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幕末期の著名人の書いた本

館長挨拶

この度はこのページを開いてくださりありがとうございます。このページでは幕末期の著名人やその本について考察しています。ぜひこの機会に幕末についての理解を深め、みんなに自慢できる様になりましょう!

〜この展示について〜
                  吉田松陰、高杉晋作、福沢諭吉、勝海舟
        の4人が書いた作品と年代、その内容について考察したものをまとめました

吉田松陰

吉田松陰 外部サイト

幕末期長州藩の志士、思想家、教育者。幼名は大次郎(だいじろう)・寅次郎(とらじろう)・寅之助、名は矩方(のりかた)、号を二十一回猛士という。生家は無給通(むきゅうどおり)、23石取。父は杉百合之助(すぎゆりのすけ)(1804―1865)、松陰は次男であった。幼くして吉田家に養子となったが、同家は大組(おおぐみ)で禄高(ろくだか)40石、山鹿流(やまがりゅう)兵学師範の家であった。  松陰30歳の短い生涯は多難に満ちている。しかし、これは大別すると3期に分けることができる。第1期は18歳までの少年時代、第2期は24歳までの遊学時代、第3期は獄中時代(松下村塾(しょうかそんじゅく))である。  少年時代、叔父玉木文之進(たまきぶんのしん)や兵学者山田宇右衛門(やまだうえもん)(1813―1867)、山田亦介(またすけ)(1808―1864)から兵学に関する教育を受けた。1838年(天保9)9歳のとき藩校明倫館(めいりんかん)で山鹿流兵学の講義をしたが、これから毎年一定期間明倫館で教授することになった。11歳のとき藩主毛利敬親(もうりたかちか)の前で「武教全書」を講義し、その巧みさに藩主を驚かせた。1844年(弘化1)15歳のときふたたび藩主に講義する機会があり、激賞を受け褒賞を下賜された。  1848年(嘉永1)19歳で明倫館師範となったが、このとき明倫館再興に関する意見書を提出している。同年、御手当御用掛となり山陰海岸の砲台を巡視し、海防についての報告書を提出する。20歳のとき藩府の許可を得て九州を遊学し、熊本で盟友宮部鼎蔵(みやべていぞう)を知る。21歳のとき兵学研究のため藩主に従って江戸へ出て、佐久間象山(さくましょうざん)らについて広く学ぶ。22歳のとき東北視察に出発するが、藩府の許可を得ない無届出奔であったため、翌1852年の帰藩時、亡命の罪を問われ士籍と禄高を没収される。しかし、藩主敬親の特別の計らいにより、10年の諸国遊学が許される。24歳のとき萩(はぎ)を出発して江戸へ向かうが、途中京都で諸国の志士と交遊を深める。  1854年(安政1)25歳のとき浦賀に再度来航したアメリカ軍艦に乗り込み、同志金子重之助(1831―1855)とともに海外渡航を企てるが失敗し、幕府に自首する。このため、江戸伝馬町(てんまちょう)の獄舎に入る。幕府は松陰を萩に送り、野山獄(のやまごく)に入る。27歳のとき、藩府は出牢(しゅつろう)を許して生家での禁錮(きんこ)を命ず。出牢した松陰は近隣の子弟を集めて塾を開くが、この塾が、玉木文之進の始めた松下村塾(当時隣家の久保氏が教授)と合体し、やがて松陰が主宰者となる。29歳のとき、松陰は同志17名と血盟し、「安政(あんせい)の大獄」を未然に防止しようと老中間部詮勝(まなべあきかつ)の要撃策を企図する。目的達成のため、この案を藩府要人に示して後援を求めるが、藩府は松陰を危険人物視してふたたび投獄する。松陰は獄中においてもこの策を推進するため門人を動かすが、門人たちも投獄されてこの策は失敗する。1859年30歳のとき、幕府は藩府に松陰の江戸送致を命ずる。江戸に着いた松陰は同年(安政6)10月27日、伝馬町の獄で刑死する。  松陰の思想は、読破した多くの書籍と恩師や友人から得たいろいろな考えを蓄積して形成された。国禁を破り海外渡航を企てた松陰の考えは「規諫(きかん)の策」であり、外国の実情を実際に見聞してそれを藩主に規諫(直接訴えいさめる)しようとしたものであった。老中間部詮勝要撃策の破綻(はたん)したとき、松陰の到達した考えは「草莽崛起(そうもうくっき)」であった。これは松陰と志を同じくする多くの者が広く立ち上がり、幕府を包囲攻撃するということであった。このような松陰の思想の特徴は、「至誠留魂」の語にみられるように、真心をもって事にあたれば、おのずから志を継ぐ者が現れ道は開けるものだという信念であった。ここに思想と実践の一体化した松陰教育の確信があった。この教育のなかから、高杉晋作(たかすぎしんさく)、久坂玄瑞(くさかげんずい)、伊藤博文(いとうひろぶみ)、山県有朋(やまがたありとも)、吉田稔麿(よしだとしまろ)など、幕末維新期に活躍する門下生が育ったのであった。著述、書簡などを収めた『吉田松陰全集』がある。墓は東京都世田谷(せたがや)区若林町松陰神社。 (出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

