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後陽成 色紙 /

宸翰 天皇の書3

江戸時代の宸翰の名品。

天皇の自筆(宸筆)であるすべての書きものの総称。日記・記録・文書(書状・宸筆綸旨・宸筆女房奉書など)・詠草・懐紙・短冊・経文・奥書・賛などの多岐にわたる。もっとも古いものとしては、奈良時代の聖武天皇のものが2点あり、それにつづく孝謙天皇・淳仁天皇にも各1点がある。平安時代では嵯峨天皇・宇多天皇・醍醐天皇・後朱雀天皇・後白河天皇・高倉天皇のものが伝存する。鎌倉時代以降になると後鳥羽天皇をはじめ、土御門・後嵯峨・後深草・亀山・後宇多・伏見・後伏見・後二条・花園の諸天皇など伝存数も多くなり、南北朝時代では後醍醐天皇、後村上天皇の数十点のほか、北朝の天皇の宸翰もかなりの数が遺されている。後小松天皇以降、室町時代から江戸時代の天皇の伝存数は非常に多い。これらの主要な部分は帝国学士院編の『宸翰英華』に収録されている(北朝天皇の宸翰を除く)。宸翰は政治・経済・宗教・学問・文芸などあらゆる方面の歴史研究の資料として重要であり、また、各天皇の事歴・人格・資性・教養を知るにも貴重な文化財である。

天正20年(1592)、みずから朝鮮へ出陣しようとした豊臣秀吉を後陽成天皇が諌めた消息。左肩下がりに文字を散らして書く女房奉書風の「散らし書き」で二枚続きに書かれている。日付はないが、同年9月、秀吉が母の大政所の危篤によって帰京し、再度肥前名護屋へ赴く際のものとされる。「高麗国への下向、嶮路波濤をしのかれむ事、無勿体候、諸卒を、つかはし候ても、可事足哉、且朝家のため、且天下のため、かへすかへす」(以上一枚目)

二紙にわたって書かれた消息の二枚目。「發足遠慮可然候、勝を千里に決して、此度の御事、おもひとまり給候はゝ、別而悦おほしめし候へく候、猶勅使申候へく候、あなかしく 太閤とのへ 」。

後陽成天皇自筆の消息。文禄2年(1593)、文禄の役の渦中のもの。「近衛前左府高麗下向のよし」で始まる前半は、豊臣秀吉にあてた文面の草案。近衛前左府(信尹)が肥前・名護屋へ出向いて朝鮮渡海を企てているが、それを制止して欲しいと依頼する内容。「右の文言、只今菊・勧・中山三人」以降の後半は、そのような文面を秀吉に書いたことを信尹に伝える内容の私信。

連歌の一巡を一覧した天皇が出来映えに満足の意を表し、その上で端(連歌の巻頭に付す題の部分)について、今一度吟味を重ねるよう申し送ったもの。筆致から比較的若いころのものか。宛名の「竹門」は、天皇の弟・良恕法親王(1574-1643)。「御一巡、取りどり殊勝の内、端、猶以って然るべく候哉。季秋(九月)二十五日竹門(竹内門跡)吟案下(花押)」

後陽成天皇(1571~1617)は、正親町(おおぎまち)天皇の王子誠仁(さねひと)親王の第一王子。父が早世したため、祖父正親町天皇の跡をついで天皇となった。その宸翰は気品あふれるなかにも筆鋒鋭く、独自の境地を示す。

『白氏文集』の「十月江南天気好、可憐冬景似春花」と『後撰和歌集』の「神無月ふりみふらすみさためなき時雨そ冬のはしめなりける」を並べて書写する。

後陽成天皇が「竹門」に宛てた書状。「竹門」は、竹内門跡(京都市左京区にある曼殊院の別称)のことで、天皇の弟で曼殊院門跡の良恕法親王(1574-1643)をさす。天皇が「たゝうしろみに世のまつりこと」という連歌の句について親王の意見を尋ねる内容。

「天神名号」は、平安時代以来、菅原道真の怨霊鎮魂のためにつくられたもので、鎌倉時代には京都北野社で天神法楽のために行われる詩歌会の際、座の正面に掛けるものとして珍重されてきた。この1幅は、金泥で梅樹が下絵に描かれており、濃墨を駆って太細を書き分けたうねりのある筆致には堂々とした存在感がある。署名はないが、筆跡から後陽成天皇の自筆疑いなきものである。

「龍虎」の二字は、英雄・天子などを象徴する言葉として特に歴代帝王、政治家などに好んで揮毫(きごう)された。この二大字は雄大で迫力あふれる書風で、金銀泥の下絵と相まって、桃山時代の特徴をよく示している。

後陽成天皇の筆による鎌倉時代前期の歌人・藤原家隆の和歌「秋の夜の月 やをしまの あまの原 明方ちかき おきの釣舟」(『新古今和歌集』)の書写。

後陽成天皇の筆による鎌倉時代前期の歌人・藤原家隆の和歌「ふるさとの庭の日かげもさえくれて桐のおち葉にあられふるなり」(『新勅撰和歌集』)の書写。[解読文]「ふる さと の 庭の ひかげも さえ くれて きりの 落葉 に あられ ふる なり」

上下二段に割った色紙に金銀泥で肥痩のある流麗な書体で『源氏物語』帚木の巻の和歌を散らし書きにしている。[解読文]「琴のねも 月もえ ならぬ 宿ながら つれなき 人を引や とめける」「こがらし に 吹きあわす める 笛の音を ひき とどむべき ことの葉ぞ なき」[書き下し文・現代表記]「琴の音も月もえならぬ宿ながらつれなき人を引きやとめける」「こがらしに吹きあわすめる笛の音をひきとどむべきことの葉ぞなき」

