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曽我蕭白 奇想ここに極まれり

愛知県美術館「曽我蕭白 奇想ここに極まれり」展(2021年10月8日-11月21日)出品作のうち、ジャパンサーチ上で画像が公開されているものをご紹介します。

 力強い筆墨と極彩色で超現実的な世界を描き出した蕭白のあくの強い画面は、グロテスクでありながらおかしみもたたえ、見る人をひきつけて止みません。

 本展では、強烈な印象を与える蕭白の醜怪な表現を紹介すると共に、その原点となった桃山時代の絵画、そして江戸時代初期の絵画との関係を掘り下げることで、蕭白がいかにして型を破り、奇矯な画風を打ち立てたのかを明らかにし、また晩年の作品への変化を通して画業の到達点を見定めます。

 愛知県美術館は、平成252013)年に「円山応挙展──江戸時代絵画 真の実力者」、平成29年(2017)年に「長沢芦雪展──京のエンターテイナー」を開催しました。理屈抜きのわかり易さと優美さで京の画壇を席巻した応挙と、奇抜な構成と自在な筆致で人々を驚かせ愉しませた芦雪、それに継ぐ企画として、曽我蕭白を取り上げます。


※一部の作品は展示替えをします。展示期間については、出品作品リスト(PDF)をご確認ください。

プロローグ 奇想の絵師、蕭白

群童遊戯図屏風

<p>近年まで秘蔵されていた幻の曾我蕭白(1730〜1781)の屏風絵。後世の画家による模写(コピー)で知られていた作品が出現し、当館の所蔵となった。<br />柳樹や牛、川などの背景を左右に配し、戸外に遊ぶ子供たちと二人の女性を描いた作品の特徴は、珍しく銀地をバックにする奇矯な人物の描写である。人物の服装が彩色や水墨、金泥を自由にもちいて描かれており、曾我蕭白の多彩な表現を伝える絵画として重要である。</p>

第一章 水墨の技巧と遊戯

 曾我蕭白は京の商家に生まれた。1743(寛保3)年に父を、3年後に母を亡くしている。その後、画業で身を立てるに至った経緯は詳らかでないが、1758-59(宝暦8-9)頃と1764(明和元)年頃の少なくとも二度にわたり、伊勢地方(現・三重県)を遊歴し、この地に独創的な作品と逸話を多く遺した。  本作は、鶴と梅を愛し、西湖のほとり孤山に庵を結び隠遁した北宋の文人・林和靖を描いた屛風。理想の高士としてしばしば絵画化されたが、蕭白が描く林和靖は、隠棲に嫌気がさしたのか、うつろな表情をかくそうともしない。梅の巨木は画面を突き抜け左隻に枝を伸ばし、その下で二羽の鶴が遊ぶ。大樹の表現は、先行する大徳寺聚光院の狩野永徳《四季花鳥図襖》や彭城百川の《旧慈門院障壁画》に影響を受けたと指摘されている。 伝統的な画題や先行する表現を換骨奪胎し、斬新な作品に仕上げた本作は、「宝暦辰春之図」の款記を伴う。蕭白初期の基準作として重要な位置を占める作品である。 (道田美貴 『三重県立美術館 コレクション選』 2022年)

<p>個性的な画風で注目される江戸中期の絵師、曾我蕭白の注目作品。中国古代の堯帝が許由の噂を聞いて彼に帝位を譲ろうと申し出るが、許由は、「汚らわしいことを聞いた」と潁水の流れで耳を洗い、同じ申し出を受けた巣父は、許由が耳を洗うのを見て「汚れた水を牛に飲ませるわけにはいかぬ」と牛を引き返させたという。野卑な人物の表情、独特の目つき、画面のほとんどをうめつくす圧倒的な描写、明暗の強いコントラストが生み出す幻想的なムードは蕭白特有で、強烈な印象を観るものに与える。一方で、極細の墨描や繊細なグラデーションなど細部描写は、抜群にすぐれている。蕭白30~33歳頃の作と推定される。数少ない最初期の力作として貴重。</p>

第二章 ほとばしる個性、多様化する表現

日本国内のみならず、海外でも評価の高い曾我蕭白(しょうはく)。去年は、京都国立博物館で大規模な蕭白展が開催され、美術雑誌で蕭白特集が組まれたり、蕭白に関する特集番組が制作・放映されたりと蕭白の注目度はますます高くなっている。研究の結果、今では京都生まれと考えられる蕭白であるが、数十年前までは伊勢出身といわれていたほどに、この地に多くの作品をのこしている。掲出の作品も、明和町の永島家に伝えられた襖(ふすま)絵のうちの一画題。この旧永島家襖絵は、全部で四十四面のこされており、1ヶ所に描かれた蕭白作品としては最大規模。画題も花鳥、山水、人物と多岐にわたっており、蕭白を語る上で欠かすことのできない作品群といえる。硬質な筆致で緻密(ちみつ)に描き込まれた鷹(たか)と、それとは対照的に勢いよく躍動的に描かれた松が本図の主役。さらに詳細に画面をみていくと、兎(うさぎ)や鷹を恐れ身を隠す猿の姿もあり、それらの質感を的確に描き分ける画技に驚かされる。しばしば「異端」「奇想」ということばで評される蕭白であるが、本図はそれらが蕭白のほんの一面にすぎないことを教えてくれる。 (県立美術館学芸員・道田美貴)