館長からの一言

彼は非常に若くして亡くなったが、のちの明治維新の中核となる人材を松下村塾で育てていた。獄中では囚人や牢番たちと互いに得意なことを教えあったり、日本を強くしたいという思いが強い人だった。(出典 萩市観光協会公式サイト 吉田松陰 https://www.hagishi.com/oidemase/greatman/yoshidashoin/)

吉田松陰の著作

留魂録

吉田松陰著 : ヨシダ ショウイン,田中屋治兵衛(京都)『留魂録』(山口県立山口図書館所蔵)「デジタルアーカイブシステムADEAC」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/adeac-R100000094_I000029698_00) 処刑直前の安政6年10月26日に江戸・小伝馬町の牢内で書き上げられた吉田松陰の遺著。知人や松下村塾の門下生に向けて書き残されたもので、江戸での取調べの経過や、松陰の心境などを窺い知ることができる。自筆遺著は2部作られ、1部は刑死後に萩へもたらされたが不明となり、小伝馬町の牢に同じく囚われていた沼崎吉五郎に託されたもう1部は、時を経て松陰の友人であり妹婿の楫取素彦に伝えられた。『吉田松陰全集 第6巻』(山口県教育会編 大和書房発行 1974)の解題では、「松下村塾発行として発売した石版刷は真蹟の模写」としている。「留魂録」のほかに、元治元年11月に野山獄にて獄死した宍戸左馬介らの辞世を記した「風詹遺草」を収める。(ジャパンサーチ上の説明)

館長からの一言

『留魂録』は、幕末期の長州藩の吉田松陰が、1859年に処刑前に獄中で松下村塾の弟子たちのために著した遺書である。愛弟子たちへ切々と最後の訓戒を訴え、また、死に直面した松陰が悟り得た死生観を書き記した、この遺書は松下村塾の門下生のあいだでまわし読みされ、長州志士達の行動力の源となった。処刑前の極限状態で2部も作ったと考えると凄いなと思ったため、選んだ。(出典 青空文庫 吉田松陰留魂録 https://www.aozora.gr.jp/cards/001741/files/55749_62874.html)

高杉晋作

高杉晋作

幕末期長州藩における討幕派の中心人物であり、奇兵隊の創設者。名は春風、字(あざな)は暢夫(ちょうふ)、号を東行(とうぎょう)。大組(おおぐみ)(馬廻組(うままわりぐみ))士、家禄(かろく)150石高杉丹治(たんじ)の嫡子として出生。少年期、藩校明倫館(めいりんかん)に入学するが、1857年(安政4)19歳のとき松下村塾(しょうかそんじゅく)に入り、吉田松陰(よしだしょういん)の教育を受ける。やがて久坂玄瑞(くさかげんずい)とともに「村下の双璧(そうへき)」と称され、将来を嘱望される。1858年江戸へ出て幕府昌平黌(しょうへいこう)に入学。1859年松陰刑死後は遺骸(いがい)引き取りに奔走する。1860年(万延1)帰国後明倫館に勤務するが、やがて世子元徳(もとのり)付きの小姓(こしょう)となる。1862年(文久2)幕府の使節とともに上海(シャンハイ)に渡り、西洋列強国侵略の実情をみる。このため帰国後藩府に対し、公武合体策を放棄し富国強兵策の採用を進言する。しかし藩府が不採用のため亡命し、攘夷(じょうい)運動を推進する。同年末、江戸御殿山(ごてんやま)のイギリス公使館を同志とともに焼打ちする。1863年剃髪(ていはつ)し東行と号して帰国するが、下関(しものせき)戦争が始まり馬関(ばかん)総奉行(そうぶぎょう)手元役に抜擢(ばってき)される。そこで武士隊の敗北を知り、奇兵隊を創設し総監となる。奇兵隊は士農工商を問わず入隊でき、階級差別のない新しい軍隊であった。この後、下関講和交渉の正使となるが、藩府と意見があわず亡命する。1864年(元治1)下関で諸隊を集め、翌1865年(慶応1)内訌(ないこう)戦に勝利し藩府の主導権を握る。1866年第二次長州征伐(四境(しきょう)戦争)では小倉口(こくらぐち)方面の指揮官および全軍の総指揮官となり、勝利するが、慶応(けいおう)3年4月14日肺結核のため下関で死去。29歳であった。(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