国立国会図書館蔵の慶長勅版『日本書紀』に添えられた後陽成天皇宸筆と伝えらえる題簽。日本書紀の古写本は平安時代から残るが、刊本としては慶長4年(1599)に刊行されたこの慶長勅版が最初のもの。

後水尾天皇(1596~1680)が、小色紙(しきし)に自ら詠んだ歌を書く。小ぶりの色紙にこまやかな字くばりが美しい。いかにも繊細な趣きのこの小色紙は、江戸時代前期の王朝趣味の一端を示してくれる。

「萬鶏」、「黄鶯」、「千歳の雅風」、「一天四海波しづか」など、めでたい語句が綴られた年賀の文。散らし書きされた文字群が雁行して、凛とした鋭さが冴え渡って美しい。2枚にわたって書写された消息だが、後半の1枚が失われているために、誰に宛てたものか不明。島原松平子爵家伝来。「誠に萬鶏暁を唱え、黄鶯春を報じてより、一天四海波静かに、五風十雨、折を違えぬ時至り候えば、朝廷には千歳の雅風を集め、国家には太平の曲調をなさんか。」

この歌は、『後水尾院御集』(『鷗巣集』とも)の雑部に入っている。枯淡な筆を駆って、慎重な運筆から、天皇の晩年期、70代の筆と想定される。「「遠山は画図の如し」ということを詠める和謌/つくりゑをかすみや残す咲比はまだとをやまの花の千えだに」

明正天皇(めいしょうてんのう・1632-1696)が、修学院の観音堂に勅額を下賜するのはいつがよいかを決めるように伝えた消息。明正天皇は、後水野天皇の急な譲位を受けて、奈良時代以来の約850年ぶりの女帝となった。

宛先の「かうきよく」は、江玉真慶(こうぎょくしんきょう)。明正天皇が帰依した天台宗の僧で山科の十禅寺の住持。内容は、江戸からの便りで「伊予守」が遠慮を申し渡されたことを江玉に伝えるもの。この伊予守は、貞享元年(1684)7月26日に病気のため寺社奉行を辞任した板倉重形(1623−1686)か。

宛先の「かうきよく」は、江玉真慶(こうぎょくしんきょう)。明正天皇が帰依した天台宗の僧で、山科の十禅寺の住持。内容は「御所の御蔵の辰巳(南東)の屋根に燕が二カ所巣をかけてめでたいので、何か(詩歌などか)お書きつけなさい」というもの。重要美術品。

後西天皇(1637―1685)による『源氏物語』帚木の巻の書写。後西天皇は、後水尾天皇の第8皇子として誕生。在位期間は1655年〜1663年。父天皇の資質を受け継ぎ、和歌や連歌に優れ、古典への関心も高かった。ほかにも書道や茶道、香道にも精通し、勅作の香銘も多くある。なお、この書の頭に「はゝ木々」とあり、その後に「左の馬のかみ・・・・・・」と続いているが、帚木の冒頭の文言とは異っており、抜き書きされたと推定される。

後西天皇の書は父帝の後水尾天皇の風をよく引き継ぎ、流麗にして雅味に富む。「さほ姫の」で始まるこの一首懐紙も、空白部分を巧みにいかした文字の配置に、リズミカルな墨継ぎの墨の濃淡と、隅々にまで細やかな心遣いが行き届いたものとなっている。

霊元天皇(1654-1732)は後水尾天皇の第19皇子。諱名は識仁。寛文3年(1663)即位、在位24年、貞享4年(1687)東山天皇1675-1709)に譲位、その後元禄6年(1693)まで院政、正徳3年(1713)落飾、享保17年(1732)に79歳で死去。歌道に天賦の才能を発揮し、歴代屈指の能書帝でもあった。この手紙は、難波宗量(なんばむねかず・1642-1704)に宛てたもの。闊達自在の筆致は、能書の面目躍如たるものがある。

霊元天皇の書は後水尾天皇に学んだもので、洗練されたさわやかな書風に特色がある。和歌の師は、冷泉為村。

この懐紙は歌題より、元禄13年(1700)正月の院の歌会始めの時のもの。

『和漢朗詠集』に載る謝偃の「嘉辰令月歓無極 、萬歳千秋楽未央」に続けて「わか君は千世にやちよにさゝれ石の巌となりて苔のむすまて」。

東山天皇(1675-1709)が、「禁庭雪」「杜神楽」「夕樵夫」の三つを題として詠んだ和歌の懐紙。東山御文庫蔵。

中御門天皇(1701-1737)が、泉涌寺開山の俊芿(しゅんじょう)に「大円覚心照」の国師号を賜る際の勅書。泉涌寺蔵。

桜町天皇(1720-1750)が、弟の輪王寺宮公遵法親王にあてた消息。

後光明天皇(1633―1654)は漢詩をよくし、御製詩集『鳳啼集 』がある。円照寺蔵。

桃園天皇(1741-1762)による中院通枝(1723-1753)宛の消息。東山御文庫蔵。

後桜町天皇(1740ー1813)の宸翰和歌懐紙。古今和歌集の夏歌「なつ山になく/時鳥こゝろ/あらは物思ふ/我に声な/きかせそ」。

孝明天皇(1831-1867)が島津茂久に下賜した懐紙。文久元年(1861)12月、茂久が「御剣」を献上したのに対するもの。掲載箇所は詞書部分。