本文に飛ぶ
/

日本における編物文化のはじまりとその発展

日本では、編物がどのように広まり、親しまれているのか

はじめに

 現在、コロナ禍での手芸ブームやK-POPアイドル、インフルエンサーの影響もあり、編み物文化は再び注目を集めている。

 今日は、日本における編み物文化のはじまりから、その発展、そして現代に至るまでの歴史を紐解いていきます。

編物とは

 編物とは、糸状の素材をループ状にして連続的に形を作り出す技術と、その製品を指します。


 この「編む」という意味は、古代英語の「シンタン (cynttan)」から転じた英語の「ニット (knit)」に由来しています。また、編物の中でも「メリヤス」という言葉は、スペイン語の「メディアス (medias)」やポルトガル語の「メイアシュ (meias)」から派生したとされています。「ニット」は編物全般を指し、特に「メリヤス製品」は工業用機械で編まれた製品を意味します。


 編物は伸縮性と弾力性があり、保温力に優れています。また、ループ構造により多孔性が生まれ通気性が良く、編み直しも可能です。素材の組み合わせや配色、技法などに工夫を加えることで、手芸的な小物から衣類や室内装飾品まで、さまざまな作品が制作できます。

日本の編物文化の始まり

 日本における編物の歴史は安土桃山時代の1592年ごろポルトガル人やスペイン人により手編みの手袋や靴下が入ってきたとされており、南蛮貿易の文献に「メリヤス」という言葉が見られます。もともと羊は日本にはいない動物であり、日本ではニットが入ってきたのはずいぶんと遅かったのです。

 現存するものとしては、水戸黄門の徳川光國が着用していたという絹や綿の靴下が最も古いものとされています。(柄編みの靴下で、再現を試みたところ、一足つくるのに機械編みで数日かかったそうです。)その墓からは、7足ものメリヤス靴下が出土しました。

 編物が一般庶民の生活の中に現れたのは1673年~1680年に書かれた排架集「洛陽集」の中にある、「唐人の古里さむくめりやすの足袋」とされています。手編みの技法に関しては、南蛮貿易が盛んな時代に最初は遊女に伝わったようです。その後、手編みの技法は町人の間に普及しますが、そこから武家のものとなり、1804年〜1830年のころには、江戸で手袋を製造販売する人々が現れました。

 だんだん手編みは庶民にも広がり足袋、手袋、印籠下げ、襦袢、股引などに普及していき、徳川時代の人々の生活の中に取り入れられました。

この時の手編みの担い手は、小禄の武士や浪人などの手仕事(内職)でした。

南蛮貿易

国内ニット産業の近代化

 明治時代に入るとメリヤスは<莫大小><目利安>と書かれ、徐々に大衆化していきます。「莫」という漢字には「無い」という意味があり、メリヤスは伸び縮みしてどんなサイズにもなる、つまり「大小が無い」このから、この漢字が当てられました。メリヤスが渡来する前の日本では、衣類はすべて、織物で、伸び縮みしないものを身に付けて生活を送っていたため、江戸の人々に衝撃を与えました。

 明治6年に開かれたウィーン万博から持ち帰られた手回し靴下編機をモデルにし、東京府の楠本正隆が鉄砲鍛冶の名人であった国友則重に模倣品を作らせました。これが国産の編み機の第一号になりました。 それを機に機械編みは急速に普及し、編み物産業も発達していきます。

 欧風文化を謳歌した鹿鳴館時代に、レース編が入ってきたため、上流社会にジャケットや肩掛けが流行しました。明治8年には機械編みの靴下が初めて清(現中国)に輸出されるまでになり、日清日露戦争の軍事品生産を中心として、急速にメリヤス産業が発展しました。

 その後、戦争によって編物の需要拡大し、その間女性たちの間で、家族や趣味のために編物が盛んになりました。大正時代には、靴下、手袋、肌着などから高級品まで生産されるまでになり、世界各国に輸出を伸ばします。第一次大戦後にはヨーロッパの水準に追いつくまでにメリヤス産業は発達しました。  

