龍谷大学図書館特別展観 「戦(いくさ)と平和」
龍谷大学図書館 2022年度特別Web展観
特別展観の開催にあたって
龍谷大学図書館長 竹内真彦
龍谷大学図書館2022年度特別展観は「戦(いくさ)と平和」をテーマに開催致します。
人類の歴史が、ある意味で戦争、争いの歴史であったことは否定できません。それは今回の展観に供されている数々の史料からも容易に読み取れることです。そして、『保元物語』に描かれる源為朝のように、戦で活躍した武人、言い換えれば多くの人々を殺したであろう人物が、しばしば「英雄」として称賛されることさえあります。
現代的な感覚で『保元物語』の為朝を糾弾することは無意味です。同時に、現代における為朝「的」な人物を安易に肯定することも慎まれるべきでしょう。
「今」を生きる我々にとって、肯定されるべき(人の死を伴うような)戦はありません。
これを失念してはならないのであり、その上で「自分は何を為すべきか」をそれぞれが自分自身に問いかけることは必要なのだと思います。
全ての人々に平穏を。
最後となりますが、この展観にあたってご協力いただきました関係者各位に心より御礼申し上げます。
「戦(いくさ)と平和」とは
日本で古代から繰り返されてきた様々な戦(いくさ)が、どのように記録され、語られてきたか、そして平和への思いが如何にして伝えられてきたかを紹介すると共に、ウクライナ情勢など戦争の影を強く感じる現在を生きていく上で、考えるきっかけとなるよう「戦(いくさ)と平和」展を企画しました。
第一章 「戦(いくさ)を記す」
古代の邪馬台国の時代から、幕末に至るまでの戦乱を記録した資料を展示し、様々な理由により繰り返されてきた戦(いくさ)について辿っていきます。
第一章 展示資料一覧
65巻 40冊(晋)陳寿撰(南朝宋)裴松之集註(明)陳仁錫評閲(日)田中犀(止邱)訓点 寛文 10年(1670)浪華渋川清右衛門松村久兵衛刊◆ 縦26.2×横18.0㎝◆ 請求記号[422.021-1W-40]◆『三国志』は、中国の三国時代について記した歴史書であり、後漢時代末の混乱期から、魏・呉・蜀の三国鼎立を経て、西晋による中国統一までを扱っている。『魏書』巻30「烏丸鮮卑東夷伝」の「東夷伝」には、「魏志倭人伝」として知られる邪馬臺(台)国に関する記述がある。卑弥呼が女王に立てられる以前は、長い間騒乱があったことがそこに記されている。 『三国志』は、中国三国時代について記した歴史書であり、後漢時代末の混乱期から、魏・呉・蜀の三国鼎立を経て、西晋による中国統一までを扱っている。 疫病の流行は、この時代にも大きな影響を与えていた。例えば、曹操軍と孫権・劉備の連合軍が戦った赤壁の戦いはよく知られているが、「魏書」武帝紀には、曹操は赤壁で劉備と戦ったが、疫病が流行して官吏士卒が多く亡くなったため撤退したとある。
3巻 3冊 太安万侶奉勅撰 寛永21年(1644)[京都]風月宗智刊◆ 縦27.1×横19.1㎝◆ 請求記号[410.1-73W-3]◆ 編纂した日本最古とされる歴史書である。天地開闢(てんちかいびゃく)の神話時代から推古天皇の時代までが記録されている。 景行天皇の時代には、倭健命(やまとたけるのみこと)による九州の熊襲(くまそ)征伐や東征についての記述があるが、倭健命は、熊襲征伐を終えると早々に東征を命じられている。この時代に、大和王権が支配権の拡大を目指して、戦を続けていた様子が窺える。
30巻 15冊 舎人親王等奉勅撰 刊本◆ 縦25.0×横17.9㎝◆ 請求記号[410.1-25W-15]◆ 『日本書紀』は、養老4年(720)に成立した日本初の正史とされる歴史書である。神話の時代から持統天皇の時代までの記録が収められ、編年体の体裁を採り、漢文で記されている。 天智天皇の時代、唐・新羅の軍に敗れて滅亡した百済の王族の要請に応じて、日本は救援軍を送ったものの、663年に白村江の戦いで敗戦した。日本初の対外戦争であったが、この敗戦により、唐・新羅に対する防衛体制再構築を迫られることになった。
200巻・序目1巻 79冊 (後晋)劉昫撰(明)聞人詮沈桐同校(日本)臣巖拠明嘉靖18年聞人詮刻本鈔写◆ 縦25.8×横18.5㎝◆ 請求記号[422.035-2W-79]写字台文庫◆ 『旧唐書』は、五代後晋の劉昫(887~946)らの撰による歴史書である。初唐に情報量が偏り、晩唐についての記述が少ないなどの問題があるが、後の『新唐書』に比べて史料価値は高いとされている。因みに本資料は写本であるが、「写字台」と記された料紙を使用しており、西本願寺宗主が家臣に命じて書写させたものと思われる。 第84巻の劉仁軌伝には、白村江の戦いに於いて、唐の軍人である劉仁軌(602~685)が倭国(日本)と交戦し、400艘の船を焼いたことが記されている。唐側の記述ではあるが、日本の大敗の様子が記されている。
