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印象派(堀江志野さん作成)
好きなクロード・モネ(Claude Monet, 1840年11月14日 - 1926年12月5日)の絵画を中心に集めた。
好きなクロード・モネ(Claude Monet, 1840年11月14日 - 1926年12月5日)の絵画を中心に集めた。
1840年にパリで生まれた画家クロード・モネ。光を上手く表現した風景画を描く画家として有名。ゴッホやゴーギャンなど、数々の画家に影響を与えた印象派の巨匠としても知られている。日本好きでもあり、多数の浮世絵作品を所有していたといわれる。
幼い頃から肖像画などを描き、売るほどの腕前があった。ピサロやバジール、ルノワールといった画家仲間と出会い、印象派を世に広めた。
1883年以来、パリから数十キロ程セーヌ河を下った小村ジヴェルニーで制作していたモネは、1893年、新たに屋敷の前の土地を購入し、やがてそこに日本風の庭園を造成する。敷地内を流れる小川を利用して、睡蓮を浮かべた大きな池が掘られ、太鼓橋が架けられ、岸辺には柳や灌木が植えられた。外界とは隔絶されたこの水の世界に隠遁しながら、モネは、「睡蓮」の連作に没頭していく。庭の隅にガラス張りの大きなアトリエを建て、自由に移動できるように車をつけたイーゼルを立てて、朝から夕方まで、時とともに移り変わる池の様子、水面の反映と鮮やかな花の美しさを捉えようと試みたのである。連作中には、岸の柳や太鼓橋、夕暮の空などを配したものもあるが、彼は、最後には池のみにその関心を集中した。この作品も画面は完全に上から下まで水面だけで覆われ、そのため見る者は、あたかも池の中に立っているかのような強い感動を受ける。花や水を表わす筆触や色彩は、初期の印象主義的な手法とはかなり異なり、時には表現主義的ともいえる厳しさで、池の水面の神秘なまでの美しさを捉えている。本作品もまた、このようなモネ晩年の「睡蓮」に属すが、その中でも最も優れたものの一つといえよう。
(出典: 国立西洋美術館名作選. 東京, 国立西洋美術館, 2006. cat. no. 78)
1890年代のモネは、〈積み藁〉、〈ポプラ並木〉、ルーアンの〈大聖堂〉、そして〈セーヌ河の朝〉といった連作に意欲的に取り組む。そして晩年のモネがジヴェルニーの自宅の日本庭園の池を舞台に、睡蓮そのものを描くようになったのは1897年のことである。この最初の睡蓮の連作は8点描かれ、1902年には〈睡蓮〉連作に本格的に取りかかるようになった。以後、花の庭園を見下ろす寝室で肺硬化症で亡くなる1926年までの間に、彼はジヴェルニーの庭と池を描いた作品を300点以上も残す。しかもそのほとんどが、モネが70歳を過ぎてから86歳にかけて制作されている。本作はモネが68歳の1908年に描かれた15点の連作の1点で、他の連作47点とともに翌年5月、パリのデュラン=リュエル画廊における「睡蓮ー水の風景連作」と題する個展に出品された。1906年頃から時折試みていたことであるが、ここでモネは明暗の差を極力抑え、ロココ的ともいえる繊細で優美な色彩と装飾性を見せている。膨大な睡蓮の作品全体の中で、最も軽快な作風である。モネは、睡蓮に魅せられた理由のひとつをこう説明している。「そのイメージは無限の感覚を呼び覚ます。宇宙を構成する諸要素と、われわれの眼前で刻一刻と変わってゆく宇宙の不安定さとが、まるで小宇宙のようにそこに存在している」よく指摘されるように、水面の一部を切り取り、クローズアップして描く方法は、「一部を描いて全体を表わす」という日本の浮世絵版画に見られるような暗示的な手法といえる。モネが、浮世絵版画から「視点」と「表現」を学んだことは間違いなく、それは今日モネ美術館となっている彼の住居の壁に掛かる200余点に及ぶモネ蒐集の浮世絵版画からも想像できよう。このようなモネの東洋的な感覚を取り入れた画風の新展開に対し、さまざまな批評が行われたが、モネは一言このように反論したのであった。「誰もが私の芸術を論じ、あたかも理解しなければならないかのように、理解した風を装っているが、本当は、ただ愛しさえすればよいのだ」なお本作とほとんど同じ構図、同じ色調による同年の作品が、ウェールズ国立美術館にある。(東京富士美術館)
印象派の巨匠モネの一枚。同じくモネの「睡蓮」とともに、国立西洋美術館のアイコンともいうべき作品である。描かれているのは、のちに義理の娘となるシュザンヌとブランシュが小舟に乗り、水面を漂っている姿である。