 大正12、萩原まさがガータ編器を発明。これをきっかけに、手編機はさまざまな研究が加えられ、現在までに目覚ましい普及をみせました。その頃には、女性の社会進出が進み、レディスファッション市場が賑わいカーディガン、ニットが大流行しました。そのころのセーターは手横と呼ばれる手動編み機で編まれたものが主流でした。

 その後、第二次世界大戦でメリヤス産業ももれなく壊滅的な打撃を受けましたが、GHQによる「繊維産業再建三ヶ年計画」によって、アメリカから提供されたCCC綿による生産の再開、朝鮮特需などの波にのり、さらなる飛躍の機会を得ることに成功しました。

編機

日本庶民と編物

 明治4年におこなわれた廃藩置県により、一家の大黒柱を失ったことにより、女性の自律を余儀なくされました。

その後、明治6年(1873年)キリスト教禁止令が解かれ、宣教師たちによって編物がもたらされました。東京にある女学校で編物教育が始まっています。1875年には千葉に官設牧場が開設され、羊の飼育も始まりました。明治10年には文部省により棒針編みやレース編み・刺繍の教科書がつくられました。明治20年には江藤春代によって日本初の編物本が出版されることになりました。この本の中で用いられた合理的符号が日本では一般化され、現在用いられているJIS(日本産業規格)とほぼ同じ形です。

 明治37年~38年日露戦争、大正12年関東大震災、昭和37年~38年日露戦争、昭和年~81年第2次世界大戦と激しい環境下の中、多くの女性が生活のため働かなければなりませんでした。編物が「生きる術」として女性たちに必要とされていました。

授業の様子

編物理学教科書

文部省家事裁縫手芸科

メリアスからニットへ

 「メリアス」は手編みの肌着、靴下を主に表す言葉として長い間用いられていましたが、ファッション性の高い上着までにも生産が広がったため、より包括的に表す「ニット」という呼び名が使われるようになりました。

 ニット生産の技術の発展は、合成繊維が発明されたことによってもたらされた影響が大きいですが、昭和40年代以降の高度経済成長と共に消費の多様化が進み、ニット生産の自動化、高速化が進みました。

 また、高級な綿糸やコーマ糸の使用の増加により、糸の高品質化が進みより高級化したものが多く作られることになりました。

メリアス工場

家庭用編み機の誕生

 さらに1954年にブラザー工業より家庭用編み機を発売し、既製品が高価だったことも有り、広く普及し、各家庭でセーターが編まれるようになりました。  その後の日本は、高度成長期を迎え、手編みのセーターの重要度は下がり、既製品が一般的となっていきます。

令和と編物

 現在の編物は、趣味として親しまれる一方で、ファッションやアートの分野でも重要な役割を果たしています。手編みはデジタル化の進展や既製品の普及により一時期減少傾向にありましたが、近年では「スローライフ」や「手作り」の価値が再評価され、編み物教室やワークショップが増加しています。特にSNSを通じて個人の作品が共有されやすくなり、独自のデザインや技術を駆使した作品が注目を集める機会が増えました。

 また、編物の可能性は伝統工芸や最先端技術との融合にも見られます。日本国内では伝統的な手法を活かしたニット製品が海外で高く評価される一方、3Dプリンターを活用した編物のような新しい取り組みも進められています。

おわりに

 いかがでしたか?いかがでしたか?編物の歴史を振り返ることで、この技術が日本においてどのように根付き、発展してきたのかをご理解いただけたかと思います。編物は単なる手工芸やファッションの一部にとどまらず、時代ごとの人々の生活を支え、文化の一端を担ってきました。手仕事から機械化、さらには高度経済成長期を経て現代に至るまで、編物はその時代のニーズや技術革新に柔軟に応えながら進化してきたのです。

 これからも編物は、創造力や個性を発揮できる手段として、多くの人々に親しまれ続けるでしょう。今回の内容が、編物に対する新たな視点や興味を抱くきっかけとなれば幸いです。あなたもぜひ、編物を通じて歴史や文化に触れてみてはいかがでしょうか。

参考文献