40巻 20冊 藤原継縄・菅野真道等撰 明暦3年(1657)跋 京都丁子屋源次郎等刊◆ 縦25.5×横18.5㎝◆ 請求記号[410.25-1W-20]◆ 『続日本紀』は、『日本書紀』の後を受け編纂された勅撰史書である。文武天皇元年(697)から桓武天皇の延暦10年(791)までを収める。編年体の体裁を採り、漢文で記されている。 天平宝字8年(764)、廷臣である藤原仲麻呂(恵美押勝。706~764)は、自らが擁立した淳仁天皇と、僧侶である道鏡を寵愛する孝謙上皇との対立に危機感を抱き、軍事力の掌握を企てた。しかし、密告により上皇方に先手を打たれ、仲麻呂とその一族のほとんどが殺されるという結果に終わった。 『続日本紀』は、平安時代初期に編纂された勅撰史書である。文武天皇元年(697)から桓武天皇の延暦10年(791)までを収める。漢文、編年体で記されている。 天平7年(735)に、日本で初めて死亡率の高い伝染病である天然痘が流行し、多くの人々が犠牲になったことが記録されている。流行は続き、同9年には政治を担う公卿(藤原氏四兄弟)も相継いで亡くなったとあり、天然痘の流行が政治や経済にも大きな打撃を与えたことがうかがえる。
14巻 5冊 山崎彌左衛門校正 万延元年(1860)江戸山城屋佐兵衛等刊◆ 縦25.8×横18.0㎝◆ 請求記号[410.3-5W-5]◆ 『日本紀略』は、平安時代後期に成立したとされる歴史書である。編者は不詳であり、神代から後一条天皇の長元9年(1036)までの歴史が、編年体の体裁を採り、漢文で記されている。 天慶2年(939)、常陸国府に追われていた土豪・藤原玄明を匿った平将門(903?~940)は、国府と対立して合戦となり、国守・藤原維幾らを捕らえた。このことにより、朝廷に反旗を翻すことになった将門は、一時は関東を制圧したが、僅か数か月で将門は戦死し、乱は鎮圧された。
6巻・附録1巻 7冊 慈鎮(慈円)作 写本◆ 縦27.4×横19.2㎝◆ 請求記号[410.1-55W-7]写字台文庫◆ 『愚管抄』は、鎌倉時代初頭に天台宗僧侶の慈円(1155~1225)が撰した歴史書である。神武天皇から順徳天皇に至る歴史を叙述し、道理によって日本の歴史展開を論述した史論書として、後世の史書に影響を与えた。 保元元年(1156)、鳥羽院が崩御した直後に起こった「保元の乱」は、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれて争った政変である。この乱について慈円は、乱を契機に、武者の世になってしまったこと、これまで都以外では、将門の乱や奥州十二年戦争などがあったが、都で乱が起きたことは、面目なく、悲しいことであると記している。
40冊 九条兼実記 元禄14年(1701)跋 写本◆ 縦26.8×横19.9㎝◆ 請求記号[410.39-4W-40]写字台文庫◆ 『玉葉』は、関白であった九条兼実(1149~1207)の日記である。記事は長寛2年(1164)から建仁3年(1203)までに及ぶ。内容は、朝廷の儀式や政治の実情・摂関家の動向・世上の見聞・身辺の事情など多彩である。 寿永3年(元暦元年。1184)2月8日の条には、源平合戦でも有名な戦である一ノ谷合戦の戦況について書かれており、戦が一時(2時間)もせずに、源氏の圧勝に終わったことが記されている他、合戦の布陣についても詳しく記されている。
57冊 『明月記』藤原定家記 『明月記歌道事類』一条兼良著 寛文2年(1662)至延宝9年(1681)奥書 写本◆ 縦26.3×横18.6㎝◆ 請求記号[410.4-13W-57]写字台文庫◆ 『明月記』は、鎌倉時代初期の歌学者藤原定家(1162~1241)の日記である。漢文体で書かれており、治承4年(1180)から嘉禎元年(1235)に至るまでの日記が現存する。内容は、有職方面・政治生活・経済生活・家庭生活など多方面に及んでいて、史料価値も極めて高い。 治承4年9月の条には、関東で源頼朝が挙兵したことについて触れているが、「紅旗征戎非吾事」(大義名分の戦争であったとしても、自分とは関係のないことである)と記している点が、合戦の状況を詳細に記した『玉葉』とは対照的である。
52巻(原欠第45巻) 27冊 慶長10年(1605)跋 [京都]富春堂刊◆ 縦27.3×横20.2㎝◆ 請求記号[021-333-27]◆ 『吾妻鏡』は、治承4年(1180)の源頼政挙兵から文永3年(1266)までの鎌倉幕府の事跡を扱った歴史書である。編者は未詳であるが、鎌倉幕府またはその家臣によってその中で編纂されたようである。徳川家康が愛読して治世の参考としたことで広まったとされ、本資料は、家康の命によって刊行された「伏見版」といわれる木活字版である。 後鳥羽上皇(1180~1239)により、鎌倉幕府の執権・北条義時に対して追討の兵を挙げた承久の乱は、源頼朝の妻・北条政子(1157~1225)が幕府の御家人に頼朝の御恩を訴えて、動揺する御家人を団結させた逸話が知られているが、『吾妻鏡』では、有力御家人の安達景盛が政子の演説文を代読して、御家人たちに聞かせている。
3巻 1冊 弘化4年(1847)序 [江戸]中屋徳兵衛等刊◆ 縦25.5×横18.1㎝◆ 請求記号[081-12W-20/50]◆ 『丹鶴叢書』は、紀州新宮藩第9代藩主・水野忠央(みずのただなか。1814~1865)が、蔵書である丹鶴文庫から、国史・記録・故実・歌集・物語など古典的価値の高いものを選んで刊行したものである。この叢書に『蒙古襲来絵詞』が収められている。 『蒙古襲来絵詞』は、元寇による文永・弘安の役で活躍した肥後国の御家人・竹崎季長(たけざきすえなが。1246~?)の戦功を描いた絵巻物である。人馬、武器武具などが精細に描かれ、当時の戦闘などを伝える資料として貴重である。
