ワシタカ目に属する鳥のうち小形種の総称。大形種をワシというが厳密な区別はない。ワシと比較して一般に、翼と尾の幅が狭く、翼の先端がとがる。くちばしは鋭く曲がり、あしには大きなかぎ爪をもつ。昼行性の猛禽で、鳥獣、時にその他の動物を捕食する。ふつう樹上・絶壁に巣をつくるが、チュウヒ類は地上や水草上に営む。クマタカ・チュウヒ・ノスリ・ツミなど、日本には約20種が知られている。古来、姿に威厳のある鳥とされ、多くの文学作品や絵画の題材として親しまれ、埴輪の出土品も何点か知られている。また、鷹に関する伝承も数多いが、家臣の裏切りで孤島におき去りにされた百合若大臣が愛鷹の助けによって無事に生還した、という百合若伝説はよく知られている。
飼いならした鷹を狩猟に用いる鷹狩りの歴史も古く、古代エジプト、ペルシア、ギリシア・ローマでも行われていたとされるが、日本でも、『日本書紀』仁徳天皇紀に、百舌鳥野に鷹を放って雉を獲たという記録がある。『万葉集』には大伴家持が鷹狩りを詠んだ長歌があり、嵯峨天皇(768-842)は自ら『新修鷹経』を編纂して、鷹の鑑定法や飼育法などについてくわしく記している。
鷹狩りはその後も公家・武家の間で広く行なわれ、特に徳川家康の鷹狩り愛好は有名で、江戸周辺で数多くの鷹狩りを催したほか、放鷹によって獲た鶴を内裏に献上したという記録をのこしている。5代将軍綱吉の「生類憐みの令」によって鷹狩りは一時的に停止されるが、8代将軍吉宗のときに復興し、鷹場 (大名の鷹狩する場所)、鷹匠、鷹装束なども制度化して、幕府の年中行事として幕末まで行われた。
鷹は武威の象徴とみなされたところから、鷹狩りの獲物は武家の贈答儀礼において尊重され、将軍が鷹狩りで捕えた鶴や雁などを大名に下賜し、大名は家中とともに賞翫して長寿を祝うことが恒例化した。これらの獲物は「御鷹之鶴(雁)」と称された。
関連するひと・もの・こと
古代より人々に讃仰されてきた日本の最高峰。古来、初夢に見ると縁起が良いものを順に並べて「一富士二鷹三茄」と言われる。
人間の生活圏内に生息するタカ科の鳥。古くは霊鳥と見なされた。「鳶が鷹を生む」は、平凡な親がすぐれた子を生むことのたとえ
鶴は長寿と健康のシンボルとされたため、鷹狩りの獲物の鳥の中でも最も珍重された。
古墳時代、古墳上に並べられた土製の焼き物。動物をかたどった埴輪の中には鷹や鷹法の作例も出土している。
戦国時代・安土桃山時代の武将。鷹狩を愛好し、信長の伝記である『信長公記』には鷹狩りの記録がたびたびあらわれる。
安土桃山時代の武将。鷹狩りを好み、天正19年(1591)三河の吉良で、「大鷹野(おおたかの)」と称された大規模な鷹狩りを催した。
江戸幕府初代将軍。鷹狩りを非常に好み、民情視察を兼ねて関東各地で頻繁に放鷹を行った。
本で知る
[舎人親王] [編]
『日本書紀』の仁徳天皇43年9月の記事。天皇に鷹を献上するものがあり、これを飼育して和泉国大野郡の百舌鳥野(もずの)で催された狩りに用いたところ、多数の雉を捕獲したとある(「幸百舌鳥野而遊猟、時雌雉多起、乃放鷹令捕、忽獲数十雉」)。「百舌鳥野」は、現在の大阪府堺市にあたる地域。掲出本は慶長15年に刊行された古活字版で、全巻刊行された『日本書紀』としては最初のもの。全巻にわたり、振り仮名、頭注等の書入れ、朱の句読等が施されている。古活字本収集家として知られる高木利太(1871-1933)旧蔵。
大伴家持が国守として越中国に赴任していた天平勝宝2年(750)3月8日の長歌。最後の一節に、「枕附(マクラツク) 都麻屋之内爾(ツマヤノウチニ) 鳥座由比(トクラユヒ) 須恵弖曾我飼(スヱテソワカカフ) 真白部乃多可(マシラフノタカ)」(つま屋の内に とまり木を設け とまらせてわたしは飼っている 真っ白な鷹を)と歌う。「ツマヤ」は、「端屋」で、「母屋の脇の離れ屋」、「トクラ」は、「鳥座(とぐら)」で、鳥の止まり木。「マシラフノタカ」「真白斑(ましらふ)の鷹」で、純白の鷹の意。大伴家持は鷹狩りを好んだらしく『萬葉集』巻17には大事にしていた鷹を逃がしてしまった悔恨の情を詠んだ長歌「放逸せる鷹を思ひて夢に感悦する一首 并せて短歌」の作もある。掲出本は、古活字版の『萬葉集』。古活字版『萬葉集』には無訓本と付訓本とがあるが、本書は付訓本である。本文行間に片仮名の訓の活字を入れている。江戸時代後期から明治時代前期の国学者。榊原芳野(1832-1881)の旧蔵本。
源為憲,写
『口遊』は、平安中期の貴族子弟のための初歩的教科書。源為憲(?-1011)著。天禄元年(970)成立。貴族としての初歩的知識を、乾象、時節、官職、人倫、禽獣など一九部門に分けて暗誦に便利なようにまとめたもの。この禽獣門に、8月16日の甲斐国にはじまって、9月24日の大宰府にいたるまでの、鷹を朝廷に貢納する期日(貢鷹期)が載せられている。(その他の国名は、信濃・下野・陸奥・出羽・能登・越後・安芸)。鷹狩に使用する鷹が広く日本の各地から供給されていたことがうかがえる資料。掲出は、弘長2年(1262)書写・国宝真福寺本の古典保存会による複製本。
