本文に飛ぶ

真田幸村

真田幸村の生涯について

真田幸村の生涯について
館長からの挨拶 真田幸村ってこんな人なんだなこんな生涯を送ったんだなって思いながら見てくれたら幸いです

真田幸村について

「真田幸村(真田信繁)」(さなだゆきむら/さなだのぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した武将です。その勇敢な活躍と華々しい最期が、のちの史料において「日本一の兵」(ひのもといちのつわもの)と評されたことから、英雄として庶民の間に浸透し、高い人気を誇っています。真田幸村は信濃(しなの):現在の長野県)の豪族で、武田家家臣の「真田昌幸」(さなだまさゆき)の次男として誕生しました。

上田城です
僕は上田城に何回もいくほど真田幸村が好きでさらに先月真田幸村の展示会みたいなものが東京でやっていたのでいってみたら真田幸村の遺品がたくさんあってとても楽しかったです まあそんな僕が今から館内で真田幸村について語るので是非見てもらえると光栄です

真田幸村は本名ではなかった?

真田幸村という名前は有名ですが、実名は「真田信繁」(さなだのぶしげ)です。生前本人が「幸村」と名乗っている確かな史料もありません。この幸村の名前が最初に登場するのは、真田幸村(真田信繁)の死後に書かれた軍記物なのです。

真田幸村の過去

さらに武田氏に支えていた真田家は武田信玄が死んでしまって弱体化してしまって上杉家に次男の真田幸村を人質に送ることをきめ、幸村の人質生活が始まりました

真田家の危機

1585年(天正13年)8月に「第1次上田合戦」が勃発。圧倒的兵力差がありながら、真田軍は見事勝利します。このとき真田幸村(真田信繁)は、加勢のため人質先の上杉氏から真田氏へ一時的に戻りますが、実戦には加わりませんでした。真田軍が一度城の中へと徳川軍を誘い込み、伏兵で攻撃するなど、父・真田昌幸らが活躍する姿を見たのだと考えられます。

一方で、真田昌幸は台頭した「豊臣秀吉」に接近し、信濃の大名として扱われるようになっていきました。真田幸村(真田信繁)は、上杉氏から出て大坂(現在の大阪府)へ出仕、つまり大坂の豊臣秀吉に仕えることになったのです。時期は不明ですが、早くて1585年(天正13年)のことでした。

なお、上杉氏人質時代の書状には幼名として出てきた幸村でしたが、豊臣秀吉に仕えてから「信繋」になっているため、丁度この頃元服したと見られます。

真田家を二分するきっかけになったもの

第1次上田合戦のあとも真田氏と徳川氏の緊迫状態は続き、徳川家康は再び上田城を攻めようとしていました。

そこに調停役となったのが秀吉です豊臣秀吉はさらに、真田昌幸に対して徳川家康の配下になるよう促し、長男「真田信之」(さなだのぶゆき:真田信幸とも。弟という説もあり)の妻として徳川家康の重臣である「本多忠勝」(ほんだただかつ)の娘を迎え入れます。

一方、真田幸村(真田信繁)は豊臣秀吉の家臣である「大谷吉継」(おおたによしつぐ)の娘を正室に迎えました。このことが、のちに兄弟の運命を分けることとなるのです。1589年(天正17年)のことでした。

沼田領については、これにて一件落着のように思われましたが、あろうことか北条氏は豊臣秀吉の裁定で真田氏の領地とした「名胡桃城」(なぐるみじょう:現在の群馬県利根郡)を強奪。約束を反故にされた豊臣秀吉は、北条氏征伐に踏み切ります。この北条氏に対する「小田原攻め」に参加した真田軍は3,000人。豊臣方は総勢20万人にもおよぶ大規模な軍になりました。

なお、小田原攻めの戦いのひとつ、1590年(天正18年)の「松井田城」(現在の群馬県安中市)攻略で、真田幸村(真田信繁)は初陣を飾ったと言います。当時としては遅めの24歳でした。

小田原攻めにより小田原北条氏は滅亡。浮いた土地・沼田領は真田氏に返還され、真田幸村(真田信繁)を含む真田家は、上杉氏や徳川氏などの大名を介することなく、豊臣秀吉の直臣という関係になりました。


