梅院)
松梅院禅昌は、江戸初期の連歌師。生没年未詳。京都北野天満宮の社僧。境内の松梅院(あるいは徳勝院)に住し、松梅院禅昌と称されていた。伝歴は不明であるが、連歌を通じて近衛信尹と交流があり、その書は信尹の影響を受けた、典型的な三貌院流である。 「竹契齢 呉竹の猶末の世は頼みあるきみがよはひはつきじとぞ思」
禅昌(北野社松梅院)
典型的な三貌院流を展開している。 「早春雪 久かたの空もわかれずふる雪に さはらでいかに春のくるらん 禅昌」
津田弁作
津田弁作(生没年未詳)は小笠原家に仕えた武士。弁作は通称で、名は吉春。弁喜門と号した。書画ともに近衛信尹に学び、その真髄に達したという(『皇朝名画拾彙』)。信尹の書風は、没後、近衛流(三藐院流)と称されて多くの追随者を輩出しているが、その大半が公卿であった。そうした中で、武家出身の名手であった弁作の存在は注目される。本図は、枯枝にとまった1羽の梟を正面から描く。その表情はいかにも素朴でユーモラスである。入念な描写は、かれが画技においても非凡の持ち主であったことを示している。 賛「阿子曳之山廼/安羅之耳/呼登呂幾天/昼毛鋳伝希流/梟之声(あしひきの山のあらしにをどろきて昼もいでける梟の声)」に書かれた、万葉仮名を用いた和歌一首の筆跡は、所伝通りみごとな近衛流。
西村藐庵
西村藐庵(にしむらみゃくあん・1784-1853)は江戸吉原の名主(なぬし)。尾形乾山に私淑して、その5世とも称された。藐庵は風流人で、茶道・和歌・俳諧に通じ、琵琶を能くし、かつ古筆や茶器の目利きでもあった。書は近衛流(三藐院流)を学び、強い筆力、しかも早い筆で一気呵成に書き上げる。この短冊にも、その能書ぶりが存分に発揮されている。料紙は、布目打を施した上に、大中小の金銀の切箔を巧みに散りばめた華麗な装飾が施されている。
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近衞家に長年にわたって伝襲した、大量の古文書および古典籍、ならびに若干の古美術工芸品を一括して保存管理している、特殊な歴史資料館。近衛家歴代当主の日記・文書を所蔵し、近衛信尹関係の史料も多数含まれる。
160年を超える慶應義塾の歴史のなかで集積された学内の文化財や学術資料を相互に連携させ、活用し保存する新たな施設。「センチュリー赤尾コレクション」は、「センチュリー赤尾コレクション」は、旺文社の創業者である赤尾好夫によるコレクションで、近衛信尹の自筆史料が多く所蔵されている。
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陽明文庫の所有する近衛家関係の資料のなかから、「一般文書目録資料 書状」のデジタルデータを閲覧・ダウンロードができる。近衛信尹、近衛信尋、近衛前久(信尹父)などの書状が多数含まれている。
早稲田大学図書館が所蔵する古典籍について、その書誌情報と関連研究資料、さらには全文の画像を、学術研究に資する目的で広く全世界に公開する。近衛信尹・信尋の父子の書状、三藐院流の名手・和久半左衛門の書状を閲覧することができる。
参考文献
- 橋本政宣 著,吉川弘文館
- 「近衛信尹」の項目。
- 「近衛信尹」の項目。
- 「近衛信尹」「三藐院記」の項目。
- 波多野幸彦 著,思文閣出版
- 至文堂 編,国立文化財機構 監修,ぎょうせい
- 小松茂美 著,講談社
- 責任表示
- 国立国会図書館
- 二次利用について
ただし、画像は個々の権利表示による
- 最終更新日
- 2023/03/07