[紫式部] [著],写
『源氏物語』第29帖「御幸」から。大原野に行幸する冷泉帝につき従う一行の様子を描く。いずれも念を入れて馬や鞍をととのえ、鷹狩に加わる親王たちや上達部は珍しい狩の装束を用意し、近衛府の鷹飼たちは、世にも見なれぬ摺衣をめいめいが着ていて見ものである。2行目から、「みこたちかむたちめ/なとたかにかゝつらひ給へるはめつ/らしきかりの御よそひともをま/うけ給ふ、このゑのたかゝひとも/はまして世にめなれぬすり衣/みたれきつゝ、け色ことなり」。掲出は、東久邇宮家旧蔵と伝える写本。枡形本で装訂は綴葉装。1巻を1冊にあて、表紙中央に題簽を貼り、巻名を記す。見返しには金銀の切箔を散らし、本文は亀甲、墨流し、市松模様等の料紙を用いる。さらに草木、霞などの下絵を金銀泥で描いた丁もあるなど、美麗な意匠をこらした本である。
写
鷹の登場する『大和物語』の一段。ある帝(みかど)が、陸奧国の磐手(いわで)の郡から献上された鷹を非常に大事にしていたところ、飼育を担当する大納言がこれを逃がしてしまう。恐懼した大納言は失態を言上するが帝は一言も言葉を発せず、「いはで思ふぞいふにまされる(口に出して言わず、心で思っているほうが、口に出すよりいっそうつらいのだ)」とのみ答えたという。「いはで」は、「磐手」に掛けた言葉。『大和物語』は平安時代成立の歌物語。掲出本はこれを奈良絵本にしたもの。布地表紙、金箔見返し、本文料紙は金泥で草花を描く美麗な写本。装訂は綴葉装(列帖装)、精緻な挿絵33図がある。
編者:塙保己一
『御湯殿上日記』の慶長3年11月2日条。「内ふよりたかのつるしん上あり」とあり、徳川家康から朝廷に「鷹之鶴」が献上されたことを記す。「内ふ」は、「内府(内大臣)」で、徳川家康のこと。「たかのつる」は、将軍が鷹狩りで獲た鶴のこと。『御湯殿上日記』は、禁中清涼殿の御湯殿の上の間に奉仕する代々の女官がつけた仮名書きの日記。文明9年(1477)から貞享4年(1687)のものが伝存し、宮中儀式や女房詞などを知るうえでの貴重な史料。掲出の『御湯殿上日記抄』は、塙保己一が明応4年(1495)から慶長3年(1598)までを抄出して浄書・作成した本で、和学講談所の旧蔵。『群書類従』に収録された際の原本となったもの。
かいふや
異国遍歴話の主人公百合若大臣を扱った絵入り狂言本。孤島におき去りにされた百合若大臣が、愛鷹の助けによって無事に生還したという伝説を踏まえたもので、掲出は、孤島で窮乏している百合和に愛鷹が食べ物を届ける場面。書き題簽に「元禄十年/中村座劇/本/百合若/大臣」とあり、元禄10年江戸中村座所演の歌舞伎のあらすじを綴ったものである。挿絵は鳥居清信筆とみられる。「元禄・宝永四座狂言本」という箱書の後に「青山」と署名されていることから、江戸小石川伝通院前の書肆青山堂の旧蔵書であることが分かる。また、扉表には「日月燈/江海油」、同裏には「風雷鼓板/蜀山人 印」という大田南畝(1749-1823)による墨書がある。
毛氏江元寿梅園直脚<毛利梅園>//撰輯,写
江戸時代後期の旗本・毛利梅園 (1798~1851)が著した鳥類の写生図譜。131点の絵が収録されている。梅園は、幕臣で、御書院番。名は元寿 (もとひさ) 、号梅園・写生斎・華魁舎ほか。『梅園百花画譜』 (梅園草木花譜) 17冊のほか、『梅園菌譜』『梅園魚譜』『梅園介譜』など、実写中心の優れた画譜を数多く残したが、その大半は国会図書館が自筆本を所蔵している。父元苗との共著である年代史『皇代系譜』 (内閣文庫蔵) のような著作もある。
京伝 作,[北尾重政] [画],[蔦屋重三郎]
山東京伝(1761-1816)の黄表紙。寛政3年(1791)、蔦屋重三郎刊。盧生(ろせい)の邯鄲の夢を題材にした、恋川春町作『金々先生栄花夢』と朋誠堂喜三ニ作『見徳一炊夢(みるがとくいっすいのゆめ)』の趣向を取り入れた作品で、さまざまな夢を考案して人間に売ることを商売とする、無茶羅国(むちゃらこく)の夢魂道人なる人物を登場させる。掲出は、道人の配下が「一富士二鷹三茄」の夢を見させるための道具立てを工夫しているところ。張りぼての富士山に鷹と茄を棒にぶらさげて操っているが、道具立てが間に合わない場合は、「一筑波二とんび三とうなす」でごまかすという。
[赤松金鶏] [撰],[喜多川歌麿] [画],[蔦屋重三郎]