真田家を大きく揺るがす戦い

1600年(慶長5年)、豊臣秀吉の死後、五大老筆頭として台頭した徳川家康(東軍)と、対立する他の五大老(西軍)との間で戦いが起こります。これが「関ヶ原の戦い」です。

このとき真田家は、徳川家康に従い「会津征伐」へ向かうところでした。そこへ、西軍を率いる「石田三成」(いしだみつなり)より、豊臣秀吉の子「豊臣秀頼」(とよとみひでより)を立てるため、西軍に付いて欲しいという書状が届きます。

その後も続々と西側の武将から真田家へ書状が到着。なかには、真田幸村(真田信繁)の妻の父・大谷吉継の書状もありました。

これにより真田家では協議が開かれ、石田三成の妻と自身の妻が姉妹である真田昌幸、義父が西軍にいる真田幸村(真田信繁)は共に離反して西軍に付くことを決め、上田に帰還します。兄の真田信之は、妻が徳川家康の家臣の娘であることから、東軍に付くことになりました。

これには、どちらが勝っても真田の名が残るように分かれて戦ったという説もあり、のちに「大坂冬の陣・夏の陣」を勝ち抜いた真田信之は93歳まで生き、その系統は明治維新後まで続いて伯爵家となったのです。

上田に戻った真田昌幸と真田幸村(真田信繁)は、上田城で「徳川秀忠」(とくがわひでただ)軍を迎え撃ちます。これには、離反した真田親子を討ち取って第1次上田合戦の屈辱を晴らしてから関ケ原に向かおうという徳川秀忠の思惑がありました。この戦いが「第2次上田合戦」です。

真田親子の目的は、徳川主力の徳川秀忠軍を上田に足止めして、関ヶ原の戦いに参加させないことでした。真田軍は3,000人程度の少ない軍勢で、38,000人もの大軍である徳川秀忠軍を巧みに翻弄。1週間、徳川秀忠の軍を留めることに成功します。甚大な被害を出した徳川秀忠軍は関ヶ原の戦いに間に合わず、真田昌幸と真田幸村(真田信繁)の目的は達せられたのです。

なお、関ヶ原の戦いに徳川秀忠率いる徳川方の主力部隊が間に合わなかったことは、徳川氏を苦しめました。せっかく合戦によって得た土地の多くを、東軍に付いた豊臣方の諸将に与えなくてはならなくなったからです。

こうして第2次上田合戦で徳川秀忠軍の攻撃を凌いだ真田親子でしたが、本戦の関ヶ原の戦いでは西軍が敗北。真田昌幸と真田幸村(真田信繁)は、一時は死罪を命ぜられます。

しかし、真田信之と岳父・本多忠勝の助命嘆願の甲斐もあって、高野山(九度山:和歌山県伊都郡)に流罪となりました。1611年(慶長16年)、真田昌幸は失意のうちに息を引き取ります。

大坂冬の陣!

1614年(慶長19年)、徳川氏との関係悪化から、戦いの準備を始めた豊臣家は浪人を募り、真田幸村(真田信繁)は流刑先の九度山を脱出。

真田旧臣や嫡男の「真田幸昌」(さなだゆきまさ)を連れて大坂城へ駆け付けました。

さらに、真田幸村(真田信繁)入城の声を聞き付け、総勢5,000人ほどが真田幸村(真田信繁)軍として集結したと言います。

そして、その年の「大坂冬の陣」では、真田幸村(真田信繁)は五人衆に選ばれ軍事会議に参加。大坂城籠城に反対しますが、徳川方に寝返るのではと警戒されていた真田幸村(真田信繁)の提案する策は、ことごとく却下されてしまいました。

唯一許されたのが、大坂城の弱点である南側に土作りの出城を作ること。これが名高い「真田丸」です。真田丸周囲には三重の柵を設け、さらにその周りに深い空堀、正面には水堀と、何重もの防御を持って堅固な出城を作りました。

また後方は、大坂城への侵入を防ぐだけでなく、後方から狙われても対処できるように小曲輪(しょうくるわ)を設置。第1次・第2次上田合戦など、幾度も戦を経験してきた真田幸村(真田信繁)の集大成でした。