館長からの一言

高杉晋作は幕末期,尊攘・倒幕運動の中心人物の一人で、上海がヨーロッパの国々から半植民地的支配を受けているところを見た。そこで日本も植民地にされてはいけないと思い、奇兵隊を作ったりして、長州藩を倒幕へと傾けていった。(出典 マツノ書店 高杉晋作史料 www.matuno.com/bookimage/23099.htm)

高杉晋作の著書

東行先生遺文

高杉晋作 著,東行先生五十年祭記念会 編,民友社『東行先生遺文』(国立国会図書館所蔵) 「国立国会図書館デジタルコレクション」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/dignl-1874369)

館長からの一言

東行先生遺文は高杉晋作の死後50年を記念して、編纂された遺稿集。上海を訪れて倒幕を決意した出来事や、師の吉田松陰への思いを綴った手紙、辞世の句などが収録されている。高杉晋作の短い生涯の中でも、本になる様な遺稿がたくさんあることが凄いと思い選んだ。(出典 マツノ書店 高杉晋作史料 www.matuno.com/bookimage/23099.htm)

勝海舟

勝海舟

幕末期の開明的な幕臣。文政(ぶんせい)6年1月30日、石高41石余の貧乏旗本勝家に生まれる。通称麟太郎(りんたろう)、名は義邦(よしくに)、のち安芳(やすよし)と改名。海舟と号し、安房守(あわのかみ)と名のった。勝家は、父小吉(こきち)が婿養子になる形で同家の旗本株を買ったもの。小吉の生家である旗本男谷(おたに)家も、金貸しを営んでいた小吉の祖父男谷検校(けんぎょう)が、小吉の父のために買ったものであった。しかも父小吉が無役であり、市井(しせい)のなかで無頼の生活を送っていた関係で、周辺には庶民の雰囲気があった。剣は島田虎之助(とらのすけ)(直心影流(じきしんかげりゅう))に学び、その代稽古(だいげいこ)を勤めるほどになったが、島田の勧めで西洋兵学に志した。その勉強ぶりは有名で、入手しにくい蘭書(らんしょ)をその所有者の家に毎夜、半年間通って書写したという。こうして1850年(嘉永3)から自宅で蘭学塾を開くようになり、1855年(安政2)には大久保忠寛(ただひろ)(一翁(いちおう))に推挙されて蕃書(ばんしょ)翻訳所に出仕した。同年さらに海軍伝習生頭役(とうやく)として長崎の海軍伝習所に赴き、オランダ士官より航海術の訓練を受けた。3年後江戸に帰り軍艦操練所教師方頭取となり、1860年(万延1)には日米修好通商条約批准使節の新見正興(しんみまさおき)に随従して、咸臨丸(かんりんまる)で太平洋を横断することとなった。  日本人だけの太平洋横断を指揮し、アメリカで近代を見聞してきた海舟が、倒れかかった幕府で近代海軍を建設する仕事にとりかかる。帰国後各職を歴任し、1862年(文久2)軍艦奉行並(ぶぎょうなみ)として神戸に海軍操練所を設け、幕臣だけでなく、坂本龍馬(りょうま)や龍馬に誘われた志士たちなどを含めて広く人材を集めた。2年後、海舟は免職になり操練所は閉鎖されるが、この間木戸孝允(たかよし)や西郷隆盛(たかもり)らと接触があり、彼らに影響を与えている。ところが1866年(慶応2)敗北した第二次幕長戦争(長州征伐)の跡始末のために登用されるが、フランスと手を組む幕府中心の主戦的な流れから孤立していく。海舟には、幕府よりも日本の国家統一を重視する考え方があったからであろう。戊辰(ぼしん)戦争で江戸が新政府軍に囲まれたとき、主戦派の幕臣をなだめ、新政府側の西郷隆盛と会談して江戸の無血開城を実現させたことは、こうした海舟の見識の結果であって、日本を外国の干渉から救うことをも意味した。  維新後は、しばらく新政府の誘いを断って静岡(駿府(すんぷ))に退いていたが、1869年(明治2)兵部大丞(ひょうぶだいじょう)に就任してから、海軍大輔(たいふ)、参議兼海軍卿(きょう)を歴任し、のち元老院議官、枢密院顧問官となり、伯爵になっている。旧幕臣で新政府に出仕したのが珍しかったためか、福沢諭吉に「痩我慢(やせがまん)の説」で非難された。しかし余生は、旧幕府の歴史の著述に使っており、『海軍歴史』『陸軍歴史』『吹塵録(すいじんろく)』などが知られている。また海舟の談話筆記である『氷川清話(ひかわせいわ)』と『海舟座談』は、海舟の生い立ちや考え方を知るにはよい材料である。明治32年1月19日没。墓所は、別邸「洗足軒(せんぞくけん)」のあった東京都大田区洗足池畔。(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