曾我蕭(しょう)白という人は、随分人を食った画家だった。自分の作品の一つに堂々と「明太祖皇帝十四世玄孫蛇足軒曾我左近次郎暉雄入道蕭白画」とサインするくらいなのだから。ジュゲムジュゲムと人をけむに巻く魂胆か、ともあれ正体がぼやけて中心がつかみ難いが、隠そうとした本心は実は「蕭白」という名にかえって明々白々ではなかったか。「蕭」と「白」は仲のよい言葉である。「雨は蕭々と降ってゐる」(三好達治)というように、「蕭」は「さびしくて」「さわがしい」ものを形容するときに力を最大限に発揮する。「楚辞」における屈原を連想しながら、その系譜を引く宋玉の「悲しい哉(かな)、秋の気たるや蕭瑟(しょうしつ)として草木揺落し変衰す」を思いだしてもいい。悲運の詩人の魂を波立たせる舞台は秋こそふさわしい。秋の色は「青春朱夏白秋玄冬」というように、中国では古来から「白」と決まっていた。そこに和歌の定番である「秋/飽き=ためいき」をつなげることも出来る。「秋」を隠し味にして「蕭」と「白」はしっかり結び付き、増幅した心情のリズムは同心円を描いて広がりながら葉が落ち尽くした木立の間を涼気が寂しく通り抜けていく。そういう「地」の上に大胆に「狂」のごとく描かれた「図」。それが曾我蕭白の絵である。彼の心は屈原とまではいかなくても、天明の狂歌師のように世間を外にさめていたのかもしれない。 (県立美術館学芸員・東俊郎)

この一枚の襖(ふすま)は以前、このコーナーで紹介した鷹の襖絵と同じ三重県の某家の住宅を飾っていたものである。作者は曾我蕭白。江戸時代の論画家のひとりは、彼を世間が「狂人を以て」目していた、と書き留めている。  たしかに常人ではただ驚くだけで、とけ込みにくい特異な感性が、その作品を支配している。しかし、同じ論画家が続けて「其画変化自在なり」と評しているように、きわめて多彩な技法を駆使する江戸時代きっての水墨の達人であった。  鶴の破綻のないスタイリング、鶴の体にみる墨の濃淡の対比の的確さ、波のすさまじいばかりのスピード感など。四十数枚におよぶ襖絵のうちのたった一枚を、こうして取り出してきただけで、その手腕は簡単に説明がつくであろう。 (山口泰弘 中日新聞 1990年6月1日掲載)

十八世紀半ば、伊勢地方に数多くの作品を遺した画師の曾我蕭白は、個性的としか言いようがない独自のスタイルが近年、ますます高く評価されている。だが、その人気沸騰ぶりにもかかわらず、彼の作品を成立させている要素については、まだなぞの部分が多い。掲載の作品は、数少ない蕭白による指頭画の作例。指頭画は、文字通り指に墨や絵具をつけて描く手法で、中国では清の時代に盛んに行われ、わが国では南画家の池大雅が数多く描いている。やはり指で記された落款には「蛇足軒蕭白酔指画」とあり、蕭白は酩酊状態でこの絵を描いたというのであるが、そういわれれば、稚拙な文字は彼が酔っていたあかしかもしれない。この絵では、樹上の童子が地上の牛に指図しているように見えるが、この図様が何を意味しているのかは明らかではない。蕭白は一見すると伝統とは無縁な画家のように見えるが、この絵にも見られるように、彼の作品は様々な点で伝統を換骨奪胎した上に成立していることも否定できない事実である。 (県立美術館学芸員・毛利伊知郎)

この作品は伊勢参宮街道沿いのある旧家の室内を飾っていた全部で四十四枚の襖(ふすま)の一部である。襖絵は主題によって数種類のグループに分けられるが、各グループは、墨の扱いにおいてもそれぞれに異彩を放っている。いわば、さまざまな墨技の展示場の趣すらもっているのである。  作者である曽我簫白は墨の使い手としては、江戸時代でも傑出した存在であった。そうした彼の面目を伝える作品が、三重県には多く残っている。それらは、きわめて端正な筆遣いのものから破調の大胆なものまで、非常に広い振幅を形成している。  先ごろ、国の重要文化財に指定された松阪市の朝田寺の「唐獅子図」が後者の代表例だとしたら、掲出のものは墨の濃淡の効果や余白の雰囲気を綿密に計算したうえでつくりあげた、前者に近い作例のひとつといえるだろう。  題は「禽獣図」となっているが、後ろ向きのシカ・フクロウ・タヌキ・コウモリの意味ありげな視線や動作は、単なる生態学的な動物画ではなく、なにかしら寓(ぐう)意的なものを感じさせる。 (山口泰弘 中日新聞 1991年9月20日掲載)

