本能寺の変について
こんにちは。この展示の館長です。展示では本能寺の変を様々な観点から調べる事をテーマにしています。ぜひ見ていってください。
この展示では本能寺の変を織田信長の部下や民衆など様々な観点から調べてみました。
- 「織田信長公」「森蘭丸」
豊宣
館長からの一言
この浮世絵の真ん中に写っている2人の男達が織田信長と森蘭丸である。この浮世絵から2人の距離は近い関係である事が分かり、本能寺の変で共に自害したのも説明がつくと思ったため。
- 織田信長像(模本)
模者不詳、原本:近衛前久賛,Original inscription by Konoe Sakihisa (1536–1612),東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p>本図は、天正10年(1582)に没した織田信長の七回忌に制作された肖像画の写しです。鼻骨の高い顔立ちは、一周忌に際して狩野永徳が描いたという信長像(京都・大徳寺)に共通します。公家の近衛前久は「南無阿弥陀仏」の六文字を句の頭にした追善の和歌6首を詠み、原本に添えました。<br />*このえさきひさ* *なむあみだぶつ* *ついぜん*<br /></p>
館長からの一言
朝廷の高官が着用する衣冠束帯を身にまとっており、織田信長が権力者としての立場を強調しているという事が分かる。また、「公家の近衛前久は「南無阿弥陀仏」の六文字を句の頭にした追善の和歌6首を詠み、原本に添えました。」と、説明文に書いてあるため、この絵から近衛前久は織田信長の事を慕っていたというふうに僕は解釈した。
- 本能寺合戦之図
歌川芳盛/画 : うたがわよしもり,具足屋嘉兵衛
上野戦争を明智光秀が織田信長を襲った本能寺の変の名を借りて描かれた浮世絵。この頃は上野戦争に関する絵や本の出版が憚られていたため、検閲に引っかからないように過去の合戦名が使われている。右に描かれている門は寛永寺の黒門で、既に新政府軍の薩摩藩に突破されているのが読み取れる。上野戦争の戦況はこの黒門突破を契機に新政府軍が優勢となっていく。同日の午後5時に彰義隊は敗走し、新政府軍の勝利で終わることとなった。浮世絵には新政府軍が正面中央の清水堂に攻め込んでいる様子も描かれているが、この戦いでは清水堂は奇跡的に焼失を免れている。しかし、寛永寺の伽藍(がらん)は清水堂、山王社、時の鐘、忍岡稲荷、大仏殿、慈眼堂、東照宮、五重塔を残し焼失した。
館長からの一言
この作品が作られたのは明治2年です。江戸時代は規制が厳しく、織田信長以後の歴史を描くことは原則禁止とされていました。しかし、明治2年になりこの絵が世に広がったのは、庶民の間では歴史への関心が強く、みんな織田信長に興味があったという事が分かるため僕はこの絵を選びました。
- 明智光秀織田信長ヲ弑スル事
館長からの一言
この公文書からは実際に本能寺の変について詳しく書いてあり、ここから正確な情報を得られると思い、選びました。
最後まで見ていただきありがとうございました。この展示のテーマである様々な観点での「本能寺の変」を知ってもらえましたか?これだけではなく、教科書に1、2ページしか載っていないような出来事も様々な観点から調べてみるとより楽しめるかもしれません。
本能寺の変関連イベントの紹介
本能寺信長公忌
- 日時: 2026年6月2日(火)
- 場所: 本能寺(京都市中京区)