館長からの一言

「咸臨丸」で渡米し、海軍の育成に努めるなど、非常に新しい考えを持った幕臣と言われている。 1868年に新政府軍が江戸に進軍した際には、薩摩藩邸における西郷隆盛との会見や、池上本門寺での交渉を経て、「江戸無血開城」を実現させたことも有名。勝海舟は当時としては合理的で現実主義者だった。(出典 太田区シティプロモーションサイト 【特集】己(おのれ)を貫き江戸を守った 勝海舟の本質に触れる  〜探訪・大田区立勝海舟記念館〜 https://unique-ota.city.ota.tokyo.jp/charm/culture/pickup_201912_01/)

勝海舟の著書

開国起源安政紀事 第1-7

内藤恥叟 口授,燦聚 筆記,東崖堂『開国起源安政紀事 第1-7』(国立国会図書館所蔵) 「国立国会図書館デジタルコレクション」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/dignl-1921105) 『旧幕臣勝海舟が編纂した書で,1893年(明治26)に成った。3巻。日本がどのようにして開国し,開国後どのような外交をおこなったかを記述したもので,対象とした時期は1830年代から67年まで。前半は重要な事件の項目別に,後半は編年体に構成されている。条約,幕府の達,外国公使と老中との対話書,外国奉行をはじめ諸幕臣の上申書や評議書などを全文引載し,ところどころに勝が解説を付している。《海舟全集》所収。 執筆者:小野 正雄』 (出典 株式会社平凡社 改訂新版 世界大百科事典)

館長からの一言

開国起源は勝海舟が編纂した、1830年代から67年までの日本の開国と外交を描いた歴史的史料。黒船来航以降の条約や、幕府の文書、諸外国との外交記録を原文で収録している。 この本は海舟が編纂した、代表的な本でどの様にして、日本が開国に踏み切ったのかを書いた、重要な史料なため選んだ。(出典 原書房 開国起源 www.harashobo.co.jp/book/b366886.html)

海舟先生氷川清話

内藤恥叟 口授,燦聚 筆記,東崖堂『開国起源安政紀事 第1-7』(国立国会図書館所蔵)「国立国会図書館デジタルコレクション」収録(https://jpsearch.go.jp/item/dignl-1921105) 『現代政治の混迷は、西欧の政治理論の無定見な導入と信奉にあるのではないか――。勝海舟の大陸的ともいえる先見の洞察力と、生粋の江戸っ子気質は、徳川幕府と江戸の町を護り、時代の混乱を最小限にくいとめた。その政治的な手腕は薩長閥政府の中にあって一服の清涼剤であり、今なおその魅力を失わない。海舟が晩年、問われるままに残した小話は、今も我々が改めて自身を省み、そして帰るべき途がどこにあるかを示している。』(出典 KADOKAWAオフィシャルサイト 氷川清話 付勝海舟伝)