喜多川歌麿画、赤松金鶏(畑道雲)撰の狂歌入り花鳥絵本。板元は蔦屋重三郎。寛政2年(1790)の刊行と推定されている。大判2帖。色摺り。歌麿の鳥の絵に添えるために、恋の題で詠んだ狂歌を集めたという。羽毛の微細な線描に加えて、彩色も濃淡、重ね摺り、拭きぼかしなど、技巧を凝らす。中国や狩野派の伝統的な花鳥画を踏まえ、木の枝、露地、水辺などの自然を背景に諸鳥を美麗に描く。狂歌作者は赤松金鶏、酒月米人、頭光、銭屋金埒、宿屋飯盛、芦辺田鶴丸、大屋裏住、寐語軒美憐、唐来三和、鹿津部真顔、唐衣橘洲、朱楽菅江、その他。各狂歌は、当該の鳥の名を詠み込み、恋の狂歌に仕立てている。掲出の鷹に添えられた狂歌は赤松金鶏の作で、「鷹ならは/うき名の/外に/はつとたつ/小鳥も/をのか/ゑにしなるへき」。
将軍の鷹狩りを描いた絵巻類
写
将軍によると思われる鷹狩の一部始終を描いた絵巻。江戸後期の成立か。掲出は、鷹が鶴を捕らえる場面。鶴は延寿吉祥の象徴であり、体形雄大で、鷹による鶴猟は至難の技でもあったため、獲物の鳥としては最上位におかれ、将軍の鷹によって獲られた鶴は「御鷹之鶴」として珍重されて朝廷に献上され、御三家、諸大名にも下賜された。
写
同じ絵巻から。鷹狩に出発する場面。馬の鞍その他諸道具に葵の紋が見られる。
写
同じ絵巻から。鷹を手に据える鷹匠。
写
「鶴御成」を描いた絵巻。「鶴御成」は、江戸時代中期以降に行われた年中行事。寒の入り後、将軍がみずから鷹によって鶴(玄鶴・鍋鶴・真鶴・丹頂鶴)を獲り、朝廷に献じ、三家や御鷹の鶴拝領の家格の大名に下賜したもの。掲出の画面左下に、鷹が鶴を捕らえる瞬間が描かれている。絵巻の成立は江戸後期か。
楊洲周延 画,福田初次郎
楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)作の錦絵『千代田之御表』から「鶴御成」。『千代田之御表』は、江戸城内での公式の場である表(千代田之御表)における年中行事や遊興の様子などを描いた揃い物の錦絵。謡初(うたいぞめ)、浜御成(はまおなり)、将軍宣下などの行事とともに描かれる。
鷹書(鷹狩りについての故実の書)
保己一 集
日本最古の鷹書。嵯峨天皇(786-842)の勅撰。鷹の体の部位名や飼育法、羽の生え変わり方、鑑定しかた、鷹狩りの故実、病気の治療法など、鷹についての知識全般について、漢文体で記す。原本は伝わらず、中世後期から近世までの写本で知られるのみで、その読み方・解釈も秘伝として扱われていた。掲出は群書類従本。掲出部分では、良い鷹の特徴を図で示している。
著者:持明院基春
漢文体で書かれた『新修鷹経』の内容を和語の問答形式によって解説した書物。文亀3年(1503)成立。室町・戦国時代の公家、持明院基春(1453—1535)著。元春は、持明院流入木道の祖とされる人物で、鷹書の著述でも知られる。掲出本は、内閣文庫所蔵の寛永10(1633)年の写本。紀州新宮藩主水野忠央(1814—1864)らの旧蔵書。
著者:近衛前久
百首和歌の一。戦国・安土桃山時代の公家で近衛家16代当主、近衛前久(1536—1612)著。前久自詠の百首に自ら注をつけたもの。百首和歌としての『鷹百首』は中世以来数多く、藤原定家、慈円、藤原良経などの歌人が著者として仮託されたものが先行して存在するが、本書は、公家でありながら、鷹狩り、馬術などに精通し、織田信長をはじめとする武家との交流の深かった著者自詠の類聚である点に特色がある。奥書によれば本書は、豊臣秀吉、徳川家康などによって書写されている。掲載本は、内閣文庫所蔵の写本。
編者:李燗(朝鮮)編者:李燗(朝鮮)
朝鮮漢方の医学者李燗(りかん)の撰述による、鷹鶻(ようこつ=タカとハヤブサ)の医方・薬方について解説した書。江戸時代初期に日本にもたらされ、寛永年間に和刻本として刊行された。掲出本は、林羅山旧蔵の写本で、羅山の蔵書印(「江雲渭樹」)を見ることができる。また、国会図書館には同書の寛永20年版の刊本が所蔵されている。
著者:木下義俊
武術・武器・武具など軍事全般に関する概説書。貞享1年(1684)序。木下義俊著。巻8の「鷹犬の弁」で鷹に関する故実が記されている。掲出は国立公文書館内閣文庫所蔵の無刊記本。
秋田屋太右衛門[ほか1名]
鷹狩りの故実を記した書。「鷹口伝書」は内題による。見返し題は「鷹口伝之書」、題箋は「鷹やしない艸」となっている。宝永8年(1711)刊だが、掲出本は文政7年の後印本。内容は2部に分かれ、第1部は、巻頭に放鷹の起源を述べ、続いて30余条にわたる鷹の病気の療治について、第2部には、鷹の名所(などころ)を記した「十八秘事」と、鷹の病を説いた「三十六口伝」を載せている。著者についての記述はないが、本書の内容は、内閣文庫に所蔵される十冊本「持明院家鷹秘書十」のうちの一冊で、持明院流の鷹狩りの故実を記した「鷹秘抄」とまったく変わらない。同書の写本をそのまま翻刻したものと思われる。「鷹秘抄」は、持明院基春(1453—1535)の手によるもので、巻末に「永正十三年六月十九日左金吾藤(花押)」とある通り、永正13年(1516)に書写されている。なお、「鷹秘鈔」は、続群書類従の鷹部にも収録されている。