210巻 目録2巻 50冊(明)宋濂等奉敕撰 (明)黄儒炳葉燦同重修 明万暦中北京国子監校刊◆ 縦26.8×横16.7㎝◆ 請求記号[422-7W-493~542/542]◆ 『元史』は、モンゴル帝国及び中国の元朝を扱った歴史書であり、正史の一つである。明朝成立後間もなく編纂されたため、疎漏や重複があることが指摘されているが、原史料をそのまま利用したところが多く、史料的価値は高いとされている。 元寇についての記載は、巻208「日本伝」などにみられるが、元朝からの使者に対応しなかった日本に対して、軍を派遣したこと(文永・弘安の役)などが記されている。元寇により、日本と元朝の交流が無かったかのように解釈されがちであるが、民間レベルでは、盛んに交流があったことが指摘されている。
3巻 江戸後期刊◆ 縦26.3×横18.0㎝◆ 請求記号[081-217W-451~453/633]◆ 『群書類従』は、江戸時代後期の国学者・塙保己一(はなわほきいち。1746~1822)が、古代から江戸時代初期までの古文献を集めて編纂した叢書である。『応仁記』は、「合戦部」に収められる。 『応仁記』は、京都を中心に起こった内乱である応仁の乱(1467~1477)の戦記である。作者や成立年は不明とされている。乱の原因とされた8代将軍・足利義政の失政から、合戦の様子や、東軍の大将・細川且元、西軍の大将・山名持豊が死去するまでを記録する。『太平記』に倣った叙述ではあるものの、文学としての評価は低い。しかし、内容は他の戦記に比べて、信憑性が高いとされている。
1舗 写本 彩色◆ 縦83.2×横110.9㎝◆ 請求記号[491.41-30W-1]◆ 「京洛之図」とされたこの図は、作者・成立とも不詳である。図の左下に朱書で、この図が応仁の乱以前の京洛図であり、ある人の家に所蔵されていたものを願い頼んで模写したとある。 本図は、内裏を中心として、およそ北は蓮台野、東は粟田山、西は太秦広隆寺、南は東福寺を収める。図中には、貴族の邸宅や寺院などが細かく記されており、色分けされている。 他の史料と比較検討する必要があるが、応仁の乱で荒廃する以前の京洛の姿を伝える可能性を有する史料である。
2舗 江戸時代刊 彩色◆ 縦35.9×横52.9㎝ 縦29.5×横29.0㎝◆ 請求記号[022-636-2]◆ 「石山古城図」は、現在の大阪城の辺りに位置し、天正8年(1580)に織田信長と対立した本願寺第11代宗主・顕如(1543~1592)が、退去するまで根拠地とした石山本願寺の周囲図である。大小2図が収められており、大の図は、図の中央やや左上の大和川の合流付近に「石山御堂」が記されている。図中に黄色で示されているのが石山本願寺方、村名や地名を除く赤の囲みが織田方である。小の図は、恐らく「石山御堂」周辺を拡大した図であると思われる。
1巻 写本◆ 縦24.5×横200.7㎝◆ 請求記号[021.1-39 -1]◆ 「石山一件消息案文」は、本願寺から加州(加賀国、現在の石川県南部)の門徒に宛てて出された文書である。全部で5通の文書が収められており、第2通目には、天正8年(1580)から続いていた本願寺と織田信長との戦の和平について述べられている。和平には、天皇の仲裁によったことが門徒たちに報じられている。
4巻 3冊 竹中重門著 写本◆ 縦26.2×横18.5㎝◆ 請求記号[489.1-196W-3]◆ 『豊鑑』は、豊臣秀吉の軍師として知られる竹中半兵衛の嫡子・重門(1573~1631)が著した秀吉の伝記である。秀吉の素性から信長に仕えて出世し天下人となり、朝鮮出兵の後、名護屋城から帰洛するまでが記されている。 山崎の合戦は、秀吉が本能寺の変で織田信長を自害させた明智光秀を破って、天下統一の足掛かりとした戦として知られているが、『豊鑑』では第1巻の後半に詳しく記されている。
34冊 西洞院時慶記 写本◆ 縦26.6×横19.2㎝◆ 請求記号[410.6-37W -34]◆ 『時慶卿記』は、安土桃山時代から江戸時代前期の公家・西洞院時慶(にしのとういんときよし。1552~1640)が記した日記である。公家の日常生活の他、当時の社会などについても触れており、史料価値が高いとされている。 豊臣秀吉の死後、徳川家康を中心とする東軍と秀吉の家臣であった石田三成を中心とする西軍によって行われた関ケ原合戦は、慶長5年(1600)9月15日に開戦し、同日東軍の勝利に終わった。『時慶卿記』には、9月17日の日記に西軍・小早川秀秋の寝返りや大谷吉継の討死が記されている。関ケ原の戦況が二日足らずで、都にいる時慶にも届いていたのである。
1軸 片桐且元自筆◆ 縦30.4×横49.2㎝◆ 請求記号[021.1-205-1]◆ 本文書は、豊臣秀吉に仕え、秀頼の後見役であった片桐且元(1556~1615)の書状である。文書に見られる「備前島」などの内容から、慶長19年(1614)12月18日に発せられた大坂冬の陣の文書と判明する。 宛所の「本門主」とは西本願寺第12代宗主・准如を指す。准如は合戦への見舞いと差し入れをする形をとり、且元から戦況の報告を受けたのである。和議交渉当日の文書であり、きわめて貴重である。