館長からの一言

氷川清話は、幕末から明治維新の立役者・勝海舟が、晩年に自邸で語った談話録。江戸城無血開城の裏話、西郷隆盛ら幕末の志士への辛辣かつ温かい評価を通じて、海舟の哲学が表されているため、選んだ。 (出典 講談社 氷川清話 https://www.kodansha.co.jp/book/products/0000151063)

福沢諭吉

福沢諭吉

明治時代の啓蒙(けいもう)思想家、慶応義塾の創立者。天保(てんぽう)5年12月12日、大坂の中津(なかつ)藩蔵屋敷で、13石二人扶持(ぶち)の藩士福沢百助(ひゃくすけ)とお順(じゅん)との間に次男として生まれる。2歳のとき父と死別、母子一家は中津(大分県中津市)へ帰る。母の手一つで育てられたが、彼もまた母をよく助けたという。1854年(安政1)長崎に蘭学(らんがく)修業に出、翌1855年大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)塾に入門。1856年兄三之助が病死し福沢家を継ぐが、洪庵塾に戻り、1858年藩命で江戸中津藩屋敷に蘭学塾を開くことになった。これが後の慶応義塾に発展する。1859年横浜に遊び蘭学の無力を痛感、英学に転向。翌1860年(万延1)咸臨丸(かんりんまる)に艦長の従僕として乗り込み渡米、1862年(文久2)には幕府遣欧使節団の探索方として仏英蘭独露葡6か国を歴訪、1864年(元治1)に幕臣となる。1866年(慶応2)これら洋行経験をもとに『西洋事情初編』を書き刊行、欧米諸国の歴史・制度の優れた紹介書として洛陽(らくよう)の紙価を高める。1867年幕府遣米使節に随従するが、その際かってに大量の書物を買い込んだかどで、帰国後3か月の謹慎処分を受ける。  1868年(明治1)4月、これまでの家塾を改革し慶応義塾と称し、「商工農士の差別なく」洋学に志す者の学習の場とする。上野戦争のさなかに経済学の講義をしていたエピソードは有名。この年(1868)8月幕臣を辞し、中津藩の扶持も返上、明治政府からのたびたびの出仕要請も断る。1871年の廃藩置県を歓迎し、国民に何をなすべきかを説く『学問のすゝめ初編』(1872年刊行)を書き、冒頭に「天は人の上に人を造(つく)らず人の下に人を造らずと云(い)へり」という有名な人間平等宣言を記すとともに、西洋文明を学ぶことによって「一身独立、一国独立」すべきだと説いた。この書は当時の人々に歓迎され、第17編(1876)まで書き続けられ、総発行部数340万といわれるベストセラーとなった。ここに啓蒙思想家としての地位を確立した。1873年、当代一流の洋学者たちの結集した明六社(めいろくしゃ)に参加、『明六雑誌』などを舞台に文明開化の啓蒙活動を展開。また演説の重要性を指摘し、明六社や義塾で演説会を催した。1874年母死去。翌1875年『文明論之概略』を刊行、日本文明の停滞性を権力の偏重にあるとし、西洋文明を目的とし自由な交流と競合こそが日本を文明国にすると説いた。本書は日本最初の文明論の傑作であり、西洋文明を相対化する視点も示した。  そのほか、雑誌『民間雑誌』『家庭叢談(そうだん)』などを刊行して民衆啓蒙に努めるが、しだいにその情熱を失い、1881年の『時事小言』では「天然の自由民権論は正道にして、人為の国権論は権道なり、我輩(わがはい)は権道に従ふ者なり」と宣言し、1885年には「脱亜論」を発表、「亜細亜(アジア)東方の悪友を謝絶する」というに至る。朝鮮の開明派金玉均(きんぎょくきん)らの亡命を保護したりしたが、基本的にはアジア諸国を犠牲にしても日本が欧米列強に伍(ご)していく道を選ぶのである。その間、東京府会議員(1878)、東京学士会院初代会長(1879)、名望家のサロン交詢社(こうじゅんしゃ)の結成(1880)、そして1882年には新聞『時事新報』の創刊に携わる。日清(にっしん)戦争に際しては、文明と野蛮の戦争と断じ、献金運動に奔走。勝利には感涙にむせんだという。晩年には『福翁百話』『福翁自伝』『女大学評論・新女大学』などを著述。明治34年2月3日、脳溢血(のういっけつ)で死去。常光寺(東京都品川区上大崎1丁目)に葬られた。法名大観独立自尊居士。  自由主義者、民主主義者、合理主義者、女性解放論者などの高い評価と、西洋崇拝、政府への妥協、一般民衆への非情、権道主義への転向を批判する考えと、その評価はさまざまである。 (出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