優雅なひと時を描いていた作品である。だが、画家の関心は二人の女性ではなく、水面に映る一瞬、一瞬の光景にあるのではないか。この作品を鑑賞していると、水上の光景よりも、水面の光景のほうにまず目を向けてしまう。きらめく水面は手前の影の部分と奥の明るい部分の対比が美しく、そこに映る人の姿は様々な色彩を表している。(国立西洋美術館)
1880年代の初めにモネは、ある転機を迎えていた。1879年、妻を失い、翌80年にはサロン出品をめぐってドガと対立、印象派展への出品をとりやめた。本作が描かれた81年も参加を断っている。そうした時期にモネを引き寄せたのは、幼い頃から親しんだノルマンディーの海であった。本作はこの年の春、滞在したフェカンで描かれたもの。心の暗雲を吹き払うかのような陽光満ちわたる空と、岸に乗り上げた帆船の黒いシルエット。ノルマンディーの明るい空と海はモネの画興を誘い、翌年のプールヴィルの連作へと続いてゆく。(東京富士美術館)
本作が描かれたのは、記念すべき第1回印象派展が開かれた1874年の夏。場所はノルマンディ海岸沿いのフェカンで、父方の親戚であり、モデルも務めたリュシアン・ブルジエ夫人の別荘である。モデルは男性服を彷彿とさせる「テーラード・カラー」(背広型の襟)があしらわれた外出用と思われるツーピース状のドレスに麦わら帽子という比較的くつろいだ服装をしている。テラスから遠景を見下ろす構図は斬新で、遠景の海にはヨット遊びに興じる人々の姿も確認できる。本作は1877年の第3回印象派展にモリゾが出品した12点のうちの一つでもある。本作は印象派を擁護する批評家の目を奪い、賞賛を受けた。(東京富士美術館)
1896年から翌々年にかけて、55歳のモネは早朝に起きて、「セーヌ河の朝」というシリーズを制作した。使用する色の数を抑え、装飾的効果をも狙ったと思われるこの連作の多くは、夏の朝、霧のたちこめるジヴェルニー付近のセーヌ河の風景を描いている。この連作中の一点とみなされる本作品《セーヌ河の朝》もまた、ほぼ同じ時期に同じ場所で制作されている。柳が水面に垂れ、草むらが波に洗われ、変転する自然の姿が、モネの立ち騒ぐ筆触の中から生まれ出てくる。しかし筆のめくるめく動きは、風に動く枝や葉や波そのものにとらわれるというよりは、移ろう自然の姿を一気に捉えようとするモネのいらだちと緊張を直に伝えているのである。(出典: 国立西洋美術館名作選. 東京, 国立西洋美術館, 2006. cat. no. 76)
光の戯れと反映を何よりも深く追求したモネは、同一のモティーフを光や色彩あるいは構図を変えて何回か描くという意味での「連作」をいくつも残している。1890年に着手された「積みわら」、1892-94年の「ルーアン大聖堂」、晩年の「睡蓮」などがその例であり、そこではほぼ同一のモティーフを、朝、白昼、夕方などの異なった時刻において、さまざまな光の効果の下に描き出している。 本作品は、こうした連作の一つ「ポプラ並木」のうちの一点である。ジヴェルニーにほど近いエプト川左岸のポプラ並木はモネを魅了し、1891年の春から夏にかけて画家は幾度もその姿を画布に描いた。それら一連の作品は、S字型の曲線を空に描き出すポプラ並木を扱っている点ではほぼ共通しているものの、構図と画面効果は微妙に異なっている。この作品においてとりわけ特徴的なのは、大きく前景に描かれた3本のポプラであり、青い空と白い雲、緑とばら色の生みだす晴れやかな印象である。同一構図の作品が他に数点存在することが知られている。(出典: 国立西洋美術館名作選. 東京, 国立西洋美術館, 2006. cat. no. 74)
パリから鉄道で僅かの距離にあったセーヌ河沿いの町アルジャントゥイユは、日曜ともなればボート遊びの行楽客が集う典型的なパリの近郊都市であった。モネは、妻カミーユ、生まれたばかりの長男ジャンと共に1871年から78年までこの地に滞在した。ほぼ7年間にわたるこのアルジャントゥイユ時代は、印象主義者モネにとっての様式の完成期ともいえ、多くのみずみずしい感覚に溢れた作品が生みだされた。とりわけモネが惹かれたモティーフは、セーヌ河を往き来するヨットであったが、この作品《雪のアルジャントゥイユ》にみられるような、市街の風景も数多く制作された。1875年の冬に描かれたこの絵に表わされているのは、まだ整備されて間もない新市街のサン=ドニ大通りと鉄道の駅舎である。 モネは、戸外で絵を描く方法を採り始めてからすぐ雪景色を描いている。他の仲間の画家たちがあまり関心を示さなかったこの題材に対して、モネは積極的に取り組み、白い雪の上に戯れる繊細な光の効果を追求した。ぼたん雪が舞いおりる風景があったり、この絵のように雪晴れの明るい朝の風景があったり、モネは自然の変容に振りまわされるどころか、微妙な陰影に敏感に反応することができた。(出典: 国立西洋美術館名作選. 東京, 国立西洋美術館, 2006. cat. no. 71)