2巻 1冊 写本◆ 縦27.6×横18.7㎝◆ 請求記号[913.661-19W-10/20]写字台文庫◆ 『遺老物語』は、江戸時代中期の有職家・朝倉景衡(あさくらかげひら。1660~?)が編纂した叢書である。近世初期から中期の見聞記・随筆・実録が収められており、『島原始末記』はその中の一書である。 『島原始末記』は、著者不詳であるが、江戸幕府のキリシタン弾圧に対する反乱であり、最大の一揆となった島原の乱(1637~1638)の記録である。肥前島原と肥後天草の領民が起こした一揆の経過及び幕府の対応、幕府方の戦死者及び負傷者、討ち取った敵の数などが詳しく記されている。
16巻 8冊 林子平著 写本◆ 縦26.7×横18.8㎝◆ 請求記号[582-1W-8]写字台文庫◆ 『海国兵談』は、江戸時代後期の経世家である林子平(1738~1793)が、日本の海防の重要性を説いた書物であり、天明6年(1786)に脱稿、寛政3年(1791)に刊行された。刊行の翌年には、ロシアが通商を求めて来航したため、子平の指摘は、現実のものとなった。しかし、幕府は『海国兵談』を発禁処分とし、子平の没後50年以上経過するまでの間、出版が許されることはなかった。 本書は写本であり、本願寺歴代宗主の蔵書である写字台文庫の書物であることから、発禁となっていた時代に、本願寺宗主が写本を入手した可能性もあり、興味深い。
5巻 5冊 安政2年(1855)行余堂刊◆ 縦26.4×横18.9㎝◆ 請求記号[422.004-6W-5]写字台文庫◆ アヘン禁輸を発端としてイギリスと清朝(中国)との間で起こったアヘン戦争(1839~1842)は、イギリスの勝利に終わった。清朝は、開国と自由貿易、治外法権を認めることになり、ここから中国の半植民地化が始まった。 『海外実録』は、作者不詳であるが、アヘン戦争を取り上げた書物である。アヘン戦争は、吉田松陰をはじめとする当時の思想家や学者も深い興味を示していた事件であり、『海外余話』、『海外新書』といった類書が多数刊行され、広く読まれた。
4巻 1冊 写本◆ 縦23.8×横16.8㎝◆ 請求記号[410.66-23W-1]◆ 『魯西亜誌』は、4冊に及ぶ原本を1冊に纏めて書写したものである。そのため表紙には、「全四冊」と墨書があり、本来の各冊の境が分かるように朱筆が入れられている。 内容は、日本に通商要求をしていたロシアが、それに応じようとしない日本に対して武力を以て開国を要求しようとしたシャナ(紗那)事件(1807)についての記録である。この事件によりロシアに脅威を感じた日本は、鎖国体制の維持と国防強化に努め、国内・国外に対して強硬策を採ることとなった。
1冊 写本◆ 縦23.4×横17.0㎝◆ 請求記号[410.66-24W-1]◆ 『エケレス船長崎渡来之記』は、文化5年(1808)8月に、イギリス軍鑑フェートン号が、突如鎖国体制下の長崎港に侵入した「フェートン号事件」の記録である。 フェートン号は、オランダ商船拿捕を目的に侵入、オランダ人商館員を拉致し、長崎奉行に水や薪、食料などを要求した。長崎の警護を手薄にしていたこともあり、奉行は要求に応じ、無事商館員も釈放された。しかしながら、何の対策も出来ないまま要求に応じた結果となり、責任を感じて奉行は切腹。この事件を契機として幕府は海防強化を進め、異国船打払令(1825)を発布するに至った。
1冊 刊本◆ 縦17.2×横12.0㎝◆ 請求記号[024.3-1139W-1]◆ 幕末、長州藩は尊王攘夷を掲げ朝廷に影響を及ぼしていたが、文久3年(1863)8月18日の政変で、薩摩・会津によって失脚し、京都を追われた。その後、再起を図っていた長州藩は、元治元年(1864)7月18日夜、御所に突入した。 この事件が、世に言う禁門の変(蛤御門の変)である。結果として長州藩は、薩摩・会津の連合軍に完敗して敗走するが、同時に、戦場となった御所や長州藩屋敷から出火した火災は、京都一円を焼き尽くした。その時の火災の様子を記した書物が『洛中大火夢物語』である。
第二章「戦(いくさ)を語る」
仏教の無常観を背景にして書かれた軍記や、読み物として多くの人に読まれた軍記、武功を誇るために作られた絵巻物など、様々な描き方で語られた戦(いくさ)について紹介します。
第二章 展示資料一覧
20巻 20冊 宝永6年(1709)[京都]出雲寺和泉掾刊◆ 縦25.5×横18.8㎝◆ 請求記号[911.22-12W-20]写字台文庫◆ 『万葉集』は奈良時代の歌集であり、天皇から乞食者(ほがいびと)まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌を約4,500首収めている。 防人(さきもり)は、古代の兵役であり、日本が白村江の戦いで唐・新羅に敗れて以来制度化され、諸国から徴発されて九州の守備を担ったが、食糧を自給しなければならないなど過酷な任務であった。『万葉集』には、防人が故郷にいる家族を想って詠んだ歌などが収められている。
2巻 2冊 寛永5年(1628)[京都]板木屋勝兵衛刊◆ 縦28.2×横19.8㎝◆ 請求記号[296.5-839W-2]◆ 『聖徳太子伝暦』は、平安時代の聖徳太子伝である。公家で歌人の藤原兼輔(877~933)が編者であるとされていたが、近年では疑問視され、再検討がなされている。 内容は、先行する聖徳太子伝を編集したものであり、神秘的な説話が多く、聖徳太子が物部守屋との戦に勝利することを祈願して四天王像を彫って祈願したところ、守屋を射落とすことに成功した話などが記されている。内容の信憑性には疑問視される箇所があるが、後世の太子信仰に影響を与えた。