館長からの一言

慶應生なら誰もが知っているが、慶應義塾(旧蘭学塾)の創設者として知られ、西洋の学問や思想を日本に広めることに尽力した人だった。(出典 慶應義塾 福澤諭吉の生涯 https://www.keio.ac.jp/ja/about/philosophy/fukuzawa.html)

福沢諭吉の著書

學問ノス丶メ

(国立教育政策研究所教育図書館所蔵)「教育図書館近代教科書デジタルアーカイブ」収録(https://jpsearch.go.jp/item/nier_mode-R100000109_I000003145_00)『福沢諭吉が著した明治初期のもっとも有名な啓蒙(けいもう)書。初編は1872年(明治5)刊行されたが、非常な評判をとったのでシリーズ化し、76年刊の第17編まで続いた。発行部数あわせて340万といわれ、当時のベストセラー。初編冒頭の人間平等宣言、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」はあまりに有名だが、福沢はこの書によって封建卑屈の精神を批判し、「一身独立して一国独立する」ことを教え、そのために「人間普通日用に近き実学」を西洋から学ぶべきだと説いた。日本における近代的、合理主義的な人間観、社会観、学問観の出発を示す書であるが、学問による差別を生んだという批判もある。』(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

館長からの一言

生まれたときは平等だが、その後どれだけ学問をするかで差が生まれるということが主なこの本の内容である。福沢諭吉の代表的かつ、学問のすすめ単体で会話ができる知名度のため、選んだ。

西洋事情 巻之一

福澤諭吉纂輯,慶應義塾出版局『西洋事情 巻之一』(国立教育政策研究所教育図書館所蔵)「教育図書館貴重資料デジタルコレクション」収録(https://jpsearch.go.jp/item/nier_rare-R100000106_I000000041_00)『西洋文明を紹介した福沢諭吉(ゆきち)の名著。3編からなり、初編は1866年(慶応2)、外編は68年(明治1)、2編は70年の刊行。西洋諸国の歴史、制度、国情、西洋文明社会に共通する文物や社会、人間のあり方を紹介して、鎖国から解かれたばかりの当時の人々にとって好個の西洋世界入門書となり、ベストセラーとなった。ほとんどが洋書を種本としているが、新聞、病院、貧院、図書館の紹介、アメリカ独立宣言の紹介、自由自主や人間の権利を中心とした文明社会の解説は、福沢の鋭い洞察力を示すものである。』(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