もっと知りたい
絵画に描かれた鷹
雪村周継筆,By Sesson Shukei,東京国立博物館,Tokyo National Museum
鷹狩りに用いられる鷹は武士にとって大切な伴侶で、室町時代には鷹の肖像画が描かれるほどでした。また誇り高く有能な様子から、しばしば武士を象徴する生き物として表現されています。雪村は常陸(茨城県)の武家出身の禅僧画家。
雪村周継筆,By Sesson Shūkei,松永安左エ門氏寄贈,Gift of Mr. Matsunaga Yasuzaemon,東京国立博物館,Tokyo National Museum
自然の景観をあらわした山水図に、鷹を描いた作品。作者は、室町時代後期から安土桃山時代にかけて関東で活躍した、禅僧で画家の雪村(せっそん)。雪村は墨の濃淡を使い分けてモチーフを描く水墨画を得意とし、自由で奇抜な表現を用いた絵が多く残っている。
土岐富景筆,By Toki Tomikage,東京国立博物館,Tokyo National Museum
戦国時代から織豊時代にかけての画家、土岐富景(生没年不詳)の鷹図。富景は、美濃国(岐阜県)の豪族土岐氏の一族で、鷹の絵を得意とした。
筆者不詳,Artist unknown,東京国立博物館,Tokyo National Museum
椿と桜が描かれ季節が右から左に進んでいることと、右に重心を置き左に視線を誘導する構図から、本来は秋の草花が描かれた画面が左に続いていたと思われる。金地濃彩で鳥獣を捕らえた鷹を描いた本図には、安土桃山時代の武将の嗜好が反映している。
筆者不詳,Artist unknown,野田東一氏寄贈,Gift of Mr. Noda Toichi,東京国立博物館,Tokyo National Museum
鷺や兎を捕まえる鷙鳥(猛禽)の絵は、安土桃山時代に武将に好まれ、障壁画や屏風にしばしば描かれた。桃の咲く春から秋、冬へと季節がめぐるなかで、鷺を追う鷹と、檜の枝にとまる鷹が配されている。
土方稲嶺筆,東京国立博物館
作者の土方稲嶺(1741-1807)は、江戸時代中期の画家。因幡(鳥取県)の人。南蘋派の宋紫石に学び、山水・花鳥を得意とした。
曾我蕭白,そがしょうはく,SOGA Shohaku
日本国内のみならず、海外でも評価の高い曾我蕭白(しょうはく)。去年は、京都国立博物館で大規模な蕭白展が開催され、美術雑誌で蕭白特集が組まれたり、蕭白に関する特集番組が制作・放映されたりと蕭白の注目度はますます高くなっている。研究の結果、今では京都生まれと考えられる蕭白であるが、数十年前までは伊勢出身といわれていたほどに、この地に多くの作品をのこしている。掲出の作品も、明和町の永島家に伝えられた襖(ふすま)絵のうちの一画題。この旧永島家襖絵は、全部で四十四面のこされており、1ヶ所に描かれた蕭白作品としては最大規模。画題も花鳥、山水、人物と多岐にわたっており、蕭白を語る上で欠かすことのできない作品群といえる。硬質な筆致で緻密(ちみつ)に描き込まれた鷹(たか)と、それとは対照的に勢いよく躍動的に描かれた松が本図の主役。さらに詳細に画面をみていくと、兎(うさぎ)や鷹を恐れ身を隠す猿の姿もあり、それらの質感を的確に描き分ける画技に驚かされる。しばしば「異端」「奇想」ということばで評される蕭白であるが、本図はそれらが蕭白のほんの一面にすぎないことを教えてくれる。
住吉広尚筆,By Sumiyoshi Hironao (1781–1828),東京国立博物館,Tokyo National Museum
それぞれの本紙裏に貼られた鷹狩にまつわる和歌を彷彿とさせる、冬の鷹狩の様子が描かれる。馬に乗り鷹を放つ人物や犬をひく従者など、板谷家伝来資料の下絵とほぼ同じ図様が用いられている。顔貌表現や装束、動物の毛など、丁寧に描かれた細密描写にも注目したい。
山本梅逸筆,By Yamamoto Baiitsu,東京国立博物館,Tokyo National Museum
山本梅逸は、名古屋の南画家。技巧的で美しい彩色の花鳥画を得意としたが、山水画にも水準の高い作品を残した。みずから「八松双鷹図」と箱書きするこの図は、「壬子之秋」の款記から嘉永5年、梅逸70歳の作と知られ、晩年の基準作として貴重である。
浅井忠