20巻 20冊 橘成季編 明和7年(1770)大坂河内屋茂八等刊◆ 縦22.5×横15.7㎝◆ 請求記号[913.47-43W-20]◆ 『古今著聞集』は、鎌倉時代中期の説話集であり、文学者である橘成季(たちばなのなりすえ。生没年不詳)によって編纂された。700余に及ぶ説話を集め、神祇・釈教・政道忠臣・公事・文学など30編に分類している。 平安末期に奥羽で行われた二大戦役である前九年の役・後三年の役について、源義家が敗走する安倍貞任(さだとう)に「衣のたては綻(ほころ)びにけり」とうたいかけたところ、貞任が「年を経し糸のみだれのくるしさに」と答えたので、その教養に感じて矢をおさめたという話は広く知られているが、『古今著聞集』にも収められている。
2巻 2冊 江戸初期写◆ 縦25.3×横19.8㎝◆ 請求記号[913.39-3W-2]写字台文庫◆ 『保元物語』は、鎌倉時代前期に成立したとされる軍記物である。作者は未詳。平安時代末期に皇位継承をめぐる崇徳上皇と後白河天皇の対立に加え、摂関家の地位争いも加わり内乱となった保元の乱(1156)の顛末を取り上げている。乱は、源義朝、平清盛ら武士を用いた後白河天皇側の勝利に終わったが、力強い和漢混淆文で描かれた物語は、敗れた源為朝の活躍を中心におく。勇壮な軍記物語として後世の文学に影響を与えている。
12巻 12冊 応安4年(1371)沙門覚一跋 写本◆ 縦28.0×横22.5cm◆ 請求記号[021-332-12]◆ 『平家物語』は、栄華を極めた平家が、源氏との戦に敗れ、壇ノ浦で滅亡していくまでの姿を描いた軍記物語である。後世への影響も大きく、同じジャンルの軍記物語をはじめ諸作品に影響を与えている。 原作は伝存していないが、書写された多くの諸本が現存している。本資料は、盲目の琵琶法師が琵琶をかき鳴らしながら語るときの台本となる「語り本系」の一方(いちかた)流に属する覚一(かくいつ)本の最も古い写本として重視されている。
48巻 12冊 宝永4年(1707)[京都]辻三郎兵衛等刊◆ 縦13.2×横19.4㎝◆ 請求記号[913.4-2W-12]写字台文庫◆ 『源平盛衰記』は、軍記物語『平家物語』の異本であり、読本系統に分類される。応保年間から寿永年間(1161~1183)までの源氏・平氏の盛衰興亡について、百数十の項目を立てて詳しく叙述している。また本資料には、挿絵が施されている。 構成や表現の格調は、『平家物語』に及ばないとされているが、内容については、源氏関係や仏教説話などが増補されて豊富であることから、後世の謡曲や浄瑠璃への影響が大きいとされている。
2巻 2軸 寛文・延宝(1661〜1680)頃写◆ 縦32.0×横1220.0㎝(上巻)縦32.0×横1175.0㎝(下巻)◆ 請求記号[021.1-203-2]◆ 『武家はんしやう』は、文武二道をもって政を行うことが天下を治める要であることを説いたものである。2巻から成り、上巻では唐国(中国)の黄帝から漢の高祖劉邦に至る武勇について、下巻では本朝(日本)の古代神話から鎌倉幕府源氏三代までの武勇について述べ、武家繁昌の歴史を辿る。戦の武功を伝えるために作られたものである。 『武家はんしやう』は版本がなく、奈良絵巻の巻子本と、奈良絵本の冊子本の形で伝わっている。『国書総目録』には学習院と大東急文庫及び横山重氏の個人蔵のものの三点が掲載されているが、その数は少なく、写本も寛文より前のものは報告されていない。本資料は絵の状態も良好な点も含めて貴重である。
5巻・附録1巻 6冊 塙保己一著 嘉永2年(1849)刊◆ 縦26.1×横18.2㎝◆ 請求記号[410.4-3W-6]写字台文庫◆ 『蛍蠅抄』(けいようしょう)は、国学者である塙保己一(1746~1822)が文化8年(1811)に編纂して江戸幕府に献上した外寇資料集である。内容は、開化天皇19年から応永26年(1419)までの外寇について集成しており、ロシアの南下、イギリス船の長崎入港など対外緊張に対して、武士の士気を高めようとしたものである。 特に、蒙古襲来の文永の役、弘安の役については、全5巻の内、第3巻から5巻までを割き、蒙古の通商要求から、襲来、その後の警固などの対応に至るまで、『歴代皇紀』をはじめとするさまざまな書籍を参照して、詳細に記述している。
17巻(欠巻第5至6) 6冊 江戸初期写◆ 縦27.9×横21.5㎝◆ 請求記号[914.5-23W-6]写字台文庫◆ 『増鏡』は、南北朝時代の歴史物語である。著者は不詳だが、公卿で文化人であった二条良基(1320~1388)とする説が有力。後鳥羽天皇誕生から後醍醐天皇還幸(1180~1333)までを編年体で記している。 内容は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府討幕の兵を挙げて敗れた「承久の乱」と、後醍醐天皇を中心とする勢力が鎌倉幕府を倒幕する「元弘の乱」を両極にして、その間の公家社会の様子や宮廷行事、公家の生活などに及んでいる。