この真田丸は大坂冬の陣で大活躍し、真田幸村(真田信繁)は徳川方の前田氏などを引き付けては反撃し、大きなダメージを与えます。浪人の集まりで統率が取れない豊臣方が次々と敗北していく中、真田幸村(真田信繁)の真田丸での戦いは見事でした。

これにより真田幸村(真田信繁)の武名を天下に知らしめますが、徳川氏主導で和議が成立。徳川方により、大坂城は本丸以外を破却、堀がすべて埋め立てられ、真田丸も破壊されてしまいます。防御の城としてほとんど機能しない状態になってしまったのです。

大阪夏の陣!

大坂冬の陣での真田幸村(真田信繁)の活躍を見た徳川家康より、真田信之を通じて、「信濃一国」を条件に寝返るよう誘いを受けていた真田幸村(真田信繁)でしたが、これを拒否。

この頃真田幸村(真田信繁)は、すでに豊臣方の負けを覚悟し、それでも豊臣方に付くことを詫びる手紙を親族等に書き送っています。

なお大坂夏の陣では、先の戦で大坂城がほとんどの防御機能を失っていたため、豊臣方は野戦に持ち込む他ありませんでした。東軍15万人ほどに対し、西軍80,000人ほど。圧倒的な数の差がありました。それでも真田軍の士気は高く、真田幸村(真田信繁)軍と「毛利勝永」(もうりかつなが)軍は、徳川方の「伊達政宗」(だてまさむね)軍に誉田陵(こんだりょう)まで迫られるも反撃。じわじわと後退させます。しかし真田幸村(真田信繁)らの奮闘むなしく、西軍は敗北を重ねて次々と東軍の手に落ち、遂には大坂城の本丸のみが残される形となりました。

死を覚悟した真田幸村(真田信繁)軍と協力する毛利勝永軍らは、真田幸村(真田信繁)の考えにより5人1組の3隊に分離。正面と左右に分かれて攻撃、さらに集結して攻撃を繰り返す戦法で、敵本陣の守りを手薄にするのが狙いでした。

こうして遂に、真田幸村(真田信繁)率いる真田隊は徳川家康の本陣まで攻め込み、あと一歩のところまで徳川家康を追い込みます。徳川家康が2度も自害を覚悟したと言われるほど、真田隊の勢いは凄まじかったのです。

しかし、徳川家康の首を取ることは叶わず、すでに多くの兵を失った真田幸村(真田信繁)は、徳川方の援軍の前に力尽きます。大坂夏の陣も東軍の勝利に終わり、豊臣家は滅亡。徳川家の時代が始まるのでした。

真田幸村の戦い方と支えた人たち

大坂冬の陣・夏の陣で後世にまで名を残した真田幸村(真田信繁)。父・真田昌幸もまた、智謀に長けた名将でした。

しかし、2人の戦い方は異なります。真田昌幸は、第1次・第2次上田合戦で指揮していますが、どちらかと言うと情勢を見極める力に優れた知の武将でした。

戦国大名が興亡を繰り返す中、どちらが優勢かしっかり見極め、上手く従属して真田家を存続させたのです。

一方、真田幸村(真田信繁)は戦場での戦略に優れた武将でした。しかも、自身の知識や経験を実戦に活かすことに長けており、大坂冬の陣の真田丸は、第1次・第2次上田合戦での敵を誘い込む方法を応用し、別動隊で真田丸まで敵を追い込んだ上で、本隊で攻撃しています。

また、大坂夏の陣で徳川家康を追い込んだ戦法は、名将「楠木正成」(くすのきまさしげ)の戦い方を取り入れていました。戦法はもちろんのこと、戦況の見極めも上手かったのです。

なお、こうした真田家の戦いを陰で支えてきた者達の存在もあったと伝えられ、彼らは「真田衆」と呼ばれていました。いわば忍者であり、これがのちの「真田十勇士」(一部は存在の人物)という創作に繋がったと思われます。

戦国武将さえも称賛する真田幸村

真田幸村(真田信繁)の生涯を追うと、彼の半生は20代までは父や兄の陰に隠れ、30代は軟禁生活を余儀なくされ、彼が本当に活躍したと言えるのは、実は40代での大坂冬の陣・夏の陣だけです。