館長からの一言

西洋の政治・社会・文化・技術を紹介した全10冊の文明入門書。開国したばかりの日本人に、西洋の先進的な文物・知識を体系的に伝えたため、選んだ。

文明論之概略

福沢諭吉 著,岩波書店『文明論之概略』(国立国会図書館所蔵)「国立国会図書館デジタルコレクション」収録(https://jpsearch.go.jp/item/dignl-1278790)『福沢の著書中、最も学問的体裁の整った著書で、西洋文明の大要を記して、この文明に向って進むことが日本の独立を全うする所以を説いたものである。 明治八年の初刊本は、二二・八× 一五・八cmの半紙判青表紙六冊で、表紙の左肩に、子持罫で囲った中に「福沢諭吉著 文明論之概略 巻之一」(巻之二以下も同様の体裁)と記した題箋を貼り、見返しは黄和紙を用い、太い双柱罫で囲った中に「福沢諭吉著/文明論之概略全六冊/ 明治八年四月十九日許可著者蔵版」の文字を三行に記し、左下隅に「福沢氏蔵版印」の朱印が押してある。本文は肉太の大きな彫り方で、原文は漢字片仮名交りである。 明治七、八年の頃に至りては世態漸く定まりて人の思案も漸く熟する時なれば、此時 に当り西洋文明の概略を記して世人に示し、就中儒教流の故老に訴えて其賛成を得る こともあらんには最妙なりと思い、之を敵にせずして今は却て之を利用し之を味方に せんとの腹案を以て著したるは文明論之概略六巻なり。 読者は何れ五十歳以上、視力も漸く衰へ且つ其少年時代より粗大なる版本に慣れたる 眼なればとて、文明論の版本は特に文字を大にして古本の太平記同様の体裁に印刷せ しめたり。(「福沢全集緒言」) 以て福沢の周到なる用意を知るべきである。この書には奥附も刊記もないので、表紙の見返しで明治八年四月十九日に出版の許可を得たことは知れるが、実際に製本が出来て発売されたのは何日のことであるか明かでない。「福沢全集緒言」には非常な発売部数で、「何万部の大数に達したり」と記してあるが、木版本はすべて初刊のまま少しも体裁を変えずに版木を新にしたもののようである。版によっては第六巻の最後の頁に「明治九年二月二日版権免許、東京第二大区九小区三田弐町目拾三番地福沢諭吉」の文字を朱印で押したものと、木版で印刷したものと、全く何も記してないものとがある。 明治十年版の活字本は四六判、本文四百十四頁、誤植訂正表二頁、黒クロース背皮装で、背に「文明論之概略」「福沢諭吉著」の金文字が入っている。扉 はオーナメント枠の中を三行に割って「福沢諭吉著/文明論之概略全/ 明治八年四月十九日許可」と記し、「福沢氏蔵版之印」の朱印を右下に、「定価金弐円」の朱印を左下に押捺してある。奥付には「明治九年二月二日版権免許、同十年九月廿八日製本換御届、著者兼出版人、東京第弐大区九小区三田弐町目拾三番地福沢諭吉、売捌所、東京芝三島町和泉屋市兵衛、同日本橋通三丁目丸屋善七」とある。木版本は肉太の大きな文字に彫ってあったが、この活字本は当時の新聞などに普通に使われた五号活字で印刷してある。この活字本も更に何回版を重ねたかは明らかでない。』(出典 慶應義塾大学メディアセンターデジタルコレクション 文明論之概略. 巻之一)

館長からの一言

福澤諭吉が明治期に書いた啓蒙思想書。 西洋文明の本質を分析し、日本の近代化への道筋を示している。 個人の自立、実学の重視、平等思想など、福沢の革新的な考えが詳しく述べられているため、選んだ。

                   〜展示を見てくださった方へ〜

展示を最後まで見てくださりありがとうございました。幕末期の著名人は今回紹介した人以外にもたくさんいます。この展示を見てくださった皆様が、少しでも幕末期の著名人の書いた本について興味を持っていただけたら嬉しいです。

                           <補足>

館長からの一言についている出典は参考にしたウェブサイトで、引用ではありません。出典がついていないものは左側を参考にしました。また、左側は全て引用です。

〜展示関連イベントについて〜

① 学びの里なかつ推進プロジェクト

企画展「福澤思想をつなぐ―福澤旧居と文化財保存―」

会 期 : 令和8年1月31日(土)~3月15日(日)

場 所 : 福澤記念館 2階展示室

入館料 : 通常の入館料でご覧いただけます。


②  企画展 「海舟に続け!若者たちの異国見聞」

<会期> 令和7年11月14日(金曜日)~令和8年3月8日(日曜日)

<概要> 本展では、海舟の教えや薫陶を受け海外に旅立った明治期の若者たちに注目します。各々の志や外国での体験や苦悩、渡航を後押ししてくれた海舟に対する深い敬意が滲んだ手紙十数点(初公開)から、明治期における海舟の海外渡航の先駆者としての存在感や、メンターとしての役割を紐解きます。今回取り上げる人物の多くは、日本が近代国家への歩みを進めた新時代・明治にあって、これから何かを成し遂げ何者かになろうと模索する成長途上にありました。彼らと相対した海舟の言葉や関わり方は、人情味溢れると共に示唆深いものであり、現代を生きる私たちをも勇気づけてくれます。是非本展で、知られざる海舟と後進たちとの関係に触れてください。

 <ギャラリートーク>本展の担当学芸員が、展示や個々の資料の見どころについて解説します。

【日時】第1回:11月19日(水曜日) 第2回:12月6日(土曜日) 第3回:2月8日(日曜日) 第4回:3月5日(木曜日)各回午後2時から(45分~1時間程度。定刻近くに、1階受付前にお集まりください)

 【費用】 不要(入館料のみ)