40巻 20冊 元和8年(1622)[京都]杉田良庵刊◆ 縦27.8×横20.0㎝◆ 請求記号[021-605-20]◆ 『太平記』は、南北朝時代の動乱を描いた軍記物語である。作者は未詳であり、数回にわたり増補改編され、1370年頃に現在の40巻になったとされている。後醍醐天皇の即位から鎌倉幕府討幕、建武の新政、新政の失敗による足利尊氏の謀反、後醍醐天皇の崩御、南北朝の対立、室町幕府の安定までを3部に分け和漢混交文で記述している。 後世の謡曲などの文芸に大きな影響を与えた他、痛烈な政治批判といった社会思想の面も含まれている。例えば、第21巻では、新政の失敗による後醍醐天皇の凋落を述べながら、台頭した尊氏方の専横ぶりを批判している。
40巻・附録10巻・始末1巻・目録1巻 50冊 駒谷散人著 写本◆ 縦27.6×横18.8㎝◆ 請求記号[913.65-59W-50]写字台文庫◆ 『北越軍談』は、江戸時代前期の国学者である駒谷散人(槙島昭武。生没年不詳)が著した、越後上杉氏に関する軍学書である。戦国武将として知られる上杉謙信・景勝の時代の事跡や上杉家臣団に関する記述などがある。 その一方で、5次の合戦に及んだ川中島の戦いについて、上杉謙信と武田信玄の一騎打ちの伝承について記述するなど、史実として確認できない内容も含まれている。
81巻・附総目録1巻 41冊 香川正矩編 堯真宣阿補遺 正徳2年(1712)京都有春軒刊◆ 縦27.0×横19.2㎝◆ 請求記号[410.54-5W-41]◆ 『関西陰徳太平記』は、戦国期・織豊期の西日本を舞台とした軍記である。毛利一族の岩国吉川家の香川正矩(かがわまさのり。1613~1660)の遺稿を次男の堯真(宣阿)が補訂して、正徳2年に刊行された。 毛利氏の中国地方制覇を軸に、大内・尼子・大友など諸氏の興亡、織豊政権による統一を描いているが、毛利元就を理想の人物として描き、史実の改竄や虚飾が多く見られる。そのため、『甲陽軍鑑』などと比べて不人気であり、史料としては信頼性がないとされている。
15巻 6冊 小瀬甫庵撰 寛文12年(1672)刊◆ 縦26.5×横19.0㎝◆ 請求記号[024.3-661W-6]◆ 『信長記』は、江戸時代初期に成立した戦国大名・織田信長(1534~1582)の伝記である。信長の右筆(ゆうひつ)であった太田牛一(1527~?)が記した軍記『信長公記』を元に、加筆・訂正・増補されている。原作の『信長公記』に比べて分かりやすく、儒教思想が濃くなっているとされる。 著者の小瀬甫庵(1564~1640)は、儒学者・医者であった人物で、独自の歴史の考え方を持ち、『信長記』では、信長の桶狭間の勝利を熱田神宮の霊験に結び付けるべく、信長の願書の偽作などが行われている。そのため、広く大衆には読まれたが、史料的価値は低いとされている。
存初編第25至27巻 1冊 刊本◆ 縦26.2×横18.5㎝◆ 請求記号[024.3-983W-1]◆ 『太閤真顕記』は、豊臣秀吉の伝記物語である。著者は講釈師の白栄堂長衛(はくえいどうちょうえ)。12編360巻から成り、秀吉の誕生から、天下人として生涯を終えるまでを描いている。 大長編の内容であるが、既出の秀吉に関する軍記や実録などを活用して書かれており、秀吉の出世物語へのあこがれから広く読まれ、小説や演劇などの素材として影響を与えた。 本資料は、『太閤真顕記』の零本であると思われる。
30巻 16冊 宮腰秀興(宮川忍斎)著 写本◆ 縦23.3×横17.2㎝◆ 請求記号[410.59-1W-16]◆ 『関原記大全』は、慶長5年(1600)に起きた関ケ原合戦の始末を記した戦記である。豊臣秀吉の伝記に始まり、秀吉の死去とその後の諸将の軋轢、関ケ原の合戦、徳川家康勝利後の諸将の賞罰、家康の繁栄までを記している。 著者の宮川忍斎(1647~1717)は、江戸時代前期の兵法家であり、『関ケ原軍記大成』45巻を著した。『関原記大全』はその草稿の一つであり、増補、再編集を経て『関ケ原軍記大成』となる過程を示している資料である。
初篇10巻・第二編10巻・第三編10巻 30冊 土屋正義編 明治14至16年(1881~1883)大阪前川善兵衛等刊◆ 縦22.4×横15.7㎝◆ 請求記号[913.65-66W-30]◆ 『絵本石山軍記』は、江戸時代中期に成立した実録体小説『石山軍鑑』を絵本読本の形式に改作した明治時代の娯楽的な読み物である。明治14年から16年(1881~1883)にかけて初編・二編・三編の全30冊が刊行された。内容は、織田信長と本願寺顕如との間で10年以上にわたり繰り広げられた石山合戦の顛末を描くものである。 刊行当時、石山合戦で織田信長と争った本願寺宗主・顕如の遠忌を当て込んで「御文章石山軍記」の演目で歌舞伎が上演されるなど、石山合戦が娯楽の材料として世間から注目されていたようである。
第三章「平和への思い」
仏教をはじめ、道教や儒教、説話などの資料から、現代の我々にも通じる先人たちの平和への思いなどについて触れていきます。
第三章 展示資料一覧
5巻 5冊 (明)何道全註 刊本◆ 縦28.1×横18.3㎝◆ 請求記号[326.1-41W-5]◆ 『太上老子道徳経』は、中国春秋時代の思想家であり、道家の開祖である老子(生没年不詳)が著したと伝えられる書物である。上篇の道経37章、下篇の徳経44章の81章から成り、人為を排して無為自然を説いている。 第31章には、そもそも軍隊は不吉な道具であると不戦を説き、止むを得ず軍隊を使用する場合も懼れを抱きながら使用するのが最上であり、美化してはならないとしている。