 唐獅子図は2幅で、各縦224.9㎝、横246㎝、掛幅装。本図はもと朝田寺本堂内陣左右の壁貼付で、大きな画面に屈折の多い太線を用いて一対の唐獅子を力強く描く。その表現は荒く、迫力のある画面を作り出している。  杉戸絵は8枚で、各縦169.3㎝、横92.3㎝。板戸4枚の表裏に、各2面を連続した画面として、鳳凰・萩兎・獏・槙を描く。風雪に晒されて一部不鮮明となっているが、洒落た筆致を今に伝えている。  作者の曽我簫白(1730~1781)は京都に生まれ、三重県下に多くの作品を残している。本図は、構成や筆法等から蕭白35~36歳、明和元~2(1764~65)年頃のものと考えられる。簫白の苛烈な創作意欲を今に伝える傑作である。

掛け軸という形式に応じて選ばれた、かなり縦に長い画面の形に即したのだろう、下辺沿いはあけて上へと、樹木だの滝や絶壁が、積み木のように積みあげられている。それにしてもここに描かれた風物は、ガシャガシャというかパキパキというか、ずいぶん硬質な感触を与えはしないだろうか。  これは、物を描きだす線の、切りこむような幾何学的鋭利さに由来している。他方、まず陸を右側に押しこめんと、形のない海が左から侵入し、ついで墨を吹きつけたのか、真っ黒な葉叢(むら)が画面と垂直にぶつかり、鋭角的な形と対比される。  これら三つの要素が、なだらかに調和してしまうことなく、きしみあうままに接する場所が、画面なのである。  (石崎勝基 中日新聞 1994年4月22日掲載)

中国語では蓮は憐に音が通じ、その憐は愛を意味することから、目に見えない愛を描きたい時には、しばしば蓮をもってその象徴とする。またそれとは別に古来日本では四愛堂ということがいわれて、菊を愛した陶淵明、梅を愛した林和靖、蘭を愛した黄庭堅に、蓮を愛した周茂淑を加えた四人を指し、彼らを描いた絵を四愛図と呼んでいる。蓮の傍らに人が立っていれば、それはきっと周茂淑だという一種の約束が見る人と描く人の間にできているから、余分な説明をはぶいて、ずいぶん微妙なことも伝えることができる。文学でいう「微言大義」。要するに共通の知を前提として、絵を見る方もその絵に参加しなければその絵は完成しない。 (東俊郎 中日新聞 1994年4月8日掲載)

第三章 絵師としての成功、技術への確信

この作品は近年、兵庫県高砂市内の旧家で発見された襖(ふすま)四面に描かれた蕭白の大作。墨色を巧みに使い分けて、屈曲した枝を伸ばす松の老木と二羽の孔雀(くじゃく)とが主要モチーフとして描かれている。  蕭白の作品は、個性的としか言いようのない独特の作風が喧伝(けんでん)されることが多い。しかし、蕭白が同時代の他の画家たちの作品、あるいは過去の時代の絵画作品と無縁であったわけでは決してない。  この「松に孔雀図」において、狩野永徳らによって確立された大画面構成の桃山時代障壁画を蕭白が視野に入れていることは、主題や老松の描写から明らかである。  過去の古典的な作品から得たインスピレーションを、糧として、新たな芸術を創造した画家は数多いが、本図のように、蕭白においてもそうした事例を指摘することができる。 (毛利伊知郎 中日新聞 1992年11月6日掲載)

ここには許由巣父という、中国古代の伝説上の人物が描かれている。許由は伝説の聖帝堯(ぎょう)が自分に帝位を譲ろうというのを聞いてその耳が汚れたと潁川(えいせん)で耳を洗い、巣父は、そんな汚れた川の水は飲ませられないといって牛を牽(ひ)いて帰った、といわれる高潔の士であった。この俗世に汚れない無欲のふたりは、のちの時代になっても理想の人物として、絵の題材としてもてはやされた。  しかしそれにしても、蕭白の手にかかると、ともにひどく俗っぽい人間に描かれる。破れた衣を着て、容貌(ようぼう)には野卑な笑いを浮かべる。どうみても高潔なひとのそれではない。牛といえば、巣父がいくら網を引っ張っても足を踏ん張り、自分の欲求を曲げようとはしない。ここには古典を洒落(しゃれ)のめす機知と滑稽(こっけい)、卑俗さが姿をのぞかせている。  裏面には、松の下で遊ぶ孔雀(くじゃく)が描かれており、もと兵庫県の旧家を飾っていたものであったが、昨夏当館の所蔵品となった。 (山口泰弘 中日新聞 1993年2月26日掲載)