ヴェトゥイユはパリの北西に位置するセーヌ河に面した小さな町で、アルジャントゥイユとともにモネが好んで訪れた所である。今も残る12世紀の小さな教会を持つこの町を対岸から望んだ15点ほどの連作中の一点であり、客観的な風景の描写から離れて、水面に映った光景という実体のないものに向けられる画家の関心を示している。(出典: デジタルギャラリー. 1999-2006)
ジヴェルニーに居を定めてからのモネのモティーフは次第にその庭園の内部に限られてゆくが、その一つである本作品は植物を描いた作品の中でもとりわけ装飾性の強いものである。障壁画を思わせる縦長の大画面は日本趣味を感じさせ、上昇する線がうねるように重なって空間を曖昧にしつつ華麗な効果を生み出している。(出典: デジタルギャラリー. 1999-2006)
1878年の冬、モネはアルジャントゥイユから、更にセーヌを下った寒村、ヴェトゥイユへ居を移した。この地で過ごした4年間は、妻カミーユを失い(1879年)、破産した友人のエルンスト・オシュデ一家を養わねばならず、モネにとって最も苦しい日々であったと想像される。凍てついたセーヌ河の寒々とした景色を描いた「霧氷」、「流氷」、「解氷」などの連作を制作したのもこの頃である(1879-80年)。しかしながら、80年代に入るとともに、この作品にみられるように画面は次第に明るい雰囲気をとり戻し始める。そしてもはや、アルジャントゥイユ時代のようにレガッタや川辺の散歩道を歩く着飾った人々などを配した華やかな風景が描かれることはなかったが、画面に置かれた筆触はより自由で大胆になり、色彩も画面の中で自律的な個性を帯びてくる。この作品に描かれているのは、ヴェトゥイユから僅かにセーヌ河を下った所にあるラ・ロシュ=ギュイヨンという小さな村であるが、同じ場所に立って、逆にヴェトゥイユの村に向かって描いた絵もある(ワシントン、フィリップス・コレクション)。(出典: 国立西洋美術館名作選. 東京, 国立西洋美術館, 2006. cat. no. 72)
モネは1871年以来、ロンドンを数度にわたって訪れている。その中でも、1899年、1900年、1901年の三回の滞在は豊かな収穫をもたらした。テームズ河畔のサヴォイ・ホテルのバルコニーに画架を据えて、モネは、国会議事堂、ウォータールー橋、チャーリング・クロス橋という三つのモティーフに焦点を合わせて描き続けた。この作品もそのような連作のうちの一点である。斜めに俯瞰構図で描かれたウォータールー橋は、僅かに赤味を帯びた色彩で描かれ、橋の上の通行人や馬車がロンドン特有の霧を背景に浮かびあがる。三次元的な空間再現を断念せしめるような対象を前に、他の作品同様、彼の関心は、朦朧とした霧の中で拡散し水面を微かに照らし出す光に向けられている。堅固な構築物としての橋はここではほとんど消え去り、反映する光がもたらす色彩だけが僅かに橋の姿を留めている。当館は他に、同じくロンドンのチャーリング・クロス橋を描いた作品も所蔵している。(出典: 国立西洋美術館名作選. 東京, 国立西洋美術館, 2006. cat. no. 77)
1864年の夏から秋にかけてモネは、ブーダン、ヨンキント、バジールらと共にノルマンディー地方のオンフルールで制作した。現存する数少ない初期作品の一つであるこの《並木道》は、その際に、オンフルールとトルーヴィルとを結ぶ街道筋にあるサン=シメオン農場の付近を描いたものである。画面左手奥には、農場の建物が見える。暗く沈んだ茶色、緑、青などで賦彩され、落ち着いた雰囲気をもつ画面には、17世紀オランダ風景画や、バルビゾン派の画家たちから受けた影響が看取される。更に、木立の黒々としたシルエット、道の上に戯れる光の筆触の粘っこさなどには、クールベやディアズと同質のマティエールを見出すことができよう。この作品は、モネの画友であったフレデリック・バジール(1841-1870)の作品、《フュルスタンべール街のアトリエ》(1866年、オルセ美術館)の中に描き込まれており、最終的にはバジールのアトリエで完成されたことが想像される。また、モネは何度かこの同じモティーフを描いたと思われ、全く同構図のレプリカが1点と横長構図の異作1点の存在が知られている。(出典: 国立西洋美術館名作選. 東京, 国立西洋美術館, 2006. cat. no. 70)