7巻 4冊 (周)墨翟撰 (清)王闓運注 刊本◆ 縦23.7×横15.2㎝◆ 請求記号[082-152W-64~67/86]◆ 『墨子』は、中国戦国時代の思想家である墨翟(ぼくてき。前480頃~前390頃)とその門人や門流の論説を集めた書物である。墨翟を開祖とする一派は、墨家と呼ばれ、兼愛(平等に人を愛すること)や非攻(戦争反対)などを唱えた。 『墨子』には、「非攻」の一篇があり、世の中の君子は、人を殺してその衣服を奪うことなどは非難し、それを不義と言うのに、大いに不義を働いて他国を攻めるに至っては、非難することを知らず、これを誉めて、これを義と言っていると指摘し、反戦を訴えている。
3巻 1冊 刊本◆ 縦26.9×横19.0㎝◆ 請求記号[328.9-4W-1]◆ 『孫子』は、中国春秋時代の呉の兵法家である孫武(生没年不詳)が著した兵法書である。全13編から成り、兵事について国策の決定・将軍の選任・行軍・輸送作戦・戦闘など、簡潔に要点を説いている。 古来、兵学の聖典として重んじられ、後世の兵書にも影響を与えたことにより、軍事を学ぶための書物とされるが、戦わずして敵兵を屈伏させることを最善の策としており、不戦を第一とすることが根底にある。
10巻(存第6巻至10)1冊 (宋)朱熹集註 (日本)後藤芝山点 刊本◆ 縦26.0×横18.1㎝◆ 請求記号[024.9-323W-1]◆ 『論語』は、儒学の経典であり、儒学の祖である孔子(前551~前479)の言行、孔子と弟子との問答などを記録し、孔子の没後門弟によって編纂されたとされる書物である。 全20篇から成るが、その内の「顔淵篇」には、政治家の要諦である食糧・軍備・信頼の内、どうしても捨てなければならないとしたら、どれを先に捨てるかという弟子である子貢の問いに対して、孔子は真っ先に軍備を捨てると答えている。
12巻 6冊 (漢)桓寛撰 (明)張之象註 寶永5年(1708) 京都林九兵衞刊◆ 縦26.0×横17.8㎝◆ 請求記号[324.6-6W-6]写字台文庫◆ 『塩鉄論』は前漢時代の政治家であった桓寛(生没年不詳)が、昭帝の時(前81)に行われた塩や鉄の専売に関する討論を集め、整理したものである。当時の政治、経財などの状況を伝える貴重な文献とされている。 討論は、政府高官と民間の有識者の間で行われているが、その中の一つに、北方民族の匈奴との戦争に備えるため軍事費の手段として専売が必要とする政府側に対して、有識者側は、匈奴と戦争を停止し、政治により匈奴を融和させれば、専売の必要は無くなるとして、反戦を説いている。
2巻 2冊 (曹魏)康僧鎧訳◆ 縦25.6×横15.6㎝◆ 請求記号[021-129-1]◆ 『無量寿経』は、浄土教の根本聖典の一つであり、『観無量寿経』、『阿弥陀経』とともに「浄土三部経」とされる。法蔵菩薩が四十八願の大願を成就して阿弥陀仏となり、一切衆生を救済して極楽浄土に導くことが説かれている。 下巻にある仏教の教えに背く五悪の段には、第三悪の一つとして、徒党を組んで互いに争い、 相手をおどかし攻めしてまで、 欲しいものを強奪することが挙げられている。
1冊 永正元年(1504)写◆ 縦21.9×横14.6㎝◆ 請求記号[021-99-1]写字台文庫◆ 『聖徳太子十七箇條憲法』は、仏教を厚く信仰して興隆に努めたことで知られる聖徳太子(574~622)が、中国の隋や朝鮮半島から進んだ文化や制度を取り入れて定めた日本最初の成文法である。十七条から成り、官吏や貴族の守るべき道徳的訓戒が記されている。十七条の冒頭は「和を以て貴しとなす」とあり、人々が争うこと無く、協調することが第一とされている。 本資料は、西本願寺歴代宗主の蔵書であった写字台文庫本であり、漢文体である十七条に朱点や読みなどが書き加えられている。
2基◆ 高さ21.3㎝ / 20.7㎝◆ 請求記号[024.3-272-2]◆ 百万塔は、『続日本紀』の記事によれば、藤原仲麻呂の乱で亡くなった人々の菩提を弔い、鎮護国家を祈念するために、乱を平定した称徳天皇(孝謙上皇が重祚。718~770)が、露盤の下に根本・慈心・相輪・六度等の陀羅尼を収めた三重小塔百万基の造立を発願、宝亀元年(770)に完成し、諸寺に分置したものである。 納入された陀羅尼は上記の通り4種類あり、龍谷大学所蔵のものは冒頭の5行が欠損しているものの、その内容より相輪陀羅尼であることが確認される。これらの陀羅尼は印刷されたものであるが、木版か銅版かで見解は分かれている。
7巻 20冊 齋藤長秋編 長谷川雪旦画 江戸須原屋佐助拠天保5年至7年(1834~1836)須原屋伊八等刊本後印◆ 縦82.1×横59.6㎝◆ 請求記号[491.11-27W-20]◆ 『江戸名所図会』は、江戸とその近郊の絵入り地誌である。編者は江戸時代中期の国学者・斎藤長秋(1737~1799)であるが、存命中に刊行を果たせず、孫の月岑(げっしん。1804~1878)によって刊行された。名所古跡の沿革などを知る史料として価値が高い。 図会に記載されている神田明神は、天平2年(730)の創建と伝えられる。元和2年(1616)に現在の外神田に移され、武州の総社、城下の総鎮守とされた。祭神には、朝敵として討たれた平将門が祀られている。