浅井忠による油彩画。武士が鷹狩りをする場面を描いている。猟犬を連れた犬引きが、背丈よりも高い草むらに潜む野禽をおびき出し、その獲物を鷹匠の放った鷹がいまにも捕えようとしている。本作品は、農村や漁村の風景を主題とした作品にみられる浅井独特の情感の表出に乏しく、歴史画風に描かれている。また、武士の装束や馬などが克明に描写され、彼が得意とした脂っぽい色調ではなく明るい色調で全体がまとめられている。1905年(明治38)に彼は東宮御所東二の間の綴織壁飾の原画として《武士の山狩》を描いているが、本作品はそれを連想させる。武士の姿を歴史上のものとしてではなく、むしろ現実のもののように描いたところに、武家出身の浅井らしさがある。佐倉藩士の子として生まれた浅井忠は、1876年(明治9)、21歳のときに洋画家となる決意を固め、イギリスで洋画を学んだ国沢新九郎の画塾彰技堂に入門した。同年、工部美術学校に進み、イタリア人画学教師アントニオ・フォンタネージに師事する。1889年(明治22)には洋画団体である明治美術会の創設に加わり、同会主催の展覧会に《収穫》(1890年、東京藝術大学大学美術館)など多くの作品を発表した。1900年(明治33)から2年間フランスに留学した際、パリ万国博覧会を訪れ、アール・ヌーヴォーをはじめとするヨーロッパ芸術に魅せられた浅井は、図案制作に関心を抱く。帰国後は京都高等工芸学校、関西美術院などで後進を育成した。
小山正太郎
小山正太郎による油彩画。鷹狩りに出かけた武士の一行が濁酒(どぶろく)で喉の渇きを癒そうと、黄葉の美しい村の酒屋に立寄る様子を描いている。手前からわずかに右手へと延びる道は、白馬にまたがる主人と思しき人物を起点として大きく左へとうねり、酒屋の娘と二人の家来のやりとりへと視線を誘(いざな)う。小山の風景画によく見られる、一点透視図法を用いて、樹木や家屋を配した道の上に点景人物を描きこむ「道路山水」という構図法の典型といえるが、小山の数少ない残存する油彩作品の中でも複雑な構図で動きが感じられる。 褐色調の色彩でまとめられた画面は、工部美術学校のアントニオ・フォンタネージに始まる「脂派(やには)」の作風を示しており、農村の湿った土の香りが伝わってくる。また、左手前から奥へと連なる木々の描写には高いデッサン力が活かされており、しっかりとした幹の線と緻密な葉の描写が効果的な対比を見せる。 1878年(明治11)に工部美術学校を退学した小山は、1889年(明治22)に同窓の浅井忠らとともに明治美術会を結成し、国粋主義による洋画排斥運動に対抗することとなる。本作品は、1890年(明治23)11月の明治美術会第2回展への出品作であり、同志らとともに再び洋画界を盛り立てようと奮闘する小山の、卓越した画技が感じられる代表作である。
李寿民筆,By Yi Su-min (1783–1839),小倉コレクション保存会寄贈,Gift of the Ogura Foundation,東京国立博物館,Tokyo National Museum
李寿民(号・蕉園)は19世紀朝鮮で活躍した画員画家。松に鷹を配する鷹図は、朝鮮時代後期に流行しました。鷹の羽毛は柔らかく丁寧な筆線で、松の幹や葉はリズム感ある筆線でかたどられます。透明感のある松葉の緑や鷹の褐色が、清雅な雰囲気を伝えています。
毛翀筆,By Mao Chong (dates unknown),加藤誠一氏・加藤照夫氏・加藤秀夫氏・加藤小枝子氏・加藤寿美子氏・御子柴八重子氏寄贈,Gift of Mr. Katō Seiichi, Mr. Katō Teruo, Mr. Katō Hideo, Ms. Katō Saeko, Ms. Katō Sumiko, and Ms. Mikoshiba Yaeko,東京国立博物館,Tokyo National Museum
中国明代の画家・毛翀(もうちゅう)の作。菊花さく秋、雄々しい鷹が水辺に雁を捉えた一瞬を描きます。爪がささり、山鵲(さんじゃく)、叭叭(はは)鳥(ちょう)が驚いて飛び立っています。草むらの中に落款のある「毛翀」については不明ですが、明代宮廷画風が定型化する前の瑞々しい描写をとどめています。
浮世絵に描かれた鷹
葛飾北斎筆,By Katsushika Hokusai (1760–1849),東京国立博物館,Tokyo National Museum
北斎による鷹の団扇絵。団扇絵は四角い紙に団扇の形に版画を摺ったもので、団扇とせずにそのまま鑑賞されているものなどが現存する。画中に「総房旅客前北斎改/画狂老人卍(印=富士)」とあるところから、北斎が房総半島を旅行中に描いたものか。「画狂老人卍」の号は北斎最晩年のもので、天保5年(1864)以降とされる。
葛飾北斎,Katsushika Hokusai
下目黒は現在の目黒区の一帯であるが、当時は田畑が多い農村で、将軍が鷹狩りをする御鷹場としても知られていた。画中には二人の鷹匠をはじめ、クワを担いだ農夫や農家の母子が描かれている。富士山は起伏に富む小高い丘の間から遠慮がちに顔を出している。
渓斎
江戸後期の浮世絵師、渓斎英泉(1791−1848)作。
