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沖縄から考える戦争

3ヶ月に渡って行われた沖縄戦。その真実とは。

[館長からの挨拶]

 こんにちは、初めまして館長です。本日はご来館していただきありがとうございます。この博物館では、終戦間近に行われた沖縄戦について説明したいと思います。ぜひご覧ください。


[この展示について]

 僕がこの展示をしようと思ったきっかけは昨年、沖縄県に行き「沖縄県平和祈念資料館」、「ひめゆり平和祈念資料館」へ行った際、自分がこれまで知ることのなかった沖縄戦についてこの戦争の悲惨さを資料を見て目の当たりにし、たくさんの被害や亡くなった方の遺族の話などを聞き、僕が特にショックを受けたことや心に残ったことをまとめようとこの博物館をつくりました。また、僕が実際に「戦争」を体験したわけではありませんが、遠い昔に話ではなく、「もし自分だったら、」と想像しながら見ていただけると嬉しいです。

沖縄戦の時系列

沖縄戦
第二次世界大戦
朝鮮戦争の勃発
日本国憲法の公布
日本国憲法の施行
沖縄戦

沖縄から考える戦争

  • 沖縄戦の跡 The aftermath of the Battle of Okinawa

    南城市教育委員会

    1948年。 沖縄戦の3年後もその痕が残っていた。沖縄本島全土で、この戦車のような米軍の機械が捨てられていた。これらは、沖縄人が甚大な損失を受けたという悲しい過去を物語っている。 1948 Three years after the Battle of Okinawa, visible scars remained. Throughout the island, abandoned US war machines, such as this tank, were sad reminders of the great loss the Okinawans suffered. 寄贈者:G. E.クリスターソン夫人 Contributor: Mrs. G. E. Christersson

    館長からの一言

    こちらの写真は、1948年に撮影されたもので、沖縄戦が終わったのは1945年であるため、沖縄戦の3年間もその痕が残っていた。また、沖縄本島全土でこのような米軍の機械が捨てられていた。そして、戦後数年経っていても戦争の後が、はっきりとわかり、それほど激しい戦いで大きな被害を受けたということがわかる。

  • 戦没した「ひめゆり学徒隊」の肖像

    江成 常夫,ENARI Tsuneo

    館長からの一言

    こちらはひめゆり学徒隊と呼ばれる女学生の方々で、沖縄戦で看護要員として戦場に動員された15歳から19歳の女子生徒のことです。主に、壕の中で負傷した兵隊の食事や下の世話、麻酔なしの手術の手伝い、さらには亡くなった人の埋葬までを、まだ成人ではない子供たちがしていたとしり、驚き、胸が痛んだ。そして、ひめゆり学徒隊の人たちは戦争が終わる直前の6月18日に日本軍から急に解散命令が出され、逃げ場のない戦場に放り出され、犠牲者136名のうち約9割にあたる117名が亡くなった(生存者104名)。

  • 投降勧告ビラ

    南城市教育委員会

    安谷屋正宗氏より提供。旧玉城村愛地出身の方が所持していたもの。沖縄戦で、米軍が日本兵や住民に向けて投降を促すために配布された。撮影年月日不明。

    館長からの一言

    こちらは、米軍が沖縄の住民に向けてまいた「投降勧告ビラ」で、降伏を促すものであり、犠牲を減らす目的があった。しかし、当時の日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」という精神を強調していたため、投降は恥とされていた。また、住民は「米軍に捕まれば虐殺される」と思っていた人も多くいたため、さらに犠牲者が増えてしまった。

  • 南城市の沖縄戦 資料編

    南城市教育委員会

    南城市に関係する沖縄戦の資料と、その解説を収録。 第一章 沖縄戦前の軍事/第二章 教育/第三章 疎開/第四章 南城市に配備された日本軍/第五章 根こそぎ戦場動員/第六章 戦場となった知念半島/第七章 知念半島の収容所と知念市/ 南城市内の慰霊碑(塔)/「平和の礎」戦没者名簿の空間分布復元

    館長からの一言

    こちらは、沖縄県南城市の戦況についてかかれている資料集で、南城市は激戦区の一つだった。日本軍は、首里撤退後、南部へ移動した際の最終防衛線に含まれていたため(最終局面)、戦いは激しくマラリアなどの病気、日本軍による壕からの追い出し、食糧不足、米軍の激しい攻撃により、多くの犠牲者がでた。そして、南城市は現在も多くの戦跡が残っている場所で沖縄戦を考える上で重要な地域である。

  • 沖縄戦の跡 The aftermath of the Battle of Okinawa

    南城市教育委員会

    1948年。 沖縄戦の3年後もその痕が残っていた。この鉄筋コンクリート造りの家の被害は、激しい戦闘があった悲しい過去を物語っている。 1948 Three years after the Battle of Okinawa, visible scars remained. The damage on this reinforced concrete home was a sad reminder of the fierce fighting. 寄贈者:G. E.クリスターソン夫人 Contributor: Mrs. G. E. Christersson

    館長からの一言

    こちらの写真は、戦争が終わってから、3年が経った沖縄県の写真である。コンクリートでできた建物だがすごくボロボロで、数年経っても復興がなかなか進んでおらず、どれだけたくさんの攻撃を受けたのかを身に染みて感じた。また、僕は数年経ってもなお戦争の痕跡が残るということに驚き、そして戦争の悲惨さを実際に沖縄県に訪れたことでより感じた。

展示を見終わった人へ

 この度は、展示を見ていただきありがとうございました。僕が実際に沖縄へ行ったり、調べたりした資料を通して感じた思いや気持ちが伝われば嬉しいです。また、この戦争の悲惨さを忘れないでください。


展示関連イベントについて

式典名称:「沖縄全戦没者追悼式」

実施日時:令和8年6月23日(火)「慰霊の日」

会場:平和祈念公園(沖縄県糸満市薩文仁)内の「平和の広場」

内容:正午の時報に合わせた1分間の黙祷、沖縄県知事による「平和宣言」、子どもによる「平和の詩」の朗読、内閣総理臣などの参列