2巻 2冊 法然撰 刊本◆ 縦26.4×横18.7㎝◆ 請求記号[022-8-2]写字台文庫◆ 『選択本願念仏集』は、浄土宗の開祖である法然(1133~1212)が、関白・九条兼実の求めに応じて撰述した浄土宗の根本聖典である。当時は、保元の乱(1156)、平治の乱(1159)、源平合戦による平氏の滅亡を経て、鎌倉幕府が成立したものの不安定な時代であった。 『選択本願念仏集』の一文にも「当今は末法、現にこれ五濁悪世なり、ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり」と、当時の世は末法であり、浄土教の教えだけが仏の路に通じていることを説いている。
1冊 親鸞述 京都西村九郎右衛門拠元禄4年(1691)刊本重刊◆ 縦25.4×横18.2㎝◆ 請求記号[113-2W-1]◆ 『歎異抄』は、浄土真宗宗祖・親鸞(1173~1263)の法語録である。親鸞の死後、生じた教義の異議に対して、正当な教義を示すことを目的として、弟子である唯円が編輯したとされる。 第13条には、 一人の人でも殺すことができないのは、殺すべき縁がないからであり、自分の心が善いから殺さないのではないとし、また人を殺すつもりがなくても、縁がもよおせば、百人も千人も殺すこともあることを述べ、(我々が)阿弥陀様の本願の不思議なはたらきで救っていただくこと(人間の思う善悪などと救済は何の関係もないこと)を知らないでいることを説いている。
8巻 5冊 鴨長明撰 京都藤井佐兵衛刊◆ 縦25.4×横18.2㎝◆ 請求記号[296.5-764W-5]◆ 『発心集』は、鎌倉時代初期の仏教説話集である。主題の一つとして未練や執着の恐ろしさが取り上げられており、迷い乱れやすい人の心を凝視し、心の平安を求めようとする著者・鴨長明の姿が感じられる作品であるとされている。 第5巻の「乞児が物語る話」では、源平合戦で世の中が乱れて、敗れた敵方の高貴な人物を捕らえて思いやりもなく縛り上げ追い立てる様は、地獄絵にかいてある鬼人にほかならないとして嘆いている。
6巻 6冊 秋里籬島撰 春朝齋竹原信繁畫 安永9年(1780)自跋 大阪河内屋喜兵衛等刊◆ 縦26.5×1横8.8㎝◆ 請求記号[491.41-61W-6]◆ 『都名所図会』は、江戸時代後期に刊行された京都に関する地誌である。代表的な名所だけではなく、隠れた名所や伝説・名物などについても詳細な解説を施し、また記述された地域も、洛中・洛外に限らず山城国全体に及んでいる。 第4巻にある天龍寺は、室町幕府を開いた足利尊氏(1305~1358)が、建武の新政で対立した後醍醐天皇の崩御にともない、菩提を弔うために亀山天皇の系統の離宮であった亀山殿を寺に改めたものである。
4巻 2冊 蓮如述 実如編 刊本◆ 縦26.1×横17.1㎝◆ 請求記号[112.3-88W-2]◆ 『蓮如上人御一代記聞書』は、本願寺第8代宗主である蓮如(1415~1499)の言行を収録したものである。蓮如の思想などをよく伝え、浄土真宗の信仰と歴史を知る上で豊富な内容を持っている。 蓮如の側近であった蓮崇(れんそう)は、加賀守護の富樫家に内紛が起こったことを契機に、蓮如の指示と偽って一揆を誘導、そのため破門となり、長らく許されなかった。しかし蓮如は晩年、反対する周囲に「どんな者でも漏らさず救うというのが仏の本願である」と説き、蓮崇を赦免した。
展観情報
★対面展観 ※終了しています。
龍谷大学図書館2022年度特別展観
戦(いくさ)と平和
開催期間 : 2022年10月13日(木)~10月20日(木) ※土日を除く
開催時間 : 10:00~17:00 (最終入場 16:30)
開催場所 : 龍谷大学大宮キャンパス 本館1階 展観室
アクセス : 大宮キャンパスへのアクセスページをご覧ください。
ご来場について :
・入場は無料です。
・学内・学外の方いずれも事前予約は不要です。
・駐車場はありません。公共の交通機関をご利用ください。
・最新情報は図書館HPやX(旧Twitter)にてご確認ください。
★Web展観
龍谷大学図書館2022年度特別Web展観
戦(いくさ)と平和
開催期間 : 2022年12月14日(水)より こちらのHP にて公開中
関連リンク
- 龍谷大学図書館
龍谷大学図書館のホームページです。
- 龍谷大学図書館 貴重資料画像データベース「龍谷蔵」
龍谷大学図書館が所蔵する古典籍等の貴重資料を中心に全頁画像データを順次公開するサイトです。
文学、真宗、仏教、医学、理学、芸術・芸能、哲学・宗教、歴史、社会科学等に分類しています。
- 龍谷大学図書館 展観図録
龍谷大学図書館主催の展観等で配布した図録バックナンバーのうち、著作権者等の了解が得られた図録を公開します。
- 龍谷大学図書館 2022年度特別Web展観 戦(いくさ)と平和
2022年10月13日(木)~10月20日(木)に開催しました 「龍谷大学図書館 2022年度特別Web展観 戦(いくさ)と平和」 のWeb版です。
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