文浪
江戸時代後期の浮世絵師、文浪による、鷹匠姿の若衆と美人の図。文浪は、歌麿の門人といわれ、享和(1801-04)のころ歌麿風の美人画をかいた。「鷹匠」は、大津絵の定番の画題で、その趣向を浮世絵に取り入れたもの。
嵩岳堂,紅英堂
江戸末期の浮世絵師、嵩岳堂(生没年不詳)の白鷹の図。安政6年(1859)刊。
一勇斎国芳,越平
歌川国芳(1798-1861)の浮世絵に登場する若衆姿の鷹匠。近松門左衛門の『傾城反魂香』にも登場する絵師の浮世又平と、又平の描いた大津絵から抜け出した登場人物を描いたもので、嘉永6年(1853)6月の出版。人物を役者の似顔絵にした見立絵で、又平は4代目市川小団次(1812-1866)、鷹匠姿の若衆は中村翫太郎(生没年不詳)。大津絵に役者の似顔を配して役者名を当てる趣向だが、人気が沸騰して大いに売れ、登場人物が将軍・御三家・幕閣などを見立てたものとの評判が立って発禁とされた。鷹匠姿の中村翫太郎は、4代目中村歌右衛門の弟子で、舞台では脇役を勤める中級の役者だったが、役者絵や見立絵などでしばしば描かれた。
工芸品・出土品に描かれた鷹
鈴木長吉作,By Suzuki Chōkichi (1848–1919),シカゴ・コロンブス世界博覧会事務局寄贈,Gift of Japan Delegate Office for World's Columbian Exposition, Chicago,東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p>岩の上の鷲が翼を大きく広げ、眼光鋭いその姿は、獲物を捕らえようと今にも飛び立ちそうです。また、羽には無数の筋が入り、足には細かい皺(しわ)が表され、質感を感じさせるほどの克明な表現によってこの置物は本物の鷲のように見えます。こうした置物は、まず土で鷲のおおよその形を作り、その上を蠟(ろう)で覆って細かい部分を彫刻します。次に全体に土を被せてこれを加熱して溶けた蠟を取り去り、空洞となった部分に青銅(せいどう)という金属を流し込んで作られています。この技法のことを「蠟型鋳造(ろうがたちゅうぞう)」と呼びます。作者の鈴木長吉は、明治時代に活躍した蠟型鋳造の名人で、鷲や鷹といった鳥の置物の制作を得意としていました。また、長吉の作品は、国内外で開催されていた万国博覧会に出品され、高い評価を得ました。この置物も明治26年(1893年)にアメリカで開催されたシカゴ・コロンブス世界博覧会に出品されたもので、明治時代に日本の技が世界を驚かせたことを示す名品です。 </p>
金田兼次郎作,By Kaneda Kenjirō (1847–1914),シカゴ・コロンブス世界博覧会事務局,Gift of Japan Delegate Office for World's Columbian Exposition,Chicago,東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p>金田兼次郎は浅草に住み、牙彫商としても活躍した牙彫作家。内外の博覧会に出品、受賞を重ね、日本美術協会や東京彫工会の役員、審査委員などの重職を歴任しています。ここでは羽毛の一枚一枚を精巧に彫り出しながら、鷹が古木に降り立つ一瞬を見事に捉えています。</p>
明珍清春作,By Myōchin Kiyoharu,東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p>自在置物とは動物などを写実的に表現し、体の各部が動くようにしたもの。一枚一枚の羽、鋭く光る目などの細かい造形に加え、コイルバネや、扇の要(かなめ)の留め具、蝶番(ちょうつがい)などを応用して、頚(くび)、羽や尾、脚の爪を動かすことができ、そのリアルさを増している。(2007/07/03_h14)(20140102_h081) (20141111_h131)<br /></p><br /><p> これは全体を鉄で作った鳥です。両足には革紐(かわひも)と金色のリングを付けており、止まり木もあることから、狩りのために飼われていた鷹を再現したものでしょうか。羽の毛足や重なり、細く鋭い脚などは、写実的に表現されていますが、それだけでなく、羽、首、足先を動かすことができます。翼は、上にあげるとその状態で固定され、扇を開くように羽を開くと、飛躍する鷹の姿が完成します。上げた翼は、尾羽の一枚を引くことで固定がはずれ、元の位置に戻ります。これは、体の中に仕掛けたバネによるものです。<br /> 鉄、銀、銅などの金属を使って、動物や昆虫の姿を、本物そっくり、かつ自在に動かせるよう再現した置物のことを、「自在置物」といいます。