それでも彼の勇姿は、時の戦国武将達を深く感動させました。徳川方に付いた武将も、こぞって真田幸村(真田信繁)を評価しており、大坂冬の陣・夏の陣に出陣した「細川忠興」(ほそかわただおき)は、「古今にこれなき大手柄」、手紙で真田幸村の勇戦を知った「島津家久」(しまづいえひさ)は「真田日本一の兵」と言葉を残しています。

また、現代においても真田幸村(真田信繁)の人気は抜群。歴戦を勝ち抜いて活躍した数多の武将がいる中で、真田幸村(真田信繁)がこれほど人気を誇るのはなぜなのでしょう。

真田幸村(真田信繁)が多くの日本人に愛されるのは、彼の人生が心の琴線に触れるからです。勝者の徳川方に寝返ることもできたはずですが、義を貫いて敗者の豊臣方に付き、人生の最期を華々しく飾って散りました。散り際の桜のような美しさ、潔さが、武士魂の象徴として今なお多くの人の心を捕らえて離さないのです。

真田幸村の生涯

真田幸村誕生
真田幸村死
真田幸隆が武田家の重鎮となる
武田信玄死
真田幸隆が死に真田昌幸があとを継ぐ
上田城築城
真田幸村上杉家の人質に
第一次上田合戦
豊臣家に仕える
真田幸村初陣をかざる
関ヶ原の戦い
真田昌幸死
大坂冬の陣
大阪夏の陣
真田幸村誕生

僕のオタク話は以上ですこの下は現存している真田幸村に関する資料たちです

真田幸村関連の資料たち

  • 「真田幸村」

    延一

    館長からの一言

    これは真田幸村が実は生きていると言うものの絵で前を走る馬に乗っているのは天皇で真田幸村は天皇とともに九州に逃げたと言う伝説の絵です

  • 真田幸村画像

    幸村(信繁)は上田城を築いた真田昌幸の次男(信之〔のぶゆき〕の弟)として生まれ、2度にわたる徳川軍による上田城攻撃を父とともに退けている。 そして、大坂の役にあたっては、豊臣秀頼の大坂城に招かれ、徳川勢を相手に華々しい活躍ののちに討死〔うちじ〕にし、名を後世に残した。

    館長からの一言

    真田幸村といえばよくテレビで出てくるこの画像を思い浮かべた人も多いことでしょうこれは現存している真田幸村の絵です

  • 真田幸村屏風

    真田幸村屏風上田市博物館蔵の「真田幸村勇戦之図」。歌川芳虎画。大阪夏の陣における、真田幸村の有名な奮戦ぶりを描いてある。作者は天保年間より明治にかけて活躍した浮世絵師。

    館長からの一言

    これは真田幸村が死んだ後に書かれた屏風で真田幸村の有名な運戦ぶりを描いているものでこれをきっかけに真田幸村という名が広まりました

  • 「真田幸村 中村芝翫」

    国周,中村座,海老林 海老屋 林之助 ,真田幸村〈4〉中村 芝翫

    館長からの一言

    これは真田幸村の役者の役者絵です

  • 「真田幸村 中村芝翫」

    ,,,国周,−,真田幸村 [4]中村芝翫

    館長からの一言

    真田幸村の役者をする人は多かったのですね

  • 立川文庫 第5編「智謀 真田幸村」

    雪花散人/立川文明堂

    明治から大正にかけて刊行され、人気の高かった文庫シリーズ「立川文庫」の中の1冊。上田合戦から大坂夏の陣にかけての真田幸村の活躍を描く。

    館長からの一言

    これは真田幸村の上田合戦から大坂夏の陣にかけての活躍を描いたものの第五編ですこれも真田幸村を有名にする後押しをしたと言ってもいいでしょう

この博物館はどうでしたでしょうか最初の僕のオタク話から始まり長々と喋ったあと年表にしてそのあと資料という流れでしたが少しでも面白いとおもってくれていたら光栄ですここまで見てくれてありがとうございました

展示関連イベントについて

九度山真田祭りが毎年春秋に開催されている