自在置物は、江戸時代、甲冑(かっちゅう)を制作していた工人が作り始めたと考えられています。鉄を熱し叩いて小さなパーツを作り、組み上げるのは、甲冑師の仕事そのものです。この鷹のお尻には、「明珍清春」(みょうちんきよはる)という作者の名前が刻まれていますが、この明珍こそ、有名な甲冑師の一族でした。頭にかぶる兜(かぶと)の正面に、さまざまな動物、植物、道具などをかたどった飾り物を付ける場合があります。あるいはこれが、自在置物へと発展したのかもしれません。18世紀ころの日本は、大きな戦(いくさ)が起こることもなく、甲冑は実用を離れて、装飾性が強いものとなりました。また当時は、動物や植物を細かく客観的に観察し、写実的に絵に写しとり、分類するような学問が発展した時期でもありました。自在置物のリアルさには、そうした時代背景も大きく関係していたのでしょう。</p>
伊万里,平野耕輔氏寄贈,東京国立博物館
伊万里焼の染付大皿。江戸時代、18~19世紀の作。径46.2センチメートルの大皿で、「太明成化年製」の銘がある。
底裏金蒔銘「梶川桃秀作」,クインシー・A.ショー氏寄贈,Gift of Mr. Quincy A. Shaw,東京国立博物館,Tokyo National Museum
鷹の模様をほどこした銀蒔絵の印籠。江戸時代中期の蒔絵の名手梶川久次郎(生没年不詳)につらなる幕府御用蒔絵師「梶川桃秀作」の銘がある。江戸時代、19世紀の作。
底裏金蒔銘「梶川作」,クインシー・A.ショー氏寄贈,Gift of Mr. Quincy A. Shaw,東京国立博物館,Tokyo National Museum
松に鷹の模様をほどこした蒔絵の印籠。江戸時代、19世紀の作。「梶川作」の銘があるところから、これも梶川久次郎(生没年不詳)につらなる幕府御用蒔絵師「梶川」家の作者のものと思われる。
芝山,Shibayama
印籠というのは本来は印判や印肉を納める容器であるが、江戸時代には携帯用の薬入れとして用いられるようになった。4、5段重ねに仕切った偏平な小型容器で、紐が付いて腰に下げられるようになっている。印籠細工は江戸時代の工芸の最も特色ある一分野となった。印籠には在銘品も多く、本作品の作者芝山は青貝や象牙などの象嵌細工をよくした芝山仙蔵のことで、作品は芝山細工と称された。
伊藤藤三郎氏寄贈,東京国立博物館,Tokyo National Museum
明治時代の作。朱色の漆で模様を描き、乾くまえに金銀の消粉(けしふん)をつけて、模様の部分を軽くこすっている。「消粉」は、金銀の箔を膠(にかわ)などと混ぜて乾燥し、粉末にしたもの。
東京国立博物館,Tokyo National Museum
鷹狩は古代中国の王侯、貴族のとくに好んだ遊びであり、それに従うのはこのような鷹匠である。鷹狩は古代ペルシャにその起源があり、西方から伝えられた遊戯である。本作品はフエルトの帽子を冠った俑。男性と思われるが、心持ち表情がやさしく、頬がふっくらしており、男装の麗人かもしれない。唐時代の壁画や、俑にはこうした麗人がよくみられる。しかし服装はまったく同じ。折り返した幅広の襟の付いたコートを羽織り、胴のところで細いベルトで縛っている。ベルトには飾り紐を数本垂らせている。胴の下の着物には襞があり、ズボンをはいていたのか。いま彩色は剥落しているが、朱や褐色、黒、緑の絵具で彩色されていた。
鷹狩は古代中国の王侯、貴族のとくに好んだ遊びであり、それに従うのはこのような鷹匠である。鷹狩は古代ペルシャにその起源があり、西方から伝えられた遊戯である。本作は髪を結った俑、もう一体はフエルトの帽子を冠った俑。二人とも男性と思われるが、後者の俑は心持ち表情がやさしく、頬がふっくらしており、男装の麗人かもしれない。唐時代の壁画や、俑にはこうした麗人がよくみられる。しかし服装はまったく同じ。折り返した幅広の襟の付いたコートを羽織り、胴のところで細いベルトで縛っている。ベルトには飾り紐を数本垂らせている。胴の下の着物には襞があり、ズボンをはいていたのか。いま彩色は剥落しているが、朱や褐色、黒、緑の絵具で彩色されていた。
鷹狩は古代中国の王侯、貴族のとくに好んだ遊びであり、それに従うのはこのような鷹匠である。鷹狩は古代ペルシャにその起源があり、西方から伝えられた遊戯である。本作品はフエルトの帽子を冠った俑。男性と思われるが、心持ち表情がやさしく、頬がふっくらしており、男装の麗人かもしれない。唐時代の壁画や、俑にはこうした麗人がよくみられる。しかし服装はまったく同じ。折り返した幅広の襟の付いたコートを羽織り、胴のところで細いベルトで縛っている。ベルトには飾り紐を数本垂らせている。胴の下の着物には襞があり、ズボンをはいていたのか。いま彩色は剥落しているが、朱や褐色、黒、緑の絵具で彩色されていた。
京都国立博物館 Kyoto National Museum
志水甚五,By Shimizu Jingo,川田龍吉氏寄贈,Gift of Mr. Kawada Ryōkichi,東京国立博物館,Tokyo National Museum
京都国立博物館 Kyoto National Museum,Kyoto National Museum
東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p>銀梨子地@なしじ@を主調に高蒔絵で梅と鷹を配し、一部に切金@きりかね@を並べるなど豪華な装飾の鞍鐙一式。同時期の鞍には、蒔絵を著しく高上げし、力強い印象をもたらす作品が多く見られます。武士の表道具であった鞍は、江戸時代には次第に華美な装いが凝らされるようになりました。</p>
鷹の模様の衣装
動画を探す
北海道西部、日本海を臨む積丹半島。絶滅が心配されている鷹、ミサゴが現れます。豊富な食べ物と安全な巣がそろった積丹半島は、ミサゴにとって絶好の子育ての場所です。<br><br>(この動画は、2008年に放送したものです。)
山形県米沢市の笹野地区に伝わる工芸品、笹野一刀彫。江戸時代、上杉鷹山が冬の副業として奨励し、広まりました。小刀一本で木を削り、鷹などの縁起物を彫り上げます。<br><br>(この動画は、2014年に放送されたものです。)
滋賀県長浜市石田町。石田家の名字はここの地名に由来します。秀吉の重臣、石田三成はこの地の有力な豪族の子として生まれました。観音寺には、修行中の三成が鷹狩の際に立ち寄った秀吉に三杯のお茶を出し、ほめられたという逸話が残っています。(この動画は、2006年に放送したものです。)
過去の展覧会を探す
| タイトル | 主催者 | 会場 | 開始 | 終了 |
|---|---|---|---|---|
見に行く
国立国会図書館は、国会に属する唯一の国立の図書館です。国内外の資料・情報を広く収集・保存して、知識・文化の基盤となり、国会の活動を補佐するとともに、行政・司法及び国民に図書館サービスを提供しています。
独立行政法人国立公文書館は、国の行政機関などから移管を受けた歴史資料として重要な公文書等を保存管理しています。当館は、その保存実務から一般利用まで広く事業を行うことにより、歴史資料として重要な公文書等の適切な保存と利用を図ることを目的とした施設です。
日本と東洋の文化財を守り伝える中心拠点としての役割を担う我が国の総合的な博物館です。
平安時代から江戸時代の京都文化を中心とした文化財を取り扱う地域に根ざした博物館です。
東京大学では「東京大学デジタルアーカイブズ構築事業」を推進し、学内にある貴重な学術資産のデジタル化と一般公開、データの活用に取り組んでいます。この事業は、附属図書館・総合研究博物館・文書館・情報基盤センターの協力により推進しています。
1882(明治15)年に農商務省所管の博物館付属施設として開園した、日本で最初の動物園。猛禽類ゾーンに、タカ・ワシの仲間を見ることができる。
北海道旭川市にある日本最北の動物園。北海道産動物舎のクマタカの展示場所では、クマタカの生息環境である森林を再現し、木々の間を飛翔するクマタカを観察することができる。
ジャパンサーチの外で調べる
科研費による「鷹・鷹場・環境研究会」の公式サイト。会の運営する研究会や各種データベース、研究紀要などを見ることができる。「鷹・鷹場・環境研究会」は、日本列島における鷹を頂点とする生態系を維持するための環境条件が、いかなる相互作用のもとに保全されていたのかという問題を解明するために、江戸時代の諸藩に設定されていた鷹場に着目し、鷹場環境を構成する個々の条件(環境因子)を政治・制度・生活・文化・空間などの視点から総合的に検討し、生物多様性を守り、持続可能な社会を維持するための確かな「知」を歴史学の立場から発信することを目的としている。
国内最大の鳥類標本を所蔵する山階鳥類研究所による、剥製標本のデータベース。標本とそれに付けられているラベルの撮影データとラベルの記載内容がデータベース化されている。
公益社団法人日本動物園水族館協会ウェブサイト。「飼育動物検索」から、タカを飼育する動物園の検索ができる。
東京国立博物館による電子展示。「鷹型埴輪」についての解説をみることができる。
平成30年5月23日~6月24日、名古屋市博物館で開催された企画展示の紹介。
参考文献
- 「鷹」「鷹狩り」「鷹場」の項
- 「鷹」「鷹狩り」の項
- 「鷹」「鷹狩り」の項
- 「鷹」「鷹狩り」「鶴御成(つるのおなり)」の項目
- 小学館『万葉集』巻11
- 小学館『源氏物語』行幸
- 責任表示
- 国立国会図書館
- 二次利用について
ただし、画像は個々の権利表示による
- 最終更新日
- 2024/03/06